日本社会は対話型か?なら話し合いを!

このQ&Aのポイント
  • 日本社会の社会形態は、市民と公民の関係によって市民一般の生活や思想が規定されていると考えられています。
  • 日本の国家形態は国ゆづり型であり、市民はおとなしく、優秀な公民は神棚にまつりあげられて特別な存在となっています。
  • 市民間にはアマアガリ志向やお上意識の影響でいざこざが絶えず、市民の心意気や対等な話し合いが行われていないように思われます。
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日本社会は 対話型か? なら話し合いを!

 社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。  市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S  公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A  これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明します。  日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。  ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。  (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。  ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。  《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。  (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

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noname#143207
noname#143207
回答No.21

 こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > 浜矩子は こうも言っているのを思い出しました。
 株価は リーマンショックの時の値まで挙げ戻したし 米ダウは さらに上をうかがうようになった。けれども リーマンショックあるいは住宅供給公社(でしたっけ)の破産危機の時点ですでにバブルになっていたのだから とうぜんそのバブルの分だけ収縮するようソフトランディングさせなければならない。各国政府のかじ取りは 容易なことではないと。
 各国の協調という道のみがあると。自国だけの利益を追い求めていては 治療はできない。
  「そのバブルの分だけ収縮するようソフトランディングさせなければならない」ここが非常に悩ましいところかと考えております。さらに、ある程度の不動産価格を下落させてから(落ち着いてから)、その後、価格安定化を考えているのかもしれません。いずれにしましても、この方向性に沿った政策をうたない限り、パニックセリングはまだ今後も続くものと考えております。  因に、住宅供給公社(ファニーメイとフレディマック)は、下記にもございますように、まだまだアメリカは非常に苦しい状況にあるようでございます。 ・「フレディマックが15億ドルの追加支援要請へ、ファニーメイに続き」 2011年 08月 9日 ロイター http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPnTK896245020110809 ・「差し押さえ物件転用案公募 米、住宅価格底上げへ投資家の知恵」 2011.8.12 産経ビズ http://www.sankeibiz.jp/business/news/110812/bsk1108120503000-n1.htm 
 残念ながら、一国のみが利益追求してしまいますと、前の大恐慌の例えば”スムート・ホーリー法”に見られます”ブロック経済化”は、戦争の引き金になった、とも言われています(少なくとも、あの大恐慌がなければ、前の大戦は起こらなかったというのは有力説となっております)。  最悪の場合、前のようにアメリカも・・・ > ドイツあるいはフランスの国民も 南欧の国々にはやはり緊縮財政を要求するでしょうね。 

 はい、そうなることは必至かと察せられます。 
> ☆ ふたつ 質問があります。
   進化論は DNA による決定論が――環境要因としてのミ-ム説とか言っていても―― 動かされざる基本なのでしょうか?
  まず、DNAによる進化仮説(分子生物学的進化論)は、まだ理論・仮説の段階かと思われます(有力説にはなっているようではございますが)。もしこれが不動のものとなりますと、”進化論(理論)”ではなく”進化の法則(原理)”となってしまいますが、まだ、そこまでは進んでいない(結論付けられていない)と考えられます。  実を申しますと、”進化論(進化仮説)”自体にもまだ解決すべき課題がございます(「なぜ。キリンの首の長さの中間の長さである種もあってよさそうなのですが、それが見つかっていないこと」、「ミッシングリンク(ヒトと他の種との分岐を示す種が発見されていない)の問題」等でございます。)。証明されるには、厳密には、タイムマシーンが必要かと考えられます。  以下には、ドーキンス説(ミーム説:利己的遺伝子の進化説)の矛盾点を列記しております。 1. 超長期の問題。  利己的遺伝子説では、「遺伝子は自己の複製を増やすことを目的として進化する」と考えます。とすれば、進化するにつれて、遺伝子は自己複製の能力がどんどん向上しているはずです。しかし、超長期の進化を見ると、その考えは現実に一致しないことです。  進化の順序を見ると、おおまかに、次の順序になります。 単細胞生物→プランクトン類→腔腸類→魚類→両生類→爬虫類→哺乳類  一方、自己複製の能力(出産数)を見ると、次の順序になります。 単細胞生物>プランクトン類>腔腸類>魚類>両生類>爬虫類>哺乳類       以上から、「進化が進むにつれて、自己複製の量はかえって減ってきた」となり、矛盾が生じてしまいます。 2. 漸進的進化の問題  実際には「断続的な進化」が起こります。このことを、利己的遺伝子説では説明できないことです。 
> 自由意志の問題なのですが つまりは社会関係の流れによって必然性としての選択肢を選択せざるを得ないときにも 人はそのやむを得ない選択をするという自由意志の発揮をおこなっていると見るのですが 進化論は DNA にもとづくからだの仕組みが自由意志を凌駕するというのでしょうか?
  《死を望む回路》があるという前提をすでに置いて話をすすめているようです。

 おそらく、《死を望む回路》=「ヒトは、動物の中で唯一自殺を望むことがある種」ということを言いたいものと思われます。  「DNA にもとづくからだの仕組み(=脳)が自由意志を持たせたのか?」 と言われますと、多くの進化論支持者はこれを肯定するものと思われます。ですが、”本当のところはわからない”、というのが事実かと考えております。 

> もうひとつです。
 《精神的充足》を――その傍らでは 物質的繁栄を押さえて――目的とすることは 何だかアマテラス抽象普遍語を駆使しているという《幻術》であるように 思えるところがあります。そういう部分があると控え目に言うべきでしょうか。
 精神的充足を二者択一でえらぶのはどうもおかしいと考えわたしは質問のやり取りでも述べたのですが それは 精神的充足説を否定する説だとされました。しかもその否定説もけっきょく否定するという意志のもとに精神的充足を目指しているのだと もっともらしく あたらしい文章では書かれています。
  これはあくまで愚見でございますが、その背景にございますのは、以下のような事例に直面したときかと思われます。  愚生の田舎にも、西浜・水軒口といった、きれいな海に面した真っ白な砂浜があったようでございます。しかし、経済発展に伴い、開発され、港が出来、貿易も盛んとなりました。また、四国にいくカーフェリーも盛んになりました。ですが、この不景気により、カーフェリーは廃止、貿易港も閑古鳥が鳴く単なるコンクリートとなってしまったのを見ました時に、思うのかもしれません。「きれいな海岸をコンクリートに固めてしまったけれど、これでよかったのか」という風にでございます。もし、物質的繁栄・利便性が充足感をもたらしてくれていた時には、そんなことは考えなかったものと思われます。ただ、充足感をもたらしてはくれなくなった時に、ふと思ってしまうのだと考えております。従いまして、かような二元論が生じたのはつい最近のことかと考えております。従いまして、少なくとも、かつての発展・利便性に満足感を覚えていたときには、”二者択一でえらぶ”ということはしなかったものと思われます。  このご質問に関しましては、また深く読んでみたいと思っております。 

> どうもふたつとも ひとつの串でつらぬかれているように思えます。
 まづアマテラス語の世界でものを考えているということ。
  少なくとも、前者はそのように考えられます。進化論が正しいか否かの検証はまだまだなのですから。後者におきましては、少なくとも、2、30年前までは、それにどっぷりと浸っていましたため、今頃言われましても・・・ というのが率直な意見でございます。 > そして その中で普遍抽象語を人びとの耳ざわりよくまとめれば それが世の中の関所(あるいはクウキによって造られた観念の運河)を難なく通ることが出来るというようなこと。
  まさしく、人を惑わせる、もしくは、そうであってもらいたいと願う理論が他の人達にも事実であるかのように見せかける”幻術”そのものかと思われます。 > この情況そして一人ひとりの状態は やはりそういうクウキが蔓延していて そのクウキにしたがって思考し行動している。と思えてなりません。
  仰る通りかと存じます。当の本人はそんな空気に支配されているとは思っていないかもしれません。ですが、実際は、それに支配されているというのが実情かと考えております。 
> ★ アマテラス抽象普遍語による幻術
   ☆ これの具体的な事例を いくらかは研究しなくてはならないでしょうか?

  アマテラス用語の氾濫を目の前にしますと、事例を列記すべきかとも考えたくなります。 
> ☆ 生活における現象として 《アマテラス世界の住民》症候群と言えましょうか? けっきょくアマテラス・ブランドというべき商品群が あるのでしょうか? そのブランドは 大きくアマテラス国の住民としてのシルシであり その意味でのアマテラシテ(アマテラスの抽象名詞化)になっているのかも知れません。

