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学問の主観的な発展の価値

moto_koukouseiの回答

回答No.10

(1)営業トークの様な詭弁でも、法律に抵触せず雄弁に機能しさえすれば市民権を得るのでしょうか? ⇒詭弁とは、(イ)「ロジックが不完全であることを知っていながら、相手がそれに気付かないことを想定して、自分の意図を達成させるために論じる過程」、(ロ)「その期待する意図と自覚している不完全なロジックの組み合わせ」ことです。 営業トークに限らず、医療や介護、教育、指導、討論会などのあらゆる場面で使用される手法です。 法律は詭弁を使用することを禁じてはいません。 詐欺罪は、人を欺いて財物を交付させたり、財産上不法の利益を得たりする行為、または他人にこれを得させる行為を内容とする犯罪のことで、目的が不当利得でなければ他人を欺く論理を意図的に使用しても罰せられることはありません。 マスコミを通じて伝えられる解説は、論理でみれば誤謬の塊と言っても過言ではありません。 解説者やマスコミの報道者編集者が論理的には誤謬であることを知ってやっているとは断言できませんが、知っているが詳しく論理的に説明することは適切ではないと確信して解説報道しているのであれば、明らかに詭弁です。 政治の分野などにおいて、論理的誤謬や詭弁を使用することを禁じられたら、なにも論じることが出来なくなります。 市民権は国家内の市民たる資格に基づいて認められる権利のことで、このテーマとはほとんど関係がありません。   (2)哲学は詭弁を披露するものではなくて、実践に用いるものです。 ⇒「哲学は詭弁を披露するものではない」ということは一般的に言い得ても、相手の論理構成が不完全であることを自覚させるために、相手の論理を使用して納得しがたい結論を提示することもあるので、「哲学は詭弁を披露するものではない」とは言い切れません。 「哲学とは」を、「問題の発見や明確化、諸概念の明晰化、命題の関係の整理といった、概念的思考を通じて多様な主題について検討し研究する、学問の一分野」のように考えるのであれば、概念思考を駆使して問題の明確化を謀る過程は「学問の一分野」になるでしょう。 「哲学は実践に用いるもの」と考える人がいてもいいですが、それは「数学は実用に使えるもの」と考えるのと同様で、はなはだ狭量な考えだと私は思います。 数学について言えば、数学への内的な興味のために研究がなされ、いかに本質的な概念なり定理なりを得ていかに体系的な数学を構築する、数学的対象を記述するのに適した概念や空間を定義したり、数学的事象をうまく表現した定理を得たりすることに精力を注ぐのが数学らしいと思っています。 哲学でも、基本的に同じで、学問である以上、実用や実践からは遠い思考検討が中心になっても当然であると私は思います。 学問を実用と実践に縛り付け、概念的思考専一に耽ることを拒絶するようなことをしては発展はありません。 そのようなことをするのは、実社会の現実にのみ縛り、社会の変化にも追いつかない状態をもたらす危険を内包させることになります。工学だけでなく理学がある、理論的研究を応用とは切り離してやる学問を否定することになります。   (3)学問の主観的な発展の価値は ⇒学問は、知識の体系を持っているのが普通です。体系は、思考や論理、概念です。 主観と客観をどのようにお考えなのかわかりませんが、体系化する、論理的整合性を求める、合理的に説明理解できるようにするには、事実や事実の観測をただ集積してもだめで、合理化する、体系に組み込む、理屈をつける、説明する、体系を作るなどの主体的意図があって初めて可能になります。 学問の発展にとって学問を志すものの主観はもっとも重要なものと考えます。   (4)押し付けがましく ⇒「押し付けがましく」 辞書には「おしつけがま・し=自分の考え方・感じ方などを、相手に当然のことのように受け入れさせようとする。「―・い親切」」とあります。 主張というのは「相手に当然のことのように受け入れさせようとする」努力の一部です。 テクニックには、高圧的、威圧的、権威的、暴力的、利益誘導的、親切ごかし、親和的、援助的、同情的、恐怖や不安を避ける気持ちを利用する、一見論理的、常識や世間の動勢を説くなど色々の手があります。 それを無意識にやる人もいれば、意識的に方法を換えて駆使する人もいます。  辞書とは違いますが、「押しつけがましい」には、相手側の受け止め方の問題があることがあります。説得やアドバイス、主張を聞く側が「感情的に強制された、強制されようとしている」と感じたかどうかにポイントをおく視点です。 内容や方向性や論理性、手法の問題ではなくて、受取側の感性の問題です。 援助的、同情的方法を温和にとられた場合でも、共感的手法をとられた場合でも、アプローチがあったというだけでも「押しつけがましい」と感じる人はいます。もちろん、そういう人はロジックに誤謬があるのか/ロジックは完璧かは問題にしていません。詭弁か否かも関係がありません。 押しつけがましいと相手が感じると、主張したことが受け入れられない可能性が高まります。(押しつけがましいと感じても、主張が受け入れられることも多いです)  押しつけがましさを感じられないようにすることをどの程度考慮するのかは、簡単には決められません。 もともと他人に影響を与えようとしているのですから、最終的な目的の達成と、相手の状況、問題・目的の切迫性などの兼ね合いで手段は選ぶのが合理的でしょう。 (5)押し付けがましく意図的に詭弁を弄しても構わないのでしょうか。 ⇒一概には言えませんが、現実的には、よくあることと思います。 「人を見て法を説け」ということは現実社会では重要なことです。宗教や教育、仕事の指示だけのことではありません。 意図的に詭弁を弄するのがもっとも効率的であるのが普通だと思います。 ただ意図的に詭弁を弄する能力を発揮できるのは希かもしれません。 論を展開する側に余裕がない場合には、詭弁という認識もなく自分の思い込みを展開しているだけのことも多いです。 また、相手の知識が格段に不足しているとか、思考力が低レベルにあると観じた場合には、相手に合わせた論理で済ませるのは普通です。その時には、話者は、詭弁で語るという意識は持っていないのが普通です。 話者は、自分が展開し述べている論理が誤謬で満ちている(そこを突かれた場合には分かっていると答えるでしょうが)ことを自覚していないのが普通です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E8%AC%AC よほど余裕がある人ならば、自分が意図的に詭弁を弄していると自覚しているでしょうが、目的は必要な影響力を他人に与えることでしょうから、それを止めようとはしないでしょう。 「詭弁を使ってかまわないのでしょうか」と尋ねたら、「本当のことを言って何が良くなるのか。あなたは何を大事なことだと考えているのか」と逆に質問されるでしょう。 学問の世界でも同じです。実用を離れて純理論を追求する哲学の学問研究の場合でも、自分の追求してきた理論と厳密さで全くの初学者に語ることは、「語る目的」に合わないと考えれば、相手のレベルで「詭弁を使うこと」も、「そうだねと受容すること」も、「そこは研究の価値があるねと励ますようなことを言うこと」もあるでしょう。

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