人間の前史を終えるということ(!?)
- 人間とは競争や奪い合いをする存在であり、それを社会という枠組みで行うことが前提とされている。
- 権力関係には上から下に目を向ける関係と、上から下に目を向けられる関係の2つの型がある。
- 階級制度は社会の二階建て構造として成り立っており、主戦論派と非戦論派の間で回転が行われている。
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にんげんの前史を終えるということ(!?)
§ 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり) § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと めあっている自生的な性格のものと そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人 工的な性格のものとがある。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性 格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度 として固定させようとして出来たもの。 身分関係。世襲制度。 特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階 建ての構造として固定する国家における身分制度としての 社会力学的な交通関係としての構造。 (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて いる社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。 ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。 このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? ご教授ください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちはです。 ☆☆☆ 第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性 格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度 として固定させようとして出来たもの。 身分関係。世襲制度。 ===== 身分関係はとにかく、 第一次の権力関係における《自生的な性格のもの》だけからは『世襲制度』は成立しえないのではないか? 譲り合い社会から自然発生した《まなざし・視点の上下関係》は、原理的には、あくまで個人的・当人的なものであるはずであり、一代かぎりのはずである。 いや、《人工的な性格のもの》ともあるから、世襲制度は成立しうるのか.... さして、重要ではないのですが、 『(その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)』 にも関係するので、すこし重箱の隅つつき!! ~~~~ この理論にしたがうと、日本の神話にある 『天孫降臨』 はどう位置づけられることになるのだろうか? 権力・支配階級、この場合は「天皇家」の支配正統性(正当性?)のため、という《きな臭い》話でなく、 物語としてです。 《アース(接地)役》、あるいは、《一階》と《お二階》を結ぶ回線機器やルータみたいなものですか。 それとも、《一階》内にできた、新たなお二階、《中二階》みたいなものなのですか。 ☆☆☆ § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。 === 《クラス》は《サブクラス》へ、《サブクラス》はまたその《サブクラス》へと、さらに分化してゆくのでは? そして、社会は、あたかも自己発生的のごとくに、あたかも官僚組織のような、細かく細分化された階層的構造を持つのでは? クラス⇔サブクラスの関係は効率的。増え過ぎると、無駄が多くなったり、非効率になるのですけれど。 人ではなく、あたかも、その社会自身が意志を持ったかのように、その社会自身の意志のために、効率化・合目的化のためにそうなってしまうということもあるのでは? それが人間の理性のなせる業なのかどうかは、分かりませんけれども。 プロレタリアート独裁のはずの旧ソ連は、誕生後まもなく、ソ連共産党という強固な官僚組織を作り上げた。 (ω)型はともかくとして、(α)型の人は、被支配⇔支配の構造が心地よいらしく、二階にもすぐに強固な官僚組織のようなものをいくつも作ってしまう。 もっとも、旧ソ連時代の共産党は、(α)型、(ω)型のどちらかは生まれた組織なのかは、意見がわかれると思いますが.... にしても、 (α)型の人は、SM両方の気質を強く持ち合わせる、ほんと~に、複雑な性分のお人たちだ。 ~~~~ ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。 ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。 ==== (ω)型、さりとて、支配されるのを好まない、《ねむりねこ》としてもらっては、 (α)型の人が人間になっていただけるのは、たいへんありがたいことなのですけれども、 今のままの状態で、一階にのこのこ降りてこられても困ります。 大きくパラダイム転換をしていただかないと。 被支配⇔支配、強~いSM具有の性格のままでは、ちょっと。 人間になるのが無理ならば、せめて《飼い猫》くらいはなっていただかないと。 ほら、飼い猫は、猫と人、どちらが《主》か《従》か、わからないでしょう。 ☆☆☆ 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? ==== ここにおける《前史》《後史》の意味がよく分かりません。 これは、 ★(α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? をターニングポイントとして、それ以前を《前史》、それ以後を《後史》と見ているのですか? この見方に立って、話を続けます。 経済システムとしての資本主義が、現在、行き詰まりを見せているのは事実でしょう。 すくなくとも、現行の資本主義のシステムは構造疲労しているように思えます。 見えざる神の手、消費と供給による価格調整作用 こんなものは、とうの昔に破綻しているでしょう。 しかも、誰もが期待する「永遠に続く経済成長」「経済成長の持続可能な社会」など、あるはずがない。 現在の資本主義システムは、大量生産・大量消費が原則。世界人口の増加。なのに、自然資源は有限。環境破壊。