• 締切済み

神との対話の内容について、詳しく知りたいです。

(1)神と対話するには、心を開き続けるみたいですが  具体的にどうするのでしょうか? 瞑想とか? (2)神はメッセージを、思考、言葉、感情で伝えるみたいですが  「あ、神からだ!」と感じる事はあるのでしょうか? (3)正しい祈りは、感謝する事みたいですが、感謝する相手は  自分の魂の事ですか? (4)神は感謝されたがってるのですか? 1つでも結構ですので、教えて頂けないでしょうか? よろしくお願いいたします。

みんなの回答

回答No.8

本当に一体化していますと、内側にいる事になりますので、 「絶対に」其の状態を感じ取らせて貰えません。

回答No.7

確か、神との対話では、「全ての物が神である」ってかいてますよね。 つまり汎神論もしくはそれに近いものですよね。 汎神論とは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E7%A5%9E%E8%AB%96 また、神とは人格でも無いって書いてますよね。 巻末には、ニールが実際に神と対話されたのですか?という質問に対して、 「神と話していようがいまいが内容が重要ではないでしょうか?」 と言っていますよね。 それらを考えれば(あるいは普通に日本語の文章を読む力があれば) 人格ではない神と、実際に話すことはありえないですよね? つまり神と対話しているかどうかというのは本を読ませる工夫であって、 実際に話しているわけではないということです。

  • kira1919
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回答No.6

大いなる創造主の神様は この広大な宇宙や人類、すべての存在があるのは、神様の存在があればこそのものです。人間は、魂と肉体を授かった「神の子」です。 大切なことは・・・ 自身の内なる魂へ、そのように思う心で、神様との対話をする。 神様は親ですから見守っています。私たちの心の中はお見通しです。 どんな時でも聞いてもらえます。心の中で神様とお話をする時に、お返事がなくても暖かい気持ちが感じられると思います。 記憶がありませんが、自分が生まれたくて生きているのですから 感謝することが当たり前のことです。 「ありがとうございます」は、最高の言葉です。 「釈迦クラブ」 http://git.dyndns.tv/  こちらのサイトをぜひご覧下さい。

回答No.5

 たいへん失礼ですが以下のように書き込みます。  項目に整理してご質問ですが、ご満足のいくご回答がご期待通りに得られるとお思いですか。  みなさま誠実なご回答ではありますし、今後もそうでしょう。  ご質問も多分ご誠実で真摯なお気持ちでしょう。でも、これっていうのは自分なりにもっとご工夫が必要とされていると存じます。  人それぞれのことではないでしょうか。  ★瞑想とか、心をひらくということをなさいましたか?何十年   実はこれに始まりこれに終わります。ご質問の全ては。   何を求めるか、何に。それはことばは観念ではない。自分をどれだけなくすか、投入しきるか。捨てるか。それだけです。  ★「あ、神からだ!」というのはある人はある。ある場合もある。   只管らやっていって、そうするよりだけですよ。そんなことを他人の経験で聞いて何になりますか。自分でやることです。  ★神が感謝するって?その神ってあなとどういう関係なのですか?   そんな神に感謝されることがどうだっていうのですか?  ★やはり、神をむりやり求めているのではないですか?自分に必要になっている、なっていないの次元ではないですか?趣味の域を脱しては居ないように見受けられます。たいへん失礼ですが。    

