• 締切済み

悟り

『悟り』というものは、 本当に存在するのでしょうか? 『瞑想をする』 『自分の感情を観察する』 『自分の思考を観察する』 という事を普段行っているのですが、 いまだに確信が持てません。 どんなに努力や我慢をしようと、 その努力や我慢をしているのは『自分』です。 その『自分』が無くならない限り、『悟り』は訪れません。 という意見も聞きます。 『自分』の力では、『悟り』は開けないのでしょうか? もっと良いやり方が、存在するのでしょうか? 皆様の意見を聞かせて下さい。 よろしくお願いします。

noname#164825
noname#164825

みんなの回答

回答No.18

やあ。 もったいつけてこれだけは応えてやろう。 >その『自分』が無くならない限り、『悟り』は訪れません。 自分を無くす事では無い。 自分を解き放つことだ。 そうすると野獣が喰らいついてくるだろう。 君がそうしたように、野獣はお前を殺してやるとも言うだろう。 しかしいったん解き放ったならば、あくまでも自らの真実を貫く事だ。 このような悟りの基ではどの程度悟っているかは一定の目安がある。 それは、お前を殺しその肉を喰らってやると現れる野獣をいかに飼いならすかだ。 実際は野獣の狂気を飼いならすことである。 これが猿まわしだよ。

noname#164825
質問者

お礼

Flareonさん、回答ありがとうございます。 (  ̄Д ̄) 『やあ。もったいつけて、これだけは応えてやろう。』 ( ̄へ ̄ )『そんなぁ。もったいつけづに教えて下さいよぉ。(涙)』 【自分が無くならない限り、悟りは訪れません。】 (  ̄Д ̄) 『自分を無くす事では無い。自分を解き放つことだ。』 ( ̄へ ̄ )『【自我意識】に負けずに、自分を解き放てみたいな感じのニュアンスなのかなぁ。』 (  ̄Д ̄) 『そうすると野獣が喰らいついてくるだろう。君がそうしたように、野獣はお前を殺してやるとも言うだろう。』 ( ̄へ ̄ )『【野獣】というのは【自我意識】の事なんだろうか?【自我意識】が抵抗してくるって事なんでしょうかねぇ。』 (  ̄Д ̄) 『しかし、いったん解き放ったならば、あくまでも自らの真実を貫く事だ。 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。』 (  ̄Д ̄) 『このような悟りの基ではどの程度悟っているかは一定の目安がある。それは、お前を殺しその肉を喰らってやると現れる野獣をいかに飼いならすかだ。実際は野獣の狂気を飼いならすことである。これが猿まわしだよ。』 ( ̄へ ̄ )『飼いならす。猿まわし。う~ん...感覚的な問題なんですね。きっと。』 ありがとうございました。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.17

あなたの、心、知恵、というものにさえ実体がない、縁によつて、 、環境とあなたの肉体構造と脳の回路、によって、今、想起している だけで、実体としては何処にも存在しないのに。 あなたが考える、悟り、というものが実体として存在する訳はありません。 名、言葉、があるだけです。 名は名にして常の名にあらず(老子)は先日書きましたが。 仏教に12支縁起というのがあります。  無明、行、名、識、6所、・・で、人間の発生成長を言っているのでしょう。 無明(何も知らないまま誕生する)を縁として、行(泣く、乳を飲み、排便をするという)  行、を縁として、名、(マー、とか、アー、とかの、対象)が起こる。 名を縁として、識(対象の特定てしての、概念の構築、としての認識)が起こる。 識を縁として、6所(嬉しい、悲しい、などの感情)感情が起こる。 6所を縁として、執着(好き嫌い、綺麗、醜い、利害、などの)執着が起こる。 執着を縁として苦(迷い、悩みなどの)が起こる。・・・ 大体そういう考え方です。最後は、菩薩(悟りを求める者を縁として、悟り、起こり。 悟りを縁として人間(真人、目覚めた人)となる。というようなのと。 餓鬼、畜生、地獄、となる。という裏の?一二支縁起、というのもあるようです。 さて、名、言葉を縁として認識が起こる、という問題です。 認識とは、個人の概念(頭の中でイメージし作り上げた対象)であり。 個人によって違うものであり、変化するもの、なのです。 私など、小学校で、子供の絵に、金賞の金紙、と銀賞の銀紙、が貼ってあり。 私は銀紙の絵が良い、貼ってある紙も渋くて、値打ちがありそう、金紙は軽薄そうだ、 と思い。けっこう高学年になるまで、銀を金、金を銀、と認識していました。 人間の認識とは、大なり小なりそんなもの、「群盲象を語る」なのです。 それではまずい、と考え。概念の統一、を目指したのが、アリストテレスの 形而上学、であり。アカデミーと言われる西洋思想の一方の奔流となります。 (もう一方は言うまでもないでしょうが、ユダヤ思想、キリスト教思想です) しかし、、言葉に、これはこういうものであり、その属性はこれであり、対義の 言葉はこれである。と定義出来るものでしょうか。変化するものを定義し固定することは 出来ないはずです。マルクスがアリストテレスを知恵を台無しにした。 と批判するように、皆に同じ概念を持たせると、定義が間違っていても、 気づく者がいなくなる。気づいても否定される。知恵の消滅?の社会になるのです。 アリストテレスの形而上学という、ギリシャ哲学の完成=終焉から スコラ哲学(キリスト教形而上学)となり。西洋は、知恵の暗黒、中世、が1000年続いたのです。 で、悟り、ですが。(子供の頃の)私にとっては、自分が銀を金だと、間違った認識をしていたことに 気づき、概念が変わった、認識が逆になった。 が悟り、という言葉のイメージ、であり。 自分の認識をより、事象と合致するように、改め、認識を変える事、自分を変える事、悟り、だ との認識は今も大して変わりませんが、悟りとは、と、定義、を試みたりはしませんが。 悟り、と一体で逆の言葉は、迷い、悩み、間違った認識、行動、をする事。でしょうから。 悟り、はその逆の方向に自らを導く縁によって起こる事。 なのでは。

noname#164825
質問者

お礼

hanniyagiさん、回答ありがとうございます。 私なりの理解を書かせて頂きましたので、時間のある時に、ご覧になって頂けると助かります。 (  ̄Д ̄) 『心、知恵、というものにさえ実体がない。縁によって、環境とあなたの肉体構造と脳の回路によって、今、想起しているだけで、実体としては何処にも存在しない。』 ( ̄へ ̄ )『世の中も肉体も心も知恵も、全ては移り変わる。全ては【無常】だと。こういう事かな?』 (  ̄Д ̄) 『あなたが考える【悟り】というものが実体として存在する訳はありません。名、言葉があるだけです。』 ( ̄へ ̄ )『_| ̄|○ ガックシ。僕の今、考えている【悟り】とは【神との対話】という本から、少し引用すると、例えば世の中が全て【幸福】であれば【幸福】を感じる事はできない。【不幸】を感じて、初めて【幸福】を感じる事が出来る。【不幸】がなければ【幸福】はないのと同じである。』 ( ̄へ ̄ )『【背が低い】という事が分からなければ【背が高い】という事は分からない。【痩せている】という事が分からなければ【太っている】という事は分からない。』 ( ̄へ ̄ )『これと同じ様に【悟り】という経験を感じる事が出来る様に、今現在、人生で【悩み】【苦しみ】を感じているんじゃないかと、こういう仮説は一応持ってはいるんですよね。そして、この【悩み】【苦しみ】の原因は【自我意識】【欲望】【エゴ】とか呼ばれているものなんじゃないかなぁと、今までの経験や、教えてもらった事を振り返って考えてはいるんですよね。』 ( ̄へ ̄ )『なので人生は【自我意識】【欲望】【エゴ】によって【悩み】【苦しみ】を感じ、克服していく過程じゃないかとは考えてはいるんですよねぇ。そして克服した存在になった時、【悟り】という経験が出来るんじゃないかと、考えてはいるんですけどねぇ。全く確信は、ないですけど。(涙)』 (  ̄Д ̄) 『名は名にして常の名にあらず(老子)は先日書きましたが。』 ( ̄へ ̄ )『先日の難しい計算式。少し勉強した所によると、行為や物には、あるものを別のものと区別するために、すべて名前がついてる。便宜のために名前があるだけで、共通の認識があれば通じる。しかし、それは【永遠不変】の名ではない。といったニュアンスですよね。』 (  ̄Д ̄) 『仏教に12支縁起というのがあります。無明、行、名、識、6所、・・で、人間の発生成長を言っているのでしょう。』 ( ̄へ ̄ )『12支縁起?』 (  ̄Д ̄) 『無明(何も知らないまま誕生する)を縁として、』 【縁】えん 広辞苑調べ 1原因をたすけて結果を生じさせる作用 2直接的原因(因)に対して間接的条件 3また因と同義にも用いる。 ( ̄へ ̄ )『何も知らない赤ちゃんとして生まれて来て』 (  ̄Д ̄) 『行(泣く、乳を飲み、排便をするという)行、を縁として、』 ( ̄へ ̄ )『泣いたり、おっぱい吸ったり、う◯こ(自粛)をしたりなどの行為をする為に』 (  ̄Д ̄) 『名、(マー、とか、アー、とかの、対象)が起こる。』 ( ̄へ ̄ )『マー?アー?ってなんだ?名だから行為に名前をつけて認識するが為にって事かな?【泣く】という行為に【泣く】という名前をつけるという事かな?』 (  ̄Д ̄) 『名を縁として、識(対象の特定てしての、概念の構築、としての認識)が起こる。』 ( ̄へ ̄ )『行為に名前をつけた為に、行為を識別する様になるって事かな?【泣く】【買う】等行為に名前をつけて識別する。』 (  ̄Д ̄) 『識を縁として、6所(嬉しい、悲しい、などの感情)感情が起こる。』 ( ̄へ ̄ )『行為を識別して、行為に対して感情が起こると。』 【泣く】と【悲しい】。 【買う】と【嬉しい】。 (  ̄Д ̄) 『6所を縁として、執着(好き嫌い、綺麗、醜い、利害、などの)執着が起こる。』 ( ̄へ ̄ )『行為に対して感情が起こる為に、行為に対する執着が起こると。』 【泣く】と【悲しい】から【嫌い】。 【買う】と【嬉しい】から【好き】。 (  ̄Д ̄) 『執着を縁として苦(迷い、悩みなどの)が起こる。』 ( ̄へ ̄ )『行為に執着した為に苦しみが起こる。』 【嫌い】な事するのは【苦しい】。 【好き】な事ができないのは【苦しい】。 お礼のコメント欄は2000文字までみたいなんで、続きは補足という欄に書いておきます。

