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ミレーの晩鐘から・信仰の構図

説明不要の絵と思いますが 神への感謝と祈りが描かれていると思います。 左側の男の不器用で拙い姿は、神へ近ずく無心さを表し 右側の女の一心に祈る姿は、神に呼びかける言葉を表しているようです。 信仰における心と言葉の有りよう というものについてお聞かせください。

noname#189751
noname#189751

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  • Him-hymn
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回答No.1

私には、この左側の男性が感謝の祈りを捧げ、右の女性はその祈りに心を合わせているというように見えます。時代的に男性が祈り、女性がそれを聞きながら、心を和していると思うわけです。女性は敬虔な信仰心を持っているでしょう。ただし、やや型にはまった感じも受けます。男性のゆったりした姿の中に信仰の自由を覚えます。 いずれにしても、ここで描かれているのは収穫の感謝です。豊かな大地の恵みが背景にあり、その豊かさの背後に豊かな神の憐れみ、神の愛が描かれているのだと思います。圧倒的な自然の支配の中で、人の存在は小さなもので、人のことばもまた小さなものです。しかし、永遠の神を思うことができるーーそれは決して小さなことではありません。 信仰における心とことばを、ミレーの晩鐘を通して私なりのことばにしてみました。 以上、ご参考になればと思います。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。 大変に良い解釈で納得させられますね。 >圧倒的な自然の支配の中で、人の存在は小さなもので、人のことばもまた小さなものです。しかし、永遠の神を思うことができるーーそれは決して小さなことではありません。 日本的に言えば、天地人というものでしょうか ここには、自然と神と人という明瞭さがあるようです。 この素朴な明瞭さこそキリスト教がもつ魅力なのかもしれません。 仏教における信心との比較も有益な感じがします。 いずれにしても 自然や神への感謝の念というものは、現代において失われつつあるように思います。 また、この絵は、忘れてはならないものを教えてくれる感じもします。 もうちょっと考えてみたいと思います。 ありがとうございました。

noname#189751
質問者

補足

良いお答えを頂いた、せっかくの機会ですので 加えてお聞きしたいと思います。 この絵には「人の幸せ」が描かれているように思います。 自然や神へ感謝できるという幸せです。 そういった感じで見てゆくと 自然の中で生きることや、信仰を抜きにした「人の幸せ」はないのかもしれない・・・ などと思ってしまいます。 そうした事については、いかがお考えでしょうか。 >圧倒的な自然・・・ ちょっと思い当たることがあります。 昔、中国残留孤児の方から直接聞いたことがあったのですが 小麦が黄色く色ずいて、広い大地一面黄金色に見えるのだそうです。 その光景は見せてあげたい、と言っていました。 朝起きれば畑に出て働き、暗くなれば家に戻るだけの生活です。 不幸とも思える身の上にもかかわらず、何かしら救いがあるのだろう、と思ったものでした。 事情があって再び中国へ帰りましたが 不便な生活の中での救いというのでしょうか 強く印象に残っています。 人民公社の畑で、私有物は少しだけのようでした。 もちろん宗教も信心もありません。 見渡す限り平な大地の中で生きて、何を思い感じ取ったのか 望郷の念もあったと思いますが、それだけではなかったと思います。 また、50代でしたが白髪はまったくありませんでした。 自然に包まれた安らかな暮らしだったのかな、とも思います。 まあ、この人の場合は、現実逃避ではなく、止むをえない事情からそうなってしまったわけですが 信仰がなくても、自然の中で人は救われる という考えも浮かんできます。 自然の中での幸せ、信仰をもつ幸せ、人の幸せとは・・ できればお聞かせください。

その他の回答 (2)

  • kurinal
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回答No.3

(「信教の自由と、その限界」ということは、あるでしょうが) 表しているようです。

noname#189751
質問者

お礼

無宗教の立場における客観のように感じられます。 だからこそ、信じるということの重味がそこにある、とも言えると思いますが・・・ ありがとうございました。

  • Him-hymn
  • ベストアンサー率66% (3489/5257)
回答No.2

この絵には「人の幸せ」が描かれているように思います。 自然や神へ感謝できるという幸せです。 そういった感じで見てゆくと 自然の中で生きることや、信仰を抜きにした「人の幸せ」はないのかもしれない・・・ などと思ってしまいます。 そうした事については、いかがお考えでしょうか。 つきつめれば、生きるとは何か。そこまで考えさせるような絵かもしれません。 夫婦円満と見るかも知れません。しかし、明らかに、神の恵みに浴している夫婦であります。 鴛鴦夫婦というのとは違います。 大自然の前に、収穫を得ることができた喜び。 自然は時に牙をむけてきます。大嵐で、冷害で、収穫が困難な時もあります。 自然の脅威に対して人は無力です。 神に頼るしかやっていけないーーそこまで追い込まれた人が、大地を闊歩する傲慢な自らを神に委ねて生きるーー ここに描かれた自然は、ある意味、人が支配しようとする自然です。つまり、大地を農地として利用している自然です。森の中の狩猟民族の自然ではなく、農耕民族の自然です。しかし、実際、人は自然を支配することなどできない存在です。そのことを知っている人たちの祈りーーそれがこの絵の魅力なのかもしれません。 とりとめもないことを書いてしまいました。何かのお役にたてればと思います。

noname#189751
質問者

お礼

>農耕民族の自然 なるほどと思います。 農業の経験のある私には、かえって新鮮な感じがします。 ノスタルジーも私の中ではたらいているようです。 ありがとうございました。

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