  • kigurumi
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回答No.4

No.2です。 結局、哲学みたいなものだと思うんですね。 神学者に多いのですが、快楽追求をしながら、心の片隅で、こんなことやっちゃいけない と自分を責める自分の存在を知っているわけです。 が、欲望は止められない。 その中で、どう<合理的>に自分が批判する自分の欠点を、くつがえしよいことだとするか。 合理的という言葉は自分の益になるように辻褄を合わせるってことです。 彼の場合、カトリック教徒でありながら、何故か結婚離婚を繰り返しているんですね。 カトリック教徒なのに、どうやって離婚ができたのか不思議なのですが、結婚無効の裁判を起こすことで、毎回初婚となったのかもしれない。 カトリック教徒にとってみれば、神の前で結婚を誓うということは、神と契約するわけですが、彼は何度も約束を破ってしまったという罪悪感が、常に心の片隅にあったと思います。 たとえ裁判で結婚を無効としたとしてもね。 彼は聖職者でもあったらしいです。 いろんな職業をやっているんですね。 カトリックだと聖職者は結婚できないので、それ以外の宗教の聖職者だったのだと思います。 聖職者であれば、神の僕として幸福な人生を送れると思っていたのに、実際は何度も結婚離婚を繰り返しており、家族には捨てられており、交通事故に会い、家を失い散々な目にあってしまっている。 この逆境に対して彼はとうとう神に怒りを表したわけです。 まるでヨブみたいですね。(旧約聖書のヨブ記) それで、そのやるせない気持ちを文字にしたところ、彼の才能でしょうか、交通事故による障害が原因かわかりませんが、自分の罪悪感を払拭できる言葉が脳裏にひらめいたと思えるんです。 ですが、それは自分が書いているのではなく、自分以外の誰かが書いているという感覚にみまわれた(認識)。 「あなたは神ですか」 すると「はい」と手が動く。 一時的な解離状態になったのだと思います。 そうやって自分自身と対話をするわけですが、頭が冴え渡っていて、自分の考えを、正当化する理論をつぎつぎ考え付いていき、自己弁護する考えがひらめいていき、どうして今までこんなことを思いつかなかったのだろうとなり、これは自分の考えじゃなく、外から来た考えだろうと、<合理的>に考えるのではないかと。 (統合失調症でも同じことが起こりますが、もし彼が統合失調症だとしても、悪い妄想じゃないタイプ。 ちなみに100人に一人くらいいるといわれている、とてもポピュラーな病気。 自己愛型人格障害・妄想型人格障害っぽい気もしますが、他人に迷惑をかけていないので、障害にはならない。  もしも彼が宗教にとりつかれ、神に会った 自分は選ばれたものだと言うようになったり、神の命令だと言って家族を捨てるような行為に及んでしまえば、人格障害になっちゃいます。 神の声が聞えるとなった場合は、統合失調症の疑いが強い。) で、元に戻って、同じ現象がパウロやアウグスティヌスでも起こったと思えます。 恐らく疲れきっていて朦朧とした精神状態の時だったか、自分に対する角に自責が起こり、自己防衛機能が働いてくれたことで、そうなったんじゃないかと。 合理的でもなんでもいいから、とにかく自分の今までの行為を罰しない思考になればそれでいい。 これは高齢の心理で、自己実現に関係があり、自己実現に成功したら、<英知>が備わり、失敗すると<絶望>になるんですね。 