自然に帰れ!?

このQ&Aのポイント
  • 人間の社会における存在の関係やその錯綜したあり方を考える
  • 市民と公民の区分によって、本来の人間と政治的人間の違いを明確にする
  • 現実の人間と真の人間の連関について考える
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 《自然に帰れ》!?

 《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

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  • HANANOKEIJ
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回答No.3

福岡正信さんの「自然に還る」という本を読みました。衣食住を自給自足でまかなって、残りの時間を内省にあてると、静かな平和が訪れそうです。 すべての人が実践できることではないでしょうが、労働時間の短縮と、年金生活で体力、知力に余裕のある人に実践していただきたい。 人間の能力の全面的な発達を実現する未来が、近いのかもしれません。 何もしないのが、一番賢明な気がします。 困っている人のそばで、一緒になげき、悲しみ、祈ることはできそうです。

bragelonne
質問者

お礼

 花の形而さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 人間の能力の全面的な発達を実現する未来が、近いのかもしれません。  ☆ あぁ なるほど こういった方向を願い望んでいたようです。言われてみて そういう志向になります。  No.1補足欄にわたしのほうから候補を三つ挙げました。  ★ 福岡正信さんの「自然に還る」という本を読みました。衣食住を自給自足でまかなって、残りの時間を内省にあてると、静かな平和が訪れそうです。  ☆ と示していただいたご回答は その三つのうちの( α )方式になりましょうか。そのたぐいの徹底した方式であるようです。  ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~  ( α ) 実際に自然に触れ親しむ時間を多く持つこと。  ( β ) ちょうどここでの投稿のように 何でもありでやり取りをすること。(やり取りであって 言いっぱなしではだめだとは思いますが)。  ( γ ) 具体的な主題を取り上げて この点については こう考えるべきだ・ああ考えるのがよいといった提案をとおして 人間的自然とその考え方を引き出すこと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ( α‐1) ★ 労働時間の短縮と、年金生活で体力、知力に余裕のある人に実践していただきたい。 ――☆ というように 社会の一部の人びとだけとしてでも実践するとよい。  ( α‐2) ★ 何もしないのが、一番賢明な気がします。 / 困っている人のそばで、一緒になげき、悲しみ、祈ることはできそうです。――☆ 後半は賛成ですが 前半は半分 賛成です。だって《何もしない》ではいられないでしょうから。  ということは  ( α‐3) ふつうに仕事をしたり余暇を過ごしたりしつつ 自然でいられるなら よさそうだ。  ☆ となるでしょうか?  おそらく かくなる上は 高望みして  ★ 残りの時間を内省にあてると、静かな平和が訪れそうです。  ☆ という実践の成果を発表してもらいたいというところに行き着くでしょうね。  こういった方向のご提案として受け取りました。添削などありましたら またご投稿をください。  * なお《人間的自然》ということの内容を問い求めたいとも願っています。関連する事項としては つぎがあります。みなさんも 自由なご見解を寄せてください。   ○ もののあはれ   ○ 甘え / 聖なる甘え   ○ 無縁〔なる人への〕慈悲   ○ めぐみ(恩恵)とは   ○ 精神疾患に《自然》という治癒のちからを。   ○ 構造主義に《自然》の要素を注入したい。   ○ 《ことば以前》とはどういうことか?

その他の回答 (17)

noname#112269
noname#112269
回答No.18

追伸。今は、一日に二回は見るようにしています。機会が減るとは、これが、一日に一回であったり、数日に一回であったりすると言うことです。 次第に、川の流れ広くして、やがて縁の元のものとなる。近づけば近づくほどに広く平らかになる無上の道は、だれもかれもをその終局へと導く。 遠離しつつ、広大であって、しかもすべての人を残らず彼岸へ運んで行くのは、それが法であるからでしょう。 次第道を整えて、次第勢いを増して、次第道を浄めて、その無上道を、、、わがこととして今際の安穏にいたろう。至り尽くして、その究極に住します。

