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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。)

非思考の庭(信仰)とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 非思考の庭(信仰)は誰からも汚され得ない存在であり、神の存在を受け容れる行為である。
  • 信仰は人間の経験世界を超えたものであり、内外からの干渉に対して無力である。
  • 人間が神に委ねることで真の自由を得ることができる。

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  • a_hona
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回答No.12

少しルールを逸脱しますが、私は螺旋階段さんの言うことはわかる気がします。というのもブラジェロンヌさんの言う神の訪れの予感なる心的現象、見神体験とも見えてしまうそれが、個人的経験であるという事実です。その事実が、ブラジェロンヌさんに絶対の自信を与えると同時に、その論理が普遍性を保有することを難しくしているのです。なぜ私がブラジェロンヌさんの話に曲がりなりにもついていけるかというと、私にも、一種の見神体験が過去にあって、遍在する神ともよびうるそれの存在を体感したからです。その自己の経験と照らし合わせることで、何となくこうではなかろうか、ということで話をさせてもらっているのです。 また、空に関して猫さんの言うことは最もで、異存はないのですが、イデアの究極、空の空たる所以とも言うべきものがあり得ると知った時には、空の形而上学なるものもあり得ると思うのです。仏教の言うところの色界や無色界の話です。 以上の話は補足です。 次に自然本性について認識を深めたいと思います。自然本性はそれを善悪で判じることはおそらく出来ない。性善説や性悪説とは異なる次元だと思います。それがそれそのものであるという事実を以って本性と言い、それが元来のものという意味で自然と言っています。難しく考えず、もっと軽やかな捉え方も自然本性にはあるでしょうが、掘り下げるために、ここではあえて難しく言ってあります。そんな自然本性との対話ができるなら、それは何によって可能でしょうか。ただしがらみを除けば、残った部分が自然本性でしょうか。自然本性は神のような遍在ではなく、全く固有の何かであるゆえに、万人において普遍であり、誰しもに宿っているそれであると思います。これは一体何でしょう。今になって言いますが、我々は自然本性というものがあるという前提で話してきました。存在を支える存在があるはずだという見方に基づいて。 固有とは一体どういうことでしょう。私を私たら占めているものは一体?そんな風に考えると、魂とも呼ぶべき領域が存在するのではないかと思えてきます。 長文失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ というのもブラジェロンヌさんの言う神の訪れの予感なる心的現象、見神体験とも見えてしまうそれが、個人的経験であるという事実です。  ☆ ここには・つまり特には 《神の訪れの予感なる心的現象》という表現には ( a )信仰――非思考の庭――がわが心に成るときのコトと ( b )その後そのわが心に起こり得る神をめぐる体験とが混ざっています。  ( a ) ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  非知の何某から 或る日或る時 そのナゾの風が吹いて来てナゾのおとづれがある。のです。雲をつかむようなナゾをナゾとして受け取り 神として受け容れる。これです。信仰の成立は。  ( b ) ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  言いかえると 《神の知るところとなる》かどうかは 分からないとも言っています。(分からないというのは げんみつに言えば 《分かるか分からないかが分からない》という意味です。