加速する地球温暖化。 どう考えても、この先、(物質的に)バラ色の未来が待っているとは、僕には思えない。 「...人類がその潜在能力を全部出し切った」 かどうかは別にして、現在がターニングポイントであることは確かでしょう。 人類として、大きなパラダイム転換が必要な時期に差し掛かっているのでは、と考えています。 東洋の《知足》や日本の《もったいない》という考え方などは、その候補になりうるのでは、と生意気にも思っております。 ☆☆☆ しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。 ==== 権力の正当化のために、権力者や支配者は、《神さま》が必要なんですよ。 で、選挙の時だけ、下々の有権者は神に祭りあげられる。 終わってしまえば、下々のものは再び民草(たみくさ)に逆戻り。 なので、間接民主主義というのは、あらての《王権神授説》なのでは、と思ってみたりしまして。 《民意》《有権者の選択》は、かつての《神の思し召し》や《神の御意志》みたいな、最強のキーワードでしょう。 この呪文を唱えられたら、どんな道理も引っ込み、無理が通ってしまう。 天の《神さま》がいなくなった今の時代、 支配者や権力者にとって、(間接)民主主義は必要じゃないのですか。 一見矛盾しているようだけれど、実は理にかなっているシステムなのではと..... なので、 《このふるいニンゲン》は、意外にしぶとく生き残るのではないですか。 少なくとも、下々の民草の意識が大きく変わらないかぎりは。
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- SakuraiMisato
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動乱の暴風圏が歴史の海岸線に上陸しつつあるの…!? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86#.E9.80.9A.E4.BF.A1.E3.81.AE.E7.A7.98.E5.AF.86.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E6.9C.80.E8.BF.91.E3.81.AE.E5.8B.95.E5.90.91
お礼
まだ開いているのですが あなたの投稿にはもう答える気がしません。
- SakuraiMisato
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封建時代は…!!? http://www.pokemon.co.jp/ex/ranse/
お礼
身分制またその世襲制をいやというほど――つまりは 主従ないし君臣の関係が 西欧のごとく二君にまみゆということをせず あたかも一体であるかのごとく そして生まれつきの職業や身分が固定したかたちにおいて――徹底的に展開した時期ではないかと。
- SakuraiMisato
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(たとえ畏敬の対象への認識が組織的に失念されていましょうとも、) そろそろ、前史の見張りの当番が交代する頃合いを迎えるのでしょうか? http://www.slideshare.net/MAXIMUM.PRO/slide-502267
お礼
★ 組織的に失念 ☆ ですか。情報を出さない。隠す。出そうになったらもみ消す。のでしょうか。 ★ 見張りの当番 ☆ 考えてみたら 誰もがそれぞれ自分で《見張り》になるというべきかも知れません。 でも ★ 前史の見張りの当番 ☆ が特別に専門的につとめることも――つまりみなに代わってではなく みなも見張りになっているその上に 特別の当番がつとめることも―― ありかも知れません。 ただし この当番はもとより《見張り》をすること自体 なかなかうまく行かないのかも分かりません。 ★ 頃合い ☆ はどうでしょう? 誰でもそうだと思った人が提案してみればよい。そういうかたちにしましょうか。
- SakuraiMisato
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此の技術革新によりましても、前史の絶対的な終焉が…!!? http://japanese.engadget.com/2011/08/10/16gb-sata-express/ http://pc.nikkeibp.co.jp/article/knowhow/20120301/1042614/?SS=imgview&FD=993747041 http://www.slideshare.net/Yamaki/windows-8ux
お礼
前史から後史へという主題は 小さなものごとにまであり得ますが ここでは じんるいの歴史全体を二分する場合を言おうとしています。 これまでは ホモ・サピエンスの時代であった。 これからは あたらしいヒト・ヒトとでも言うような時代になろうかというようなです。 むろん粗い見方ですので 何かおそわるところがあればと思っています。 技術革新がどうでもよいという意味ではなく。
- SakuraiMisato
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お礼
気持ちわるくなります。
- SakuraiMisato
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未経験の後史へと船を出せる大航海時代の到来は尊、…!? http://www.gamecity.ne.jp/dol/game/index.htm http://www.r-agent.co.jp/info/lp/all/20101201_2/?pclpcid=jnk2052 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120928-00000013-mai-soci http://www.slideshare.net/Yamaki/windows-8ux http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120929-00000008-rbb-sci
お礼
ええ。精神の緑野は 広大でしょうね。 原野あり密林あり。・・・
- SakuraiMisato
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更に…!!? http://55.45.7.1/ http://msdn.microsoft.com/ja-jp/magazine/hh456401.aspx http://www.gamecity.ne.jp/dol/
お礼
?