bragelonne
質問者

お礼

 閉めたあとに このご投稿をもらったような感覚です。  それはよいとして もし違いを際立たせるように言おうとすれば やはりわたしの場合は 《おしまいから始める》になります。  ★ 無上道  ☆ は いま・ここに《わがこととして》あり――こう宣言するという意味です。未完成の完成 つまりそういう動態です。  ★ 至り尽くして、その究極に住します。  ☆ という状態から いま始めます。  まぁ ずるいのでしょうか? はすっぱなんでしょうか? ものぐさなんでしょうか?  もし超哲学的に言ってもよいとすれば それは 十字架上のはりつけがすでに成ったと受け取るからです。  光速は仮りに絶対と想定されますが それを超える速度があるかも知れません。磔刑を超える事件がさらにあるかも知れないのですが これまでの歴史において 経験的なものごととしてはその究極であり仮りの絶対だと受け取ります。  むろん《なぞ》は経験を超えています。人間はこれを超えられません。ということは 磔刑が経験を超えるこころの窓のごとくに成ったという想定です。  この想定をさらに超える想定が出るまでは はりつけという歴史的事件が 光速の役目を果たすのではないかと考えます。  こういった違いです。手前みそですが この《終わりから始める》方法のほうが 妥当であるように思っています。どうでしょう。

noname#112269
noname#112269
回答No.17

そうですね、今はこのようなところでよいのかもしれません。ブランジュロン様のお気持ちがここに定まられたのであるならば、それが頃合でしょう。 今後も、機会のあるときにこちらを拝見させていただくつもりでおりますが、それは少なくなるかもしれません。また、ご縁のあるときは、よろしくお願いいたします。 なむ

bragelonne
質問者

お礼

 澄みません。また 迷走してしまいました。  こんばんは。ご返答をありがとうございます。  いやぁ 頃合いでしょうと言われると まだこの路線で考える余地があるのではないかと思えて来ますが・つまり考えようかと思ってしまいますが むつかしいかとも思います。  つまり 主題は 《人間的自然》として押さえておいて その探究は いまその説明の深化(ないし進化)を追究するかたちによるよりは いわば寝かせておいて いつかふと思い浮かんだときに その説明の表現は得られているのかも知れません。  そういう意味で 一たん離れようと思いました。  澄みません。一方的なしわざとなってしまって。  でもこの主題の探究は この前の《慈悲》の質問と同じように 人間の境地の中核に当たりますから どんな主題を扱っていても つねに直接・間接にかかわっているとも思われます。  こうまとめまして ひとまづ中断したいと考えます。    ありがとうございました。そして あたらしい探究の節はまたよろしくお願いいたしたいと存じます。それでは。

noname#131234
noname#131234
回答No.16

ざっと拝見いたしましたが、 「マルクスが偉い人である」というのは、 戦直の思いあがりであるというだけでは、結論が不十分です。 もう少し掘り下げて、 「唯物論者はなぜ、普通の質問が出来ないのか?」という疑問を投げかけてみてはいかがでしょうか? 仮説=「唯物論者には言語障害があるのでしかたがない」 がんばってください。応援しています。

