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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。)
非思考の庭(信仰)とは何か?
このQ&Aのポイント
- 非思考の庭(信仰)は誰からも汚され得ない存在であり、神の存在を受け容れる行為である。
- 信仰は人間の経験世界を超えたものであり、内外からの干渉に対して無力である。
- 人間が神に委ねることで真の自由を得ることができる。
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noname#195588
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- kurinal
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- a_hona
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noname#195588
回答No.15
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ というのもブラジェロンヌさんの言う神の訪れの予感なる心的現象、見神体験とも見えてしまうそれが、個人的経験であるという事実です。 ☆ ここには・つまり特には 《神の訪れの予感なる心的現象》という表現には ( a )信仰――非思考の庭――がわが心に成るときのコトと ( b )その後そのわが心に起こり得る神をめぐる体験とが混ざっています。 ( a ) ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ 非知の何某から 或る日或る時 そのナゾの風が吹いて来てナゾのおとづれがある。のです。雲をつかむようなナゾをナゾとして受け取り 神として受け容れる。これです。信仰の成立は。 ( b ) ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ 言いかえると 《神の知るところとなる》かどうかは 分からないとも言っています。(分からないというのは げんみつに言えば 《分かるか分からないかが分からない》という意味です。したがって それゆえにこそ 主観は 《神を知った》とか《神の知るところとなったという予感がする》とかというふうには 主観の範囲内では 言えるという事態が 神ないし信仰の問題では起きることです)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうして つづいて次のように批評されることには 違うという見方を持ちます。すなわち ★ その事実が、ブラジェロンヌさんに絶対の自信を与えると同時に、その論理が普遍性を保有することを難しくしているのです。 ☆ すなわち( c ) これら( a )( b )ふたつの――別々の《事件》ですが――体験がひとに《絶対の自信を与える》ということは それがそのままほんとうであったとしても いまの議論には関係しません。推論の上で根拠とすることは ありません。 また ( d ) 《見神体験〔の予感〕》は あくまでその人の主観内にとどまるとも言っているからには 《その論理が普遍性を保有することを難しくしている》こととは やはり関係しません。決して ひとかけらとしても 関係させていません。 自然本性をめぐる次のご判断にも微妙な違いがあります。 ★ 今になって言いますが、我々は自然本性というものがあるという前提で話してきました。存在を支える存在があるはずだという見方に基づいて。 ☆ ( e ) 自然本性は 身と心とから成る――生まれつきの――存在を言います。 心は 精神でもあり 精神には 例の三つの行為能力――記憶と知解と意志と――が含まれます。 ( f ) この自然本性に 《神の霊 あるいは アートマン(霊我) または ブッダター(仏性)》がやどる。と言っています。これが ★ 存在を支える存在 ☆ のことです。想定です。 ( g ) むろん非思考の庭がわが心に成るのは この聖霊あるいはブッダターの言わばハタラキであるとも見ています。(非思考の庭というべき領域が わが存在――自然本性としての存在――にはあると捉えたところから マクロコスモス世界の主宰神ブラフマンが ミクロコスモスなる人間の内にアートマンや神の霊として やどるという見方が成されたのかも知れません)。 すなわち重ねてまとめれば: ( h ) 《自然本性》は そのままヒトという存在についての事実です。 そこに 神の霊がやどるというのは 想定です。 ★ 自然本性はそれを善悪で判じることはおそらく出来ない。性善説や性悪説とは異なる次元だと思います。 ☆ ええ。 ★ それがそれそのものであるという事実を以って本性と言い、それが元来のものという意味で自然と言っています。 ☆ ええ。異存ありません。身と心と。心とは 記憶と知解と意志と。これら三つの思考(および感性)にかかわる領域とはあたかも別に 非思考の庭が たとえばヒラメキの起こる場として〔見れば 現実を成すと捉えられるゆえに〕 あると想定しています。 ★ 難しく考えず、もっと軽やかな捉え方も自然本性にはあるでしょうが、掘り下げるために、ここではあえて難しく言ってあります。そんな自然本性との対話ができるなら、それは何によって可能でしょうか。 ☆ たぶん 三つの能力行為の内のその中軸を成すと見られる《意志行為》についてそのあり方や行方を検証するとよいと考えます。 意志行為が 人間にあってどのようにはたらき 互いの意志行為の錯綜する社会を形成しつつこんどは社会からの影響をどう受け留めさらにあらたにどう反応して社会を再形成するか。 したがって 自然本性たる樅ノ木としてのわが存在に 社会的な行為の蓄積としてのカザリ≒シガラミが クリスマスツリーとしてのごとく まとわりついて来る。 そこらあたりを きちんと腑分けするように分析していくのが ひとつの探究の道であるかと考えています。 ★☆ 固有とは一体どういうことでしょう。私を私たらしめているものは一体? なお 空にかんして: ★ ・・・空の形而上学なるものもあり得ると思うのです。仏教の言うところの色界や無色界の話です。 ☆ 形而上学は有り得るとわたしも考えます。ただ それが《色界や無色界の話》であるかどうかは いまよく分かりません。いい加減なことは言わないこととします。重要であれば ねこさんが触れてくれて 明らかにしてくれるでしょう。