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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人間(現実)が変わる。)

人間が変わる

ok9608の回答

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  • ok9608
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回答No.3

No.2です。また脱線です。お許しを。 (1)勿論、このポストモダンについては 私の観かたです。ゲーデルがいかなる論理も その論理のなかにその論理では証明できない命題があることを証明したのです。とくに公理が証明できない ことは決定的な証明であったと思います。もっとも 後になって厳密に研究しますと 一階の述語論理までということが分かりましたが 通常の述語の範囲は 含まれるのです。この証明は不完全性定理として ホモサピエンスの知の金字塔と思います。当時は 論理的には 如何なる論理も 正しさを 主張できなく 哲学界では 大騒ぎになったと思います。では 論理とは何か ですが 証明できない公理を用いて演繹的に論理的構造体系を構築していくもの となります。しかし 公理が証明できない その構造体系は意味がないかというと 逆に多いに意味があるということが分かってきたのです。大成功なのは数学であります。それ以前からユークリッド幾何学とは別に非ユークリッド幾何学は知られていましたが もっと大きく捉えると 公理が変ればいくらでも 別の数学が生まれる ことを保証したのです。あるいは 論理知の限界をしめした とも言えると思います。公理は定義から始まります。個人個人が夫々 公理を立てると それに応じて論理系が誕生するというわけです。過去の名声を冠した哲学、あるいは数学、あるいは 論理学 のみが正しいという 主張は否定され 10人10色の論理学が成り立つということが保証されたのです。これが狭義のポストモダンと思います。 (2)もっと進めて 論理演算より 重要なことは 公理を打ち立てる ことである として その公理からの演算系が人の役にたつことを証明せよと と言ったのは ヴィトゲンシュタインと思います。各自 仮説をたてその役立つことを証明するのが人生ではないか と。これが広義のポストモダンと思います。 (3)さて フーコーですが ご指摘のように現状の権力が行使される様を 分析していきます。モダンに入ってからは 権力行使側が巧妙な手段をとり 行使される側には不可視な状態で細部にわたり 権力行使がされます。それを フーコーは明らかにしていきます。例えば 重力は不可視ですが 例外なく 全ての質量に作用します。それをニュートンは明らかにした ように フーコーは いたるところに張り巡らされた権力を分析するのです。だが しかし フーコーは このような分析が目的ではないのです。フーコーは 個人個人は独立自由であって お互いに尊敬される ホモサピエン社会構築を目的としているのです。分析手段として ホモサピエンスは社会の細部にわたり 権力を行使する動物である と仮説をたて 仮説を検証します。常に この分析を行うことにより権力構造がいかなるものか 各個人が知るところ となり 今の現実の立場は 独立自由で尊敬されている ところからは かけ離れていることを知るということなのです。ここから 目的を達成する手段を得ようというシナリオを得るのです。たとえば 個人の生活を保証する福祉国家もまた 形が違う(警察強権国家とは違う)権力行使とみるのです。なんであれ権力によって行使されることは 個人個人が自由独立かつ尊敬される ことにはならない とみるわけです。広義のポストモダンを走った人と思います。 ご指摘のように ホモサピエンスは権力をもつもの として フーコーは考えていた と思います。だからこそ 目的達成のためには その分析明示が重要ではないか と考えた のです。 (4)各個人の主張(行動もふくめ)を出しつくしつつ  各個人の自由独立があって かつ尊敬される という意識が生まれれば 前史は終了する という ご指摘は そうだ と思います。だが しかし 過去、現状から そのような多数派が生まれることは 難しい と思います。ご指摘のように フーコーのホモサピエンの業のような権力というモノもあるのです。あるいは 責任の伴う自由は 嫌だという 人もいるのです。 以上 失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 むつかしいようですね。ご回答をありがとうございます。  (1) ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれの所有になるものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。        したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚に祀っておく。  (2) ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみとめ       あっている自生的な性格のものと そして《アース役》を務       めるかたちとなるように一方がそれをよいことだとは思って       いない人為的・人工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性       格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度       として固定させようとして出来たもの。            身分関係。世襲制度。         特には 社会を二階建ての構造として固定する国家におけ       る身分制度としての社会力学的な交通構造。  (3) 階級ということ  (α)主戦論を採るヒトが築く(い)第二次の権力関係は 明らかに階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品として分けられる。  (ω)非戦論を採るヒトが築く同じく(い)第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。  (α)の階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  (4) 世界史的存在としての《ひとりひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじてというよそよそしい形でではありながら すべての人びとをやはり巻き込み一面ではその互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とする。  この資本主義――勤勉とガリ勉から成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいと言い始めたなら) (α)および(ω)にそれぞれもとづく《ホモサピエンス》は その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えると見るのが ふさわしいのかどうか?  (5) 以上のような考えは 問いである。ゆえに答えを求めている。  ★ 論理的構造体系を構築していくもの   ☆ ではなく それを目指してもいず  ★ 各自 〔公理および〕仮説をたてその役立つことを証明するのが人生ではないか  ☆ というふうに《論理的な有意義性》をねらっているものでもありません。  ただただ わたしはこう考えますが あなたはどうですか? と問うているのみです。  ★ フーコーは 個人個人は独立自由であって お互いに尊敬される ホモサピエンス社会構築を目的としているのです。  ☆ ほんとうにはこのような公理や前提を置かずに ただただこのように生きたい・社会をこうしたいと思って考えただけのものです。考えを歴史的にまた多少とも科学的に説明する必要があると思ったので このように長たらしく述べているのみです。  なぜって モダンやポストモダンの議論がしたいからではないゆえにです。でも  ★ だからこそ 目的達成のためには その分析明示が重要ではないか と考えた のです。  ☆ といった手続きは 必要であるようです。  こんなお応えです。

