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哲学は怖い学問ですか?

私は高校生の頃に倫理を勉強してからというもの、哲学や宗教に大変興味を持っています。現在24歳・男です。 たまにこちらで哲学的思考にとらわれてしまい、常に悩み苦しんでしまっている方の書き込みを目にします。 哲学を深めれば深めるほど、哲学無しには生きていけなくなってしまうのでしょうか? 私は哲学を"個の宗教的価値観"として捉えているので、他者に押し付けたりしませんし(押し付けた時点でその哲学は宗教へと変化してしまう)、他者の哲学をまるまる信じてしまうこともしません。 しかしやはりニュースなどを見ると、哲学的な観点で見ることが多いです。例えば、殺人事件のニュースを見たときに『加害者はどういう生き方を送り、どういった価値観を持って人を殺してしまったのだろうか』とか、『もし、この○○が××だったならばどうなっていただろうか』などなど、真剣に背景の推測をすることが多々あります。 倫理の資料集などで様々な宗教や哲学者について簡単に学んできましたし、それらが自分の生き方に大なり小なり影響を与えてくれたのも確かなので、哲学的思考は捨てたくありません。・・・もう癖になっているので捨てられるわけもないのですが・・・^^; もしかしたら私の"哲学"という言葉の使い方は間違っているかもしれませんが、哲学の専門家の方がいらっしゃいましたら回答していただけると助かります◎ よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • code1134
  • ベストアンサー率20% (703/3370)
回答No.4

先ずhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6を挙げて置きますが、熟読済みの場合は無視して下さい。 さて、哲学が"知を愛する"事を源にしているのは良く知られている点ですが、質問者さんは「何を知りたいか?」との哲学の対象を死生(or死生観)に絞り過ぎているが故に、怖くなり易いのではないですか? 私も上手く比喩出来ていないのですが、「質問者さんが仮にドライブを趣味としている場合、(飲酒運転していないのに!!)曲りくねった山道で事故を起しそうになったからと言って、ドライブ迄止める」なら楽しみの1つと無縁でその後の人生が推移する訳で、それでは余りにも味気ない気が私個人としてはするのです。 ですから(山道から海岸線沿いへドライブの目的地を変更する様に)哲学に興味を持ちつつも深め続ける対象を"死生観以外の何か?"に切替えてしまうのが方策の1つに成り得る思うのです。 又、"対象は死生(or死生観)しかない!"場合でも「他人の死は時として不謹慎ながら、それ以外の人間の利と化す場合も在り得る」と切口を変えて深め続けたらどうでしょうか? 私は現実的な?性格の故でしょうけどhttp://oshiete1.goo.ne.jp/qa1456099.htmlのNO10の回答で、上記の点を絡めつつカキコんだ積りですが、この様な切口から死生を捉える変人もいるんだ?と思って(否呆れて?)下さっても構いません。(苦笑) 最後に>"哲学無しには生きていけなくなってしまう"云々と質問者さんは例示されていますが、「本来はそうであるべきなのに、(2007年1/21)現時点で、真逆の醜態をさらけ出している例に現内閣の面々が含まれる」点を強調して置きたいのです。 もし、質問者さんが将来政治家を志望されるなら、死生(or死生観)から対象を鞍替えさせるにせよ、哲学的思考を捨てたくない云々との姿勢が役立つ可能性が高い私見をカキコんで、回答を閉じます。 拙い内容にて失礼致しました。

orayama
質問者

お礼

現時点では、哲学に恐怖を感じることは少ないです^^今は恐怖を感じることに不安を抱いて、思考にブレーキをかけている節があります。 何を知りたいのか、についてですが"全ての物事の変わらない真理"をしりたいです。果たして真理とは何をさすのか、どこにあるのか、というのすら現時点では全くわかっていません^^; 私は、現実こそまさに哲学、として考えているので(安直な考え方かも^^;)code1134さんの意見には賛成、というか真理へのヒントが見え隠れしている気がするので好きです(好き、という表現もいかがなものか^^;) そうですねー、政治家には哲学を必修して欲しいですね。政治哲学ではなく、哲学を。政治家・・・なれたらなりたいです(笑)なによりまず死生観からの脱却を目指したいです、その点でも非常に参考になるご意見でした^^ 最後になりましたが、参考URLありがとうございます◎ 回答も大変参考になりました☆ありがとうございました^^