- SakuraiMisato
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新時代は技術革新と共に、…。 http://okwave.jp/qa/q7722769.html
お礼
わたしは詳しくないので だまって期待しています。
- SakuraiMisato
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見張りの者達の前史を黒船のアンパンマンが終えて、ベストア…!? http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BC%9A%E8%A8%88%E5%9F%BA%E6%BA%96
お礼
★ 見張りの者達の前史 ☆ たぶんここでの前史・後史は じんるい全体にとってのです。むろん個人にとってのそれらもあり そのことが基礎ではありましょうが。 きわめて乱暴は見通しを捉えようかという問いです。 ★ 黒船のアンパンマン ☆ 具体的にどういうものでしょう?
- SakuraiMisato
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本音による畏敬は…!? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E3%81%BF%E7%AE%B1_(GUI) 閑話休題 http://www.youtube.com/watch?v=d5PBMO3D6kA
お礼
よく読み取れませんでした。
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われわれは にんげんの前史を終えることができるか § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ) (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会という ヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづりなるクセ) § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごくふつうに 自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手 に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者とに分かれる場合。 この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみとめあっ ている自生的な性格のものと そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるようにそ れが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人工的な性格の もの とがある。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性格のも の》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度として固定さ せようとして出来たもの。 身分関係。さらには その身分の世襲制。 特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》との二階建 ての構造として固定する国家における身分制度としての社会力学 的な(=世間のシガラミなる)交通関係としての構造。 (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されている社会 のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ扱われる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。どういうことか? 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。 ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とすることとなった。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。 ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? よろしくご教授ください。 われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 《にんげんの前史》を終えてみませんか。
にんげんの前史を終えるということ(!?)について――あらためて――問います。 § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり) § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと めあっている自生的な性格のものと そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人 工的な性格のものとがある。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工 的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと して出来たもの。 身分関係。その世襲制度。 特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階 建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する 場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係 およびその社会構造がかたちづくられる。 (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての 流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。 ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。 このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? ご教授ください。 § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。 もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。 宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度においてすでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。 一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。
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- 哲学・倫理・宗教学
- にんげんの前史を終えるということ(!?)