noname#164825
質問者

補足

お礼の続き (  ̄Д ̄) 『・・・大体そういう考え方です。』 ( ̄へ ̄ )『僕の解釈は、あっているんだろうか?(汗)』 (  ̄Д ̄) 『最後は、菩薩(悟り)を求める者を縁として、悟り、起こり。』 ( ̄へ ̄ )『【苦しみ】を味わうが為に、【悟り】を求め、その為に【悟り】が起こる。』 (  ̄Д ̄) 『【悟り】を縁として人間(真人、目覚めた人)となる。』 ( ̄へ ̄ )『【悟り】が起こった為に、目覚めた者になる。』 (  ̄Д ̄) 『というようなのと、餓鬼、畜生、地獄、となる。という裏の?一二支縁起、というのもあるようです。』 ( ̄へ ̄ )『裏の?一二支縁起?今回はスルー。』 (  ̄Д ̄) 『さて、名、言葉を縁として認識が起こる、という問題です。』 ( ̄へ ̄ )『うんうん。行為や物に認識が起こる為に、苦しみまで繋がっちゃいますからね。』 (  ̄Д ̄) 『認識とは、個人の概念(頭の中でイメージし作り上げた対象)であり、個人によって違うものであり、変化するものなのです。』 ( ̄へ ̄ )『確かに、行為や物に対する感情は人によって変わってくるからなぁ。』 (  ̄Д ̄) 『私など、小学校で、子供の絵に、金賞の金紙、と銀賞の銀紙、が貼ってあり、私は銀紙の絵が良い、貼ってある紙も渋くて、値打ちがありそう、金紙は軽薄そうだと思い、けっこう高学年になるまで、銀を金、金を銀、と認識していました。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。金よりも銀の方が、価値があると認識していた訳ですね。』 (  ̄Д ̄) 『人間の認識とは、大なり小なりそんなもの「群盲象を語る」なのです。』 【群盲象を評す】Wikipedia調べ 盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など、別々の一部分だけを触り、その感想について語り合う。しかし、触った部位により感想が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して、対立が深まる。しかし何らかの理由で、それが同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消する、というもの。 (  ̄Д ̄) 『それではまずいと考え、概念の統一、を目指したのが、アリストテレスの形而上学、であり。アカデミーと言われる西洋思想の一方の奔流となります。(もう一方は言うまでもないでしょうが、ユダヤ思想、キリスト教思想です)』 ( ̄へ ̄ )『アリストテレス。有名な名前だ。人々の概念を統一しようとした人だったんですね。(勉強不足ですみません。)』 (  ̄Д ̄) 『しかし、言葉に、これはこういうものであり、その属性はこれであり、対義の言葉はこれである。と定義出来るものでしょうか?変化するものを定義し固定することは出来ないはずです。』 ( ̄へ ̄ )『うんうん。確かに。世の中は全て【無常】という事になると、概念の統一というのは難しいのかもしれませんね。』 (  ̄Д ̄) 『マルクスがアリストテレスを知恵を台無しにした。と批判するように、皆に同じ概念を持たせると、定義が間違っていても、気づく者がいなくなる。気づいても否定される。知恵の消滅?の社会になるのです。アリストテレスの形而上学という、ギリシャ哲学の完成=終焉から、スコラ哲学(キリスト教形而上学)となり。西洋は、知恵の暗黒、中世、が1000年続いたのです。』 ( ̄へ ̄ )『うんうん。変化する世の中で、定義を固定してしまっては難しいですよね。』 (  ̄Д ̄) 『で、【悟り】ですが。(子供の頃の)私にとっては、自分が銀を金だと、間違った認識をしていたことに気づき、概念が変わった。認識が逆になった。が【悟り】という言葉のイメージであり、自分の認識をより事象と合致するように改め、認識を変える事、自分を変える事、【悟り】だ。との認識は今も大して変わりませんが、【悟り】とは【定義】。を試みたりはしませんか。』 ( ̄へ ̄ )『【悟り】とは【定義】。う~ん。』 (  ̄Д ̄) 『【悟り】と一体で逆の言葉は、迷い、悩み、間違った認識、行動、をする事。でしょうから。悟り、はその逆の方向に自らを導く縁によって起こる事。なのでは。』 ( ̄へ ̄ )『僕の中の考えでは、今の所【欲望】【執着】【エゴ】を克服した自分になるという縁によって、【悩み】や【苦しみ】がなくなり【悟り】が起こる。と考えているのですが、どうなんでしょうか?』 長文失礼致しました。

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.16

残念ながら『悟り』の状態というのがあるのではなくて、『悟りへ向かう状態』があるのだろうと思います。 目的地ではなくて、ある方向へ向かって歩いている状態です。 ただ、その歩みのなかで、ぴょんと進むことがある。 歩みは一歩一歩なのですが、充電してそれがエネルギーになってという感じで…。 なんどやってもできない逆上がりが、ある日、ぴょんとできた感じです。 そこが『悟り』のように感じることもあるわけですが、そこから次の一歩が始まるわけです。 良いやり方というのを、お話しするほど分かっているわけではありませんが、そのような歩みを意識しつつ、何かを極めていくということが効果的だと私は感じるようになりました。 それは、魚釣りでも、絵画でも、書道でも…よいかと思います。 それを極めていきながら、あなたがいう『悟り』ということをときどき意識してみる。 いうなれば、極めていくのは山を登っていくようなもので、『悟り』を意識するというのは、登ったところから景色を眺めてみるような感じです。 そうすると他の山とのつながりや連関が見えてくる。 それは、かなり大切なことだと思います。

noname#164825
質問者

お礼

mijincoさん、回答ありがとうございます。 とても嬉しいです。 僕も今まで経験してきた事や、 人から教えてもらった事や、 本などを読んできた事を、 まとめて振り返って考えてみると、 人生は進めれば、進める程、 欲望やエゴによって苦しみながら、 欲望やエゴを手放していき、 愛情を前面に出してくる過程じゃないかと、 最近は考えています。 その過程の途中でぴょんと悟りがやってくるんじゃないかと。 【なんどやってもできない逆上がりが、ある日、ぴょんとできた感じです。】 うんうん。まさにそんな感じなのかもしれませんね。 【何かを極めていくということが効果的だと私は感じる。極めていきながら、『悟り』ということをときどき意識してみる。極めていくのは山を登っていくようなもので、『悟り』を意識するというのは、登ったところから景色を眺めてみるような感じ。そうすると他の山とのつながりや連関が見えてくる。】 お~っ!! いい例えじゃないですか!! まさに!! というか、それしかない様な感じです。 mijincoさんに、とても元気をもらいました。 ありがとうございます。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.15