その他の回答 (5)

回答No.6

>哲学を深めれば深めるほど、哲学無しには生きていけなくなってしまうのでしょうか? 人によっては、出口なしの終わりなき思考にはまる可能性もありますね(金のかからない趣味?でも、金にはならない?)、おっしゃるようにある意味怖いかな…。しかし、物事を深く見るかどうかの違いではないでしょうか。皆さんが回答しているように、物事の根本や真理を論理的、客観的に追及する思考活動が、哲学とすれば、物の見方においても役に立つでしょう。しかし、実証可能性がない部分があるため、そこは科学と一線を画しています。そもそも人間の論理的思考や真理等なる言葉・概念等すべてが相対的に捉えられるものなのです。哲学史をみれば、科学を含め様々な学問が、かつて哲学の一部であった、そしてそこから独立した。となると哲学の定義はぼけてきますね。人間の思考活動そのものが、哲学ともいえるので、日常的に自然に誰しも哲学しているんではないでしょうか。

orayama
質問者

お礼

>実証可能性がない部分があるため、そこは科学と一線を画しています。 全く同感です^^;実証可能でないがゆえに、悩み続けてしまうことがありえるんですよね・・・。私が私であるせいで、少なからず主観的な考え方をしてしまう。果たして100%の客観的観察は可能なのか?などなど・・・悩み始めたらキリがありません^^; >人間の思考活動そのものが、哲学ともいえる そうですね、恋愛なども一種の哲学かもしれません。現代社会では、実益を産む様々な専門分野の哲学が"科学"として哲学を卒業していったのかなぁ、とも思いました。 ~~~回答していただいた皆様へ~~~ まず、お礼が遅くなってしまった方、申し訳ありませんでした。 私自身が予想していたよりはるかにたくさんの収穫を得ることができました。ありがとうございました◎まだまだ、哲学的態度には至っておりませんが、悩んだときはここを利用して少しずつ哲学を深めていきたいと思います^^またお会いすることがありましたら、よろしくお願いいたします◎

