要約できなくて困っています。

このQ&Aのポイント
  • 私たちは忙しい世界で心は常に忙しい。
  • 心は最も価値のある財産であり、人生の一瞬一瞬を通じて経験する。
  • 瞑想は10分で人生を変えるテクニックであり、今この瞬間を理解するのに役立つ。
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TED(https://www.ted.com/talks?language=ja)にある「All it takes is 10 mindful minutes(必要なのは10分間の瞑想だけ)」というスピーチの内容の日本語訳です。 この文章を6、7文程度に要約したいのですが、うまくまとめることができなくて困っています。 この文章で大事な部分はどこですか? また、実際に要約するとどのような文章になりますか? できれば、要約した文章も知りたいです。 よろしくお願いします。 私たちは信じられないほど忙しい世界に生きています。そのペースはしばしば狂乱的で心は常に忙しいです。そして常に何かしています。 このことを頭において少しの間考えてみてください。皆さんが何もしなかったのはいつが最後ですか?10分間平静だったのはいつでしょう?ここで言う何もしないとは、メール、メッセージ、インターネットはせず、テレビ、おしゃべり、食事、読書もせず、過去を振り返ったり、将来も見据えず、本当に何もしないことを意味します。ただ何もしないんです。皆さん、呆れた顔をしていますね。ずいぶん昔ではないですか。 こんなのおかしいですよね?こんな心持ちでいいんでしょうか。心というものは、最も価値のあるかけがえの無い財産であり、人生の一瞬一瞬は心を通じて経験するんです。個人としての幸せ、満足感、感情状態も心によって決まります。それと同時に心は、人間関係における親切心や思いやりにも影響を与えます。また、私たちが集中したり創造的になったり自発的になるとき、そしてベストを尽くそうとするとき、この心というものを頼りにします。しかし、私たちは自分の心を気遣う時間を設けていません。その代わり、車やファッションには、たくさんの時間を使うんです。だいたいの人がこんな感じでしょう。 その結果として当然ストレスが溜まります。心は洗濯機のように勢いよく回っており、難しくてややこしい感情の渦に飲まれ、どうやって抜け出すかも分からないんです。悲しいことに、私たちの心は阻害され、もはや現実世界には存在しないんです。自分にとって最も重要なことを見失っています。おかしなことに誰もが憶測で動いており、人生という名のもとただ順応せざるを得ません。これはあるべき姿ではありません。 11歳くらいのとき、瞑想のクラスにはじめて参加しました。信じ難いですが、まさに想像通りの環境でした。脚を組んで床に座る人、お香やハーブティーなんかもあり、菜食主義も徹底していました。母も参加していましたし、私も興味を持ったので一緒に続けました。同じ時期にカンフー映画も見ていて、密かに空の飛び方を学ぼうとしていました。とても幼かったのですね。今の私がそこにいれば、きっと皆さんのように瞑想を単なる心の鎮痛剤だと思うでしょう。ストレスを感じると瞑想を行います。瞑想が何かしらの予防になるとは20歳になるまで思いもしませんでした。その頃、私の人生の中でたくさんの出来事が度々起こり、人生を当にひっくり返すほど深刻だったのです。私の頭の中は思考と難しい感情であふれ、対処する術も分かりませんでした。1つを対処しても別の問題が浮上するんです。とてもストレスを感じた時期でした。 私たちは皆、それぞれの方法でストレスに対処すると思います。仕事に没頭する人もいるでしょう。すばらしい気の紛らわし方です。友達や家族と話し支えを求める人もいます。薬の処方を求める人もいます。私の場合は僧侶になりました。大学を辞めて、ヒマラヤへ向かいました。僧侶となって、瞑想の勉強を始めたんです。 何を学んだのか、とよく聞かれます。言うまでもなく物事を見る目が変わりました。禁欲主義の僧侶になることでたくさんの事が変わったんです。それだけではありません。今この瞬間を尊ぶこと、そして理解することを学ぶことができました。思考に明け暮れず、気を紛らわさず、困難な感情に圧倒されず、今ここにどんな状態でいるか、どのように意識するか、どのように存在するかを学んでいました。 今この瞬間というのは、過小評価され過ぎています。言葉は平凡ですが、今という普通とは程遠い瞬間をほとんど意識していないんです。ハーバード大学の発表によると、私たちの心は平均して47%の時間も途方に暮れています。47%ですよ。このように、心が彷徨い続けていると不幸の直接的な原因ともなります。私たちの寿命は、そんなに長くないのに、人生の半分を途方に暮れて過ごし、その結果、不幸な人生を終えます。