前回、指摘したような『悟る』という意味あいからすれば、当然あるでしょう、そのための言葉ですから。しかも、万人に可能でしょう。つまり、本当の自分自身(主体)は心そのものであって、その肉体(仮体)としての自分は一時的な、まさに仮の姿であると覚知することができるかということになるのですが、これにはコペルニクス的転回の認識が必要かと思われますが、つまり、今まで天動説こそが正しいと信じていたのが、地動説こそが真実の姿として認識しなければならないようになる、ということです。確かに見る限りにおいては、夜空の星々は天空を回っているし、太陽も東から昇って西に沈むし、大体、人も木々も家々も何ら問題なく立っているのに、この大地が回転して、尚且つ太陽の周りを回っているなど、到底信じられないというのが当時の人々の本音であり、現在でも未開の奥地で暮らす人々にとっては、やはり天動説が常識かも知れませんが。結局、全体を知らずして部分観のみですべてを判断してしまう弊害かとも思われますが、ともかく、今まで鏡に映った姿形を自分自身と思い込んでいたものが、それを見て自分と思い込んでいた心こそが本当の自分自身であると気が付き、それが永遠の存在であると信じるのは、確かに難しいかも知れません。 それでデカルトは、ともかく目に映るものを次から次へと、「本当は、それは存在しない」と決め付けて行き、最終的に自分自身も本当は存在しないと思うようにしたところが、どうしても否定できないある存在に気付いたのです。それこそが、思う心だったのです。つまり、この世界も自分も本当は存在しないと否定したりすればするほど、その否定する心の存在がより顕著になる、ともかく、何も存在しないとしてもそれを認識する自分はどうしても存在せざるおえない、これこそが実存する自分自身であると。それで結果として、肉体があるから自分があるのではなく『我思う、故に我あり』という結論なったのですが。 それで、この主体と仮体(客体ともいう)の分かりやすい例として、水があるのですが、水というのはそれが縁するものによって氷になったり、水蒸気になったりと変化しますが、それらの姿形はあくまで一時的な仮体であって、つまり、液体、固体、気体と変化して見た目は違えども、その主体であるH2Oは決して変わらず存在し続ける。心と肉体もこのような関係かと考えられればよいのかとは思われますが。 それと生理学的に見て、肉体の細胞というものは大体7年位で入れ替わるようですが、だからと言って別人になるわけでもなく自分は自分であり続けるはずですが、つまり、新陳代謝によって7年間隔で何度も肉体は刷新されたとしても、自分に変わりはなく、なぜなら、それは自分たらしめているものが心に他ならないからです。 ともかく、人というものは、それがたとえ本質といえども姿形のないもの(姿形がないからこそ、決して朽ち果てることなく永遠に続くのであるが)の存在は、どうしても信じ難く、目に見える現象のみを以って判断してしまうので、心と肉体の関係も天動説的見解に陥りがちになるかとは思われますが、ともかく、デカルト的考察にしろ、上記のような事案等からして、自分は本来、永遠の存在であると覚知できるようになる者も必ずや出てくるかとは思われます。 なお、コペルニクスやガリレオのように宇宙観を180度変えたように、生命観を『今世だけから永遠に』と180度変えたのが釈尊であり、そこのところは法華経によく説かれているので、参考にされてもよいかとは思われます。

noname#164825
質問者

お礼

abc2008さん、回答ありがとうございます。 とても助かります。 自分なりに教えて頂いた事を理解してみました。 お時間がある時に、ご覧になって頂けると、助かります。 (  ̄Д ̄)『【悟る】という意味あいからすれば、当然あるでしょう。そのための言葉ですから。しかも、万人に可能でしょう。』 ( ̄へ ̄ )『これだけ【悟る】という言葉あるって事は、当然あるっていう事なんだだろな。』 (  ̄Д ̄)『本当の自分(主体)は心そのもので、肉体(仮体)としての自分は一時的な、仮の姿であると覚知することができるかということになる。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。それを本で読んだり、人から聞くだけでなく、自分で確信する方法がよく分からないんですよね。』 (  ̄Д ̄)『これにはコペルニクス的転回の認識が必要かと思われる。』 ( ̄へ ̄ )『コペルニクス的転回の認識?』 (  ̄Д ̄)『今まで天動説こそが正しいと信じていたのが、地動説こそが真実の姿として認識しなければならないようになる。見る限りにおいて、夜空の星々は天空を回っているし、太陽も東から昇って西に沈むし、人も木々も家々も何ら問題なく立っているのに、この大地が回転して、尚且つ太陽の周りを回っているなど、到底信じられないというのが当時の人々の本音である。』 ( ̄へ ̄ )『確かに。今は当たり前ですけれど、当時は信じられなかっただろうな。』 (  ̄Д ̄)『全体を知らずして部分観のみですべてを判断してしまう弊害かとも思われる。』 ( ̄へ ̄ )『確かに人生、部分観だけでは解決できない問題が山ほどある。』 (  ̄Д ̄)『今まで鏡に映った姿形を自分自身と思い込んでいたものが、それを見て自分と思い込んでいた心こそが本当の自分自身であると気が付き、それが永遠の存在であると信じるのは、確かに難しい。』 ( ̄へ ̄ )『心が永遠であるっていうのも、本で読んで、きっとそうなんだろうなぁって推測するだけなんですよね。僕の場合。』 (  ̄Д ̄)『それでデカルトは、目に映るものを次から次へと、「本当は、それは存在しない」と決め付けて行き、最終的に自分自身も本当は存在しないと思うようにしたところ、どうしても否定できないある存在に気付いた。それこそが、思う心だった。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。目に映るものを次から次へと【無常】だと確認していったという事なんですね。きっと。目に映るものは【無常】だと確認できても、心は存在すると。』 (  ̄Д ̄)『この世界も自分も本当は存在しないと否定したりすればするほど、その否定する心の存在がより顕著になる。何も存在しないとしても、それを認識する自分はどうしても存在せざるおえない。これこそが実存する自分自身であると。肉体があるから自分があるのではなく【我思う、故に我あり】という結論なった。』 ( ̄へ ̄ )『なるほど。この名言は、こういういきさつがあったんですね。』 (  ̄Д ̄)『この主体と仮体の分かりやすい例として、水がある。水というのはそれが縁するものによって氷になったり、水蒸気になったりと変化しますが、それらの姿形はあくまで一時的な仮体であって、つまり、液体、固体、気体と変化して見た目は違えども、その主体であるH2Oは決して変わらず存在し続ける。心と肉体もこのような関係かと考えられればよい。』 ( ̄へ ̄ )『お~!!これは分かりやすい。肉体はいろいろ変化するが、心は存在し続ける。』 (  ̄Д ̄)『生理学的に見て、肉体の細胞というものは大体7年位で入れ替わる。だからと言って別人になるわけでもなく自分は自分であり続けるはず。新陳代謝によって7年間隔で何度も肉体は刷新されても、自分に変わりはない。それは自分たらしめているものが心に他ならないから。』 ( ̄へ ̄ )『肉体は細胞が入れ替わり、新しくなっていく。でも心は存在するから自分は自分であると。』 お礼のコメント欄は2000文字が限界のようなので、残りは補足欄に書いておきます。 お時間がある時に、ご覧になって頂けると助かります。

noname#164825
質問者

補足

お礼の続き (  ̄Д ̄)『人は、それがたとえ本質といえども姿形のないもの(姿形がないからこそ、決して朽ち果てることなく永遠に続く)の存在は、どうしても信じ難く、目に見える現象のみを以って判断してしまう。心と肉体の関係も天動説的見解に陥りがちになる。』 ( ̄へ ̄ )『確かに、ここまで考えきるのは、なかなか難しい。』 (  ̄Д ̄)『デカルト的考察にしろ、上記のような事案等からして、自分は本来、永遠の存在であると覚知できるようになる者も必ずや出てくる。』 ( ̄へ ̄ )『確かに、理屈から言えば、永遠の存在であると推測はできますよね。あと必要なのは確信だな。』 (  ̄Д ̄)『コペルニクスやガリレオのように宇宙観を180度変えたように、生命観を『今世だけから永遠に』と180度変えたのが釈尊である。』 ( ̄へ ̄ )『なるほど。やっぱり釈尊が詳しいんだな。釈尊をもっと詳しく勉強してみます。』 (  ̄Д ̄)『法華経によく説かれているので、参考にされてもよい。』 ( ̄へ ̄ )『法華経ですね。今度、読んでみます。』 abc2008さん、ありがとうございます。 とても勉強になりました。 自分なりに教えて頂いた事を、理解してみましたが、間違えて解釈していたらすみません。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.14

お礼有り難うございます。有用な情報かどうかの目安は述べている人物が興奮しているか楽しそうかという点にあります。 なぜなら、悟りの工程は既に示されていますから基本的に発見や新解釈という意味での面白みがうまれるはずがないからです。 そこには平安に近づく喜びがあるだけです。 面白い説ほど気をつけることをお勧めします。

noname#164825
質問者

お礼

MOG56222さん、回答ありがとうございます。 ( ̄Д ̄ )『悟りの工程は既に示されていますから、基本的に発見や新解釈という意味での面白みがうまれるはずがない。平安に近づく喜びがあるだけ。面白い説ほど気をつけることをお勧めします。』 了解致しました。 面白い説には注意します。 ありがとうございます。