したがって それゆえにこそ 主観は 《神を知った》とか《神の知るところとなったという予感がする》とかというふうには 主観の範囲内では 言えるという事態が 神ないし信仰の問題では起きることです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうして つづいて次のように批評されることには 違うという見方を持ちます。すなわち  ★ その事実が、ブラジェロンヌさんに絶対の自信を与えると同時に、その論理が普遍性を保有することを難しくしているのです。  ☆ すなわち( c ) これら( a )( b )ふたつの――別々の《事件》ですが――体験がひとに《絶対の自信を与える》ということは それがそのままほんとうであったとしても いまの議論には関係しません。推論の上で根拠とすることは ありません。  また ( d ) 《見神体験〔の予感〕》は あくまでその人の主観内にとどまるとも言っているからには 《その論理が普遍性を保有することを難しくしている》こととは やはり関係しません。決して ひとかけらとしても 関係させていません。    自然本性をめぐる次のご判断にも微妙な違いがあります。  ★ 今になって言いますが、我々は自然本性というものがあるという前提で話してきました。存在を支える存在があるはずだという見方に基づいて。  ☆ ( e ) 自然本性は 身と心とから成る――生まれつきの――存在を言います。  心は 精神でもあり 精神には 例の三つの行為能力――記憶と知解と意志と――が含まれます。    ( f ) この自然本性に 《神の霊 あるいは アートマン(霊我) または ブッダター(仏性)》がやどる。と言っています。これが   ★ 存在を支える存在  ☆ のことです。想定です。  ( g ) むろん非思考の庭がわが心に成るのは この聖霊あるいはブッダターの言わばハタラキであるとも見ています。(非思考の庭というべき領域が わが存在――自然本性としての存在――にはあると捉えたところから マクロコスモス世界の主宰神ブラフマンが ミクロコスモスなる人間の内にアートマンや神の霊として やどるという見方が成されたのかも知れません)。  すなわち重ねてまとめれば:  ( h ) 《自然本性》は そのままヒトという存在についての事実です。  そこに 神の霊がやどるというのは 想定です。  ★ 自然本性はそれを善悪で判じることはおそらく出来ない。性善説や性悪説とは異なる次元だと思います。  ☆ ええ。  ★ それがそれそのものであるという事実を以って本性と言い、それが元来のものという意味で自然と言っています。  ☆ ええ。異存ありません。身と心と。心とは 記憶と知解と意志と。これら三つの思考(および感性)にかかわる領域とはあたかも別に 非思考の庭が たとえばヒラメキの起こる場として〔見れば 現実を成すと捉えられるゆえに〕 あると想定しています。  ★ 難しく考えず、もっと軽やかな捉え方も自然本性にはあるでしょうが、掘り下げるために、ここではあえて難しく言ってあります。そんな自然本性との対話ができるなら、それは何によって可能でしょうか。  ☆ たぶん 三つの能力行為の内のその中軸を成すと見られる《意志行為》についてそのあり方や行方を検証するとよいと考えます。  意志行為が 人間にあってどのようにはたらき 互いの意志行為の錯綜する社会を形成しつつこんどは社会からの影響をどう受け留めさらにあらたにどう反応して社会を再形成するか。    したがって 自然本性たる樅ノ木としてのわが存在に 社会的な行為の蓄積としてのカザリ≒シガラミが クリスマスツリーとしてのごとく まとわりついて来る。  そこらあたりを きちんと腑分けするように分析していくのが ひとつの探究の道であるかと考えています。  ★☆ 固有とは一体どういうことでしょう。私を私たらしめているものは一体?  なお 空にかんして:  ★ ・・・空の形而上学なるものもあり得ると思うのです。仏教の言うところの色界や無色界の話です。  ☆ 形而上学は有り得るとわたしも考えます。ただ それが《色界や無色界の話》であるかどうかは いまよく分かりません。いい加減なことは言わないこととします。重要であれば ねこさんが触れてくれて 明らかにしてくれるでしょう。