悲劇と呼ぶべきかは疑問です。特に今回の場合、対処方法があり、思慮深く、気紛れもしない、健康的な心をもてるからです 思慮深く 気紛れもしない 健康的な心をもてるからです この方法は、明確かつ実用性もあり、実現可能であると科学的に証明された、テクニックなんです。このテクニックの素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただ、コツを覚える必要があります。練習が必要で、意識する方法を学ぶためのフレームワークも必要です。これが瞑想というもので、今この瞬間を理解するのに役立ちます。また、今という瞬間から最良を得るためのアプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこのためにあるんです。何故なら多くの人々が瞑想は思考を止めることだとか、感情を捨てたり、心を抑制することだと思っているようですが、実際には全然違います。瞑想とは一歩下がって、思考をはっきり理解することであり、揺らめく思考や感情を分別することなく、リラックスしたまま集中した心で観察することなんです。 例えばもし私が今、ボールだけに集中し過ぎると、こうやって話すこともできません。同様に話すことだけに気を緩めすぎれば、ボールは落っこちてしまいます。人生においても、瞑想においても、過度に集中することがあり、人生は窮屈になっていきます。ストレスがここまでくると、人生はとても苦しいものになります。一方、息抜きをし過ぎた場合でも、こんな感じになっていきます。もちろん、瞑想中に眠りに落ちることもあります。必要なのはバランスの取れた集中的なくつろぎであり、これを実現出来れば、日々のいざこざから思考を開放できるんです。 私たちは普通、意識の仕方を学び始めると、思考によって気が散ってしまいます。例えば、不安があるとします。全てが順調な中で不安なことを思い浮かべます。「そういえばあれを心配していたっけ。」 するとその考えに執着し、「本当に心配でたまらない。不安だらけだ。」 となります。それに気づくまでは、私たちは不安を感じることに不安なんです。おかしな話ですが、毎日のようによくあります。自分の歯がグラグラしたときを考えてみてください。グラグラした歯に気づいてからその痛みに気づきませんでしたか?では30秒毎に何をしますか?痛みますね。そして痛い痛いと自信に語りかけるんです。これを毎回やるんです。心の観察方法を学ぶだけで、このような心の負のサイクルを取り除くことができます。落ち着いて心を観察すると、色んな心の状態が分かります。常にゆとりのない心に気づくかもしれません。何もせずじっとしているのに、興奮を感じたとしても驚かないでください。鈍くて退屈な心に気づくかもしれません。起きて、仕事に行き、食べて 、寝て、また起きて・・と、まるで機械のようだと感じるかもしれません。もしくは、1つの小さなことを考えすぎた結果、心の周りをぐるぐると巡り回っているのかもしれません。何にしても、瞑想によって一歩後ろに下がって、新たな視点で物事を見ることができ、外見とは必ずしも一致しない面を見る機会を得られます。私たちには、物事1つ1つを変えることはできません。しかし、得られる経験は変えられます。これが思慮に富んだ瞑想の可能性なんです。別にお香をたく必要はありませんし、床の上に座る必要もないです。必要なことは1日10分間 一歩身を引いて、今この瞬間を理解するだけです。そうすれば、人生においてすばらしい集中力、平静さ、そして、明晰さを感じ取ることができます。

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  • cbm51901
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回答No.2

◆文章を要約する際には先ず、テクニックとして、読者への問いかけや、文中にある具体例等を削除します。例えばこのスピーチであれば、先ず【以下の部分を削ります。】 このことを頭において少しの間考えてみてください。皆さんが何もしなかったのはいつが最後ですか?10分間平静だったのはいつでしょう?ここで言う何もしないとは、メール、メッセージ、インターネットはせず、テレビ、おしゃべり、食事、読書もせず、過去を振り返ったり、将来も見据えず、本当に何もしないことを意味します。ただ何もしないんです。皆さん、呆れた顔をしていますね。 皆さん、呆れた顔をしていますね。ずいぶん昔ではないですか。 こんなのおかしいですよね?こんな心持ちでいいんでしょうか。 心は洗濯機のように勢いよく回っており、難しくてややこしい感情の渦に飲まれ、どうやって抜け出すかも分からないんです。 その代わり、車やファッションには、たくさんの時間を使うんです。 