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お馴染み神談義:《無い神》も 《有る神》と同じだ。

 神が神であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても神に変化はない。  変化する神なら それは AI としての神でしかない。  だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持てばよい。

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  • kurinal
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回答No.3

>「同じひとつの神に 有る神と無い神とのふたつの貌が――人間にとっての話では――あることになる。 のでは?」 それでは・・・人間が、判断しないでね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ それでは・・・人間が、判断しないでね。  ☆ わたしは判断するんだと言う人の場合は どうするんですか? 人権を侵害することは出来ませんよ。  まぁ そういう人の場合の問題も問題ですが 要するに判断しないのなら 《かみ》という言葉を使用するなかれです。  この言葉は 死語として認定してしまっておく必要がありましょう。  ご回答をありがとうございます。

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noname#228784
noname#228784
回答No.2

(゜◇゜) 面白い事お話し。 きっと神の方も、今頃は 【人間が人間であるなら われわれ神が人間は有ると言っても人間は無いと言っても人間に変化はない。】 とか、言ってるんじゃないかな!? 仏は実在しているけど、神ってのは仏よりも抽象的に感じるから 別次元の「何か」な気がするよ~。 次元が異なったり遠かったりすると、きっとお互いに知覚しにくいから お互いの世界でそれぞれに「有人論・有神論」「無人論・無神論」とか言い合ってんじゃないかな~♪ そう思ったら、ちょっと楽しい。^^

bragelonne
質問者

お礼

 エルキュール・ポワロも ミス・ジェーン・マープルも大好きです。  ご回答をありがとうございます。  ★ 【人間が人間であるなら われわれ神が人間は有ると言っても人間は無いと言っても人間に変化はない。】  ☆ かどうか?  つまり 人間の変化があるか無いか いづれであるとしても 神はそんなことは――神が言葉を発する前にすでに――知っています。  言いかえると 人間に変化があろうとなかろうと・どんな変化があろうと 神にとっては痛くも痒くもない。となります。  って言うか もともと そういうことは決まっています。われわれ人間は 知らないので ああだこうだと言い合っているというに過ぎない。    ★ 仏  ☆ はそれが何を言うかで 違って来ます。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

B様、おはようございます。 >「神が神であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても神に変化はない  変化する神なら それは AI としての神でしかない。」 なるほど。 >「だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持てばよい。 」 持たなくても、良いのでは?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 持たなくても、良いのでは?  ☆ それが 無神論です。《無い神》という神です。  同じひとつの神に 有る神と無い神とのふたつの貌が――人間にとっての話では――あることになる。  のでは?

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