について あらためて問います。第三セッションです。 まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。 今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。 § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり) § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら れる。 それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る 音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。 このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関 係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。 人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工 的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと して出来たもの。 身分関係。その世襲制度。 特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階 建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する 場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係 およびその社会構造がかたちづくられる。 (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての 流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。 階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。 ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。 マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。 このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか? 中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。 日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。 ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか? ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。 § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。 もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。 宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。 一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。
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- にっぽん がんばれ。がんばれ にっぽん。
われわれは にんげんの前史を終えることができるか § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ) (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会とい うヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり なるクセ) § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを下にある ことに甘んじて受ける者とに分かれる場合。 この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと めあっている自生的な性格のものと そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ うにそれが必ずしもよいことだとは思われない作為的・人 工的な性格のもの とがある。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な 性格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会 制度として固定させようとして出来たもの。自生的なもの も 作為的となる。 身分関係。さらには その身分の世襲制。 特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》と の二階建ての構造として固定する国家における身分制度 としての・その社会力学的な(=世間のシガラミなる)交通 関係としての構造。 (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて いる社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ取り扱われる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ情況としての二階建てに成ると捉えられる。どういうことか? 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。そこから よくもわるくも 言わば《情感の共同性》なる情況を醸し出して来る。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。 (ただし 情感の共同性についてその綻(ほころ)びと繕いとは しょっちゅう起きている)。 ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し ほんとうはこのアマアガリ教とその実践はどうも行き過ぎだったと思ったときには人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として取り込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み 一面ではその《お金をとおしてのマジハリ》といった一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを一人ひとり誰をも世界史的な存在とすることとなった。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいのお この位を下りて心だけとしてでもアマクダリしてみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ社会形成の道行きのもとにそれぞれが自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力をもう全部出し切ったと言える地点に来たのではないか? しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。 ふるいニンゲンは ほろびる。んだにゃあ。 にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? よろしくご教授ください。 われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か? にっぽん がんばれというのは この新しい歴史にあって日本が先頭を走っていると推し測られるからです。 当てずっぽうなのですが それでもコジツケをおこなうならそれは あらゆる宗教から完全に自由な《もののあはれを知る》思想(生活態度)に立脚する縁の下の力持ちたるスサノヲ草の根市民が おっとどっこいと言って 立ち上がって来ると思われるからです。にっぽん がんばれ。
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- にんげんの前史から後史へ(!?)
歴史を展望してみたい。第三弾。 § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり) § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら れる。 それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る 音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。 このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関 係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。 人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。 チカラ関係としての社会力学の兆し始め。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工 的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと して出来たもの。 身分関係。その世襲制度。 特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階 建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する 場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係 およびその社会構造がかたちづくられる。 (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての 流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。 ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。 階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。 ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。 マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。 このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか? 中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。 日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。 一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。 しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。 ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。 もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。 宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。 一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。
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- 強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか?
強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか? 政治カテゴリーによく首を突っ込んでいるのですが、社会的弱者に属する人や集団を排斥し差別する人の投稿が、守ろうとする人の投稿より圧倒的に多いように感じるのです。 植物には住み分けというのがありますが、同じ場所にある場合、より生命力の旺盛な種がそうでない種を駆逐して繁茂しますよね。 動物の場合はもっとはっきり、肉食獣が草食獣を食べて生きて生きます。人間社会の場合、途上国ではやはりこの法則がはっきり見えます。一部の権力と富を持った支配階級が、権力も金も無い大部分の弱者を徹底的に搾取する社会が固定化しています。アメリカの支配階級は全世界で傀儡政権を作って一般民衆を弾圧し富を略奪し続けています。 人間社会は違うと教えられて来たはずなんですが、日本社会もどうもその法則から抜け出せていないと見えるんです。日本にも支配階級というものが形成されています。官僚や利権政治屋、大企業が日本社会を自分たちに都合のいいように動かしており、弱者の立場を代弁する共産党や社民党が一向に反撃できません。在日は日本のマイノリティーであり、弱者です。その彼らを見下し、差別する投稿が政治社会カテゴリーでかなり優勢です。 人間社会も所詮、生物社会の法則に従うのか、強い者が弱い者を食う。人類の進歩、幾多の血を流してたどり着いた民主主義社会というのは幻想に過ぎないのか?戦時中の反省から、ずっと反権力で弱者の立場からモノを言っていた朝日新聞も数年前から、完全に世界一の強者であるアメリカの腰巾着のような新聞になってしまいました。最大多数の最大幸福なんてのは、所詮不可能で、人間社会も落ち着くところは、一部の強者が残りの大分を食うような社会ということになるのでしょうか? いや、人間社会は違うというなら、どこがどのように違うのか教えて下さい。人間社会には動物社会にはないモーメントが働く可能性があるのでしょうか? どうも今の日本社会を見ていると悲観的になってしまいます。
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- 社会の階層化、組織について
(1)社会の階層化の成り立ちはなんでしょうか? 狩猟時代に軍事組織が形成されましたが、 階層化された組織ではないと聞きます。 農耕などが始まって人々が定住し始めてから、 社会の階層化が始まり、権力者が現れはじめたと聞きますが、 みんな権力を持ちたいと思うのに、どうやって認められたのか 不思議でしょうがありません。 (2)私的権力(階級制度)は(1)とは別に形成されたとも聞きますが、 それはどうやって形成されたのでしょうか。 (3)社会が階層化され、組織化されて行きますが、 組織化するメリットはなんでしょうか。 最近、組織改革などをよく耳にしますが、 そもそも組織と言うものが どういうものであるかわかりません。 以上、駄文になってしまって申し訳ありませんが、 ご回答いただければ幸いです。
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- 日本社会は 対話型か? なら話し合いを!