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.5

歳が近くて、哲学に興味を持ってるけど専門的に学んでる訳では無い男です。 ついつい、親近感が湧いて(迷惑ですね・汗)回答したくなっちゃいました(笑) 哲学(あるいは哲学史)を学ぶというのは、その思考の仕方や物事の観察の仕方を得るために、とても役に立つモノだと思っています。 例えば、TV等のメディアは時間的・空間的(紙面のスペース等)な制限や、時には社会的・権力的制限を受けるモノです。 それを情報源とする場合が多いのが現代ですが、無批判にその情報を信じるのは危険すぎますよね(最近も、関西テレビの番組ねつ造が物議を醸し出してますし)。 そんな時に、「嘘と真」を見つけ出すのに哲学的思考は役に立つと思います。 そして、哲学を学ぶというのはその哲学的思考の訓練には最適なわけです。 しかし、「哲学は怖い学問ですか?」との問いには、ある面で「yes」だと思います。 というのは、このサイトでも時々質問されているのを目にするのですが、「哲学と思想」はスレスレだからです。 そして、「思想」はある意味で「人を縛るもの」だと思えるからです。 例えば、「民主主義」は「横暴な独裁者を生まないため」に考え出された「政治哲学」から発しています。 しかし、その「民主主義」が「独裁者」を生んだ例(ex.古代アテネのペリクレス)は沢山あり、また現在進行形で起こっています( ex.ベネズエラのチャベス大統領)。 「ある人」に言わせれば、これらの例は「民主主義」では無いと言うかもしれません。 そして、本当の「民主主義」を浸透させるべきだと主張するでしょう。 本当は「民主主義」の欠点なのに、「違う」と言う、、、。 これはもはや、「政治哲学」ではなくて「政治思想」だと個人的には思います。 つまり、「哲学」であったはずが「思想」に変ってしまい、その先には「思考停止」が待っていると思います。 そして、案外「哲学者」と名の付く人に多い現象のような気がします。 「難しいこと」を考えすぎて、「その回答」と思われるモノをみつけたときに嬉しすぎて「哲学的思考」が「停止」してしまうと考えるのは邪推でしょうかね。 まぁ、気を付けないと「頭でっかちな論理」に陥ってその時点で「思考停止」してしまう場合があると、、、。 「哲学をしてきた」という自信が背景にある分、「無知故の思考停止」より怖いなと思います。 >私は哲学を"個の宗教的価値観"として捉えているので 「宗教と哲学」も、その線引きが難しい問題ですよね。 西洋の哲学は、古代ギリシア・ローマを除くとすべて「キリスト教の思想」に影響を受けていますしね。 中国の「儒学」なんかも、宗教的ですし。 >他者に押し付けたりしませんし(押し付けた時点でその哲学は宗教へと変化してしまう)、他者の哲学をまるまる信じてしまうこともしません。 この姿勢には、私も賛同します。 宗教は押しつけか、と問われると無批判に「yes」とは言いかねますが、そういった面もあるのは事実でしょうね。 すくなくとも「思想の押しつけ」はしたくありませんよね。 米国の「民主主義の伝道師」なんか見てると、強く思います。(あれは宗教的ですよね・苦笑) 長々と、拙い文章ですいません。 どうも、纏めるのが下手なようで^^; でも、「哲学的思考」は必要だし人生に役に立つと思うので、お互いこれからも続けていきましょう。 ※私は、「哲学=普遍性・客観性の追求」であり「思想=主観から発したモノ」と定義づけて考えてます。

orayama
質問者

お礼

丁寧な回答感謝いたします◎歳が近いということで、励みになります^^ おっしゃる通り、哲学、宗教、思想・・・どれも素人にとっては線引きが曖昧で、ともすれば呑まれてしまいそうな危険性を孕んでいる気がします。しかし、それらの危険性から身を守るのも哲学的思考かと思います。考えてみれば本末転倒のような・・・ちょっと難しく考えてしまいます^^; 思想は、それそのものが答えであること、それによって思考が停止してしまうこと、これは最も恐るべきことですね。ほとんど宗教です^^;哲学的態度がどれほど難しいものか少しわかった気がします◎ 皆さんの回答を拝見して、自分の考えていた哲学が未だ哲学として成り立っていないことを痛感しました^^;自分の未熟さに気づかせていただき、感謝の念に尽きません◎