回答No.13

貴方の理解はおおむね正しいと思いますが、一箇所だけ違っていますので、指摘しておきます。 『悩んで、悩んで、自我意識では、解決できない状態に追い込まれ、諦め、フッと力が抜けた瞬間に悟りが訪れるんだと理解しました。』 ここだけが違います。身体や心の緊張は『意識の力』だけでは取るとか、緩める事は出来ません。自分でも分からないながらも『緊張しています。』 その緊張させていた者との出会いが『見性』です。心(意識)が発生する正にその現場です。その事が『緊張を解きほぐします。』もう一つの意識と出会った瞬間、全ての力が抜けてゆきます。 その緊張している事自体、自分でも分からなかった事です。自分では『力を入れていたつもりが無くとも』本当は力を入れて生きていました。その力が『心の奥底から』抜けて行くという意味です。 それ以後『意識しなくとも』自然と緊張しなくなっています。 その現象を心身脱落と表現しています。

noname#164825
質問者

お礼

tumaritou1さん、回答ありがとうございます。 とても助かります。 文章を読ませて頂いて、 ( ̄Д ̄ )『身体や心の緊張は【意識の力】だけでは取るとか、緩める事は出来ない。』 という事は、深刻な悩み、深刻な疑問、に直面している時、 【自我意識】では解決できない状態にいる時に、 自分で意識して「もう解決できない。諦めよう。」では駄目で、 深刻な悩み、深刻な疑問に直面している時、 【自我意識】が、自分では意識していない所で、 【自我意識】が「死を受け入れる事を決意し、 意識の根底で右脳の意識との出会い【見性】が在る。 といった事でしょうか? という事は、 私が現在、人生の事で悩んでいる状態で、 【見性】が起こらないという事は、 まだどこかで、【自我意識】で解決できると考えているという事にもなるのでしょうか? 時間がある時に、お返事頂けると助かります。

回答No.12

 No.3です。  次のくだりについておぎないます。  ☆☆(回答No.3) ~~~   * 実際の生活においては 段階があります。ただしこの段階は すでに最高の究極の境地に到ったあとの時差をともなった一つひとつの過程だと認識してください。  言いかえると すでに傷は癒されています。完治しています。(わが心に 非思考の庭が成ったその時点で――即身成仏―― 完治しています)。あとは その傷跡の直っていく一つひとつの段階なのだと心得てください。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 賛同いただいたのですが おそらく傷の直る過程について問い求めがつづくことがあるのではないか。こう思いました。  基本的には こうだと見ます。  ○ 突き刺さっていた矢は 抜き去られました。傷跡は残っている。  こういう状態であろうと。  さらには では 傷跡が どのように癒されて行くのか?   時間の経過とともになのですが ひとつ留意することがあります。  ○ じつは――よくお考えになってみてください―― 癒されて行く傷跡(あるいは なおまだ残る傷そのもの)は 自分のそれだけではない。  ということです。そこで 《慈悲》という概念が われわれ一人ひとりの身と心に宿る仏性にもとづき 得られ さらに問い求めるよう人びとによって持たれ続けています。  たとえば《無縁慈悲》 これなどは 仏性の百パーセント発揮されたその癒しのはたらきだと思われます。(慈悲には 三つあると考えられて来ています。しらべてごらんになってください)。  結論から言って 無縁慈悲ほどに大きな仏性のはたらきを――宿すだけではなく―― 発揮しうる境地の人びとは 当然のごとく ほかの人びとの癒しの過程にも おつきあいします。  言ってみれば 自分自身の傷が癒され直って行くといったさとりの一瞬とそれにつづく過程を――もし たまたま 自分が先にさとったとするならば―― となりにいる人の同じさとりと治癒過程において言わば疑似的に反復体験するという事態が起こることがあります。  言っときますが このときにも自分が 人間として 何かをするわけではありません。むろんいっしょにいて自分の体験を話したり助言を与えたりして相談に乗ることは 一般の問題と同じくじゅうぶんにありますが 人間たる自分自身が 仏性そのものであるわけではないので 人間の能力や努力としては慈悲のちからは 限られています。  でも いっしょに治癒の過程におつきあいすることがあります。  要するに 仏性の出具合いが大きければ大きいほど ほかの人の酷い傷や さらに多くの人びとの傷についてその癒しの瞬間や過程におつきあいすることになります。  じぶんが望んでそうする場合というのは あまりないでしょう。やむを得ず放っておけないという感覚をおぼえたなら おつきあいしてしまうというかたちだと思われます。  何が言いたいかと言えば 自分の傷は ありがたいことに 直り傷跡も癒えて行く。にもかかわらず 他方では どうもその古傷が痛む 痛んで仕方がないという場合があるということです。  共業(ぐうごう)をしらべてみてください。  前世だとか来世は 屁の河童ですが 生まれてこのかたにおいて経験して来たことがらについては その己れの意志行為とその結果をめぐっては けっきょく人びと相互の関係性ないし社会性という要素があるということです。極端に言えば 連帯責任というかたちにまでなるのかも知れません。  ですから 先に癒された人は あとから続く人びとと あたかも同じ治癒過程を いっしょに歩むということが起こります。  しかも おどろくなかれ 《あとの者は先になり 先の者はあとになる》といった逆転状態にもなりうる。のではないでしょうか? わたしがこのように ばかみたいに 威張って言っているのも 今だけだとも思われます。(なぜ威張るか? だって ほかのさとり観は 見たところ ことばが踊っているだけなんだから)。  他者に対しては 人間のちからとしては何も出来ない いっさい出来ないとさとった上で 他者に対して 治癒の過程におつきあいすることにしましょう。どうでしょう?  

noname#164825
質問者

お礼

(-人-) bragelonneさん、人生迷走中の私にお付き合い頂き、ありがとうございます。今の私の理解では、完全には理解できませんでしたが、私なりの考えを書いてみました。お時間ある時に、ご覧なって頂けると助かります。 ヾ(・ε・。)『実際の生活においては、段階があります。ただしこの段階は、すでに最高の究極の境地に到ったあとの、時差をともなった一つひとつの過程だと認識してください。言いかえると、すでに傷は癒されています。完治しています。(わが心に、非思考の庭が成ったその時点で――即身成仏―― 完治しています)。あとは、その傷跡の直っていく、一つひとつの段階なのだと心得てください。』 (○゜ε゜○)『傷が完治した状態(究極の境地)の視点に自分を立たせれば、今はただ、傷が治っていく過程を生きているだけだと。』 (○゜ε゜○)『《非思考の庭が成ったその時点で即身成仏》[非思考]というのは[自我意識]を克服した状態でいいんだろうか?[自我意識]=[思考]かな。[思考]がなければ[自我意識]はないか。う~ん...まだ自分の中での理解が微妙だなぁ。(ε|||)』 ヾ(・ε・。)『賛同いただいたのですが、おそらく傷の直る過程について問い求めがつづくことがあるのではないか。こう思いました。』 (○゜ε゜○)『僕の中では、傷を作るのも、過去の傷跡で苦しむのも、未来の傷を恐れるのも、原因は[自我意識]であると考えているのですが、[自我意識]を克服する過程だと考えていいんだろうか? bragelonneさんの[傷]と僕の[自我意識]が違っていたらどうしよう。(ε|||)』 ヾ(・ε・。)『基本的には、こうだと見ます。突き刺さっていた矢は、抜き去られました。傷跡は残っている。こういう状態であろうと。』 (○゜ε゜○)『これは、傷が完治した状態(究極の境地)の視点から見て、矢は抜き去られている(完治している)。でも傷跡は残っている(今現在、傷跡を治していく過程を生きている)という事だろうか? それとも、過去の失敗や後悔(突き刺さった矢)は、もう出来事としては終わっている(抜き去られている)。しかし、[思考]が終わっている出来事を考え、想像して苦しんでいる(傷跡は残っている)という事かな? う~ん...むずい。(ε|||)』 ヾ(・ε・。)『さらにはでは、傷跡がどのように癒されて行くのか?時間の経過とともになのですが、ひとつ留意することがあります。』 (○゜ε゜○)『ふむふむ。』 ヾ(・ε・。)『じつは――よくお考えになってみてください――癒されて行く傷跡(あるいは、なおまだ残る傷そのもの)は、自分のそれだけではない。ということです。そこで《慈悲》という概念が、われわれ一人ひとりの身と心に宿る仏性にもとづき得られ、さらに問い求めるよう人びとによって持たれ続けています。』 【慈悲】じひ 1仏教で,仏・菩薩が衆生をあわれみ,楽を与え,苦を除くこと。 2いつくしみ,あわれむこと。情け。 (○゜ε゜○)『傷跡は自分だけが持っているのではない。そこで[慈悲]という考え方が出て来ると。』 ヾ(・ε・。)『たとえば[無縁慈悲]これなどは、仏性の百パーセント発揮されたその癒しのはたらきだと思われます。(慈悲には 三つあると考えられて来ています。しらべてごらんになってください)。』 大乗経典を用いる仏教では、慈悲心を三種に説く。 【衆生縁】しゅじょうえん 衆生の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。 【法縁】ほうえん すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ苦を逃れ楽を得ようとあがくのをみて、抜苦与楽せんと思う心をいう。 【無縁】むえん 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。 ヾ(・ε・。)『結論から言って、《無縁慈悲》ほどに大きな仏性のはたらきを――宿すだけではなく――発揮しうる境地の人びとは、当然のごとくほかの人びとの癒しの過程にも、おつきあいします。』 (○゜ε゜○)『傷が完治した状態に戻れば戻る程、[慈悲]という情け・あわれみの心が出てくるという事なのかな。』 (-人-) お礼のコメント欄は、2000文字が限界のようなので、残りは補足欄に書いておきます。お時間のある時に見て頂けると助かります。