noname#112269
noname#112269
回答No.15

おっけー(^^)q

noname#112269
noname#112269
回答No.14

まず、御礼に対するご返答をさせてください。 質問者様> ☆ 《文字は殺し 霊は生かす》 この《霊》をできるだけ人間の言葉で・経験思考としても分かるように 明らかにせよ。という質問になっています。  《香り》は現実ですか? そんな馬鹿なものはない ですか? 回答者<私達は、いい香りをかげば、ああ、いい香り、とおもいます。一方では、私達は、最高においしい空気と言うものも知っています。あぁ、空気がうまい、そういうことは往々にしてあるでしょう。言葉としても、実感としても、誰にとってもそうであることでしょう。 いわばそれが、ほんとうのところ、誰もが一番欲しいもの、そしてそうあって当然の、何の遠慮することの不要な、真実と称されるそれの香りを超えたうまさ、であるのであると思います。 そして言うならば、うまい空気はそれだけで十分であり、他の香りはむしろなくてもよく、うまい空気は香りをじゃましないけれど、香りは少し程度なら時には良いが、強すぎるとかえってむせたりするように、私達は真実だけで素晴らしい人生を生きて行けるものであるでしょう。 【質問者さん> ☆ これは 現象としては 時には《こころの思い》と《放たれた言葉の中身》とが一致しない・つまりウソをつく場合が~あるのですから いわば《原則のようなものとしての心の思い》と《発言としての現象の背後に実際に起きている心の思い》とは別でありうると考えたほうが 現実的なのではないですか?  (6) だから (く)の《まこと》とは 《原則のような――それが〈もののあはれ〉と一致するかどうかも微妙なのですが――心のあり方》を言うと採ったほうが まとまりのある見方になるように思います。  (7) (お)は 《実体》というのが分かりません。いまここで言った《原則》のようなものでしょうか? この原則もまた分からないものなのですが。つまり このことを問うのが この質問なんですから。】 回答者<うそはつけないのでしょう。そういうものなのではないでしょうか。まことのみを口にすればよいのであって、ほかの事は口にせずともよいとおもいます。 (もし、一大事に気がついたら、そのときは疑いはありえないんで、問題ないです。一大事を見逃すことなんてないように、普段からちゃんとしてたらいいんです。) また、実体と、行いと、自分自身というのは、それぞれ同じものを示しているのだと思います。私の述べたことなのですが、その意味しようとしたところを聞くと、つまり、ほんとはほんとであり、それ以外の何ものでもないのだと、そういう事なんではないでしょうか。ご飯を説明するのに、白くて湯気が出ていつも食べてるアレ、寿司のねたの下にあるアレ、あるじゃん、こう、ふかっとしててさぁ、見たいな感じで、何とか言いたいみたいに三つ挙げたんです。。 原則と言得るようなものなのかわからないんですが、まぁ、身についてるって言うんですか、へんな言い方ですが。ご飯を食べることは身についてるとは言えないくもない?でしょうか。ある意味原則ですか。本当の意味で。 だって、ご飯食ってるじゃん。 質問者さん>あぁ こまった・こまった。《自然 / 人間的自然》と言いましたが 果たしてどういう現実か? またまた・まだまだ 弱りました。ボールはかろうじてコートの中に入りましたか? 回答者<心配ないですよ。ボールの行方を見れば、大丈夫ですよ。線ないですから。平気です。

bragelonne
質問者

お礼

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  さて ふたつまなびました。  もし非思考(信仰)の立ち場でものを言うとすれば はじめに《なぞ》が来ます。表象しえぬなぞ 言葉で表現しえぬなぞです。しかもわれわれは 主観の〔人生としての〕動態に応じてこれを 仮りの言葉で語ります。思想(生活態度)を形作っていきますし さらには科学としても探究し語ります。  さしづめここでは《もののあはれ》もしくは《人間的自然》という――すでに言い表わされて来た――言葉をめぐってさらに分かりやすく解き明かしていこうというのが ねらいでした。  つまり ひとつめのまなびですが いくら仮りの表現と言っても そんなにやすやすと問屋は卸さないと分かったように思います。――たぶん てるてるさんが しばしばなさっているように 比喩のほうが効果的であるかも知れません。それも日常のものごとを喩えに用いるようなそれです。(ただし遠慮なく言って 精確さは減少するでしょうが)。  いまひとつまなんだことは 上に触れた《なぞ》つまりほかでもなく《神》 のことですが これについて まだまだその捉え方が普及していないと感じたことです。  最後のくだり つまり  ★ 回答者<心配ないですよ。ボールの行方を見れば、大丈夫ですよ。線ないですから。平気です。  ☆ ここに《なぞ》の香りを少し感じたのですが それにしても・そうだとしても この《香り》についてきちんとは てるてるさんにしても 分かっておられないかも知れません。  なぜならずばり言って つぎの考え方は 神のなぞに わたしは 反すると思うからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そして言うならば、うまい空気はそれだけで十分であり、他の香りはむしろなくてもよく、うまい空気は香りをじゃましないけれど、香りは少し程度なら時には良いが、強すぎるとかえってむせたりするように、私達は真実だけで素晴らしい人生を生きて行けるものであるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 端的に言って 《より香り》は よい香りなのです。《強すぎる》とか《じゃまする》とかいうことはなく つねに《よい香り》なのです。《空気》だけでは ひとは 生きていけますが 味気なく感じるときが多いのだと思います。《いい空気》を吸ったときというのは 思い出としてでは あまり面白くないのだと思います。  そして   ★ まことのみを口にすればよいのであって  ☆ という考え方も出されていますが この《真実〔だけで素晴らしい人生を生きて行けるものであるでしょう〕》というところですね。一般に《なぞ》は《真理》と呼ばれ 人間のまことは《真実》と呼ばれます。絶対と相対だと思います。  現象としては 相対的な真実――つまり こころの腑に落ちるというのは 経験合理性の範囲で分かるということ――が言わば世界のすべてなのですが 朽ちるべき存在たる人間が限りある真実関係で生きていけるのは 真理によって裏打ちされていると思うことがあるからだと思います。  つまり 人間の真実は 真理を仮リに表わしたものであり その範囲を超えることができない。人間は 神ではない。となります。  つまりはっきりしたことは 真実ないし人間的自然を分かりやすく表現するという問い求めよりも どちらかと言うと この《真実》は あくまでも・どこまでも《仮りのほんとう》なのであるということを もっと分かりやすくしていくほうが 効果的なのではないか。これです。  《香り・よい香り》は この表現で――ひとつの見方としては―― じゅうぶんである。むしろ この香りは 人間の真実としての現象の一端であるにすぎないのだから その《偶有性》そのことを 分かりよいように探究していくことが さしづめ求められる。のではないか。こう思いました。  いましばらく開いていますが この質問での問い求めは一たん閉じたほうがよいかも知れません。そんなところです。どうでしょう?