社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。 市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S 公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α) こういう用語で説明します。 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。 優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。 市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。 このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。 簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。 ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。 (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制 相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。 言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか? 日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。 土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。 日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。 ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。 ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。 (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制 ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~ http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。 ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。 ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。 ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。 ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。 * * * Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか? Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか? Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。 Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。 Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか? Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか? Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。
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- 無我の境地とは自らが人間である事をかみしめる事だ
お釈迦さまの生きた2500年前にはインドに限らず世界中どこを見渡しても「人間」という概念がなかった。 「人」という言葉と「我」という言葉だけがあった。 現代では「人間」という言葉一つで自己を定義できるが、昔はそれだけでも哲学的に苦心しただろう。 そこでお釈迦様は無の信仰に基づいて、定義のあいまいだった我の概念について無我説を打ち出しながら、一方で自らを仏陀と名乗った。 無我説の今日の研究では、当時のインドで主流だったバラモン僧の研究でアートマンと定義された我、すなわち自己について、反論として自己はバラモンの考える我ではないと言ったということになっている。そして仏陀として自らを名乗り、無我を主張した。これらは宗教家同士の権力闘争に過ぎず、実のところアートマン説に対案を示さず、無であるという完全否定のみを主張する暴力的論争の持ち掛け方であり、一方で当の本人は仏陀であった。 この無我説は階級制度が過酷だった当時において、階級制度の否定という政治的意図をもった事柄であり、現代には階級制度の否定はおおむね、当時なかった人間という言葉をかざすことによって行われている。 お釈迦様の生きた当時はこの人間という概念が確立していなかったので、自己の存在の定義が階級制度の枠組みの中に当てはめられるアートマン説に反抗していたのだ。 それでは、仏陀が何者であったかというと、自己について人間という言葉に近い理想を持っていたのであろう。 仏という言葉を現代語訳すると、人間を意味する。 今回の質問は論理の主張と言うよりも、研究の成果をさらに先に薦めるための学問上の事柄で、何がしかのご意見やアイデアなりを募集しています。
