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生活を微分したら 信仰のイメージがついて来る!?

 ひとの生活を微分したらどうなるか?  それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか?  《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか?  次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。   ○ 《わたし》なる存在   [自然本性+α]:霊: 信じる:非思考の庭   -------------------   [自 然 本性]:心: 考える:思考の緑野   [同     上]:身: 感じる:感性の原野  すなわち 無神論なる信仰のばあいは 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受け容れる)のだと捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。  その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。    それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしてもイメージされると思うが―― けっきょくその生活や人格を微分しても結果は出て来ない。微分することは出来ない。カタムキが無い。頻繁にエポケーしている。その意味で不連続である。  先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。だから 円も球もない。  もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性+αとしての霊つまりエーテルのようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。  神を受け容れているひとには 《信念》が無い。《義》が無い。囲いが無い(心の明け)。能天気である。大道は無門である。  なお いわゆる宗教のオシエを《信じている》場合というのは――けっきょく《非思考》にはならず―― 思想としての信念たる義を抱いている。無神論者のタイプになる。無神論者はまだ柔軟である。宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのような固まりである。  神をいだく人は 囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら――野球のボールかバスケットボールかは知らないが――そのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。そのボールの軌跡の積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが起きる場合がある。  たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんなでその内なる交通渋滞の受け容れや引き受けをおこなっていたのかも知れない。  これをなお問います。批判を歓迎しますが 賛成票をも気軽にどうぞ。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

B様、こんばんは。 >「生活を(微分)積分」 コトは、そんなに単純ではないのでは?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  ご回答をありがとうございます。

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