   特定のブランドと申されますと、断定しかねるのですが、やはり、年収280万円の人が、数十万ものバッグ・財布等で身を飾るのは、無理があろうかと考えております。もちろん、何を購入するかはその人の自由なのですが、「好きだから買う」といった以外の何かがあると思うのですが・・・
  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  § ドーキンス  たいへん分かりやすく解説をいただきまして まことにありがとうございました。微妙なところもやはりあるようですね。    ただし その微妙な部分があるというのは 主張者にとっても同じ条件となるのだから 断定し切るのも 早とちりになる。  ★ ~~~  ドーキンス説(ミーム説:利己的遺伝子の進化説)の矛盾点を列記しております。  1. 超長期の問題。   利己的遺伝子説では、「遺伝子は自己の複製を増やすことを目的として進化する」と考えます。とすれば、進化するにつれて、遺伝子は自己複製の能力がどんどん向上しているはずです。しかし、超長期の進化を見ると、その考えは現実に一致しないことです。  (――例示部分を割愛しましたが――)  2. 漸進的進化の問題   実際には「断続的な進化」が起こります。このことを、利己的遺伝子説では説明できないことです。  ~~~~~~~  ☆ ただし ドクターが 次のように括弧書きでも捨て去られはしないというニュアンスで触れておられるということは やはり微妙なのでしょうか。  ★ まず、DNAによる進化仮説(分子生物学的進化論)は、まだ理論・仮説の段階かと思われます(有力説にはなっているようではございますが)。    § 《精神的充足》優先の説  ☆ 物質的繁栄と精神的充足の二項対立といった見方について:  ★ ~~~  ・・・もし、物質的繁栄・利便性が充足感をもたらしてくれていた時には、そんなことは考えなかったものと思われます。ただ、充足感をもたらしてはくれなくなった時に、ふと思ってしまうのだと考えております。  従いまして、かような二元論が生じたのはつい最近のことかと考えております。従いまして、少なくとも、かつての発展・利便性に満足感を覚えていたときには、”二者択一でえらぶ”ということはしなかったものと思われます。  〔このご質問に関しましては、また深く読んでみたいと思っております〕。  ~~~~~  ☆ なるほど 《背景》があるのですか。あまりそういう発想はわたしはしていなかったと おどろきです。純(?)理論的に考えていました。  二者択一はやめて身と心またモノさえをも大きくは一体と捉えるとわたしが言ったら それは 物質主義だと言われています。それだから その補完として宗教的な互助精神を必要としているのであり そのからみはよく分かるとのことだそうです。(影響は見られるようです)。  § 生活におけるアマアガリ現象かと思われる事例として:  ★ ~~~    特定のブランドと申されますと、断定しかねるのですが、やはり、年収280万円の人が、数十万ものバッグ・財布等で身を飾るのは、無理があろうかと考えております。もちろん、何を購入するかはその人の自由なのですが、「好きだから買う」といった以外の何かがあると思うのですが・・・
  ~~~~~  ☆ 《好きだから買う》のでなく しかもただファッションであるゆえに買うのでもないとしたら? 生活水準から行けば 背伸びをしていると思われるのですが なぜ背伸びをするのか? といった問いですかね。  § 世界経済  ★ ~~~  「そのバブルの分だけ収縮するようソフトランディングさせなければならない」ここが非常に悩ましいところかと考えております。  さらに、ある程度の不動産価格を下落させてから(落ち着いてから)、その後、価格安定化を考えているのかもしれません。  いずれにしましても、この方向性に沿った政策をうたない限り、パニックセリングはまだ今後も続くものと考えております。  ~~~~~  ☆ そうですね。政府や学者は考えているでしょうね。分かりにくいですが。  米国債の格付けの下げやドル安をめぐって それはアメリカの陰謀だという声が 中国では出て来ているそうですね。  みんながそれぞれ余力に応じて損失を負うかたちになっていくのでしょうか?  相互依存の関係は かえって平和や生活の安定にはよいでしょうか?   EU が EU 全体で発行するユーロ債券を考えているようですね。各国に分かれた国債は どうも持ち堪えられないから駄目だと。  特別講義 しかと受講いたしました。ありがとうございました。

その他の回答 (23)

noname#143207
noname#143207
回答No.24

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ☆ つまり 遺伝子と《摸倣子=摸伝子=意伝子》とは その現象の形態こそ違え どちらも自然科学的なモノとして世界に存在する(生き続けている)と見ようとしているのですね。  はい、生物学上の遺伝子とは、形態は異なりますが、遺伝情報伝達メカニズムと類似した「模倣によって伝わっていく”文化の遺伝子”」といったものかと考えております。  ミーム、これのみで持って、社会の現象を全て解明できるとは、到底考えられないのですが・・・  前回は、利己遺伝子との関連からの進化論の紹介となっておりました。改めて、深くお詫び申し上げます。 > つまりはたとえば アマアガリ・シンドロームという文化現象があるとすれば 《権力志向》あるいは《権力への追従》というヰルスがはたらいているのだと見るのですね。社会力学的な力関係(その上下関係)やあるいはクウキ(その強要度合い)そしてあるいは人間の意志これらの絡みの中から 信念や意志の強い弱いなどなどの具合いに応じて 行為を決めコトが決まるというふうに見るのではなく――または そう見た上で さらにその基底に―― 文化的行動科学的心理的ヰルス(つまり ミ-ム)の感染をつうじて世界はうごいている。と見るのでしょうか?  はい、仰る通りでございます。ただ、感染していくという意味におきましては、”クウキ”も含まれるやもしれませんが・・・ > ふうーう。これは 唯物論というべきでしょうか? 物質主義であるようにも考えられます。物質の自己運動の理論。  その根底には、”ミーム・マシーン”といった”人間機械論”があるようにも見受けられます。 > つまり もしそれが現実だとした場合 その場合にも 人には自由意志があってその物質の自己運動のツナミを自由意志は全部としてでもかぶって その押し流す力に屈しているし 甘んじている。というような・いまひとつのささやかな現実があると言いたいと思います。(これは 賛同を得られるか分かりませんが ジーンやミ-ムの帝国主義に対して国ゆづりを 人の自由意志は している。と)。  はい。意見を等しく致します。 > ★ ~~~~  「人間が多様性を超えた普遍的秩序なるものを認識できるのか。普遍性の確信が否応なく傲慢の狂気に至る。  人は世界を前にして常に一つの選択を行っているが、それが他でもありえたはずの世界の一部だということを自覚している限りで、想像力によって新たな世界を再創造できるのではなかっただろうか。」  ~~~~~~  ☆ 最後の一文は おのれがつねに相対的な世界にいることを自覚していよというところでしょうか。  理性によってのみ、ことの良し悪しを判断しようとしますと、価値相対主義に陥る可能性がございます。そこで、理性がしっかりした歩みを始めるためにも、その根底には、“理性では説明不可能なもの”も必要である、ということかと考えております。つまり、どちらかと申しますと、なんでもありの“価値相対主義”を批判しているものと思われます。 > ★ ~~~~   これは愚見でございますが、“元の切り上げ”および、その背景となっております「貿易赤字」が絡んでいるものと考えております。かつて、“ジャパン・バッシング”という言葉も耳に致しましたが、そのときの日本とほぼ同じ傾向があろうかと推察しております。  ~~~~~~  ☆ ただし中国は 日本ほどには言うことを聞かない でしょうか。  はい、おそらく日本ほどおとなしくはない、と考えております。日本の場合ですと、防衛をアメリカに依存している(そのため、国防費が少なくて済んでいる)という状況下にございます。ですが、中国はそのようなしがらみは全くございません。従いまして、日本程には、低姿勢ではないものと考えております。 > ☆ 経済政府をつくるそうですね。いまの EU 大統領のファン・ロンパイのもとにつくるのだとか。  これでは 市場の期待するところではなかったようですね。  はい、まずは、様子見といったとことろかもしれません。 > この質問でまだ行けましょうか?  ご質問に対しましては、確かに直接のご返答はほぼ終わっているようにも見受けられます。  後は、ご質問者様のご判断に委ねたいと思っております。また何かございましたら、微力を尽くせれば、とそう思っております。    最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  当面のお聞きしている主題がありますので ここで続けていただければと思います。途中でほかのところにご回答くださるのもありがたいです。  EU のいまの姿勢――ただいま現在 その将来を嫌気したのも手伝って米ダウが急落しているようですが―― そして 中国の姿勢 分かりました。  ★ ~~~~~~~~~~~   ▼(チェスタートン) ~~~~~ ・・・   人は世界を前にして常に一つの選択を行っているが、それが他でもありえたはずの世界の一部だということを自覚している限りで、想像力によって新たな世界を再創造できるのではなかっただろうか。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 最後の一文は おのれがつねに相対的な世界にいることを自覚していよというところでしょうか。  理性によってのみ、ことの良し悪しを判断しようとしますと、価値相対主義に陥る可能性がございます。そこで、理性がしっかりした歩みを始めるためにも、その根底には、“理性では説明不可能なもの”も必要である、ということかと考えております。つまり、どちらかと申しますと、なんでもありの“価値相対主義”を批判しているものと思われます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ほかの文章と同じ趣旨ということですね。最後の一文では  ▼ 想像力によって新たな世界を再創造できるのではなかっただろうか。  ☆ と人間の努力を取り上げていると見たものですから 自分が相対的な世界にいることを自覚せよと言っているのかなと思ったようです。  ミ-ムについては よく分かりました。  相当きびしい態度で ミ-ム論者も世界観の構築に臨んでいるようですし そのように世界のすべてを解釈しうるように努めていると理解しました。  《資本》に対する批判とは関係のない そして労働者の味方といった姿勢ともかかわらないところの唯物史観のように見えます。質料主義の最たる思想でしょうか。  ★ その根底には、”ミーム・マシーン”といった”人間機械論”があるようにも見受けられます。  ☆ ここまで行くのですね。  信仰ではない思い込みとしての無神論のようです。おそろしいと言えば おそろしいように感じました。  ★ ただ、感染していくという意味におきましては、”クウキ”も含まれるやもしれませんが・・・  ☆ クウキも ミ-ム・ヰルスによるのだと。あぁ 遺伝子のほかは すべてなのですね。  ありがとうございました。

noname#143207
noname#143207
回答No.23

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > 量子論がミクロの量子の次元で経験法則だと捉える内容が マクロの次元では別の見方となるのと似たかたちで 遺伝子の次元は 人間の行為を含む文化環境としてのミ-ムの次元とは別だということでしょうか?  誠に申し訳ございませんでした。先程の分子生物学的進化論・仮説は、ミーム発案者のドーキンスの利己遺伝子による進化論を論じておりました。  ミームの文化・社会論とは、ドーキンスによれば、ミームを脳から脳へと伝わる文化の単位としており、例としてメロディやキャッチフレーズ、服の流行、橋の作り方などをあげている、そうです。 つまり、ミーム伝達という理論は、進化論を応用した“文化の変容理論”、と解することができます。 「ドーキンスのミームの定義によると、文化は人の脳から脳へと伝達されるミームからできており、ミームは文化の原子のようなものである。遺伝子は精子と卵子を通じて広まるが、ミームは脳を通じて広まる。したがって、より多くの脳に広まったミームが文化形成に大きく関与していることになる。例えば、ミニスカートはミームであり、それが多くの心に広まることでミニスカートが流行し、文化を形作る。あるいは、歌のメロディはミームであり、人々がそのメロディを口ずさめば多くの心へ広まり、文化となる。このように、この定義により、文化全体を分かりやすい部分に分解し、それぞれがどのように作用しあい、進化していくのかを見ることができる。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0 からの引用でございます。)  これは単に、進化論的発想(突然変異、自然淘汰等でございます)をそのまま社会論に応用したものに過ぎないように考えられます。極論いたしますと、仮説の上にさらに仮説を上書きしたものに過ぎないと思われます。 > ☆ だとしますと 《理性》だけで生きている場合があるということでしょうか? それは いわゆる頭でっかちのことでしょうか?  アマテラス抽象普遍語を先行させてものごとを考え人を説得しようとすることは 頭でっかちであり あるいは スサノヲ人間語で足を地につけて歩いているのではなくけっきょく逆立ちして人びととまじわっていると見ていますが。  チェスタートンによりますと、以下のように、論理的整合性のにみにより進められてしまったが故に、陥ってしまいがちな陥穽について述べております。 「心の中でひっかかるわだかまりを無視して論理整合性だけでグイグイ推し進めていく進歩的思潮」 「人間が多様性を超えた普遍的秩序なるものを認識できるのか。普遍性の確信が否応なく傲慢の狂気に至る。人は世界を前にして常に一つの選択を行っているが、それが他でもありえたはずの世界の一部だということを自覚している限りで、想像力によって新たな世界を再創造できるのではなかっただろうか。」  従いまして、理性以外のもの(感性等でございます)を失った、ある種の“狂気”に陥った、“頭でっかち(ですが、ヒラメキ等は欠如しています)”のことも意味しているかと推察しております。 > ということは 簡単に言ってしまえば   ○ 遺伝子論や量子論は どこまでスサノヲ人間語に根差しているか。  ☆ というところに収斂しましょうか?  後者の量子論は極めてまじめな学問かと考えております。ですが、かようなミーム論ともなりますと、アイデアは面白いかもしれませんが、それ以上のものではないものと思えます(愚生には、“普遍性を狙った欺瞞”のように映ります)。 > ★ まず第一に、”物質主義”とは、言い過ぎかと思われます。もし、これを全否定してしまいますと、日本経済は奈落の底に陥ってしまうのですが。  ☆ 精神的充足論は ファッションであり飾りでしょうか。それを唱えても特に人が反対することもないというような。(でも まだ二者択一のかたちは 言い続けているようです)。  「精神的充足論は、それを唱えても特に人が反対することもない」、これは事実かと思われます。ファッションに近く、“トレンディ”といったものかと推察しております。 > ★ サブプライム関連商品に対して高い格付けをし続け、問題が発覚した2007年秋以降になってはじめて、一斉にこれら金融商品を格下げしたというお粗末な経緯があるためでございます。 > ☆ 中国の元の切り上げを促すためなのでしょうか?    これは愚見でございますが、“元の切り上げ”および、その背景となっております「貿易赤字」が絡んでいるものと考えております。かつて、“ジャパン・バッシング”という言葉も耳に致しましたが、そのときの日本とほぼ同じ傾向があろうかと推察しております。 > ★ EU 全体として、一種の”連帯債務”のような形で、これに対応するしか他に方法が見つからないように思われます。ですが、この副作用を考慮に入れ、対処していく必要があろうかと考えております。


☆ ユーロ圏共同債券。最新のニュースでは 一たん見送られたようですね。