その他の回答 (23)

noname#195588
noname#195588
回答No.24

あとついでに、 人間が鏡像ではなくて、むしろ神が鏡像だろう という意見も出てくるでしょうから 鏡と鏡を合わせて、合わせ鏡なんてのはどうでしょうか。 無限? 鏡より、水面とかならもっと、古風なんですかねえ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  神と人間との絶対としてのへだたりは 大前提です。これが 問題になりましょう。

noname#195588
noname#195588
回答No.23

私も考えはまとまっていませんけれど、 神に鏡は必要か? 神が自身の姿を見るのに鏡として、世界が必要であり、 世界は鏡像としての神の姿 そこに人間も含まれれば、神の似姿としての人間 ということになるのかなあ?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ひとつ 誤解があります。   ○ 神は ひとり満ち足りている存在である。  こうでなければ 《非知》ではありません。《欠け》があると知り得たことになります。そのとき神は 無限や絶対ではなくなります。  人間が   ○ 神の似像  であるのは 神との絶対としてのへだたりがあったそのあとのことです。よ。

noname#195588
noname#195588
回答No.22

神は自身を知りたいと思った。 神が自身を知るにつれて世界は現れた。 まあ、神即自然ということでしょうけれど、 こういった話はブラジュロンヌさんの考えだとどうなるでしょうか。 神が自身を知りたいということについて。 もしくは見たいということについて。 神が望むのをやめれば無となる。 もしくは神は何も見ていない場合。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神は自身を知りたいと思った。  ☆ ここには すでに初めに神の擬人化があります。すでに人格を付与したその上で 神について説明する議論であるとなっています。  つまりは この擬人化の以前の神について どう捉えているのか? これが むしろ問われますし 問わなければならないでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  神が自身を知るにつれて世界は現れた。    まあ、神即自然ということでしょうけれど、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神は 絶対であり無限であるなら この相対で有限の経験世界を覆い包むことも 推測としての説明において あり得ます。つまりは 神の遍在という見方です。  神即自然は 人間と自然とを分けているとすれば 神の遍在説と少し違う感じがありますが ほぼ同じようであると思われます。  あるいは 神即自然は 神が人格のような存在であるとは見ていないかも知れず 自然そのものが神そのものであるといった見方をしているかも知れません。  そのときには では その自然即神を われわれ人間は どう捉えているのか? こういう問いも持たれて来るかと考えます。自然が人間やその他の生物をも覆い包むとすれば 神の遍在説とさほど変わりないように思われます。  人間も 自然であるとして 即・神であると見たばあい どうなるか? どうなるでしょうね?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  神が自身を知りたいということについて。  もしくは見たいということについて。  神が望むのをやめれば無となる。  もしくは神は何も見ていない場合。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あなたご自身は どう考えますか?

noname#195588
noname#195588
回答No.21

今度は両論を書くやつが現れた。 こういうのを考えてみるに、 言論の中身よりも、相手に勝ちたいという闘争の道具に 言論が使用されているだけなのかもしれない。 言論は言論でその中身を確認していけばいいのだろう。 その一方で言論が人間の行為の一部として 宗教が戦争の話を何千年も継承し続けているように 戦争というものが宗教の根幹の一部を形成しているのであれば もうしかたが無いことなのかもしれない。 だからこそ聖者は沈黙するのだろう。 でも、宗教はうんざり。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 言論は言論でその中身を確認していけばいいのだろう。  ☆ ならば   ★ 今度は両論を書くやつが現れた。  ☆ その文章について 直接批判すればよい。また しなければならない。

noname#195588
noname#195588
回答No.20

私が、あるといえば無いといい 私が、無いと言えばあるといい 私が、幻影だと言えば実在だと言い 私が、実在だと言えば幻影だといい 私が、生きると言えば死ぬといい 私が、死ぬと言えば生きるといい 私が、同一だと言えば差異だといい 私が、差異だと言えば同一だといい 要するに単に私を批判したいだけの屑がいるということが、わかった。 そのおかげで、仏教なんかまったく興味がなくなりました。 お蔭様でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ぎゃくにことごとく相手のまねをする場合が 記紀神話に出て来ます。ひとことぬしの神です。  ▲ (<第21代 雄略(ゆうりゃく)天皇>:ひとことぬしのかみ) ~~~~   http://inoues.net/tenno/yuryaku_tenno.html  一言主神にまつわる次のようなエピソードが、『日本書紀』雄略天皇の段に載っている。     (雄略)四年の春二月、天皇は葛城山で狩りをした。突然、背の高い人に出合った。顔や姿が天皇によく似ていた。   天皇は「神に違いない」と考えたが、「どこのものか」と尋ねた。背の高い人は、「私は姿を表した神である。お前から先に名のれ。その後私が名のろう。」と答えた。   天皇は「わたしは幼武尊(ワカタケルミコト)である。」と名のると、背の高い人は「私は、一言主神である」と名のった。ともに猟を楽しみ、一匹の鹿を追って弓を放つことも互いに譲りあった。日が暮れて猟を終え、神は、天皇を来目河(くめがわ)まで送った。  『古事記』にも同じようなエピソードが載っているが、部分的に若干ニュアンスが異なる。       例えば、雄略天皇は一言主神を見つけて、自分と変わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、吾以外に王はないはず」と怒り、互いに弓を構えて一触即発の状況となった。    そこで、一言主は     「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、      言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」    と答えた。「記」では一言主の方が先に名乗ったことになっている。しかし、これを聞いた天皇は「あな恐(おそろ)し、我が大神」と大いにかしこまった。そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて奉じると、一言主神は手を打って喜び、それを受け取った、とある。まるで、山賊に出会って、丸剥ぎにされたような記述だが、一言主神の威厳に満ちた態度は、『日本書紀』と同じである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  おもしろかったら おなぐさみです。