noname#112269
noname#112269
回答No.13

>ちょっと弱っています。ひとまづボールをお返ししますので よろしくどうぞ。 了解しました。ボールは置いておきます。ゆっくりと休まれててください。

bragelonne
質問者

お礼

 いちど神学ないし聖書の文句を出してみます。よしなに料理してください。  のっけからがちがちの文章を出してみましょう。  ▲ (コリント後書2:14-16) ~~~~~~~~~~~  神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。  救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。  滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち哲学ないし経験科学を超えた用語なのですが ここで言う《香り》という見方をとおして考えてみます。  すなわちまづ《実体》というのは何だかあいまいなので控えますが 《ことばや概念の以前の何か》としての《現実・まこと・人間的自然・真実》 こういったものです。しかもこれが 考えや振る舞いをとおして《香り》のごとく現われるという想定であり 見方です。    特にわたしからあまり言わないで さらに引用します。つづきです。  ▲ (コリント後書2:16-3:9)) ~~~~~~~~~~  このような務めにだれがふさわしいでしょうか。  わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。  わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。  わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《文字は殺し 霊は生かす》 この《霊》をできるだけ人間の言葉で・経験思考としても分かるように 明らかにせよ。という質問になっています。  《香り》は現実ですか? そんな馬鹿なものはない ですか?