  EU内での経済大国の意向があったようでございます。“連帯保証人”になるようなものですので、嫌がる気持ちはわかるのですが・・・ では、どういった策があるのか?というのもツメテ欲しかったように思われます。 「サルコジ大統領はいずれ実現する可能性はあるものの、今導入すれば「ユーロ圏で最も安定した国々を重大な危険」に陥れてしまうと指摘。メルケル首相は「欧州は持てるリソースを最後まで活用し切ってはいないと思われる。大掛かりな政策一本で問題を解決できるとは考えていない」と述べた。 」 「ユーロ下落、共同債否定や景気減速懸念が重し-株反落で円じり高」 ブルームバーグ 2011/08/17 http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920000&sid=aOJGVjserrqk   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  ミ-ムとは こういうものでしたかぁ。  ▼(ヰキぺ:ミ-ム) ~~~  DNAウイルスは細胞のコピー機構を利用し、  コンピューター・ウイルスはコンピューターのコピー機構を利用する。  そしてマインド・ウイルスは心をコピー機構として利用する。  マインド・ウイルスは心に侵入し、コミュニケーションを通じて他の心に自己の複製を作る。  そして行動を引き起こすミームで心をプログラムし、私達に指令を発する。  その行動が様々な出来事を引き起こし、多くの人々の心へ拡散する。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《 nature or nurture ? 》でしたか ということで遺伝子が生まれつきの要因であるなら ミ-ムは後天的に身につけた文化要因だと思っていました。  そうではなく と言いますか そのような区分のさらに上に(その根底に) 遺伝子と同じような《ミ-ムすなわち 摸倣子、摸伝子、意伝子》があるということなのですね。  すなわち  ★ ~~~~  これは単に、進化論的発想(突然変異、自然淘汰等でございます)をそのまま社会論に応用したものに過ぎないように考えられます。   極論いたしますと、仮説の上にさらに仮説を上書きしたものに過ぎないと思われます。  ~~~~~~  ☆ つまり 遺伝子と《摸倣子=摸伝子=意伝子》とは その現象の形態こそ違え どちらも自然科学的なモノとして世界に存在する(生き続けている)と見ようとしているのですね。  つまりはたとえば アマアガリ・シンドロームという文化現象があるとすれば 《権力志向》あるいは《権力への追従》というヰルスがはたらいているのだと見るのですね。社会力学的な力関係(その上下関係)やあるいはクウキ(その強要度合い)そしてあるいは人間の意志これらの絡みの中から 信念や意志の強い弱いなどなどの具合いに応じて 行為を決めコトが決まるというふうに見るのではなく――または そう見た上で さらにその基底に―― 文化的行動科学的心理的ヰルス(つまり ミ-ム)の感染をつうじて世界はうごいている。と見るのでしょうか?  ふうーう。これは 唯物論というべきでしょうか? 物質主義であるようにも考えられます。物質の自己運動の理論。  つまり もしそれが現実だとした場合 その場合にも 人には自由意志があってその物質の自己運動のツナミを自由意志は全部としてでもかぶって その押し流す力に屈しているし 甘んじている。というような・いまひとつのささやかな現実があると言いたいと思います。  (これは 賛同を得られるか分かりませんが ジーンやミ-ムの帝国主義に対して国ゆづりを 人の自由意志は している。と)。     *  ★ ~~~~  チェスタートンによりますと、以下のように、論理的整合性のみにより進められてしまったが故に、陥ってしまいがちな陥穽について述べております。  「心の中でひっかかるわだかまりを無視して論理整合性だけでグイグイ推し進めていく進歩的思潮」  「人間が多様性を超えた普遍的秩序なるものを認識できるのか。普遍性の確信が否応なく傲慢の狂気に至る。  人は世界を前にして常に一つの選択を行っているが、それが他でもありえたはずの世界の一部だということを自覚している限りで、想像力によって新たな世界を再創造できるのではなかっただろうか。」  ~~~~~~  ☆ 最後の一文は おのれがつねに相対的な世界にいることを自覚していよというところでしょうか。     *  ★ ~~~~   これは愚見でございますが、“元の切り上げ”および、その背景となっております「貿易赤字」が絡んでいるものと考えております。かつて、“ジャパン・バッシング”という言葉も耳に致しましたが、そのときの日本とほぼ同じ傾向があろうかと推察しております。  ~~~~~~  ☆ ただし中国は 日本ほどには言うことを聞かない でしょうか。     *  ★ ~~~  EU 内での経済大国の意向があったようでございます。“連帯保証人”になるようなものですので、嫌がる気持ちはわかるのですが・・・  では、どういった策があるのか?というのもツメテ欲しかったように思われます。  ~~~~~  ☆ 経済政府をつくるそうですね。いまの EU 大統領のファン・ロンパイのもとにつくるのだとか。  これでは 市場の期待するところではなかったようですね。     *  この質問でまだ行けましょうか?

noname#143207
noname#143207
回答No.22

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > たいへん分かりやすく解説をいただきまして まことにありがとうございました。微妙なところもやはりあるようですね。 
 お役に立つことが出来、愚生とい致しましても光栄に存じます。 > ☆ ただし ドクターが 次のように括弧書きでも捨て去られはしないというニュアンスで触れておられるということは やはり微妙なのでしょうか。
  ★ まず、DNAによる進化仮説(分子生物学的進化論)は、まだ理論・仮説の段階かと思われます(有力説にはなっているようではございますが)。 
 はい、それなりに、説明できてしまうからだと思われます。  ですが、”メンデルの法則”等ではなく、あくまで”進化論(理論)”でございます。  繰り返すようではございますが、タイムマシーンが発明されるまでは、実証不可能と考えられます。  ですが、次のチェスタートンの言葉を想起してしまいました。 Gilbert Keith Chesterton "The madman is not the man who has lost his reason. The madman is the man who has lost everything except his reason." “狂人とは理性を失った者ではない。狂人とは理性以外の全てを失ってしまった者のことである。" > ☆ なるほど 《背景》があるのですか。あまりそういう発想はわたしはしていなかったと おどろきです。純(?)理論的に考えていました。  これは、あくまで愚見でございますので、その是非につきましては、さらなる検討も必要かと思っております。  「露と落ち 露と消えにし 我が身かな バブルのことは 夢のまた夢」・・・ > 二者択一はやめて身と心またモノさえをも大きくは一体と捉えるとわたしが言ったら それは 物質主義だと言われています。それだから その補完として宗教的な互助精神を必要としているのであり そのからみはよく分かるとのことだそうです。(影響は見られるようです)。 

 まず第一に、”物質主義”とは、言い過ぎかと思われます。もし、これを全否定してしまいますと、日本経済は奈落の底に陥ってしまうのですが。 

> ☆ 《好きだから買う》のでなく しかもただファッションであるゆえに買うのでもないとしたら? 生活水準から行けば 背伸びをしていると思われるのですが なぜ背伸びをするのか? といった問いですかね。
  はい、そうでございます。「なぜ、そこまで無理をしてまでも、背伸びをするのか?」でございます。 > ☆ そうですね。政府や学者は考えているでしょうね。分かりにくいですが。
 米国債の格付けの下げやドル安をめぐって それはアメリカの陰謀だという声が 中国では出て来ているそうですね。
 みんながそれぞれ余力に応じて損失を負うかたちになっていくのでしょうか?
  ご存じでいらっしゃいましたか。中国が神経質すぎる程、アメリカに緊縮財政を求めていることから(格下げは債権国の中国に対し悪影響を及ぼします)、香港のメディア等がこのように報じているようでございます。  そもそもなぜ、格下げがそんなに問題であったという疑問もございます。格付け会社の信頼度は、先日のサブプライムローン問題で、”当てに出来ない”と烙印されたばかりでした。サブプライム関連商品に対して高い格付けをし続け、問題が発覚した2007年秋以降になってはじめて、一斉にこれら金融商品を格下げしたというお粗末な経緯があるためでございます。 参考:http://toshukou.at.webry.info/200909/article_5.html  
> 相互依存の関係は かえって平和や生活の安定にはよいでしょうか?   非常に難しい問題かと思われます。第一次世界大戦がなぜあのように”世界大戦”まで拡大したにつきましては、定説がないと言われています。そもそも、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアの二国間問題だったからでございます。ですが、この有力説と致しまして、”張り巡らせていた緊密な同盟関係”というものがございます。  従いまして、”緊密な同盟関係”というのも一長一短あるように見受けられます。 
> EU が EU 全体で発行するユーロ債券を考えているようですね。各国に分かれた国債は どうも持ち堪えられないから駄目だと。 
   EU全体として、一種の”連帯債務”のような形で、これに対応するしか他に方法が見つからないように思われます。ですが、この副作用を考慮に入れ、対処していく必要があろうかと考えております。

 特別講義 しかと受講いたしました。ありがとうございました。  いえいえ。誠におそまつ様でした。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~    ★★ DNAによる進化仮説(分子生物学的進化論)は、まだ理論・仮説の段階かと思われます(有力説にはなっているようではございますが)。 
 〔* 有力説と見られている。→〕はい、それなりに、説明できてしまうからだと思われます。  ですが、”メンデルの法則”等ではなく、あくまで”進化論(理論)”でございます。  繰り返すようではございますが、タイムマシーンが発明されるまでは、実証不可能と考えられます。  ~~~~~~  ☆ 永遠に仮説・理論の段階にとどまるであろうということですか。  何とも悩ましいものですね。もっとも創造説は たとえですので 進化論の中身を容れてしまう余地さえあると考えますが。  わざと大雑把に言えばとことわらねばならないと思うのですが 量子論がミクロの量子の次元で経験法則だと捉える内容が マクロの次元では別の見方となるのと似たかたちで 遺伝子の次元は 人間の行為を含む文化環境としてのミ-ムの次元とは別だということでしょうか?  でもマクロの次元でも 家庭電化製品は 量子力学にもとづいて作られているとか。遺伝子も ミ-ムの次元にも影を落としているのでしょうね。  (この表現は まったく自分でもおかしなものになっていると思いますが)。  ★ ~~~  Gilbert Keith Chesterton  "The madman is not the man who has lost his reason. The madman is the man who has lost everything except his reason."  “狂人とは理性を失った者ではない。狂人とは理性以外の全てを失ってしまった者のことである。"  ~~~~~  ☆ だとしますと 《理性》だけで生きている場合があるということでしょうか? それは いわゆる頭でっかちのことでしょうか?   アマテラス抽象普遍語を先行させてものごとを考え人を説得しようとすることは 頭でっかちであり あるいは スサノヲ人間語で足を地につけて歩いているのではなくけっきょく逆立ちして人びととまじわっていると見ていますが。  スサノヲ市民圏に主権がありかつこの S 圏が主導する A - S 連関制が 民主制だと見ますが  A 圏が主導する A - S 連関制は 逆立ちしていると見ます。  (実際には A 圏の政治家公民は S 圏が自主的にえらぶその代表であるというタテマエです。ということは 《朕は国家なり》の立憲君主制(ただし 人びとが天皇の赤子だとすれば家産国家のごとくある)やあるいは固定した身分制にもとづき S 圏が A 圏に従属するかたちの封建制に見られた A - S の逆立連関制が 余韻のごとくいまだに人びとの心に残ってはたらいているということでしょうか)。  ということは 簡単に言ってしまえば   ○ 遺伝子論や量子論は どこまでスサノヲ人間語に根差しているか。  ☆ というところに収斂しましょうか?     *  ★ 
 まず第一に、”物質主義”とは、言い過ぎかと思われます。もし、これを全否定してしまいますと、日本経済は奈落の底に陥ってしまうのですが。  ☆ 精神的充足論は ファッションであり飾りでしょうか。それを唱えても特に人が反対することもないというような。(でも まだ二者択一のかたちは 言い続けているようです)。     *  ★ サブプライム関連商品に対して高い格付けをし続け、問題が発覚した2007年秋以降になってはじめて、一斉にこれら金融商品を格下げしたというお粗末な経緯があるためでございます。  ☆ だとしますと 国の債務上限の引き上げに絡んで 民主党と共和党のかけ引きは 掛け合い漫才であったかも知れず それに例の茶会党の突きあげがあったとしますと こちらも茶番劇に重要な役を演じたことになります。格付け会社をも巻き込んだ一幕芝居だったと。中国の元の切り上げを促すためなのでしょうか?  いやあ 何とも分かりません。    *  ★ ~~~~  第一次世界大戦がなぜあのように”世界大戦”まで拡大したにつきましては、定説がないと言われています・・・が、この有力説と致しまして、”張り巡らせていた緊密な同盟関係”というものがございます。  従いまして、”緊密な同盟関係”というのも一長一短あるように見受けられます。  ~~~~~~  ☆ なるほど 同盟と言えば たしかにすでに敵を想定していますね。    *  ★  EU 全体として、一種の”連帯債務”のような形で、これに対応するしか他に方法が見つからないように思われます。ですが、この副作用を考慮に入れ、対処していく必要があろうかと考えております。 

☆ ユーロ圏共同債券。最新のニュースでは 一たん見送られたようですね。  いつもありがとうございます。

noname#143207
noname#143207
回答No.20

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ☆ <中略> それと昔は このくらいはおしゃれをしないとつき合いから はぐれてしまうという消極的な理由もあったように感じますが いまはほとんどが上昇志向でしょうか。いえ そう簡単に上昇することは出来ませんから   ”セレブ”、”プチ・セレブ”といった言葉が今、はやりのようでございます。Wikipediaを調べてみますと(”セレブリティ”にて検索)、「意味が拡散し、拡大傾向にある。」との記述にありますように、”成金”からはじまり、さらに意味が拡大しつつあるようでございます。その背景には、コマーシャリズムが存在していると思われますが、「憧れの対象である」ことは、例えば女性雑誌での扱いから見ましても、じゅうぶん頷けるものがあろうかと思われます。その裏返しと致しまして、”(女性)一人では、そう簡単に上昇することは出来ない”ことを示唆しているものと察せられます。  また、一方では、以下のような書籍も人気があるようでございます。価値観が以前と比べまして、多様化しているのかもしれません。 竹内 かなと著「働かずに年収333万円を手に入れて「幸せ」に暮らそう!」(ごま書房新社) なお、帯には「ほどほどのお金で自由に生きるのが一番」との記載がございます(著者はヤフオクで稼いだ方なのだそうです。どちらかと申しますと、愚生は、こちらの方に属するような気がしております)。 > ★ ~~~~
   ・・・おそらく”ステータス”といった何かしらの”証”が欲しいものと思われます。
 これらのことを鑑みますと、現実はそうではないのだけれども、そのような”言葉”や”モノ”を、一種の幻術のように働かせ、アマアガリをめざしているのでは?というのが愚生の思うところでございます。 
 ~~~~~~~
  ☆ そうしますと 妹思いの少年といった姿は――生活態度は―― 時代遅れとして一掃されてしまっているのでしょうか? そこまでは行っていない側面もあるということでしょうか? どうも流れから行けば わたしなどは いかに田舎者かと自覚が足りないことになります。
  おそらく、この少年の話を聞きましても、感動する人は以外と少ないと思われます(ですが一方では、強く感銘を受けたという方達もおられようかとも思っております)。  「時代遅れとして一掃されてしまっているのでしょうか?」と申されますと、いえ、まだかような生活態度に感動をおぼえる方々もおられるものと思っております。従いまして、まだ、そこまでは行っていない、と思っております。  ただ、幻術を駆使し、アマアガリを目指している人達は確実に存在しているように思われます。 