で、この方は成功したので英知を手に入れたわけです。 それが実は合理化したにしかすぎなくても、本人にとってハッピーな気持ちになれば英知と捉えていいと思います。 で、数々の失敗の連続で経験を積んだ上でしか、このハッピーになるための合理化思想は生まれないんじゃないかと思うんですね。 ですので、自責が大きければ大きいほど、合理化できる思考(哲学)になれば、幸福感も増すんじゃないかと。 ただし、これは高齢者の心理ですので、あなたが若ければ、まだまだ。 心が老人にならないと、若いうちは、困難を乗り越えてしまえるので、信仰に結びつく思考にならないと思うんですね。 で、自動筆記を体験したければ、不眠状態で精神がハイになれば、もしかしたら、若くてもできるかもしれない。 人間って寝ないと麻薬によりハイになった人みたいに、心がハイになるんです。 躁状態になり、なんてことないことでも、はしゃいだりできる。 このハイ状態で「お手紙お手紙」ってやってみてはどうでしょうか。 通常の思考の制御が利かないハイ状態の下の精神状態で、文字を書いて自問自答してみてもいいかもしれません。 ちなみに、私は(同僚もですが)寝ないでいると、とてもハイになって、箸が転がっただけでも「わーーい わーーい」ってはしゃぎます。 「これってすごいこと! 箸転んだ きゃーー 絵柄が同じになった すごい すごい ねーーねーー」ってはしゃいで、「寝な」って周りにしらーっと言われて、「眠くない もーー 楽しくって みんな大好き ああ 私ってなんて幸せ 私と一緒にいてくれて ありがとー みんな愛しているよーーーん きゃははははははは!」ってなります。 酒飲んでるんじゃないんです。 不眠のため 脳の制御がきかなく躁状態になっているだけ。 で、解離の癖がつくと、やりたいときにいつでもその脳に変化できて、何度でも自動筆記できるようになるんじゃないかと。 ただ、誰でもできるわけじゃなく、やっぱり才能っていうんでしょうか、そういう脳の人じゃないと、自由にトリップできないかもしれないが、訓練次第では、すぐにトリップする脳に自由自在にできるようになるかも。 感謝するって、結局 脳が躁状態になっているからですよね。 神は感謝されたがっているとかじゃなくて、自分が幸福感に包まれたら、赤の他人でも、感謝したくなるって心理 わかる気がします。 誰かに言わずにおられない幸福感が体中をかけめぐり、感謝しましょう委員会を設立したくなるのも理解はできます。 でも、ハイ状態になってない人からすれば、理解不能で、「寝てないでしょ? 寝れば」って冷たく言われちゃうんですよね。 「どうしてーー 何むっとした顔してんのよ 私達は幸せなのよ この幸せをみんなで~」。 そしてペシっと叩かれ「とにかく 寝ろ!」なんですね。 でも彼は幸福感に高揚した調子で演説していない。 はい、ですがハイになったときの記憶が鮮明に残っているので、安定した精神状態の時にも思い出せるので、その時の心の高揚を喋れるわけです。 私がここで 連続20時間の緊張の連続で、耐えて耐えて冷静さを維持して、その後、勤務から開放されてハイになったときの情況を書けるようにね。 ひとまず、故意に心身がハイになるように、追い込んでみてはどうでしょう? そのメカニズムを説明されるより、体験で実感できると思います。 この状態を心理学でなんというのか知りません。 心理学に詳しい人に聞けば、このハイになるメカニズムにちゃんとした名称がついていれば、その名称を教えてくれると思います。