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  • 人間は他人を規制するのが好き?自由は建前?

    就職活動で、学生がアロハシャツを着てたり、ヒゲが生えていたり、茶髪だったら、企業側は内定を出さないよね。 国会で、議員がガムを噛みながら発言してたら、「吐き出せ」って他の議員は注意するよね。 「表現の自由」とか憲法に書いてあるのだけど、コレって、ただの建前なんですかね?だって、「何でもかんでも自由というわけではない」とか、「自由には責任を伴う」とか論破して来るじゃん。誤解を招きかねないから、憲法から表現の自由を削除した方が良くね? 何なんですかね?マウントをとって、「お前より私の方が偉いんだゾ!」って主張したくなるのが、人間の本能なんですかね?結局のところ、自由奔放って感じの人を見ると、目障りで卑しく見えて、「世の中そんなに甘くない」とか「調子に乗るなよ」とか「大人しくしておけ」って言いたくなるのかな? 基本的に人間は、偉くなって、他人を規制で縛るのが好きなんですかね?人は自由が嫌い? 自由奔放な人は、社会に馴染めず、生きて行けないですかね? 言葉では自由だと言いながらも、実際は自由がムカつく訳で、自由を規制で縛るのが社会。本当に自由を望むのならば、無人島に行って一人でやってくれって感じですか?

  • きょうだい別人間ウォチング

    この前ハイヒールさんのTVでやっていました それぞれのタイプを書きますので、皆さんも美奈さんもみーなさんも当てはまるかよく読んでください 1 第一子の場合 「面倒見がいい」「責任感が強い」「真面目」「典型的優等生」「旅行かばんが荷物でパンパン」 2 真ん中っ子 「空気が読める」「揉め事が嫌い」「手がかからない」「本心が分かり難い」「人間関係の達人」「物を等分するのが上手」「観察力が優れている」 3 末っ子 「サービス精神旺盛」「お調子もん」「要領がいい」「負けず嫌い」「自分をアピールしたがる」「口が軽い」 4 ひとりっ子 「自己中」「わがまま」「マイペース」「妙な自信がある」「話にオチがない」「空想が好き」「独自の世界観がある」 だそうです 私は2人きょうだいの末っ子ですが、「負けず嫌い」「口が軽い」は当たっていません 別に負けても良いと思うヘタレなときもあるし、子供がよく「誰にも言わんといてな」っていうヒソヒソ話を第3者に喋ったことは1度たりともありません 今でこそ時効だからここで何かを回答やお礼で書いたかも知れませんが…? あくまでも統計学になりますが、どのぐらい当たっていますか? たくさんの回答お待ちしております、ペコリンm(*μ_μ)m

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性       格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度       として固定させようとして出来たもの。        身分関係。世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度としての       社会力学的な交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて        いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。

  • にんげんの前史から後史へ(!?)

     歴史を展望してみたい。第三弾。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ         の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース       (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は       ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。        人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。        チカラ関係としての社会力学の兆し始め。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。  ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。    階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。  一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。