> 経済学者の浜女史が言っていました。(昨夜か一昨夜 NHK.BS でした)。
 リーマンショックのときには 政府が金融機関等に資金を援助し有効需要を確保し レスキュー隊となった。けれども このところの世界同時株安現象は こんどはその結果膨らんだ財政の危機としてレスキュー隊がレスキューを必要としている状態になったのだ。つまり投資家は その事態を見越して行動しているのだと。
 どうでしょう? 分かりやすいようですが。
  仰られますように、”レスキューを必要としている状態”と言えると思われます。根本原因であります住宅価格の下落が止まらないため(Case-Schiller指数の低下と中古住宅販売件数の減少)、まだまだ油断はできないものと考えられます。第三の量的緩和をする予定もなさそうでございますし(先週9日のFOMCでも、全く量的緩和には触れなかったようでございます)、どのように対処していいのか分からない、というのが実情かもしれません。ただ、唯一の救いは”デフレ”に陥っていないことぐらいかもしれません(消費者物価指コア指数と生産者物価コア指数はゆるやかなインフレ状況を示しております)。  ですが一方、その陰にイタリアの問題もございます(下記日経新聞の記事をご参照くださいませ)。案の定、イタリアの株式市場も強い下落傾向が見られます(日米伊の比較からです)。もちろん、イタリアに万が一のことがございますと、イタリアの債権国であるフランスにも影響を与えてしまいます。  将来何が起こっても不思議ではない、という状況となっております。  最もデフォルトの可能性が高いと言われ続けられました日本ですが、今では(震災復興の目処がついていないにも関わらず)”健全”という状況になっているように見受けられます。 ・「「積極的に国債購入」欧州中銀が声明 イタリアなど視野」 2011/8/8 日経新聞 http://www.nikkei.com/markets/features/12.aspx?g=DGXNASFK08009_08082011000001  ・FTSEMIB(イタリア株価指数), DOWとN225(日経平均株価指数)の比較(過去3ヶ月) http://it.finance.yahoo.com/q/bc?t=3m&s=FTSEMIB.MI&l=on&z=l&q=l&c=%5EN225&c=%5EDJI   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  浜矩子(でしたか)は こうも言っているのを思い出しました。  株価は リーマンショックの時の値まで挙げ戻したし 米ダウ(でしたか)は さらに上をうかがうようになった。けれども リーマンショックあるいは住宅供給公社(でしたっけ)の破産危機の時点ですでにバブルになっていたのだから とうぜんそのバブルの分だけ収縮するようソフトランディングさせなければならない。各国政府のかじ取りは 容易なことではないと。  各国の協調という道のみがあると。自国だけの利益を追い求めていては 治療はできない。  ドイツあるいはフランスの国民も 南欧の国々にはやはり緊縮財政を要求するでしょうね。  ★ ただ、幻術を駆使し、アマアガリを目指している人達は確実に存在しているように思われます。  ☆ ふたつ 質問があります。   進化論は DNA による決定論が――環境要因としてのミ-ム説とか言っていても―― 動かされざる基本なのでしょうか?  自由意志の問題なのですが つまりは社会関係の流れによって必然性としての選択肢を選択せざるを得ないときにも 人はそのやむを得ない選択をするという自由意志の発揮をおこなっていると見るのですが 進化論は DNA にもとづくからだの仕組みが自由意志を凌駕するというのでしょうか?  《死を望む回路》があるという前提をすでに置いて話をすすめているようです。  分かりませんが 事実であるのか それともけっきょくアマテラス普遍語による説明を頼りとするというそれとしてのアマアガリ指向がその思考や認識の態度に作用していると見られないのか。  もうひとつです。  《精神的充足》を――その傍らでは 物質的繁栄を押さえて――目的とすることは 何だかアマテラス抽象普遍語を駆使しているという《幻術》であるように 思えるところがあります。そういう部分があると控え目に言うべきでしょうか。  精神的充足を二者択一でえらぶのはどうもおかしいと考えわたしは質問のやり取りでも述べたのですが それは 精神的充足説を否定する説だとされました。しかもその否定説もけっきょく否定するという意志のもとに精神的充足を目指しているのだと もっともらしく あたらしい文章では書かれています。  どうもふたつとも ひとつの串でつらぬかれているように思えます。  まづアマテラス語の世界でものを考えているということ。  そして その中で普遍抽象語を人びとの耳ざわりよくまとめれば それが世の中の関所(あるいはクウキによって造られた観念の運河)を難なく通ることが出来るというようなこと。  この情況そして一人ひとりの状態は やはりそういうクウキが蔓延していて そのクウキにしたがって思考し行動している。と思えてなりません。  でも それぞれにおいて――自然科学としての結論ないし研究の姿勢に支えられているという一面あるいは 精神をとうとぶことは悪いことではないという一面があり―― もっともなことを言っている部分がありますので 扱いづらいと思っています。  ★ アマテラス抽象普遍語による幻術  ☆ これの具体的な事例を いくらかは研究しなくてはならないでしょうか?  ★ ”セレブ”、”プチ・セレブ”といった言葉が今、はやりのようでございます。Wikipediaを調べてみますと(”セレブリティ”にて検索)、「意味が拡散し、拡大傾向にある。」との記述にありますように、”成金”からはじまり、さらに意味が拡大しつつあるようでございます。  ☆ 生活における現象として 《アマテラス世界の住民》症候群と言えましょうか? けっきょくアマテラス・ブランドというべき商品群が あるのでしょうか? そのブランドは 大きくアマテラス国の住民としてのシルシであり その意味でのアマテラシテ(アマテラスの抽象名詞化)になっているのかも知れません。  このようなアマアガリ・シンドロームが影響を与えているかぎり 人びとのあいだの《対話》は 上辺をかするかたちに終わるかも知れません。  というような反応になりました。どうでしょうかねぇ。