回答No.3

神とは・・・・ 内なる声を神とすれば、その人にとってそのようになってしまうでしょう。それでよろしいのではないでしょうか。 目の前に光に包まれた神が現れ、多くを語っても、それが実体でない限り、本当の神であるのか、幻なのか見分ける術はありません。

  • kigurumi
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回答No.2

彼の育った環境は、ローマ・カトリック教なんですね。 キリスト教の前身は、もしかしたら、クムラン教団の一派かもしれない。 で、クムラン教団の特徴は、この世を2原論的に捉えており、最終戦争が起こり、良い神と悪い神が戦争をして、最終的に良い神が勝利する と信じていたんです。 これはバビロニアの宗教の影響を受けたから、そういう話になったんだと思います。 バビロニアの神話には、聖書の天地創造とそっくりな話がありますし、自分達が崇拝する神が、その崇拝する神を生んだ神を殺して、地位を奪い、そして人間を自分達の世話をするために作った って話になっています。 で、クムラン教団の教義の一つが、「心の貧しい者は幸いである」なんです。 イエスが言い出したのではないのか? いいえ、違うんです。 イエスが生きていたとされるよりずっと前からあったクムラン教団の教義なんです。 では、心の貧しい人とは一体どんな状態なのか。 ギリシャでは、義の証明 ということについて考えたんですね。 義人だとされた人は、本当に義人だから義人としてふるまうのか、それとも人から「義人だ」と誉められたいからそうやっているので義の行為をするのか。 確かめるにはその人から全てを奪えばいいと考えたんです。 その人の家族、財産、地位・名誉、ありとあらゆるものを奪い、裸にして、大衆の前で鞭打ち苦痛を与え、笑いものにし、十字架刑にして、槍で刺し殺しても、その人が義を貫けば、やっとそこでその人は本当に義人だったとわかる としたんです。 このギリシャ哲学の義の証明は、イエスがいたとされた時代より500年くらい前に考えられたようです。 そしてギリシャ文化の影響をバシバシ受け、旧約聖書の後ろの方に書かれている内容が、ギリシャ哲学的になっていった。 そして、イエス物語がギリシャ哲学の義の証明を題材にしてできた。 また、クムランの貧しい人は幸いだ という教義も採用された。 クムラン教団は自分たちのことを貧しい者だと言っていた。 貧乏って意味じゃない。 彼らは裕福だったから。 しかし共同財産というシステムがあり、神秘参入者は、入会の際に財産を教団に預ける。 でも教団は2年ほどはその財産に手をつけない。 入団した人たちが清くならないと、彼らが預けた財産をもらわないんです。 まだ穢れているうちは、もらわない。 2年か3年たって、イエスが受けた悪魔の誘惑のようなテストを何度も受け、彼らが清くなったか確かめていくわけです。 で、イエスの活動期間が3年くらいとなっているのは、こうしたシステムがベースにあったからじゃないかと。 クムラン教団の心が貧しいという状態は、全てを失い、もう神に訴え続けるしか残っていない究極の状態に身を置くってことです。 その状態になったとき、初めて神の前にたつことになる としたんです。 神の御前 ってわけです。 で、この本の作者は、散々な目にあい、家族から捨てられ交通事故で大変な目に会い、財産をなくしホームレスになってしまった。 まさにチャンスで、全てを失った状態になったわけです。 この時 ああ キリスト教をやったところで、こうなってしまったのだから、神などいない と考えるのか、それとも、それでも尚 神に助けてください と神の存在を信じて救いを訴えるのか。 彼は後者を選んだわけです。 神が彼を救ったかどうかは別として、アメリカにはサルベーションアーミーという組織があったと思います。 神の軍隊という意味。 ホームレスの人たちに、食べ物や着るものを配給するのがサルベーションアーミだち、寝るところを提供してくれるのがサルベーションアーミー。 キリスト教の中のイエスの実践集団なわけです。 ということで、神が存在すると信じている集団に彼は生を継続してもらったんじゃないか と思います。 つまり 神がいるかどうかじゃなく、神がいるということを信じている人々 かつ 神の技とするものを物質的に実行している人々に救われたんじゃないかと思います。 ですが、彼らを動かしたのは神だとすれば、神は存在したから、彼らが救済をしているということも 言えなくもない。 で、パウロにしろ他の人にしろ、彼らはリッチだった。 でも 心が飢えており、満たされなくて苦しんでいた。 どんなに地位を持っていても、心は満足することは無かった。 パウロのような底なしの欲望を持つものが、心が貧しいもの だとキリスト教は考えたのかもしれませんが、クムラン教団の考えはそうじゃなかったんですね。 神を求めて飢えきり、かつ、早く早く早く 早くーーーーーーーと神の出現を渇望している状態が、心が貧しい人だってことだと思います。 で、神と出あったと実感してしまうと、心が貧しい状態ではもうなくなる。 この「早く 早く 早く 早く」と体中をかきむしり、地べたを転がって涙と鼻水でぐちゃくぎゃになって、おかしな状態にまでなっているほどにまで落ちたとき、神は出現するのか? じゃあ 懸命に修行をやっている人の前に神が降臨しないのは、まだまだ神の前に立っていないことになるわけです。 やりますか? 全てを失ってみますか? 命も失ってみますか? イエスのように。 神を試してはいけないが、自分を試すのは悪いこととされていないと思うので、自分を試してみるとわかる かも しれません。 私の友人がそれをやろうとしたら、必死で止めますけどね。 でも本人が死者になりたい それ以外は何も望まない というのであれば、「もういいです あなたの人生だから あなたしかどうにでもできないので、あなたの人生はあなたが決めればいいんだし、あなたの身勝手であなたを動かして自殺でも何でもすれば」って最終的に見放すでしょう。 心が貧しいにもほどがある。