bragelonne
質問者

補足

 きちんと尋ね返しておくべきでした。つぎのようにです。  ★★ (回答No.10) ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 共同主観としてのアマテラス公共性?とは いかなる現実なりや?    ★ (あ) 責任であるかと思いました。何を為しているのにも責任を伴っていると言う実際性、そのようなことが、現実にはあるでしょう。  (い) そのような責任と実際、実質と確かさの中で、われわれは暮らしをつむいでいると言うのが、リアルな本当(hontou)かと存じます。  ★★ (回答No.12) ~~~~~~~~~~~~~~~  (う) リアルな本当は、こころそのものであって、特に分けられて説明されることはありません。  (え) 喩えば、言葉を放つことと、そのこころが分けられては居ないようなものです。  (お) 実体と、行いと、自分自身がもともと一つでしかないようなものです。  ★★ (回答No.12) ~~~~~~~~~~~~~~  (か) 責任は、いわば我がものという思いを離れたところに備わります。何をするにしても、タイプするのにも、画面を使うのにも、考えるのにさえ、責任は備わっています。  (き) ことばもそうです。ことばを放つとき、人は愛執を離れています。  (く) 故にことばはまことであると知られるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) (あ)および(か)の責任の捉え方については 同感するところです。自己表現の自由は つねに説明責任をともなうのだと。問われたら答えるというごくふつうのことですから。  (2) これが われわれ人間の世界であり 現実である。しばしばそうではなく責任を免れ得ると思っていて 問い返しに対して説明を避ける場合があるようだと。  (3) この現実のことを ではどうして(い)で《リアルな本当(hontou)》という用語に言い換えているのか? 何だかわざわざ別の言葉を作っているように感じますが その事情はどういうことなのでしょう?   (4) その説明が(う・え・お)にあります。  まづ《こころそのもの》なのだと。――これは 意志行為の自由も《こころ》であり そこに《答責性を伴なう》ということも《こころ》でしょうから そうだと思います。  (5) (え)は微妙だと感じます。     ★(え) 言葉を放つことと、そのこころが分けられては居ないようなものです     ★(き) ことばを放つとき、人は愛執を離れています。  ☆ これは 現象としては 時には《こころの思い》と《放たれた言葉の中身》とが一致しない・つまりウソをつく場合があるのですから いわば《原則のようなものとしての心の思い》と《発言としての現象の背後に実際に起きている心の思い》とは別でありうると考えたほうが 現実的なのではないですか?  (6) だから (く)の《まこと》とは 《原則のような――それが〈もののあはれ〉と一致するかどうかも微妙なのですが――心のあり方》を言うと採ったほうが まとまりのある見方になるように思います。  (7) (お)は 《実体》というのが分かりません。いまここで言った《原則》のようなものでしょうか? この原則もまた分からないものなのですが。つまり このことを問うのが この質問なんですから。  あぁ こまった・こまった。《自然 / 人間的自然》と言いましたが 果たしてどういう現実か? またまた・まだまだ 弱りました。ボールはかろうじてコートの中に入りましたか?

noname#112269
noname#112269
回答No.12

ものを大切にすると言うのは、ものというのは、本来は貴重なこころであるのです。 浜辺で拾った貝殻でさえも、それを以って相手に微笑みかければ、大切な品物となるのです。 このこころの延長上に私どもの暮らしの気高さと言うものがあって、例えば、リヤカー一つでも丁寧に扱わないと、だらしがない、と言うことになるのです。 ものにこころが媒介しているので、ものは大切にすると言うのは、あはれのこころであるのではないでしょうか。 ・・・・ 質問者さん> ★ リアルな本当(hontou)  ☆ は主観内面つまり心のあり方とは 対応しているのではないのか? していないのか? 回答者<リアルな本当は、こころそのものであって、特に分けられて説明されることはありません。喩えば、言葉を放つことと、そのこころが分けられては居ないようなものです。実体と、行いと、自分自身がもともと一つでしかないようなものです。 ・・・・ 質問者さん>☆ これは わたしもかねがね思っていました。答責性(説明責任)が 自己表現には つねに伴なっているというかたちで捉えていました。つまりは 言いっぱなしでは 話にならないということかと思います。  自由とその裏側としての責任ということだと考えます。 回答者<責任は、いわば我がものという思いを離れたところに備わります。何をするにしても、タイプするのにも、画面を使うのにも、考えるのにさえ、責任は備わっています。ことばもそうです。ことばを放つとき、人は愛執を離れています。故にことばはまことであると知られるのです。