noname#143207
noname#143207
回答No.19

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > どうもこの質問は 質問者の示すたたき台について賛同がもらいたいという一面が強いかも知れなかったですね。そういう批評を かつて わたしの質問一般について荒らし屋さんからもらったことがありますが この点については当たっているかも分かりません。
 
 いえいえ。それもあり、と考えてございます。
 アマアガリ指向というのは、顕著に見られるといのが実情かと思われます。  例えば、”言葉”にしましても、そうでございますし、また、ファッション関係もそのように見受けられます。これは、某雑誌(講談社)に載っていたのですが、どのあたりの平均年収の人が購入しているのかを調べたデータでは、ヴィトンで平均280万円(因に、エルメス平均316万円)なのだそうでございます。つまり、これら高額なバッグを購入するのに、実際はかなりの無理をしているように見受けられます。なぜそこまでするの?、でございますが、おそらく”ステータス”といった何かしらの”証”が欲しいものと思われます。  これらのことを鑑みますと、現実はそうではないのだけれども、そのような”言葉”や”モノ”を、一種の幻術のように働かせ、アマアガリをめざしているのでは?というのが愚生の思うところでございます。 

> ☆ こういったことが 具体的に議論されてよいかと思います。
  ご理解賜り、暑くお礼申し上げます。 > アマテラス普遍語ならば 何が人びとの生活にとってよいか 社会として秩序の内にいとなまれ しかも新しい変革をも容れて行ける仕組みは何か 答えは案外そして相当程度に出せるものと思われます。  あるいはすでに出ているかも知れません。その答えをオモテのタテマエとして あとはウラでこそこそ操作しているだけかも知れません。

