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《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

 1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

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noname#210555
noname#210555
回答No.1

こういう偏屈な考えに、古来よりの神々の名前、しかも主神たちの名前を使われるって 想像してるより気分がわるいもんですね。 もっと自前のことばで定義付けてできないもんなんでしょうか。 哲学を標榜する人たちは。 あと16抜けてるけどなにか書いてあったんでしょうか。コピペミス? それともただの順番ミス? 17>終わってます。始まりもありません。 人間として生まれればどれほど獣じみてようと、人間です。 人に近い人間というのは禅問答の領域でしょう。 人間化を目指す意味があるのは人間ではないモノたちだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ あと16抜けてるけど  ☆ 単純ミスでした。コピペだけではなく 書き直しと追加をしましたから その過程で起きたエラーでした。《17》を《16》と読んでください。  ☆☆ (趣旨説明欄) 17.(=じつは 16) 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  終わってます。始まりもありません。  人間として生まれればどれほど獣じみてようと、人間です。  人に近い人間というのは禅問答の領域でしょう。  人間化を目指す意味があるのは人間ではないモノたちだけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ん? 《始まり》はあったのですか? なかったのですか?  始まりはなかったが いづれおしまいとなる時と状態は来るものであって じつはすでに来てしまっている。ということでしょうか?  ん? 《人間化》を目指してあゆむことは あるのですか? ないのですか?  すでに《人間として生まれればどれほど獣じみてようと、人間です》から 人間化は必要がない。のですか?  けれども 〔始まりはないけれど〕終わったというときは来ている。のですか?  これらのふたつの《ん?》だけでも  ★ 禅問答の領域でしょう。  ☆ ね。へっへっ。  ところで  ★ 人間化を目指す意味があるのは人間ではないモノたちだけ  ☆ というときの《人間ではないモノ》とは 具体的にはどういうモノなのですか? 《獣じみた人間》ではなく・決してそういうことではなく 《人間ではない動物》のことを言うのでしょうか?  これも  ★ 禅問答の領域でしょう。

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  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

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     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 国家とは何か? その存立根拠とは?

     (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?  (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。  (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。  ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。  これが 特徴であると考えられる。  (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。  これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。  (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?  (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?  (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。  (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?  (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。  (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • 事大主義(アマテラス予備軍症候群)とその後遺症

     1. ひとの言葉は あやまち得るスサノヲ人間語とあやまたざる〔と見なされる〕アマテラス普遍語とに分かれる。   《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる構造的な成り立ち  2. アマテラス語をよく使いこなすひとは 社会の中で一般に指導的な地位に上がることが多い。言いかえると スサノヲ市民が《あまあがり》すると アマテラス公民となる。   《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》から成る社会のかたち   3. このかたちは 二階建ての構造であるように思われる。お二階さんの中でさらにアマアガリが起きると いわゆる国家元首としてのアマテラシテが出来る。   《 S 圏 - A 圏(アマテラス公民 / アマテラシテ)》連関制    ・アマテラス公民:官僚・政治家その他もっぱらの公民と見なされる職務    ・アマテラシテ:国王・皇帝・象徴  4. ここに第三次のアマアガリがあり得る。それは特に 《皇帝なるアマテラシテ》の場合であり 《帝国》というのは なおほかの国家をも自分の支配下に置こうとする動きである。  5. 韓国は 大いなる帝国主義アマテラシテに事(つか)えるという事大主義なる行動をしばしばおこなって来た。これを アマテラス予備軍と呼び得る。そのクセを アマテラス予備軍症候群と言えるのではないか?  6. 大日本帝国に仕えた朝鮮は 日本が敗けたあと いろいろ協力を求めて来たように思われるが 敗戦国は叩けということになる。反日である。国是のごとく。  7. ジャパン・バッシングそのものは 自分の責任でそういう表現をするかぎりで 仕方ないことですが 問題は 《反日》が 自己表現の大前提になっていることにある。  8. ▼ (ヰキぺ:反日主義) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ▽ 鄭大均:「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」  ▽ 崔碩栄:「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。・・・  ▽ 黒田勝弘:「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  9. もしこのようにおのれの行動方針が 真っ先に《反日・蔑日》を掲げているのならば 言葉としての《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる成り立ちよりも先に 日本叩きという頭が来ることになります。  10. すなわち 《統一方針なるアマテラス方言》が すべての言葉を凌駕してしまう。それは 子どもの頃から 頭に叩きつけられる。  11. これでは いくら思考能力を伸ばそうとしても 民族としての統一アマテラス語がつねに立ちはだかる。  12. これでは 気が狂わないほうが おかしい。のではあるまいか?  13. なお 中国の行動は アマアガリ・シンドロームに罹っていると見ます。最初のボタンをかけるときに そうなのである。

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

  • あなたは 何語をしゃべっていますか?

     1. ひとがしゃべる言葉には ふつうに市民として社会の中に生活しているときの《人間語》があります。  2. そのひとつの特徴としては――互いに主観をぶつけ合うようにして 自由に交通するゆえ―― 《あやまちうる》という性格を持ちます。  3. この・スサノヲ市民のあやまちうる人間語のほかには そうだとすると あやまち得ない科学的な普遍語があり得ます。  4. つまり スサノヲ人間語としての主観をなるべく控えるかたちでアマテラス公民の用いる普遍科学語。  5. そして 科学語のように中立――価値自由-――ではなく そこに主観的な価値判断をまじえたときにも なお普遍性を問い求める倫理のことばがあります。  6. これは アマテラス公民の普遍人格語とよべます。  7. 整理すれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(科学語および人格語)  8. ところが ひとは誰も 公民としてのみ生活しているわけではなく 市民であっても 選挙をつうじてなりとも公民としても生きている。    9. したがって おそらくわれわれのふつうにしゃべる言葉の範囲は広く けっきょく S 語と A 語とのすべてだと言えます。  《 S 人間語 - A 普遍語(人格語&科学語)》の構造的な複合語  10. このようにひとがしゃべる言葉として捉えた内容は 人間観にもつうじており 哲学・思想の現実的なあり方にもかかわって行くものと思われます。  11. 端的に言って 西欧の人びとは・そしてその哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を必ずしも扱わないクセがある。  12. 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    13. あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロとしてもいる生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまい ときにはそれだけに終わろうとするクセ。  14. ちなみに その思潮に対する反動が起きて 《あやまち》でもよい・または あやまち得る S 語のほうがよいという風が吹くときがあるようだ。スサノヲ市民の中の《その場主義》に片向いた一般ピープル主義とも言えるポピュリズムでしょうか。  15. と かんたんに捉えたとき 構造的な連関のあり方がまことに按配がよいといった《 S - A 連関》語は われわれは しゃべられないものだろうか?   16. つまり S か A かのどちらか一方に片寄ることなく その全体にわたる言葉をしかるべき配合にして しゃべるようになれないか?  ☆ これが問いです。忌憚なきご見解をどうぞ。

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

  •  《自然に帰れ》!?

     《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

  • われわれは どこへ行くのか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム                   世界との未分化なる一体性。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                   時間的存在の自覚。                   《世界‐内‐存在》。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                  《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生生活にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。  8. わが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の              終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに              あたる300年ごろからを当てる。                これは やまとの三輪市政であると見る。              崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。              河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ              タラシヒメの登場による。              ・・・