bragelonne
質問者

お礼

 三件ありますか。――まづは ご回答をありがとうございます。  まづ初めのお話は分かるように思います。なるほど モノにはいろんな出来事がかかわっているということで その当事者としての心を大事にすることにつながる。ですね?  ただ わたし自身の場合は ほぼわたし個人だけの問題としてしか関わらないモノは 簡単に捨てますね。じっさいのところ。  ★ ものにこころが媒介しているので、ものは大切にすると言うのは、あはれのこころであるのではないでしょうか。  ☆ ですから 相手が一枚加わっている場合には たしかに大事にしますけれど。ううーん。でも モノはモノなんぢゃないですかね? つまり むしろ基本は モノはモノと割り切っておいて それでも 思い出などが詰まっている場合には 大事にするといった感じではいけませんか?  あとの二件は 込み入っているようです。そしてどちらも 心と言葉と表現(発言にせよ行動にせよ)とが互いにつながっている。もしくは 一体であるのだという方向を打ち出されているのでしょうか。  これは ややこしい。のではないでしょうか? つまり たぶん志としては そういうことであって しかも実際の自己表現は どこか過不足のようなものが生じるといったことはありませんか?  ううーん。むつかしいことを提起されましたね。  儒教の知行合一ですか。言行一致と言えば分かりやすいですか。いや でもこれらは 実践するときの心構えを言っているのでしょうか。――それに対して 《心‐ことば‐表現》の一体性は 心構えの以前の人間存在の条件のようなものでしょうか?  いやぁ 困りましたね。たしかにわたしも《記憶‐知解‐意志》の一体性を言おうとしているのですが でもこれはあくまで時間差を伴なった過程としての(過程における)一体性なんです。  ですから 理念としては分かりますが どうなんでしょう 心と発言とのあいだは いわゆるウソや虚構をゆるすというかたちで いわゆるあそびがあると見るほうが 現実的ではないですか?  説明責任――つまりここでは 法的な責任はややこしいので措いておきますが 説明責任―― これだけは つねについて廻ると思います。この点では 一致していると考えます。  ちょっと弱っています。ひとまづボールをお返ししますので よろしくどうぞ。

noname#112269
noname#112269
回答No.11

前回の解答に画像を添付。

noname#112269
noname#112269
回答No.10

質問者様>では この《もののあはれ》という人間的自然〔ないし人間的スサノヲ的真実? ないし共同主観としてのアマテラス公共性?〕とは いかなる現実なりや?  回答者<前者は、ものを大事にすると言ったようなことでしょうか。急に杜撰な回答者になったなと思われるかもしれませんが、現実として回答するならばこういったようなこととなる気がいたします。後者は、責任であるかと思いました。何を為しているのにも責任を伴っていると言う実際性、そのようなことが、現実にはあるでしょう。 そのような責任と実際、実質と確かさの中で、われわれは暮らしをつむいでいると言うのが、リアルな本当(hontou)かと存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ふむふむ。――あっ てるてるさん ご回答をありがとうございます。―― つまり  ☆☆ 《もののあはれ》という人間的自然ないし共同主観としてのアマテラス公共性?とは いかなる現実なりや?   ★ 責任であるかと思いました。何を為しているのにも責任を伴っていると言う実際性、そのようなことが、現実にはあるでしょう。  ☆ これは わたしもかねがね思っていました。答責性(説明責任)が 自己表現には つねに伴なっているというかたちで捉えていました。つまりは 言いっぱなしでは 話にならないということかと思います。  自由とその裏側としての責任ということだと考えます。  えっ 何ですって?  ☆☆ 《もののあはれ》という人間的自然ないし人間的スサノヲ的真実(?)とは いかなる現実なりや?   ★ ものを大事にすると言ったようなことでしょうか。  ☆ ええっ?!?!  つまり 問いはこうです。  ○ ウソをつくのも ウソをつこうとするのであれば それとして 実情である。ほんとうのことを言いたいのだが なおウソをつこうというときにも それとして 実情である。ウソをついておきたいのだが ホントのことを言おうと決めるなら それが 実情である。――というような心の広い意味での自由な幅があり揺れ動くとき もののあはれとも言うべき人間的自然としては いったいどういう振る舞いの仕方が考えられるか?  ☆ そういう内面の真実といったことは 主観的なものなのだから 決められない――こういったお答えでしょうか?   それも一理あるようですね。でも何ですって? 《ものを大事にする》ですか? 《もの》って 具体的なものでしょ? 品物でしょう?   あぁ 《もったいない運動》といったことですか?   でも それも今問うている《人間的スサノヲ的自然》とは ちがうでしょうね。  あぁ これは これが《ことば以前》とはどういうことか? という問いなのです。真実としてのこころがあるのかどうか? そんなものはないのか? つまり上に言ったように 決められないと言うべきか?   ★ リアルな本当(hontou)  ☆ は主観内面つまり心のあり方とは 対応しているのではないのか? していないのか?   つまり これは自己表現のあり方にもかかわって来ますね。  ううん。そんな〔内面というような〕ことを持ち出さずに 表現されたその仕草をも含めた言葉〔の意味内容〕を互いに捉え合って やり取りを重ねていけばよろしい――というような答えになるのでしょうか?  ううん。