noname#164825
質問者

補足

ヾ(・ε・。)『言ってみれば、自分自身の傷が癒され直って行くといったさとりの一瞬とそれにつづく過程を――もし、たまたま自分が先にさとったとするならば――となりにいる人の同じさとりと治癒過程において言わば疑似的に反復体験するという事態が起こることがあります。』 (○゜ε゜○)『傷跡を治していく過程において、より完治に近づいた者が、[慈悲]の心によって自分よりも深い傷跡がある人の治療のお手伝いをすると。』 ヾ(・ε・。)『言っときますが、このときにも自分が人間として、何かをするわけではありません。むろんいっしょにいて自分の体験を話したり助言を与えたりして相談に乗ることは、一般の問題と同じくじゅうぶんにありますが、人間たる自分自身が仏性そのものであるわけではないので、人間の能力や努力としては慈悲のちからは限られています。でも、いっしょに治癒の過程におつきあいすることがあります。』 (○゜ε゜○)『ふむふむ。』 ヾ(・ε・。)『要するに、仏性の出具合いが大きければ大きいほど、ほかの人の酷い傷や、さらに多くの人びとの傷についてその癒しの瞬間や過程におつきあいすることになります。』 (○゜ε゜○)『傷が完治に近づけば近づく程、慈悲心が出てくるという事かな。』 ヾ(・ε・。)『じぶんが望んでそうする場合というのはあまりないでしょう。やむを得ず放っておけないという感覚をおぼえたなら、おつきあいしてしまうというかたちだと思われます。』 (○゜ε゜○)『自分から望んで治療のお手伝いをするには、相当な慈悲心が必要になるな。』 ヾ(・ε・。)『何が言いたいかと言えば、自分の傷は、ありがたいことに直り傷跡も癒えて行く。にもかかわらず、他方ではどうもその古傷が痛む痛んで仕方がないという場合があるということです。』 (○゜ε゜○)『古傷が痛むとはどういう事だろう?』 ヾ(・ε・。)『共業(ぐうごう)をしらべてみてください。』 【共業】ぐうごう 相互に共通するような状態にありうるような果報をひきおこす力 【不共業】ふぐうごう 自己のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力。 【果報】かほう 1 よい運を授かって幸福なこと。また、そのさま。「―な身分」 2 仏語。前世での行いの結果として現世で受ける報い。 ヾ(・ε・。)『前世だとか来世は屁の河童ですが、生まれてこのかたにおいて経験して来たことがらについては、その己れの意志行為とその結果をめぐっては、けっきょく人びと相互の関係性ないし社会性という要素があるということです。極端に言えば、連帯責任というかたちにまでなるのかも知れません。ですから、先に癒された人は、あとから続く人びとと、あたかも同じ治癒過程を、いっしょに歩むということが起こります。』 (○゜ε゜○)『自分に人を傷つけた苦しみがあれば、傷つけられた苦しみを持っている人がいる。自分に傷つけられた苦しみがあれば、傷つけた苦しみを持っている人がいる。世の中は人間同士の関係性で成り立っている。という事かな。でもその関係性なしでは[自我意識]で苦しみ、[自我意識]克服する事はできない。という事もあるのかな。』 ヾ(・ε・。)『しかも、おどろくなかれ《あとの者は先になり、先の者はあとになる》といった逆転状態にもなりうる。のではないでしょうか?わたしがこのように、ばかみたいに威張って言っているのも、今だけだとも思われます。(なぜ威張るか? だって、ほかのさとり観は見たところ、ことばが踊っているだけなんだから)。』 (○゜ε゜○)『《あとの者は先になり、先の者はあとになる》う~ん...より多く悩み、苦しんだ人の方が、真実を求める気持ちが強くなり、真実に近づくとは思うんですが、う~ん...これはどういう仕組みなんだろう?(ε|||)』 ヾ(・ε・。)『他者に対しては、人間のちからとしては何も出来ない、いっさい出来ないとさとった上で、他者に対して、治癒の過程におつきあいすることにしましょう。どうでしょう?』 (○゜ε゜○)『確かにこれだけ悟りに関する表現方法があるという事は、言葉ではうまく説明できないものだという事かなぁ。(ε|||) それぞれが自分の力で体感しなければならないという事なんですよね。きっと。』 (-人-) ありがとうございました。

noname#181697
noname#181697
回答No.11

悟りと言う歓喜は、迷いと言う苦しみと共に存在し、本当に悟って諸々の迷いを離れれば、悟りもまた無くなります。この迷いも悟りも無くなった絶対無の境地は、涅槃とも言います。 もし、あなたが涅槃に至ったなら、純然たる意識、純粋な知覚のままで居られる様になったら、何の理由もなく、ただニッコリと笑って日々を過ごす事でしょう。肉体が滅びるその日が来るまで、天地万物に自我の手垢がつく前の、あるがままの美しさを観て、ただそれを楽しむ事でしょう。 しかし、涅槃に至るには、様々な要因が複雑に絡み合って出来た「自分」と言う迷いを解きほぐすのは、並大抵の苦労ではありません。止観(サマタ・ヴィパサナ)冥想は悟る為には絶対に必要ですけど、それだけではダメです。一生懸命に絡まった毛糸を観察しても、それだけでは解(ほど)けないのと同じで、何のテーマも持たずに感情や思考を観察しているだけでは、何の進展もありはしません。 求道のテーマは、万人に通用する普遍性のあるテーマでなければいけません。つまり、個人的な悩み(私案)ではなく、個人を超えた問題(公案)でなければならないと言う事です。例えば、真の善悪の基準を知りたいとか、心の働きとその正体を解き明かしたいとか、真の愛を実現したいとか、それくらい難解な哲学的テーマでなければ、自我が心中する相手としては、役不足なんです。テーマに対して適切な答えを出すのが大切なのではなくて、大いなるテーマに命懸けで挑み続け、真実を探求し続ける事が大切なんです。 心底から真実を必要としていない者の身には、決して悟りは起き得ません。単なる知的好奇心や、悟りの境地への憧れでは、求道の動機としては不純過ぎます。もっと観察によってテーマを掘り下げ、より深い所にある本心に近づき、複雑に絡み合った迷妄を一つ一つ丁寧に解きほぐして、己の心を純化していかなければなりません。 しかし、本当に心が純化され、自己の本心や、物事の本質に近づいていくと、必ず相反する考え方の板挟みを経験する羽目になります。この宇宙が相反する二つの要素によって成り立つ以上、最終的に哲学的思考が辿り着くのは、何と「矛盾」なんですよ。でも、哲学的思考では矛盾を超越する事は出来ません。何故なら、思考それ自体が二元論で成り立っているからです。 表があれば裏があり、光があれば闇もある。善があれば悪もあり、迷いがあれば悟りもある。これに心底から納得する事が出来るなら、そこで求道はおしまいです。実際ここが人智の限界なので、これ以上の知を望んだ所で仕方ありません。でも、観察が進んでいる人は、結局これでは何も解決しないという事に気づいてしまいます。我々人類は矛盾の狭間で、終わらない苦痛の中で、永遠の生を彷徨しているという残酷な事実に気づいてしまうんです。 求道者の実像は、身の程知らずの聖なるバカヤロウです。我が身を顧みず、より多くの幸福の為に動こうとする、サービス精神過剰の度を超えたお人好しです。でも、これは求道者には絶対に必要な資質でもあります。何故なら、自分の都合だけを考えている様な俗物は、万人に通用する普遍性のあるテーマなんぞに興味を持ったりはしませんし、無難に立ち回る事ばかり考えている小利口な人は、容易に答えの出ない問題や、耐え難い大きな苦しみには近づこうとしませんから。 矛盾が最終意見であるとは認めず、妥協もせず、苦痛を終わらせる為に力尽きるまで真実を渇望し続けた者だけが、何らかの切っ掛けによって、相対的思考を超越した絶対無の境地に到達します。つまり、全ては自我の産物に過ぎなかったと悟り、自我の働きを認識している個別性無き純然たる意識、純粋な知覚に立ち返る事になるという訳です。 長文、失礼しました。  