  • kurinal
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回答No.19

B様。 あ、、、 それは、そうかもね。 そのうち「純粋自慰批判」みたいなのが、出るでしょうか? (出ても、人権侵害さえ無ければ、良い)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。  ★ あ、、、 / それは、そうかもね。  ☆ ということですよね。  ★ そのうち「純粋自慰批判」みたいなのが、出るでしょうか?  ☆ これは 《非思考の庭》の中のことを言うのではなく そうではなく 外からこの庭を人間のさかしらが批判をする場合のことを言うのでしょうね。すなわち 次のような発言も そこに入ります:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~  《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。    《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.18

また思い浮かんだことをいい加減な感じで答えるがね。 人間の非思考の庭なら人間同士でお互いに行き来していいじゃないか。 神の住む聖域が非思考の庭ならまた複雑だろうがね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ただ 《思考に非ず》ですからねぇ。感性も 入れない。ところへ どうやって入って行くか?  ワケの分からないナゾを それでもその名を心に受け容れたというのは 人間の意志行為であり 経験的なことです。    またその・そこに成った非思考の庭から ヒラメキを得るということ これが どこをどう通ってやって来たかは分からないけれど ヒラメキが現われたということ これは やはり経験的なことである。  それ以外のことで 非思考の庭に入って行くことは むつかしいと思います。

  • a_hona
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回答No.17

なるほどです。おっしゃるところ、あると思います。合意に基づいて形成される普遍性もありますが、個に内在する普遍性もあることと思います。 少し議論を見守りたいと思います。 過程はそれぞれあるかもしれませんが、心の明けと表現される事象はどなたにも起こりうるのかなと考えたりしました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 合意に基づいて形成される普遍性もありますが、個に内在する普遍性もあることと思います。  ☆ ええ。  ★ 過程はそれぞれあるかもしれませんが、心の明けと表現される事象はどなたにも起こりうるのかなと考えたりしました。  ☆ 《心の明け》を取り上げてもらったんですね。先に ねこさんからでしたか。  これは あんがいおもしろい見方だと われながら 思います。  つまり 心の窓と言えば 単純なかたちで通じるような意味合いが出ますが 非思考の庭にあっては 窓と言っても 別にその扉を開いて外を見るというわけではないと言わねばなりません。  つまりは 明けと言っても 窓を開くように明けて行くものではない。  むしろ 心が 閉じていないということ。これを意味すると考えられます。  心の明け=すなわち 心が閉じられていないということ。こうなると 煮詰めた議論としては 神に対して どんな名の神であろうと・また《無い神》であろうと すべてに心が開かれていることを意味します。  どんな名の神が来ても 心を閉じない。そういう神についての普遍性を心が受け容れる用意があることを意味し得ます。  ちょっと おもしろいと思いました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.16

なるほど、そもそも普遍的な理論を形作ろうとしているわけではなく、私的理論があるのだが、これについての批判をお願いしたい、こういうことでしたか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。またもや 微妙なところですが まづは ご回答をありがとうございます。  つまりですね。一般に 普遍性というのは 個別の事象や問題を突き詰めて行って 達するものだと思うのです。  ローカルなものの中から グローバルな問題や展望が得られることが しばしばです。  人間ないしワタシが ものごとの物差しであり得ると考えられます。  個ないしミクロコスモスの中に 全体性ないしマクロコスモスが捉えられ得ると思われます。  というようなことなのですが?  (抽象論のままにてですが)。

noname#195588
noname#195588
回答No.15

本覚思想はなにが問題だったんでしょうかね。 することがなくなるからでしょうか? 出家者の存在理由がなくなるとか? すると困るから、本覚思想は否定されて、 覚っているはずなのに、覚っていない とかいうような 穴を掘って埋めて、また穴を掘る ようなことになったのでしょうか? 今思いましたけど、 末法思想と表裏一体では? どちらにせよ仏教が無効化されるから。 でもそれが仏教徒自身がたどり着いた結論。 自己否定。アートマンの否定といえるかな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 本覚思想はなにが問題だったんでしょうかね。  ☆ これも 同じくです。  何もしないでも目指すところに到達するという《筏の無》という道は それとして だいじょうぶなのだと思います。  けれども 到達したら どういう内容の境地になるのか? これを明らかにしなければ 一万年経っても ペテンになります。  どんな《筏》かは 問題になりません。しなくてもよいはずです。《無い筏》でもよいはずです。  けれども どこに到るかを明らかにして欲しい。という問題ではないかと。

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