11歳くらいのとき、瞑想のクラスにはじめて参加しました。信じ難いですが、まさに想像通りの環境でした。脚を組んで床に座る人、お香やハーブティーなんかもあり、菜食主義も徹底していました。母も参加していましたし、私も興味を持ったので一緒に続けました。同じ時期にカンフー映画も見ていて、密かに空の飛び方を学ぼうとしていました。とても幼かったのですね。今の私がそこにいれば、きっと皆さんのように瞑想を単なる心の鎮痛剤だと思うでしょう。ストレスを感じると瞑想を行います。瞑想が何かしらの予防になるとは20歳になるまで思いもしませんでした。その頃、私の人生の中でたくさんの出来事が度々起こり、人生を当にひっくり返すほど深刻だったのです。私の頭の中は思考と難しい感情であふれ、対処する術も分かりませんでした。1つを対処しても別の問題が浮上するんです。とてもストレスを感じた時期でした。 仕事に没頭する人もいるでしょう。すばらしい気の紛らわし方です。友達や家族と話し支えを求める人もいます。薬の処方を求める人もいます。私の場合は僧侶になりました。大学を辞めて、ヒマラヤへ向かいました。僧侶となって、瞑想の勉強を始めたんです。 何を学んだのか、とよく聞かれます。言うまでもなく物事を見る目が変わりました。禁欲主義の僧侶になることでたくさんの事が変わったんです。それだけではありません。今この瞬間を尊ぶこと、そして理解することを学ぶことができました。思考に明け暮れず、気を紛らわさず、困難な感情に圧倒されず、今ここにどんな状態でいるか、どのように意識するか、どのように存在するかを学んでいました。 ハーバード大学の発表によると、私たちの心は平均して47%の時間も途方に暮れています。47%ですよ。 例えばもし私が今、ボールだけに集中し過ぎると、こうやって話すこともできません。同様に話すことだけに気を緩めすぎれば、ボールは落っこちてしまいます。人生においても、瞑想においても、過度に集中することがあり、人生は窮屈になっていきます。 この方法は、明確かつ実用性もあり、実現可能であると科学的に証明された、テクニックなんです。このテクニックの素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただ、コツを覚える必要があります。練習が必要で、意識する方法を学ぶためのフレームワークも必要です。 例えば、不安があるとします。全てが順調な中で不安なことを思い浮かべます。「そういえばあれを心配していたっけ。」 するとその考えに執着し、「本当に心配でたまらない。不安だらけだ。」 となります。それに気づくまでは、私たちは不安を感じることに不安なんです。おかしな話ですが、毎日のようによくあります。 自分の歯がグラグラしたときを考えてみてください。グラグラした歯に気づいてからその痛みに気づきませんでしたか?では30秒毎に何をしますか?痛みますね。そして痛い痛いと自信に語りかけるんです。これを毎回やるんです。 ◆この結果、残されたスピーチは以下の通りです。これを要約すればよいのです。 私たちは信じられないほど忙しい世界に生きています。そのペースはしばしば狂乱的で心は常に忙しいです。そして常に何かしています。 心というものは、最も価値のあるかけがえの無い財産であり、人生の一瞬一瞬は心を通じて経験するんです。個人としての幸せ、満足感、感情状態も心によって決まります。それと同時に心は、人間関係における親切心や思いやりにも影響を与えます。また、私たちが集中したり創造的になったり自発的になるとき、そしてベストを尽くそうとするとき、この心というものを頼りにします。しかし、私たちは自分の心を気遣う時間を設けていません。だいたいの人がこんな感じでしょう。 その結果として当然ストレスが溜まります。悲しいことに、私たちの心は阻害され、もはや現実世界には存在しないんです。自分にとって最も重要なことを見失っています。おかしなことに誰もが憶測で動いており、人生という名のもとただ順応せざるを得ません。これはあるべき姿ではありません。 私たちは皆、それぞれの方法でストレスに対処すると思います。 今この瞬間というのは、過小評価され過ぎています。言葉は平凡ですが、今という普通とは程遠い瞬間をほとんど意識していないんです。このように、心が彷徨い続けていると不幸の直接的な原因ともなります。私たちの寿命は、そんなに長くないのに、人生の半分を途方に暮れて過ごし、その結果、不幸な人生を終えます。悲劇と呼ぶべきかは疑問です。特に今回の場合、対処方法があり、思慮深く、気紛れもしない、健康的な心をもてるからです 思慮深く 気紛れもしない 健康的な心をもてるからです。これが瞑想というもので、今この瞬間を理解するのに役立ちます。