   はい、出ている、もしくはそれを知っている方達は相当数いるかと思われます。ですが、すぐ忘れてしまうのか、それとも、保身のためか、ないことにしたいのかもしれません。

 > それと 日本人の心といったことで新聞記事が目に就きました。
   ▼ (復興をめぐって)   ~~~
   (日経 今朝の朝刊 社説)  
 ~~~~~~~~~~~
  ☆ ややもすると精神論が しかもアマテラス普遍語のころもをまとって 聞かれたりしますので こんな話を――スサノヲ語の実態として――引きました。 

 感動的な話をお聞かせいただきまして、どうもありがとうございました。
  
> ですが どうも世は 逆の方向へ向かっているのかも分かりません。アマテラス語がほころびを見せているのなら さらに上を行くスーパーアマテラス語をしゃべるスーパーアマテラスに登場願いたいというアニメチックな流れになっているかも分かりません。その次善の策として 野田首班による大連立であるのかもです。 

 実を申しますと、この大震災のため、一時的に”政党政治”を止め、大連立を組むというのは愚生は反対ではございませんでした。ですが、あくまで”臨時的”にであります。これがそのまま、大連立を復興後も続けていかれますと、”スーパーアマテラス登場!”になろうかと思われます。 

> ☆ このような役員の人たちも かつては案外 高架下の靴磨きの少年でさえあったかも知れません。その心が 真逆になったのではないかと言いたくなるような・・・。 

 はい、以前、「シュリーマン旅行記」についてご紹介させていただきましたが、その著作を一読致しますと、現在とは、もうほとんど別民族のように映りました。戦前におきましては、まだそうした日本人の[スサナオ]意識がのこっていたのかもしれません。 

> 漫談のほどご無礼いたしました。(ということは もっと漫談をつづけたいという浅はかさなのですが)。
   いえいえ、お意見賜りまして、厚くお礼申し上げます。また、非常に律儀なご回答者様も来られたようでございます。将来の展望は決して暗くはないものと推察しております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  アマアガリ指向というのは、顕著に見られるといのが実情かと思われます。  例えば、”言葉”にしましても、そうでございますし、また、ファッション関係もそのように見受けられます。これは、某雑誌(講談社)に載っていたのですが、どのあたりの平均年収の人が購入しているのかを調べたデータでは、ヴィトンで平均280万円(因に、エルメス平均316万円)なのだそうでございます。  つまり、これら高額なバッグを購入するのに、実際はかなりの無理をしているように見受けられます。なぜそこまでするの?、でございますが、おそらく”ステータス”といった何かしらの”証”が欲しいものと思われます。  ~~~~  ☆ そうなんですか。昔は 一点豪華主義という行き方があって 服は一流のものを着るとか 時計だけは豪華なものを身につけるとかいうようにする場合があったと思いますが この場合 バッグならバッグというように決まっているということですね。そしてそれは アマアガリにつながるからこそなのだと。  それと昔は このくらいはおしゃれをしないとつき合いから はぐれてしまうという消極的な理由もあったように感じますが いまはほとんどが上昇志向でしょうか。いえ そう簡単に上昇することは出来ませんから   ★ ~~~~  ・・・おそらく”ステータス”といった何かしらの”証”が欲しいものと思われます。  これらのことを鑑みますと、現実はそうではないのだけれども、そのような”言葉”や”モノ”を、一種の幻術のように働かせ、アマアガリをめざしているのでは?というのが愚生の思うところでございます。  ~~~~~~~  ☆ そうしますと 妹思いの少年といった姿は――生活態度は―― 時代遅れとして一掃されてしまっているのでしょうか? そこまでは行っていない側面もあるということでしょうか? どうも流れから行けば わたしなどは いかに田舎者かと自覚が足りないことになります。  経済学者の浜女史が言っていました。(昨夜か一昨夜 NHK.BS でした)。  リーマンショックのときには 政府が金融機関等に資金を援助し有効需要を確保し レスキュー隊となった。けれども このところの世界同時株安現象は こんどはその結果膨らんだ財政の危機としてレスキュー隊がレスキューを必要としている状態になったのだ。つまり投資家は その事態を見越して行動しているのだと。  どうでしょう? 分かりやすいようですが。  ★ また、非常に律儀なご回答者様も来られたようでございます。将来の展望は決して暗くはないものと推察しております。  ☆ あぁ えぇ あたらしいひとですね。ふつうなのですけれど そういう態度を採る(採れる)場合というのは ほとんど見かけなかったようです。

noname#143207
noname#143207
回答No.18

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち、でございます。 

> A - S 連関は 対話型で社会をいとなみ国を推し進めて来たのだ。
  はい、そのように解してございます。もちろん、すんなりとはいかなかったところもあったかと思われます。また、Aの優位性等も見られたかもしれません。ですが、結果論かもしれませんが、それなりに「国を推し進めて来た」と考えております。 
> 低成長ないし安定成長期に移行すると 何故だかしなくてもよいところで競争をしたがる。それも すでに出発点が決して対等ではないかたちで その競い合いが始められる。
  愚見でございますが、バブル崩壊後、日本人は自信を失ってしまい、当時景気のよかったアメリカを物真似したものと考えております。そして、小泉ー竹中路線でそれが頂点に達したものと考えてございます。  営業(経常)利益増で役員報酬が増額というのは、当然のこととして理解できるのですが、減益にも関わらず、役員報酬が増額の企業が存在するというのは日本独自のものかと思われますが(日産等でございます。円高が原因とは言われましても・・・)。 > ☆ 《「痩せたソクラテスよりも、太った豚」なのかもしれません。》とつづきます。――たしか当時わたしも卒業間近かの学生だったか 東大総長の大河内一男が言ったというニュースを聞いたおぼえがあります。(大河内は 社会思想史専門なので覚えています。眠狂四郎の作者・柴田練三郎に顔が似ていました)。――なのですかねぇ。人それぞれかも分かりませんが。
  そうでいらっしゃいましたか。当時のことを直接肌で感じておられましたbragelonne様のご意見は、愚生にとりましては、改めて感慨深いものがございました。 
> ☆ の遠慮版の対話型と捉えればよいでしょうか。
  何かしらの行動から感じ取られるような”呼吸”のようなものがあったのかもしれません。 
> 少し前までですと、民衆の不満は、デモや学生の抗議運動を通して訴えてきました(ことの是非はともかくとして)。
  ~~~~~~~~
  ☆ このあたりも さらに詳しく――基調をおさえたかたちで分かりやすく――捉えられればよいと思うのですが これは 追い追いということにします。単純に言って・大きく言って 日露戦争の勝利に自信を持って――いえ 持ちすぎて―― 人びとが膨れ上がって行く過程にありましょうか? いえ現実がそれほど厳し過ぎたのだと言うべきでしょうか?
  これも、愚見でございますが、例えば、江戸時代にも”大塩平八郎の乱”、さらにまた”南部三閉伊一揆”のような大規模な”百姓一揆”もございましたため、日露戦争以前の日本人にも、気概なるものがあったかと推察しております。 
> そしていわゆるイデオロギーによる闘争については もはや対話型の共同自治は風前の灯だったようにも――ふり返ってみてですが――思われます。幸か不幸か ドイツや朝鮮半島のように国が二分されることはなかった。
  はい、これは日本人には幸運であったと考えております。ドイツはともかく、朝鮮半島のようにお互いが戦争までをもしてしまい、収拾が極めて困難な状況になってしまったことを鑑みますと、幸運であったと考えております。 > 競争がどのようにあるかについて 言論もしくは学問にかかわるようなところでは――と採って見てみたのですが――
  一例を挙げさせていただきますと、昨今では、原発利権というものが言われていますが、反原発を主張した学者は干されてきたという経緯もございます。ですが、これのみにとどまるものではないものと考えております。  これは愚生の実経験でございますが、研究費獲得のため、以下のところのような所に応募したりします。ですが、この採択を決めるのは誰か? となりますと、極めて政治色が強くなります。例えが悪いかもしれませんが、ワールドカップ予選での”日中戦”におきまして、北朝鮮人がレフリー というのが実情でございます(ズブズブの関係が存在します。天下った会社(法人)の元官僚役員がレフリーでは、公平性が確保できないかと・・・)。 http://www.meti.go.jp/press/20060531002/20060531002.html  
> また学術語にしても・アマテラス普遍語と言っても 社会の各層や各分野にまんべんなく有効・有益な政策を策定しうるものでもない。この点でも 対話型の本領を発揮して行って欲しいものです。
  はい。愚生もそう願っております。自己をアマテラスに見せかける”幻術”のように扱われますのは・・・ > そうして何よりも 自分たちの足は スサノヲ市民社会にしっかりとつけていて欲しいと思います。その意味で アマテラス公民は アマクダリを果たして欲しい。その方向でみづからの将来を決めてくれたらと思います。  実を申しますと、愚生は”アマクダリ”自体は否定致しておりません。例えば、ドイツの(旧)連邦銀行のトップは一般にアマクダリの人達であったと言われています。つまり、人脈・人望もあり、責任感に満ちた人物がかような要職に就くことの方が、国益に適うという理由からでございます。そう考えますと、責任感のある有能な人物が然るべき場所にいっていただくことは、各地域社会にも益することがあろうとも考えております。
 ですが、”ズブズブの口利き”だけのアマクダリですと、おそらく下々の誰もがやる気を消失してしまうものと思われます。 
> うわぁ 言いたい放題になりました。
   いえいえ。貴重なご意見を賜りまして、どうもありがとうございました。  駄文、最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  どうもこの質問は 質問者の示すたたき台について賛同がもらいたいという一面が強いかも知れなかったですね。そういう批評を かつて わたしの質問一般について荒らし屋さんからもらったことがありますが この点については当たっているかも分かりません。    ですから ひどっちさんももし賛同していただける場合には 回答の仕方に苦労なさったかと思います。ということは たとえば  ★★(回答No.14) ~~~~~   戦前  ・「第一次護憲運動」(大正2年:1913年)桂内閣総辞職  ・「越中女一揆」(大正7年:1918年)この騒動が全国に拡大して「米騒動」となり、寺内毅内閣総辞職   戦後  ・「60年安保闘争」  ・「70年安保闘争」  少し前までですと、民衆の不満は、デモや学生の抗議運動を通して訴えてきました(ことの是非はともかくとして)。  ~~~~~~~~  ☆ のように具体的な事例を歴史やあるいは現代の情況の中に捉えてそれらを検証するという作業 これが質問の主要な仕事であるかも知れません。  ★ 例えば、江戸時代にも”大塩平八郎の乱”、さらにまた”南部三閉伊一揆”のような大規模な”百姓一揆”もございましたため、日露戦争以前の日本人にも、気概なるものがあったかと推察しております。  ☆ こういった具体的な検証――その作業を前回ではわたしは 追い追いそのように進むとだけ言ってしまっています――を問うていたのかも知れません。  もっとも社会のいとなみについて国の推し進め方も その基本的な成り立ちを互いに分析し確認し合うことが ないがしろにされることはないわけですから この質問もひとまづ提出したということになると思います。引っ込めるまでには行かないであろうと。    さらにあるいは 歴史の中に事例を検証しつつ前向きにも将来のあり方を考えることも 大きな仕事であると考えます。  ★ ~~~   実を申しますと、愚生は”アマクダリ”自体は否定致しておりません。例えば、ドイツの(旧)連邦銀行のトップは一般にアマクダリの人達であったと言われています。つまり、人脈・人望もあり、責任感に満ちた人物がかような要職に就くことの方が、国益に適うという理由からでございます。そう考えますと、責任感のある有能な人物が然るべき場所にいっていただくことは、各地域社会にも益することがあろうとも考えております。
 ですが、”ズブズブの口利き”だけのアマクダリですと、おそらく下々の誰もがやる気を消失してしまうものと思われます。  ~~~~~  ☆ こういったことが 具体的に議論されてよいかと思います。  アマテラス普遍語ならば 何が人びとの生活にとってよいか 社会として秩序の内にいとなまれ しかも新しい変革をも容れて行ける仕組みは何か 答えは案外そして相当程度に出せるものと思われます。  あるいはすでに出ているかも知れません。その答えをオモテのタテマエとして あとはウラでこそこそ操作しているだけかも知れません。  補助金制度における申請案件にかんする審査のあり方も問題だと指摘されました。  それと 日本人の心といったことで新聞記事が目に就きました。  ▼ (復興をめぐって) ~~~  後に米ハワイ州知事をつとめたジョージ・アリヨシ氏が昭和20年 廃墟の東京にやってきた。暮れに有楽町の高架下から街角を歩いていて 少年に靴磨きをしてもらった。心をこめて一生懸命やってくれたので感心し 兵舎にもどってパンにバターとジャムをいっぱい塗り 少年にプレゼントしようと引き返して《これを君にあげるよ》と手わたした。    腹ぺこだから その場でかぶりつくかと思ったら 七歳という少年は そのまま風呂敷にしまった。《なぜ食べないの?》と聞くと 《家にマリコという三歳の妹が待っていますから》と答えた。  わんぱく盛りの男の子が ひもじさを我慢して 妹のためにパンを持ち帰ろうとする――。この瞬間アリヨシ氏は《物としての日本は失われたが 日本人の心は失われていない。必ずや 日本民族はよみがえる》と確信した という。  (日経 今朝の朝刊 社説)  ~~~~~~~~~~~  ☆ ややもすると精神論が しかもアマテラス普遍語のころもをまとって 聞かれたりしますので こんな話を――スサノヲ語の実態として――引きました。    ですが どうも世は 逆の方向へ向かっているのかも分かりません。アマテラス語がほころびを見せているのなら さらに上を行くスーパーアマテラス語をしゃべるスーパーアマテラスに登場願いたいというアニメチックな流れになっているかも分かりません。その次善の策として 野田首班による大連立であるのかもです。  ★ ~~~  営業(経常)利益増で役員報酬が増額というのは、当然のこととして理解できるのですが、減益にも関わらず、役員報酬が増額の企業が存在するというのは日本独自のものかと思われますが(日産等でございます。円高が原因とは言われましても・・・)。  ~~~~  ☆ このような役員の人たちも かつては案外 高架下の靴磨きの少年でさえあったかも知れません。その心が 真逆になったのではないかと言いたくなるような・・・。  漫談のほどご無礼いたしました。(ということは もっと漫談をつづけたいという浅はかさなのですが)。  