noname#112269
noname#112269
回答No.9

むかし、ここで大勢の方と色々の事についてお話したことがありました。ずいぶん前の事です。 多くの方に対して謝らなければならないことは一つで、それは、HNを複数用いたこと、思弁の性格をいくつも使い分けたことです。語ったことに内心の本当を伝えようとした事実がなかったのではなく、ただその振る舞いに、虚偽をゆるしたのです。そのことについては言い逃れようもなく私は謝罪せねばならないでしょう。皆様にご迷惑をかけたことを深くお詫び申し上げます。ただ、それがなければもっと健全な話もできたでしょうか。私は今、一人しか存在しないのです。   bragelonneさんにもご迷惑をおかけしたと存じます。 申し訳ありません。 公性に基づき発話するのが、このような場での良識であり、個の悩みに答えることは本質的には難しい。個的な答えをいうことも難しい。その様な事実に基づいて、公に了知して振舞うのがさとしいのでしょう。 その様な良識を以って、一度皆様とお会いすることなど夢にも見ましたが、それは夢であるでしょう。 丁度、bragelonneさんのお写真にあるような小道を、皆様と歩いて、諸々の真理についてお話したいと言うのもまた、しあわせな夢です。眠っている間に、見ることといたします。 NO7さん。もし、私のほうに何かを申しておられるのであれば、以下ご一読ください。 私は貴方が何者であるか特定することはできませんが、以前、お話したことがもしかすればあるやも知れません。互いに誤認しているかもしれません。しかしながら、私は貴方が嫌いなのではないのです。貴方の、お人柄を配慮することも、自然に対する思いも、人類の総和、乃至私の持てる限りの経験から類推するしか及ばず、真相を知ることは、今現在では難しいのです。申し訳ありません。 またご縁があれば、そのときを楽しみにいたしております。  以前お話した方でも、新しい方でも、語るときにはまた善き語らいを為しましょう。 以前の、といっても随分前ですが、その方は、まっとうな雰囲気をもたれておられましたよ。それは、自然が云々と言うことではありませんでしたが、言葉のうちに、でしょうか、なにか空気的なものをその様に感じた覚えがあります。 bragelonneさん、スペースお借りして誠に申し訳ございません。 では  

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 語ったことに内心の本当を伝えようとした事実がなかったのではなく、ただその振る舞いに、虚偽をゆるしたのです。  ☆ 《虚偽》はいけないでしょうね。  宣長によれば 《虚偽をゆるした》のなら そうしようとしたのも《実情》だと言うでしょうね。《本心を伝えようとする》のも 《実情》からなのだと。  しかも この《実情を――実情すらをも――いつわる》こと いつわって《もののあはれ》に就きたまえと言うのではないかと。  では この《もののあはれ》という人間的自然〔ないし人間的スサノヲ的真実? ないし共同主観としてのアマテラス公共性?〕とは いかなる現実なりや? と問い求めています。よろしくどうぞ!!  * No.7の方は わたしの質問への回答者の方々を誹謗中傷によって足蹴にしたので 口を利きません。(わたしへの誹謗中傷は 一応あやまりました)。ですから 口を利かないというより 人間として死んでいると見なしています。よみがえるかどうかは わたしの知ったことではありません。これが 人間の考えるかたちでの無縁慈悲だと思っています。ときが経てば わたしも成長するかも知れません。

関連するQ&A

  • あなたは 何語をしゃべっていますか?