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- 哲学・倫理・宗教学
お礼
こんばんは ねむりねこさん。ご回答をありがとうございます。 あちゃぁ。だいぶやられました。もっと早く虫干ししておかねばならなかったようです。 ★ ~~~ 身分関係はとにかく、 第一次の権力関係における《自生的な性格のもの》だけからは『世襲制度』は成立しえないのではないか? ~~~~~ ☆ 言わばスサノヲどうしだけであれば 社会は平屋建て一階にとどまるでしょうから 世襲制にまでは到らない。家族の内における財産の相続まででしょうか。 なんで《自生的な性格のもの》をここに書き入れたのでしょう? ★ ~~~~ この理論にしたがうと、日本の神話にある 『天孫降臨』 はどう位置づけられることになるのだろうか? 権力・支配階級、この場合は「天皇家」の支配正統性(正当性?)のため、という《きな臭い》話でなく、 物語としてです。 ~~~~~~ ☆ これは 《くにゆづり》型の中に入りましょうか。もっとも 服属の要求をする側は 競争・侵略の要素を持つでしょうが。 言いかえると 天孫降臨の前と後とで 《くにゆづり》が重ねて述べられているということではないでしょうか? 神話としての国ゆづりは オホクニヌシがおこない 人代では ニギハヤヒ(およびナガスネビコ)がおこなった。どちらも戦争を部分的にでも実際にまじえているようですが。 ★ ~~~~ 《クラス》は《サブクラス》へ、《サブクラス》はまたその《サブクラス》へと、さらに分化してゆくのでは? そして、社会は、あたかも自己発生的のごとくに、あたかも官僚組織のような、細かく細分化された階層的構造を持つのでは? ~~~~~ ☆ これは そうなのでしょうね。 これは 統治者の階級であり階層でもあるその A 階層と 被統治者の S 階層といった二階建て構造があり そしてそれとはあたかも別に A 階層にはその統治者階級(つまり別格のサブクラス)とそれに従属する武士の階級(サブクラス)や あるいは S 階層において農民と工商民とに分かれたサブクラスでしょうか? ちょっと自信がありませんが。 ★ ~~~ ・・・ もっとも、旧ソ連時代の共産党は、(α)型、(ω)型のどちらから生まれた組織なのかは、意見がわかれると思いますが.... にしても、 (α)型の人は、SM両方の気質を強く持ち合わせる、ほんと~に、複雑な性分のお人たちだ。 ~~~~~ ☆ ほんと~に。 ★ ~~~~ (ω)型、さりとて、支配されるのを好まない、《ねむりねこ》としてもらっては、 (α)型の人が人間になっていただけるのは、たいへんありがたいことなのですけれども、 今のままの状態で、一階にのこのこ降りてこられても困ります。 大きくパラダイム転換をしていただかないと。 被支配⇔支配、強~いSM具有の性格のままでは、ちょっと。 人間になるのが無理ならば、せめて《飼い猫》くらいはなっていただかないと。 ほら、飼い猫は、猫と人、どちらが《主》か《従》か、わからないでしょう。 ~~~~~~~ ☆ 《パラダイム転換》を 余計にソフィスティケートさせますと 《アマクダリ》にあたって むかしのアマアガリにおけるその ★ 被支配⇔支配、強~いSM具有の性格 ☆ を《やましい》と感じたかつての時点にまでさかのぼってもらって あたらしい人へと衣替えしてもらいたい。となります。ぜひとも――お互いなのでしょうが 特に A 階層の人びとには――《にんげん》になってもらわねば。 ★ ここにおける《前史》《後史》の意味がよく分かりません。 ☆ ええ。これは、 ☆☆(α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える ☆ かどうかにかかっているかと考えました。《全部出し切ったか?》 あるいは 経済制度としても政治(共同自治)制度としても あらゆる可能性を試してみたか? ★ ~~~~ 「...人類がその潜在能力を全部出し切った」 かどうかは別にして、現在がターニングポイントであることは確かでしょう。 人類として、大きなパラダイム転換が必要な時期に差し掛かっているのでは、と考えています。 東洋の《知足》や日本の《もったいない》という考え方などは、その候補になりうるのでは、と生意気にも思っております。 ~~~~~~~ そろそろアマテラス公民たちは もう統治者の地位はこりごりだ マツリゴトはじゅうぶん堪能した だから飽きた ゆづる側にまわりたいと言わないかなぁと思いましたが まだまだ性根は廃れていませんか? 民主制をも自分たちの都合のよいように利用するというわけですか? すなわち: ★ ~~~~ 権力の正当化のために、権力者や支配者は、《神さま》が必要なんですよ。 で、選挙の時だけ、下々の有権者は神に祭りあげられる。 終わってしまえば、下々のものは再び民草(たみくさ)に逆戻り。 なので、間接民主主義というのは、あらての《王権神授説》なのでは、と思ってみたりしまして。 《民意》《有権者の選択》は、かつての《神の思し召し》や《神の御意志》みたいな、最強のキーワードでしょう。 この呪文を唱えられたら、どんな道理も引っ込み、無理が通ってしまう。 天の《神さま》がいなくなった今の時代、 支配者や権力者にとって、(間接)民主主義は必要じゃないのですか。 一見矛盾しているようだけれど、実は理にかなっているシステムなのではと..... なので、 《このふるいニンゲン》は、意外にしぶとく生き残るのではないですか。 少なくとも、下々の民草の意識が大きく変わらないかぎりは。 ~~~~~~ ☆ 道遠し。かな。