また、今という瞬間から最良を得るためのアプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこのためにあるんです。何故なら多くの人々が瞑想は思考を止めることだとか、感情を捨てたり、心を抑制することだと思っているようですが、実際には全然違います。瞑想とは一歩下がって、思考をはっきり理解することであり、揺らめく思考や感情を分別することなく、リラックスしたまま集中した心で観察することなんです。 ストレスがここまでくると、人生はとても苦しいものになります。一方、息抜きをし過ぎた場合でも、こんな感じになっていきます。もちろん、瞑想中に眠りに落ちることもあります。必要なのはバランスの取れた集中的なくつろぎであり、これを実現出来れば、日々のいざこざから思考を開放できるんです。 私たちは普通、意識の仕方を学び始めると、思考によって気が散ってしまいます。心の観察方法を学ぶだけで、このような心の負のサイクルを取り除くことができます。落ち着いて心を観察すると、色んな心の状態が分かります。常にゆとりのない心に気づくかもしれません。何もせずじっとしているのに、興奮を感じたとしても驚かないでください。鈍くて退屈な心に気づくかもしれません。起きて、仕事に行き、食べて 、寝て、また起きて・・と、まるで機械のようだと感じるかもしれません。もしくは、1つの小さなことを考えすぎた結果、心の周りをぐるぐると巡り回っているのかもしれません。何にしても、瞑想によって一歩後ろに下がって、新たな視点で物事を見ることができ、外見とは必ずしも一致しない面を見る機会を得られます。私たちには、物事1つ1つを変えることはできません。しかし、得られる経験は変えられます。これが思慮に富んだ瞑想の可能性なんです。別にお香をたく必要はありませんし、床の上に座る必要もないです。必要なことは1日10分間 一歩身を引いて、今この瞬間を理解するだけです。そうすれば、人生においてすばらしい集中力、平静さ、そして、明晰さを感じ取ることができます。 ◆これを要約すればよいのです。 【要約】 (1)信じられないほど多忙な世界に生きている私たちにとって、心というものは、最も価値のあるかけがえの無い財産である。 (2)私たちは人生の一瞬一瞬を心を通じて経験すると同時に、心を頼りにベストを尽くそうとする。 (3)一方で、自分の心に対しては気遣う時間を設けていないため、当然にストレスが溜まり、自分にとって最も重要なことを見失ってしまう。 (4)それには瞑想という対処方法がある。 (5)瞑想は今、この瞬間を理解するのに役立つとともに、今という瞬間から最良を得るためのアプローチ方法でもある。 (6)多くの人々の誤解とは裏腹に、瞑想とは、一歩下がって、思考をはっきり理解することであり、揺らめく思考や感情を分別することなく、リラックスしたまま集中した心で観察することである。 (7)必要なことは1日10分間 一歩身を引いて、今この瞬間を理解することだけであり、そうすることによって人々は、すばらしい集中力、平静さ、そして、明晰さを感じ取ることができるのである。 [7文]

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  • marbleshit
  • ベストアンサー率49% (5033/10253)
回答No.1

心というものは、最も価値のあるかけがえの無い財産であり、 人生の一瞬一瞬は心を通じて経験するんです。 個人としての幸せ、満足感、感情状態も心によって決まります。 それと同時に心は、人間関係における親切心や思いやりにも影響を与えます。 また、私たちが集中したり創造的になったり自発的になるとき、 そしてベストを尽くそうとするとき、この心というものを頼りにします。 私たちは皆、それぞれの方法でストレスに対処すると思います。 仕事に没頭する人もいるでしょう。すばらしい気の紛らわし方です。 友達や家族と話し支えを求める人もいます。薬の処方を求める人もいます。 私の場合は僧侶になりました。 瞑想とは一歩下がって、思考をはっきり理解することであり、 揺らめく思考や感情を分別することなく、リラックスしたまま集中した心で観察することなんです。 瞑想によって一歩後ろに下がって、新たな視点で物事を見ることができ、 外見とは必ずしも一致しない面を見る機会を得られます。 私たちには、物事1つ1つを変えることはできません。 しかし、得られる経験は変えられます。これが思慮に富んだ瞑想の可能性なんです。 必要なことは1日10分間 一歩身を引いて、今この瞬間を理解するだけです。 そうすれば、人生においてすばらしい集中力、平静さ、明晰さを感じ取ることができます。

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