     1. ひとがしゃべる言葉には ふつうに市民として社会の中に生活しているときの《人間語》があります。  2. そのひとつの特徴としては――互いに主観をぶつけ合うようにして 自由に交通するゆえ―― 《あやまちうる》という性格を持ちます。  3. この・スサノヲ市民のあやまちうる人間語のほかには そうだとすると あやまち得ない科学的な普遍語があり得ます。  4. つまり スサノヲ人間語としての主観をなるべく控えるかたちでアマテラス公民の用いる普遍科学語。  5. そして 科学語のように中立――価値自由-――ではなく そこに主観的な価値判断をまじえたときにも なお普遍性を問い求める倫理のことばがあります。  6. これは アマテラス公民の普遍人格語とよべます。  7. 整理すれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(科学語および人格語)  8. ところが ひとは誰も 公民としてのみ生活しているわけではなく 市民であっても 選挙をつうじてなりとも公民としても生きている。    9. したがって おそらくわれわれのふつうにしゃべる言葉の範囲は広く けっきょく S 語と A 語とのすべてだと言えます。  《 S 人間語 - A 普遍語(人格語&科学語)》の構造的な複合語  10. このようにひとがしゃべる言葉として捉えた内容は 人間観にもつうじており 哲学・思想の現実的なあり方にもかかわって行くものと思われます。  11. 端的に言って 西欧の人びとは・そしてその哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を必ずしも扱わないクセがある。  12. 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    13. あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロとしてもいる生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまい ときにはそれだけに終わろうとするクセ。  14. ちなみに その思潮に対する反動が起きて 《あやまち》でもよい・または あやまち得る S 語のほうがよいという風が吹くときがあるようだ。スサノヲ市民の中の《その場主義》に片向いた一般ピープル主義とも言えるポピュリズムでしょうか。  15. と かんたんに捉えたとき 構造的な連関のあり方がまことに按配がよいといった《 S - A 連関》語は われわれは しゃべられないものだろうか?   16. つまり S か A かのどちらか一方に片寄ることなく その全体にわたる言葉をしかるべき配合にして しゃべるようになれないか?  ☆ これが問いです。忌憚なきご見解をどうぞ。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 国家とは何か? その存立根拠とは?

     (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?  (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。  (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。  ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。  これが 特徴であると考えられる。  (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。  これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。  (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?  (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?  (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。  (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?  (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。  (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

  • 事大主義(アマテラス予備軍症候群)とその後遺症

     1. ひとの言葉は あやまち得るスサノヲ人間語とあやまたざる〔と見なされる〕アマテラス普遍語とに分かれる。   《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる構造的な成り立ち  2. アマテラス語をよく使いこなすひとは 社会の中で一般に指導的な地位に上がることが多い。言いかえると スサノヲ市民が《あまあがり》すると アマテラス公民となる。   《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》から成る社会のかたち   3. このかたちは 二階建ての構造であるように思われる。お二階さんの中でさらにアマアガリが起きると いわゆる国家元首としてのアマテラシテが出来る。   《 S 圏 - A 圏(アマテラス公民 / アマテラシテ)》連関制    ・アマテラス公民:官僚・政治家その他もっぱらの公民と見なされる職務    ・アマテラシテ:国王・皇帝・象徴  4. ここに第三次のアマアガリがあり得る。それは特に 《皇帝なるアマテラシテ》の場合であり 《帝国》というのは なおほかの国家をも自分の支配下に置こうとする動きである。  5. 韓国は 大いなる帝国主義アマテラシテに事(つか)えるという事大主義なる行動をしばしばおこなって来た。これを アマテラス予備軍と呼び得る。そのクセを アマテラス予備軍症候群と言えるのではないか?  6. 大日本帝国に仕えた朝鮮は 日本が敗けたあと いろいろ協力を求めて来たように思われるが 敗戦国は叩けということになる。反日である。国是のごとく。  7. ジャパン・バッシングそのものは 自分の責任でそういう表現をするかぎりで 仕方ないことですが 問題は 《反日》が 自己表現の大前提になっていることにある。  8. ▼ (ヰキぺ:反日主義) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ▽ 鄭大均:「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」  ▽ 崔碩栄:「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。・・・  ▽ 黒田勝弘:「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  9. もしこのようにおのれの行動方針が 真っ先に《反日・蔑日》を掲げているのならば 言葉としての《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる成り立ちよりも先に 日本叩きという頭が来ることになります。  10. すなわち 《統一方針なるアマテラス方言》が すべての言葉を凌駕してしまう。それは 子どもの頃から 頭に叩きつけられる。  11. これでは いくら思考能力を伸ばそうとしても 民族としての統一アマテラス語がつねに立ちはだかる。  12. これでは 気が狂わないほうが おかしい。のではあるまいか?  13. なお 中国の行動は アマアガリ・シンドロームに罹っていると見ます。最初のボタンをかけるときに そうなのである。

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。