noname#164825
質問者

お礼

(○゜ε゜○)『siryuanさん、丁寧な回答ありがとうございます。人生迷走中の僕にはとても勉強になります。嬉しいです。』 ヾ(・ε・。)『悟りと言う歓喜は、迷いと言う苦しみと共に存在し、本当に悟って諸々の迷いを離れれば、悟りもまた無くなります。この迷いも悟りも無くなった絶対無の境地は、涅槃とも言います。』 (○゜ε゜○)『迷いがあるから悟りがある。迷いがなければ悟りはない。迷いも悟りもない無=涅槃。ビックバンによってバラバラに別れた前のひとつの状態。自分も他人もない状態。幸福も不幸もない状態。それを涅槃ということかな?』 ヾ(・ε・。)『もし、あなたが涅槃に至ったなら、純然たる意識、純粋な知覚のままで居られる様になったら、何の理由もなく、ただニッコリと笑って日々を過ごす事でしょう。肉体が滅びるその日が来るまで、天地万物に自我の手垢がつく前の、あるがままの美しさを観て、ただそれを楽しむ事でしょう。』 (○゜ε゜○)『無=涅槃でニッコリ笑う。無の状態で喜び悲しみがあるんだろうか?それとも喜びだけが残るのか?ん...待てよ。今現在が迷いの中にいるわけだから、迷いから解放されて、ニッコリ笑うという事かな?』 ヾ(・ε・。)『しかし、涅槃に至るには、様々な要因が複雑に絡み合って出来た「自分」と言う迷いを解きほぐすのは、並大抵の苦労ではありません。止観(サマタ・ヴィパサナ)冥想は悟る為には絶対に必要ですけど、それだけではダメです。一生懸命に絡まった毛糸を観察しても、それだけでは解(ほど)けないのと同じで、何のテーマも持たずに感情や思考を観察しているだけでは、何の進展もありはしません。』 (○゜ε゜○)『う~む...確かに自分がどういう仕組みになっているのか全然分からない。瞑想しているだけでは駄目で、ちゃんと解決したいテーマを持って、取り組まないと駄目だという事だな。』 ヾ(・ε・。)『求道のテーマは、万人に通用する普遍性のあるテーマでなければいけません。つまり、個人的な悩み(私案)ではなく、個人を超えた問題(公案)でなければならないと言う事です。例えば、真の善悪の基準を知りたいとか、心の働きとその正体を解き明かしたいとか、真の愛を実現したいとか、それくらい難解な哲学的テーマでなければ、自我が心中する相手としては、役不足なんです。テーマに対して適切な答えを出すのが大切なのではなくて、大いなるテーマに命懸けで挑み続け、真実を探求し続ける事が大切なんです。』 (○゜ε゜○)『自我が心中するテーマが必要。自我では解決できない問題を解決しようとする時に、自我を乗り越える事が出来るという事だろうか。』 ヾ(・ε・。)『心底から真実を必要としていない者の身には、決して悟りは起き得ません。単なる知的好奇心や、悟りの境地への憧れでは、求道の動機としては不純過ぎます。もっと観察によってテーマを掘り下げ、より深い所にある本心に近づき、複雑に絡み合った迷妄を一つ一つ丁寧に解きほぐして、己の心を純化していかなければなりません。』 (○゜ε゜○)『なるほど。本当に悩み苦しみ、心の底から真実を求めた時に悟りは起こると。まだまだ真実を求める気持ちが弱いのかもしれないな。日々、自分や周りを観察してひとつひとつ迷いを解決し、心を純化していくと。』 ヾ(・ε・。)『しかし、本当に心が純化され、自己の本心や、物事の本質に近づいていくと、必ず相反する考え方の板挟みを経験する羽目になります。この宇宙が相反する二つの要素によって成り立つ以上、最終的に哲学的思考が辿り着くのは、何と「矛盾」なんですよ。でも、哲学的思考では矛盾を超越する事は出来ません。何故なら、思考それ自体が二元論で成り立っているからです。』 (○゜ε゜○)『宇宙は相反する二つの要素によって成り立つ。相対性という事だろうか?幸福を体験する為には不幸が必要である。宇宙が全て幸福ならば幸福はないのと同じである。という事かな。哲学的思考が辿り着くのは、矛盾である。う~む...これは分からん。思考それ自体が二元論で成り立っている。愛と不安。う~ん...むずい。』 お礼のコメント欄は、2000文字が限界のようなので、残りは補足という所に書ければ書いておきます。 お時間のある時に、覗いてみて頂けると助かります。

noname#164825
質問者

補足

ヾ(・ε・。)『表があれば裏があり、光があれば闇もある。善があれば悪もあり、迷いがあれば悟りもある。これに心底から納得する事が出来るなら、そこで求道はおしまいです。実際ここが人智の限界なので、これ以上の知を望んだ所で仕方ありません。でも、観察が進んでいる人は、結局これでは何も解決しないという事に気づいてしまいます。我々人類は矛盾の狭間で、終わらない苦痛の中で、永遠の生を彷徨しているという残酷な事実に気づいてしまうんです。』 (○゜ε゜○)『表があれば裏があり、光があれば闇もある。善があれば悪もあり、迷いがあれば悟りもある。これは相対性の事ですかね。表が表である知る為に裏がある。光が光であると知る為に闇がある。善が善であると知る為に悪がある。悟りが悟りであると知る為に迷いがある。こういう事かな。我々人類は矛盾の狭間で、終わらない苦痛の中で、永遠の生を彷徨しているという残酷な事実に気づいてしまうんです。なんですと~!! _| ̄|○ 』 ヾ(・ε・。)『求道者の実像は、身の程知らずの聖なるバカヤロウです。我が身を顧みず、より多くの幸福の為に動こうとする、サービス精神過剰の度を超えたお人好しです。でも、これは求道者には絶対に必要な資質でもあります。何故なら、自分の都合だけを考えている様な俗物は、万人に通用する普遍性のあるテーマなんぞに興味を持ったりはしませんし、無難に立ち回る事ばかり考えている小利口な人は、容易に答えの出ない問題や、耐え難い大きな苦しみには近づこうとしませんから。』 (○゜ε゜○)『ふむふむ。やはり欲望には限りがない。刺激には飽きがつきものである。という事になるから、本当の幸福は欲望や刺激をすべて克服した所にある。という事になるのかしら。』 ヾ(・ε・。)『矛盾が最終意見であるとは認めず、妥協もせず、苦痛を終わらせる為に力尽きるまで真実を渇望し続けた者だけが、何らかの切っ掛けによって、相対的思考を超越した絶対無の境地に到達します。つまり、全ては自我の産物に過ぎなかったと悟り、自我の働きを認識している個別性無き純然たる意識、純粋な知覚に立ち返る事になるという訳です。』 (○゜ε゜○)『全ては自我の産物に過ぎない。善悪は出来事に対し、自我が決めているにすぎない。という事かな。自我の働きを認識している個別性無き純然たる意識、純粋な知覚に立ち返る。やはり自我を克服した無=涅槃が答えだという事ですかね。』 長文、失礼しました。