noname#180065
noname#180065
回答No.17

こんなに情報をいただいていいのかなと、申し訳ない気持ちで 一杯になってしまいます。 どうしてだろう。 そこまで、何も知識のない、 肩書きのない私は 自分自身に直接頭のいい方からそういう情報をもらうにはお金がいります。 互いが賢くなり、知識を掛け合わせたら、 よりよい社会が生まれるのでしょうね。 ありがたく参加させていただきます。 ありがとうございます。

bragelonne
質問者

お礼

 こちらのほうこそ おそれいります。  またたびさんは めづらしく貴重なかたのようです。    ★ ~~~  互いが賢くなり、知識を掛け合わせたら、  よりよい社会が生まれるのでしょうね。  ~~~~~  ☆ えぇ まさにこれを目指しています。  残念ながらわたくしも肩書きがありませんが ぼちぼちまいりましょう。  (省エネご返答になってしまいますが)。

noname#180065
noname#180065
回答No.16

何度読んでも難しい。 他の回答者の回答を読むと、 あぁ確かにそういう趣旨の質問だなとわかるのですが。。 答えを読むとわかった気がする、わかってないんだなと。 今の政権をそのような過去に照らし合わせてみるとは、 私にとっては色々な古いものが取れ、新鮮で勉強になります。 歴史に学ぶとはそういう考え方をするのかと。 対話に関しては、この質問内でのやりとりにより、 片方が優秀であれば、 成り立つと考えました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 歴史に学ぶとはそういう考え方をするのかと。  ☆ わたくしの場合 きっかけはたまたま古代史にその理解の鍵があると思ったところから始めています。  むろんそれぞれの時代に現代日本の理解にとっての鍵があるかと思います。  古代史が 有益なところは 国家が成立したという歴史を扱えることではないでしょうか?  二階建て構造の家が なかった時代とそれが建てられた時代とのちがいは よい見方を提供しているくれると思うのです。  No.14のひどっちさんは 特に明治以降の現代史にくわしい方ですので わたくしが古代史にもとづく分析理論を提出しつつ 吟味してもらいつつ 現代日本論についておそわって来ています。  あとは こういうこともあるというお話ですが ともかく昔は アマテラスのアマを出すだけで 人びとの顰蹙を買ったものです。天皇論などは 一般の人間がやるものではないという世の中でした。その空気を読めたのですが その空気にはわたしは従わなかった。おかげでうだつが上がりません。  そろそろあたらしい時代に入るのではないかとは思っております。  対話にかんしては すでに触れましたように 一方がひとこと《タイム》と言っておけば それは中断はしますが 対話は正式に成立していますし 継続しています。それがない場合が 往々にして見られます。  こういう主題については みなさんの考えが共同化されていくことで あたらしい常識となり 社会も全体としてあらたな動きを見せて来るようになる。こう考えます。つまり そういう――むろん民主主義の――過程は 気長に進めて行くものだと思われます。  ので これからも ときどきはこのような質問も覗いてみるようにしてくださるとうれしいです。  というように思いました。どうでしょう。

noname#180065
noname#180065
回答No.15

こんにちは。 用語集本当に心からありがたいです。 何故そんなに、私がこのレベルだったら、 哲学に入っていきやすいだろうとわかったのか。 賢いんだなと驚かされます。 おかげで実生活において、少しずつ自分の意見を言えるようになってきました。 まだ、答えを聞くのは怖いですが、 今迄いただいた回答を思い出して、大丈夫だと思えるようになりました。 時間が取れず、先にお礼のみお伝えいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ともかくわれわれ現代の日本人が 日本社会をどう捉えて行けばよいかを考えた結果です。  またたびさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  基礎として 人間論ですとか社会とは何かやその歴史的な推移についての議論ですとかを下敷きにしなければいけないと考えますが とにもかくにもこのわれわれの社会をどう捉えれば分かりやすいか そして将来へどう変えるところは変えて行くのがよいか こういった問い求めをしています。  この質問じたいは ちょうど話し合いを問う質問がありましたので それに合わせて問うてみたものです。  ご自分の意見を言えるようになられたとか。よかったですね。  さらになおゆっくりとまいりましょう。もうひとついただいています。

noname#143207
noname#143207
回答No.14

 こんばんは、ひどっち でございます。 

> Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?  
  はい、可能と考えられます。ただ一般論と致しまして、日本人は、心地よい議論をするのに苦手意識を持っているのかもしれません(一昔前ですが、人知れず、寡黙に、自己の信念に従って行動するといった”無言実行”型が理想とされていからでございます)。 
> Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?  
  権力者は一般に”公人”として扱われますため、ある程度の批判にさらされるのは、やむを得ないところがあろうかと考えられます。ですが、一例を挙げさせていただきますと、普天間基地の移設問題のときもそうでございましたが、ただただ、メディア等は批判するだけであり、建設的な(中身のある)議論はほとんどなかったように見受けられました。  批判するだけならば、誰にでもできるのですが・・・  ぼろくそに言うのでしたら、ぜひとも模範例(模範解答)を示していただきたいと常々思っております。 
> Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。
  昨今の安直な”競争主義”も、影響を与えているものとも考えております。そこでは、”競争”である以上は、優劣が決せられます。そして、自分の立場を優位に立たせたい、もしくは、競争相手となるものは蹴落としたいという感情から、足を引っ張る、という事態が生じるものと思われます。ですが、その発言の中には、アマテラス用語(学術用語)の巧みな使用が認められること、さらには自分を優位に見せたいという情動が往々にしてあることから、お上意識なるアマアガリ症候群に繋がるものが見られるものと考えております。”足を引っ張る”のではなく、状況に応じて、”手を引っ張って”くれてもよさそうなのですが・・・ 
> Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。
 戦前 
・「第一次護憲運動」(大正2年:1913年)桂内閣総辞職 ・「越中女一揆」(大正7年:1918年)この騒動が全国に拡大して「米騒動」となり、寺内毅内閣総辞職 
戦後 ・「60年安保闘争」 ・「70年安保闘争」  少し前までですと、民衆の不満は、デモや学生の抗議運動を通して訴えてきました(ことの是非はともかくとして)。ですが、昨今では、お上(お二階様)への抵抗も減少してしまい、むしろ、それは下へ向けられることになったと考えております。自分より弱い者を作り出し、その弱者、さらには貧者へと、でございます。    自分のことを棚上げし、他人に丸投げ・逃げ口実として用いられる”自己責任”、スタート地点は本来同じはずなのに、実際は異なっています”競争主義”、これらを”葵の御紋”のように振りかざし、日頃のうっぷんすらも、弱者やマイノリティに押し付けているものと考えております。  「痩せたソクラテスよりも、太った豚」なのかもしれません。 
> Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?
  まだそこまではいっていないと考えております。少なくともこの哲学カテゴリーでは、ご質問者ーご回答者の間での対話が成立しているのを鑑みますと、まだまだ話し合いは可能と考えております。 
> Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?
  いえ。戦後焼け野原から出発し、その後の発展を築きました。この中では、何かしらのチームワーク、協力・共同作業があったものと考えております。 
> Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。  いえ、正道かと考えております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  西欧の革命型にはなっていないけれど――ましてや 破れかぶれでのように民衆が暴君となるアフリカ型とは一線を画しているけれど―― 現代日本においては《競争型》の色に相当程度染まっているであろうと。  ★ いえ。戦後焼け野原から出発し、その後の発展を築きました。この中では、何かしらのチームワーク、協力・共同作業があったものと考えております。  ☆ つまりはこの戦後の復興から高度経済成長の時代には それとして競争もあったろうけれど あるいは政官財の団結するまたは癒着するお二階さんに対して賃金闘争こそおこなってその意味で競争型を採り入れていたけれど――三井炭鉱の紛争で死者を出してからはでしたか―― 過度に物分かりがよいと言われても A - S 連関は 対話型で社会をいとなみ国を推し進めて来たのだ。  低成長ないし安定成長期に移行すると 何故だかしなくてもよいところで競争をしたがる。それも すでに出発点が決して対等ではないかたちで その競い合いが始められる。  ★ ~~~~  ですが、昨今では、お上(お二階様)への抵抗も減少してしまい、むしろ、それは下へ向けられることになったと考えております。自分より弱い者を作り出し、その弱者、さらには貧者へと、でございます。    自分のことを棚上げし、他人に丸投げ・逃げ口実として用いられる”自己責任”、スタート地点は本来同じはずなのに、実際は異なっています”競争主義”、これらを”葵の御紋”のように振りかざし、日頃のうっぷんすらも、弱者やマイノリティに押し付けているものと考えております。  ~~~~~  ☆ 《「痩せたソクラテスよりも、太った豚」なのかもしれません。》とつづきます。――たしか当時わたしも卒業間近かの学生だったか 東大総長の大河内一男が言ったというニュースを聞いたおぼえがあります。(大河内は 社会思想史専門なので覚えています。眠狂四郎の作者・柴田練三郎に顔が似ていました)。――なのですかねぇ。人それぞれかも分かりませんが。  でもまだ話し合いが出来なくなったわけではない。  ★ 少なくともこの哲学カテゴリーでは、ご質問者ーご回答者の間での対話が成立しているのを鑑みますと、まだまだ話し合いは可能と考えております。  ☆ 少々やり玉に挙げるというような拙速をしでかしますと 《対話型ではなく 追従型だ》という見解が出されてもいます。  ですが これも  ▼ 沈黙は金  ☆ というようなことわざに関連させているのならば――いるようですから――  ★ (一昔前ですが、人知れず、寡黙に、自己の信念に従って行動するといった”無言実行”型が理想とされていたからでございます)。  ☆ の遠慮版の対話型と捉えればよいでしょうか。  ★ ~~~~~   戦前  ・「第一次護憲運動」(大正2年:1913年)桂内閣総辞職  ・「越中女一揆」(大正7年:1918年)この騒動が全国に拡大して「米騒動」となり、寺内毅内閣総辞職   戦後  ・「60年安保闘争」  ・「70年安保闘争」  少し前までですと、民衆の不満は、デモや学生の抗議運動を通して訴えてきました(ことの是非はともかくとして)。  ~~~~~~~~  ☆ このあたりも さらに詳しく――基調をおさえたかたちで分かりやすく――捉えられればよいと思うのですが これは 追い追いということにします。単純に言って・大きく言って 日露戦争の勝利に自信を持って――いえ 持ちすぎて―― 人びとが膨れ上がって行く過程にありましょうか? いえ現実がそれほど厳し過ぎたのだと言うべきでしょうか?  そしていわゆるイデオロギーによる闘争については もはや対話型の共同自治は風前の灯だったようにも――ふり返ってみてですが――思われます。幸か不幸か ドイツや朝鮮半島のように国が二分されることはなかった。  競争がどのようにあるかについて 言論もしくは学問にかかわるようなところでは――と採って見てみたのですが――  ★ ~~~~~  〔昨今の安直な”競争主義”も、影響を与えているものとも考えております。〕  そこでは、”競争”である以上は、優劣が決せられます。そして、自分の立場を優位に立たせたい、もしくは、競争相手となるものは蹴落としたいという感情から、足を引っ張る、という事態が生じるものと思われます。  ですが、その発言の中には、アマテラス用語(学術用語)の巧みな使用が認められること、さらには自分を優位に見せたいという情動が往々にしてあることから、お上意識なるアマアガリ症候群に繋がるものが見られるものと考えております。  ~~~~~~~  ☆ スサノヲ市民のあいだにおいても その言語習慣について中でアマアガリ志向(あえて うつくしく)の場合には アマテラス学術語をあやつる いえ違った 上手に駆使するような言葉づかいが ひとつの流れをかたちづくる。  要するに 使用言語が スサノヲ市民圏においても S 語と A 語とに分裂の様相を呈する側面が見られる。人間語なる S 語に立脚した学術語の A 語を活用し得ているのならば 文句無しなのでしょうけれど。  また学術語にしても・アマテラス普遍語と言っても 社会の各層や各分野にまんべんなく有効・有益な政策を策定しうるものでもない。この点でも 対話型の本領を発揮して行って欲しいものです。  ★ 自分を優位に見せたいという情動が往々にしてある  ☆ のを もうどうでもよいこととして  ★ アマテラス用語(学術用語)の巧みな使用  ☆ は むしろ利害関係のぶつかり合うところについていくつかの政策案のあいだを むしろ自己の案に不利な点をしっかりと明らかにして互いにまとめあげていくために活用して欲しいところです。  そうして何よりも 自分たちの足は スサノヲ市民社会にしっかりとつけていて欲しいと思います。その意味で アマテラス公民は アマクダリを果たして欲しい。その方向でみづからの将来を決めてくれたらと思います。  うわぁ 言いたい放題になりました。  でも 検討していただけるなら ありがたいです。という意味で このままをお応えとします。