回答No.3

先ほどは御投稿いただきまして有難うございます。 まだとっても、お若いかただったんですね! 私は専門家ではないので回答できる器のものではございませんが、ちょっとご挨拶程度に。。。 >哲学を深めれば深めるほど、哲学無しには生きていけなくなってしまうのでしょうか? 逆だ、って仰るかたもいらっしゃいますよ。「哲学しきってしまえば今度は単に観察するだけだ、哲学は必要なくなる」って。つまり哲学とは仮説だってことですかね。 >"個の宗教的価値観" これは哲学の範疇から逸脱しているらしいですね。思想というべきだそうな。 >押し付けた時点でその哲学は宗教へと変化してしまう 難しいですよね、例えば「中庸たれ!」と言ったとして、それも「押し付けだろ」って言われそうだし。 だいたい、それを実行できていない人に言われたら考えかたそのものとして批判する以前に「嘘つけ、ええカッコすんな!」って言いたくなるし。(笑) 「バランス」がとれてるかどうかだって表面的なレベルで判断して済ましてることも多いと思う。 >真剣に背景の推測をする 私も納得が行かないと、これをやってしまいがちなんですが確かに、これやると自分にとってイヤなものに直面せざるを得ないことは多いです。 ですから極力、主観的解釈を避けるよう努めているつもりなんですが…と言って、いわゆる「ポジティブシンキング」?っていうのも自分を守れないようでは、しょうがないと思うし。違うのかな?ノーテンキってことかな? 例えば自分にとって掛け替えのない相手からの要求に応えるのは「愛情の証」つまり結局は自分のためでもありますから、ごく自然な感情でやるわけですけど同時に「勘定」でもあるんですよね。 そして、そういう行動自体、自然なシステムじゃないかとも思うんです。 それで「愛情」からの要求であると信じて何らの疑いも持たず、それこそ「赤ちゃん」のように自然に受け止めていたら実はトンデモナイ勘違いだったりすることも、ままあるわけですから「自然に受け止める」って、どういうことなのか私も首を捻ってます。 本当は「真実」を、ありのままに受け止めるというのは「見抜く」ということじゃないのかと思えてならないんですけど、もちろん自分の「願望」は抜きにして、ということですよ。 「真理」を見抜く、つまり「心理」を見抜くということにも通底してるんじゃないかと感じています。 まあ、その必要に迫られなかったら誰も好き好んでやらないでしょうが。私も元々はやらないほうだったんですが、納得行かないことが多過ぎてね。 ズバリ教えてほしいですよね、お互いに。

orayama
質問者

お礼

いやいや、生意気な回答をしてしまい恥ずかしい限りです^^; 思想・・・確かにそうかもしれません。言うなれば理想、妄想に近い考え方を私はしていると思います^^;長い人生の中で思想を昇華?させていって哲学として確立できていったらと思いますね☆ 中庸、私の好きな考え方の一つです。ある意味"ただ観察する"という哲学に近いものがあるかもしれませんね^^ あまりに的を得た回答だったので、なんと返事したらいいのかわかりません(笑)schneewittchen7さんは私よりもずっと多くのことを考えてらっしゃるようです^^ もう少し成長してから再び意見交換ができたらいいな、と思います◎ やはり私は哲学的な意見交換が大好きなので、悩み苦しもうとも哲学を深めていこうと思います。そして"真理"ならぬ"心理"を見抜けるようになったときに全く新しい価値観に出会えるのではないかと思います^^ 回答ありがとうございました☆

  • spinoza
  • ベストアンサー率31% (7/22)
回答No.2

ほんとに哲学の道を歩むというのは、厳しい道なのだろうと思います。 哲学史に名を残して来た人たちは、生活を律して、それに身を捧げて来ているようです。 哲学は、科学です。科学として見なすことができれば、ある程度楽なような気もします。哲学に縛られるのではなく、哲学を利用することができるようになれるのではないでしょうか。 哲学的な思考は、実際に私は自分の生活においても役に立っています。きちんと考える、というようなレベルにおいてもそう言えます。 ただ、生兵法はけがの元、と言われるように、何事も中途半端では、何も産み出せないかもしれません、厳しい言い方でしたらごめんなさい。

orayama
質問者

お礼

生兵法はけがの元、確かにその通りですね!哲学を科学と捉えることは、今の自分にはまだ難しいみたいです^^;ただ自分の生き方の道知るべになっている点では利用できているのかも・・・^^ さすがに哲学と結婚はしたくないので(笑)、これからも現実の生活を大事にしつつ、哲学についても少しずつ勉強していきたいと思います^^ 大変参考になるご意見でした◎ありがとうございます☆

  • SpotK
  • ベストアンサー率49% (38/77)
回答No.1

普遍性の有無 それに尽きると思いますが

orayama
質問者

お礼

普遍性の有無・・・ですか? 何の普遍性かを具体的に教えて頂ければ助かるのですが・・・ ありがとございました

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