  • satol2012
  • ベストアンサー率23% (3/13)
回答No.10

哲学も宗教も、脳の思考で理解する場合は、脳の世界から出ることはできません。脳の思考が休むと、神の世界である自然の情緒と人の心が交流します。哲学や宗教は、脳の論理思考に依存しています。だから脳の世界を回るだけです。宇宙の本体は、脳の世界の外にあります。だから逆に、脳の思考を休ませる事が必要です。脳を休ませる方法は、座禅、瞑想、伝統文化の、茶道、雅楽、義太夫節、演歌、民謡、長唄、能、文楽、浮世絵、落語、歌舞伎、和歌、俳句など 、これらを実践すると、脳波がアルファ波になり、脳が休みます。そして情緒が発生します。情緒は、人を癒し、人を育て、社会を調和に導きます。だから今、子供に必要なのは、哲学、宗教、教育ではなく、情緒教育です。伝統文化を必修科目にして、情緒を教えるべきです。日本人のすべてが、西洋の論理思考文化に染まり、情緒を理解出来なくなっています。伝統文化で、情緒に目覚めましょう。脳の論理思考の時代は、終わりました。新しい時代は、情緒の心の時代です。日本の情緒文化が人類を導きます。

noname#164825
質問者

お礼

(○゜ε゜○)『satol2012さん、丁寧な回答ありがとうございます。』 ヾ(・ε・。)『脳の思考が休むと、神の世界である自然の情緒と人の心が交流する。哲学や宗教は、脳の論理思考に依存してる。だから脳の世界を回るだけ。宇宙の本体は、脳の世界の外にある。』 (○゜ε゜○)『なるほど。これだけ沢山の表現方法があるって事は、悟りというのは、頭では理解出来ず、言葉では説明が出来ないっていう事なんですよね。きっと。脳の思考を休ませる。う~ん...考え事をやめ、気づきやすい状態を作るという事なんでしょうか?』 ヾ(・ε・。)『脳を休ませる方法は、座禅、瞑想、伝統文化の、茶道、雅楽、義太夫節、演歌、民謡、長唄、能、文楽、浮世絵、落語、歌舞伎、和歌、俳句など』 (○゜ε゜○)『ふむふむ。ゆったりと集中する動作をすると、脳を休ませる事が出来るって事ですかね。』 ヾ(・ε・。)『これらを実践すると、脳波がアルファ波になり、脳が休む。そして情緒が発生。情緒は、人を癒し、人を育て、社会を調和に導く。』 (○゜ε゜○)『う~む...情緒というのは、しみじみと周りを慈しむ、みたいなニュアンスなのかな。』 ヾ(・ε・。)『子供に必要なのは、哲学、宗教、教育ではなく、情緒教育。日本人が、西洋の論理思考文化に染まり、情緒を理解出来なくなってる。脳の論理思考の時代は、終わり。新しい時代は、情緒の心の時代。』 (○゜ε゜○)『うんうん。確かに、しみじみと周りを慈しむ時代になったら素晴らしい。情緒の意味を勘違いしてたら、すみません。丁寧な回答、本当にありがとうございます。』

noname#150036
noname#150036
回答No.9

ボクは 悟りが実在すると思います。 お釈迦様は カピラの国では王族でした。 城を捨ててからも 王族であることに変わりありません でした。 自分が尊い人なのだ という満足があればこそ 悟りを 得られたのだと思います。 多くの人が悟りを求めながら 悟りを得られないのは 何故か?  それは自我を滅するという言葉を聞いてしまったせいで 滅することに囚われて 自分を卑下しているからでは ないだろうか。 ここで思い出してほしい。お釈迦様は自分が尊いことを 自覚していたことを。そして自分を愛し 優越感に浸り 満足していたことを。それが 唯我独尊 なのだから。 唯我独尊 こそ 悟りの第一歩なのだと思います。 そうすると 悟りへの進み方は以下のようになります。 1.私は尊く気高い幸福な人間なのだから 山に籠っても   幸せである。 2.私は尊く気高い幸福な人間なのだから 貧しくても   幸せである。 3.私は尊く気高い幸福な人間なのだから 人から何と言   われようと幸せである。 4.空腹を感じてきたが 私は尊く気高い幸福な人間なの   に何故 空腹を感じるのだろうか。 5.人の感覚は移ろい往くのだろうか。山はどうだ。川は。 6.外が移ろい往くから 自分も移ろい往くのだろうか。   しかし私が尊いことに変わりはないのだから 移ろい   往く事もまた善しとしよう。 7.今の瞬間は存在するのだろうか。すぐに未来が来て消え   てしまうから存在しないではないか。しかしその未来も   また 今の瞬間なのだから存在するではないか。 8.過去は消え去り 未来が来ても それが今になるのなら   結局は今しかないではないか。 こんな感じで延々とやっていけば 自分が知り得ることと 知り得ないけれども受け入れられることが区別できる様に なります。その分別が 悟りではないでしょうか。

noname#164825
質問者

お礼

(○゜ε゜○)『GA_CK_UNさん、丁寧な回答ありがとうございます。』 ヾ(・ε・。)『お釈迦様は、自分が尊い人だ、という満足があればこそ、悟りを得られた。多くの人が、悟りを得られないのは、自我を滅することに囚われ、自分を卑下しているから。お釈迦様は自分が尊いことを自覚していた。自分を愛し、優越感に浸り、満足していた。』 (○゜ε゜○)『ふむふむ。なるほど。我々は自分の事をそこまで価値のある人間だとは思っていないのかもしれませんね。』 ヾ(・ε・。)『唯我独尊こそ、悟りの第一歩なのだと思います。』 (○゜ε゜○)『唯我独尊。よく聞く言葉ですよね。』 1.私は尊く気高い幸福な人間なのだから、山に籠っても、幸せである。 2.私は尊く気高い幸福な人間なのだから、貧しくても、幸せである。 3.私は尊く気高い幸福な人間なのだから、人から何と言われようと、幸せである。 4.空腹を感じてきたが、私は尊く気高い幸福な人間なのに何故、空腹を感じるのだろうか。 5.人の感覚は移ろい往くのだろうか。山はどうだ。川は。 6.外が移ろい往くから、自分も移ろい往くのだろうか。しかし私が尊いことに変わりはないのだから、移ろい往く事もまた善しとしよう。 7.今の瞬間は存在するのだろうか。すぐに未来が来て消えてしまうから存在しないではないか。しかしその未来も、また今の瞬間なのだから存在するではないか。 8.過去は消え去り、未来が来ても、それが今になるのなら、結局は今しかないではないか。 (○゜ε゜○)『おぉ~!!これが唯我独尊ですか!!やっぱりお釈迦様は凄い事を言うなぁ~。僕なりの解釈ですと、1~4は、山に籠っても、貧しくても、人から何と言われようと、空腹でも、幸せであれって事かな。5と6は、人の感覚も山も川も、外も自分も移ろい往く。全ては無常だから気にするなという事だろうか。7と8は、過去も未来も自分の中の想像でしかない。過去の後悔に悔やまず、未来を不安に思わず、今をしっかりと生きなさい。という事ですかね。あっているのかしら?』 ヾ(・ε・。)『こんな感じで延々とやっていけば、自分が知り得ることと、知り得ないけれども受け入れられることが区別できる様になります。その分別が 悟りではないでしょうか。』 (○゜ε゜○)『なるほど。コツコツと努力していけという事ですね。了解しました。ありがとうございます。』

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    よく瞑想とか色々な方法で思考停止などがありますが、 これはあることを集中的に考えて他のことを考えないようにしたりだとかそういった方法であるけれど、結局は考えてることなので、ほんとになにも考えないようにしたら出来て10秒くらいでなにか不意に考えてしまうのですがこれは普通のことなのでしょうか。 やはり思考停止というのは脳がある限り無理だということでしょうか。 変な話もしできたら、思考停止するのをやめようなどといった発想も考えれないため出来なくてずっと思考停止状態になるのでありえないし、そんなことなりたくないので出来たくないのですが。 わかりにくい質問ですいません。