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  補論 § 5-d  日本教は 自由な対話をゆるすか? なら話し合いを!  (序) 用語の設定  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや生活態度としての思想やが かなりの程度において規定される。こう考えます。   市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S   公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A   これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明して行きます。  (1) 国ゆづり型としての A‐S 連関制  (1-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定するような檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (1-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  (2) A と S とが《競争型》なるその連関制  (2-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A = S 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  (2-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  (3) (α)および(ω) 両者の比較対照   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。  (4) さらに三つ目の A - S 連関制  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。(ときには 権力の代弁者もいる)。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。いや 洗脳状態か。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

  • 《ウリナラ》は 《アフリカ的段階》だろうか?

     市民社会と公民圏との二階建て構造なる国家という社会形態を採ったとき 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) 対話型:日本社会    (κ) 民衆暴君型:アフリカ型社会  (ω) 競争型:西欧社会  以下にこれを説明した文章をかかげます。その中から 韓国社会については むしろこの《アフリカ的段階》なる要素を色濃く持っているかも知れないのではないかとたづねてみます。ふと思いついたもので 気軽に問うものです。  セヲル号沈没事件や これまでの大統領が任期を終えたあとには 石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて 思い浮かんだものです。どうでしょう?        *  (0) 用語の設定  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや生活態度としての思想やが かなりの程度において規定される。こう考えます。   市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S   公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A   これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明して行きます。  (1) 国ゆづり型としての A‐S 連関制  (1-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定するような檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (1-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  (2) A と S とが《競争型》なるその連関制  (2-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A = S 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  (2-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  (3) (α)および(ω) 両者の比較対照   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。  (4) さらに三つ目の A - S 連関制  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。

  • 民主制の中にも帝国主義(覇権思想)があり得る。

     § 1 まづ社会形態の類型をとらえます  市民社会(《わたくし》の S 圏=一階)と公民圏(《おほやけ》なるお二階 A 圏)との二階建てから成る国家という社会形態について 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) A圏とS圏との自由対話型:日本社会    (κ) 《民衆( S圏 )は自由暴君》型:アフリカ型社会  (ω) S圏内もA圏内も両圏相互としても 自由競争型:西欧社会    おおざっぱな分類です。《果たして民主主義でよいのか》のたぐいの質問とそのやり取りがつづいていますので それにちなんで何とか問題をほぐしたい。  これまでの大統領が任期を終えたあとには ことごとくと言ってよいほど石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて その大韓民国という社会は (κ)のアフリカ型ではないか?  中華人民共和国は 人民の国とうたっている割りには おほやけなるA圏のもっぱらの公民が暴君としてのさばっている。やはりアフリカ型か?  とは言うものの 現代にあっては おほやけなるA圏の人たちも 《わたくし》なる一人の市民としてそして人間として みんな自由でありその自由が互いにひとしく平等であるとうたった考え方は それとして普及しています。タテマエは 民主制です。  民主制のもとにあっても 日本型も西欧型も 対外的な帝国主義の動きは過去となりつつあるとしても 対内的な覇権主義が――じつはそれは過去の動きであったものであると同時に 現在にも残っているし―― はたらいている。という問題を取り上げたい。  § 2 民主制にひそむ覇権思想としてのアマアガリ・シンドロームについて  まづ (α)日本型と(ω)西欧型とにかんたんに捉えた説明をあたえて行きます。  (α) 対話型の社会形態は 国ゆづり型である。  (α-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  どのようにクニユヅリが成ったか?  S(スサノヲ)市民の中から出た公民 A (アマテラス)らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげた。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定し制約するような檻に住まわせたとも言える。これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (α-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群なる心理――が絡んでくると スサノヲ市民どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  すなわちこれらよき基礎とあしき部分とをふくんだところの《 S - A 》の対話型である。  そして 端的に言って アマアガリ・シンドロームは 覇権思想である。もっぱら《上から目線》によって成り立っている。  (ω) A と S とが《競争型》なるその《 A - S 》連関制  (ω-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A(おほやけ) = S(わたくし) 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  国ゆづりというよりは 国盗り・天下取り型になる。  (ω-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの社会的な意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているようでもある。  § 3  (α)および(ω) 両者を比較対照します   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向ではないだろうか。《法律》は その既成事実を保守するためにつくられる傾向があるのだろうか?  日本市民は――その昔 オホクニヌシとその息子のひとりは―― これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら 相手を神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは国の共同自治の権限を返せとは言えない。言わない。おとなしい。そして ただそれだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群が覇権思想となったヰルス)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。《主戦論》が優位に立つ場合もある。欧米主導のグローバル化に感染したゆえなのかどうか。  § 4  さらに別の A - S 連関制 とはどういう現実か  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民 S らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:《 S (=じつは 絶対的 A ) ∽ A 》連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。  対話型(α)と見た日本社会の《伝統》は そして 自由競争型(ω)と捉えた西欧社会とともに この民衆暴君型(κ)と見られるような社会と国家の動きに対して どのように対処して行くのがよいであろうか。  いったい何が問題なのか? 何が悲しくて何を問題としているのか?  お考えをお寄せください。

  • 《アフリカ的段階》について おしえてください。

    《アフリカ的段階》について おしえてください。    ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  (α) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいる。  (β) しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  (γ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  (δ) 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そもそもの――吉本による――定義からおしえてもらわねばならないのですが 次のように問いたいと思いますので よろしくお願い致します。  (1) 我が国の《公地公民制≒天皇家による家産国家制》と どう同じでどう違うか?   cf. 【Q:《公地公民制》とは 民主制への道程か?】     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5967888.html  (2) すなわちもし 公地公民制が遠く民主制への道程であったとしたら 案外その《公:おほやけ》という考え方においては    (δ): 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。  と同じ内容を志向しているようにも思われるが どうか?  (3) すなわち アフリカ的段階では 明らかに歴史を先取りしてすでに暴君のごとき民衆を想定しているように見える。   (β) しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  と。だとすれば 日本の古代国家は アフリカ型にくらべれば 《対話型》である。  対話型をえらんだ結果 われわれ市民は なめられてしまったか。何もかもを巻き上げられっぱなしであった。  ちなみに 中国ではむしろかなりアフリカ型の《暴君型》に近い。    ■ (孟子:尽心章句) ~~~~~~~~    人民がもっとも重要で 土地の神と穀物の神である社稷はこれに次ぎ 君主はもっとも軽い。    だから衆民の人望を得ると天子になり 天子のお気に入ると諸侯になり 諸侯のお気に入ると太夫になる。    諸侯が社稷つまり国家を危機に陥れると 退位させられる。肥え太った獣を犠牲とし 清浄なお供えをささげ決まった時期に祭祀しているのに 干害・水害がおこったならば 社稷の神自体を新しい神に変える。    (尽心章句 下 貝塚茂樹訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 吉本隆明は わたしは途中から嫌になって読まなくなっていますので 横着なかたちではありますが おしえてください。

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

  •  《自然に帰れ》!?

     《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 人間と社会についての用語を新しいものへ

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

  • 人間と社会とについての用語の確認

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。