  • tos-1974
  • ベストアンサー率32% (185/577)
回答No.1

1・2)神との対話が出来るのはこの世では出来ません。ですから存在を感じることも無いです。 3)ですから、一日一日を無事に過ごせたらまず神様に感謝をして、「明日も気をつけて出かけて参ります」と必ず願掛けをするのではなく、神様に約束をしてください。そしてその一日を精一杯、体には気をつけて過ごします。無事に過ごせたらまた神様にご報告をします。 そして感謝するのは、まずあなたを産んでくれたご先祖さまが最初です。そのあと、自分の信ずる神様に感謝をしてください。自分の魂ではないです。 4)されたがってません。あなたの感謝の意と決意のみ見てます。

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     神は ひとつである。――次の趣旨説明にてその当否・成否を問います。  (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。  それよりほかにあり得ない。  (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。  (う) ただし オシエは互いに違っている。  (え) 《信じる(その神を心に受け容れる)》と《考える(因果関係や排中律にしたがって経験合理性にもとづき推論する)》とは 別である。  (お) 神は 《信じる・つまり 思考に非ず》として受け容れるものである。  (か) 《考え》て理解できる内容の神なら それは 人間の思考や想像によってつくられたものである。  (き) ただし 《信じる神》について その信仰――非思考の庭なる動態――にもとづき その定義や説明をほどこすことは有り得る。  (く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。  (け) ちなみに かみという言葉・文字・発音も 神について知るための補助線である。  (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。  (さ) このような観念の神は その作った時点ですでに 死んでいる。つまり思考の問題であり 観念にとどまる。そこに 言わばいのちは ない。――信念とは成りうるところの思い込みがある。有限の移ろいゆかざるを得ない果敢無い《いのち》はあるかも知れない。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 《非思考の庭》においていだかれるのが 神である。名前は いかようにもつけられる。  (せ) 《思考の緑野あるいは感性の原野》において持たれる神は ただの観念の神である。人間がつくった神である。人間に理解でき認識しうるものであるなら わざわざ神という謂われはない。必要がない。せいぜい アイドルと呼ぶがいい。  (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。  (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神に対し「汝」とは!?

    訳文の参考にするため、古代エジプトを舞台にした翻訳小説を読んでいて、ある訳語に違和感を抱きました。 主人公が神(ここでは多神教の神なので対象はその都度変わります)と対話する際、神に対し常に「汝」と呼びかけているのです。 「汝」は一般的に目下の者に呼びかけるときの言葉と解釈していましたので、すぐに辞書で調べてみたのですが、やはり目下を呼ぶ語としか書かれていません。 自分より上位の存在、超越的存在である神に対し、「汝」という呼びかけがはたして相応しいのか。皆さんはどう思われますか? 仮に主人公が神を自分と対等の存在と考えているとして、対等の者に対して「汝」は使えるでしょうか? また「汝」でないとすれば、神に呼びかけるに相応しい言葉としては、どのようなものが考えられるでしょうか?「神よ」とか「神さま」ではなく、「あなた」の代わりになるような言葉で思い当たる方がいらっしいましたら、よろしくご教示のほどお願い申し上げます。

  • 伊勢白山道の神様への敬い方に疑問。

    伊勢白山道は、神様に祈祷をあげると、 その代わりに、そこの神様の魂のと引き替えに生かされる などとおっしゃっていますが 神様という自分を生かしていただいているものに先に感謝をせずに 魂を引き替えにというのは、 神と人との立場を逆さにとらえている、 又は 私達を生かして頂いている、神様でなく、 まだ神様の力が必要で、人間の力も吸い取る 低級霊のことをいっている様に思えます。 三本供養をすると、「私でも、心が辛くなり、苦しくなることが あるのですが、これが先祖にまつわる諸々の物も供養するのです」 といっていたり、それは単に憑依されているだけじゃんと思うことや 神様への敬い方、お祓いの知識、力など 幼い人にみえます、 すごくこの人に疑問を持ちます。 神様への行などされている方、もし先生など、おられましたら、 ご意見が聞きたいです。

  • ミレーの晩鐘から・信仰の構図

    説明不要の絵と思いますが 神への感謝と祈りが描かれていると思います。 左側の男の不器用で拙い姿は、神へ近ずく無心さを表し 右側の女の一心に祈る姿は、神に呼びかける言葉を表しているようです。 信仰における心と言葉の有りよう というものについてお聞かせください。