  • 要約できなくて困っています。

    TED(https://www.ted.com/talks?language=ja)にある「All it takes is 10 mindful minutes(必要なのは10分間の瞑想だけ)」というスピーチの内容の日本語訳です。 この文章を6、7文程度に要約したいのですが、うまくまとめることができなくて困っています。 この文章で大事な部分はどこですか? また、実際に要約するとどのような文章になりますか? できれば、要約した文章も知りたいです。 よろしくお願いします。 私たちは信じられないほど忙しい世界に生きています。そのペースはしばしば狂乱的で心は常に忙しいです。そして常に何かしています。 このことを頭において少しの間考えてみてください。皆さんが何もしなかったのはいつが最後ですか?10分間平静だったのはいつでしょう?ここで言う何もしないとは、メール、メッセージ、インターネットはせず、テレビ、おしゃべり、食事、読書もせず、過去を振り返ったり、将来も見据えず、本当に何もしないことを意味します。ただ何もしないんです。皆さん、呆れた顔をしていますね。ずいぶん昔ではないですか。 こんなのおかしいですよね?こんな心持ちでいいんでしょうか。心というものは、最も価値のあるかけがえの無い財産であり、人生の一瞬一瞬は心を通じて経験するんです。個人としての幸せ、満足感、感情状態も心によって決まります。それと同時に心は、人間関係における親切心や思いやりにも影響を与えます。また、私たちが集中したり創造的になったり自発的になるとき、そしてベストを尽くそうとするとき、この心というものを頼りにします。しかし、私たちは自分の心を気遣う時間を設けていません。その代わり、車やファッションには、たくさんの時間を使うんです。だいたいの人がこんな感じでしょう。 その結果として当然ストレスが溜まります。心は洗濯機のように勢いよく回っており、難しくてややこしい感情の渦に飲まれ、どうやって抜け出すかも分からないんです。悲しいことに、私たちの心は阻害され、もはや現実世界には存在しないんです。自分にとって最も重要なことを見失っています。おかしなことに誰もが憶測で動いており、人生という名のもとただ順応せざるを得ません。これはあるべき姿ではありません。 11歳くらいのとき、瞑想のクラスにはじめて参加しました。信じ難いですが、まさに想像通りの環境でした。脚を組んで床に座る人、お香やハーブティーなんかもあり、菜食主義も徹底していました。母も参加していましたし、私も興味を持ったので一緒に続けました。同じ時期にカンフー映画も見ていて、密かに空の飛び方を学ぼうとしていました。とても幼かったのですね。今の私がそこにいれば、きっと皆さんのように瞑想を単なる心の鎮痛剤だと思うでしょう。ストレスを感じると瞑想を行います。瞑想が何かしらの予防になるとは20歳になるまで思いもしませんでした。その頃、私の人生の中でたくさんの出来事が度々起こり、人生を当にひっくり返すほど深刻だったのです。私の頭の中は思考と難しい感情であふれ、対処する術も分かりませんでした。1つを対処しても別の問題が浮上するんです。とてもストレスを感じた時期でした。 私たちは皆、それぞれの方法でストレスに対処すると思います。仕事に没頭する人もいるでしょう。すばらしい気の紛らわし方です。友達や家族と話し支えを求める人もいます。薬の処方を求める人もいます。私の場合は僧侶になりました。大学を辞めて、ヒマラヤへ向かいました。僧侶となって、瞑想の勉強を始めたんです。 何を学んだのか、とよく聞かれます。言うまでもなく物事を見る目が変わりました。禁欲主義の僧侶になることでたくさんの事が変わったんです。それだけではありません。今この瞬間を尊ぶこと、そして理解することを学ぶことができました。思考に明け暮れず、気を紛らわさず、困難な感情に圧倒されず、今ここにどんな状態でいるか、どのように意識するか、どのように存在するかを学んでいました。 今この瞬間というのは、過小評価され過ぎています。言葉は平凡ですが、今という普通とは程遠い瞬間をほとんど意識していないんです。ハーバード大学の発表によると、私たちの心は平均して47%の時間も途方に暮れています。47%ですよ。このように、心が彷徨い続けていると不幸の直接的な原因ともなります。私たちの寿命は、そんなに長くないのに、人生の半分を途方に暮れて過ごし、その結果、不幸な人生を終えます。悲劇と呼ぶべきかは疑問です。特に今回の場合、対処方法があり、思慮深く、気紛れもしない、健康的な心をもてるからです 思慮深く 気紛れもしない 健康的な心をもてるからです この方法は、明確かつ実用性もあり、実現可能であると科学的に証明された、テクニックなんです。このテクニックの素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただ、コツを覚える必要があります。練習が必要で、意識する方法を学ぶためのフレームワークも必要です。これが瞑想というもので、今この瞬間を理解するのに役立ちます。また、今という瞬間から最良を得るためのアプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこのためにあるんです。何故なら多くの人々が瞑想は思考を止めることだとか、感情を捨てたり、心を抑制することだと思っているようですが、実際には全然違います。瞑想とは一歩下がって、思考をはっきり理解することであり、揺らめく思考や感情を分別することなく、リラックスしたまま集中した心で観察することなんです。 例えばもし私が今、ボールだけに集中し過ぎると、こうやって話すこともできません。同様に話すことだけに気を緩めすぎれば、ボールは落っこちてしまいます。人生においても、瞑想においても、過度に集中することがあり、人生は窮屈になっていきます。ストレスがここまでくると、人生はとても苦しいものになります。一方、息抜きをし過ぎた場合でも、こんな感じになっていきます。もちろん、瞑想中に眠りに落ちることもあります。必要なのはバランスの取れた集中的なくつろぎであり、これを実現出来れば、日々のいざこざから思考を開放できるんです。 私たちは普通、意識の仕方を学び始めると、思考によって気が散ってしまいます。例えば、不安があるとします。全てが順調な中で不安なことを思い浮かべます。「そういえばあれを心配していたっけ。」 するとその考えに執着し、「本当に心配でたまらない。不安だらけだ。」 となります。それに気づくまでは、私たちは不安を感じることに不安なんです。おかしな話ですが、毎日のようによくあります。自分の歯がグラグラしたときを考えてみてください。グラグラした歯に気づいてからその痛みに気づきませんでしたか?では30秒毎に何をしますか?痛みますね。そして痛い痛いと自信に語りかけるんです。これを毎回やるんです。心の観察方法を学ぶだけで、このような心の負のサイクルを取り除くことができます。落ち着いて心を観察すると、色んな心の状態が分かります。常にゆとりのない心に気づくかもしれません。何もせずじっとしているのに、興奮を感じたとしても驚かないでください。鈍くて退屈な心に気づくかもしれません。起きて、仕事に行き、食べて 、寝て、また起きて・・と、まるで機械のようだと感じるかもしれません。もしくは、1つの小さなことを考えすぎた結果、心の周りをぐるぐると巡り回っているのかもしれません。何にしても、瞑想によって一歩後ろに下がって、新たな視点で物事を見ることができ、外見とは必ずしも一致しない面を見る機会を得られます。私たちには、物事1つ1つを変えることはできません。しかし、得られる経験は変えられます。これが思慮に富んだ瞑想の可能性なんです。別にお香をたく必要はありませんし、床の上に座る必要もないです。必要なことは1日10分間 一歩身を引いて、今この瞬間を理解するだけです。そうすれば、人生においてすばらしい集中力、平静さ、そして、明晰さを感じ取ることができます。

  • どんな仏様におすがりすればよいでしょう

    私はできることなら悟りの境地を目指しています。ですがまず今は自分が穏やかに暮らすことが最優先です。私はイライラしウジウジやすい人間ですが「自力」で自分のイライラウジウジしやすいものを遠ざけたり、自分ができるだけ穏やかな環境に身をおける環境を居ようという「自力」の努力はできます。しかし肝心な私自身の幼少期からのイライラしやすい性格や人間関係が苦手なことなどは自力では治すことのできない、持病のようなものなのです。そこで私は自分の努力で回避可能なところで自分の努力を使い、自分の努力におよばないところは仏様の加護にすがり「他力」にあやかりたいと思っております。私にお力を貸してくださり、私に努力が必要ならば努力の方法に出会わせれくれるように導いて指針となってくださる仏様を教えていただきたいです。自力でできるところは自力でやり、自分の力ではおよばないところを一緒に寄り添って力を貸して下さる、そんな仏様を信仰したいです(母の勧めで仏壇を置こうか迷っている)。南無阿弥陀仏の阿弥陀さま、人を悟りに導いてくださる釈迦さま、日蓮の南無妙法蓮華経など、誰でも構いません。どうか無力な私にお知恵をお貸しくださいませ、よろしくお願いいたします。お忙しいところありがとうございました。

  • 告白をすることは‥‥

    好きな人への告白は、その相手も自分に対して恋愛感情を持っている、という確信がない限りするべきではない、と聞きました。 人により考え方は様々なのでしょうが、皆さんの体験談などを含めた意見をお聞かせ頂ければ嬉しいです。

  • 理知的なる思考者と感情的思考者の嫌悪感

    物事の考え方における、理知的傾向があるひと、感情的傾向がある人、様々であり、思考対象によって個人の中でもうつろうものだと思います。 例を挙げるとあまりに限定的になってしまうので、総論としておきますが、ある議論について、かなり理知的な思考を持った人と、感情的思考を持った人が、それぞれの存在に抱く感情とはどういうものでしょうか?理知的というのは、自分で掘り下げるという作業を必要としますから、かなり率直な、自分の言葉が多分に入った意見です。感情的な方は、もちろん率直な心からの意見もあるのですが、えてして世俗に惑わされるというか、大衆迎合的な面もあるようで、そのときは、かなり自分の率直なところから出ているのか怪しいが、本人にもなかなか自覚されにくいという厄介な面があるようです。言い方を変えると、世間でもてはやされている多数派的な意見というのは、多分に感情的傾向があるということです。 私は、特に、この感情的思考のなかの後者(世俗に毒されている、影響されている)という傾向がある(気がする)思考を、ここで読んだり、そこここで見聞すると、非常にいやな感覚を覚えます。「自分出してる?考えてる?奇麗事ばっかりヒステリックに言ってない?ちゃんと人の気持ちを考えてる?」というような疑問を感ずることが多いからです。前者の真心がある感情的思考は、これは純粋で打たれるものがあります。 疑問なのは、感情的思考者(特にある状況設定で後者の傾向に思考が傾いている人)が、理知的思考者のいうことを聞くと、どういう感覚を持つのかということです。 それから真心の方の感情思考に対してもどうなのか、これも疑問です。 どんなものなのでしょうか?