村上隆のフィギュアは天皇へのオマージュか?それともパロディなのか?

このQ&Aのポイント
  • 村上隆のフィギュアは、天皇へのオマージュなのか、それともパロディなのかについて考えます。
  • フィギュアを通じて、日本の社会や国家の誕生からの歴史について考えることが重要です。
  • フィギュアは、現代の日本社会における階級闘争やアマテラス圏とスサノヲ圏の関係を表現していると言えます。
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村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?

 それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。    *  天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか?  それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか?    *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ    は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと    つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が    特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると    いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった    としても の意です。 

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noname#146675
noname#146675
回答No.3

かいつまんで読めば、ああ、そうとも言えるなあと所々頷くところがありました。 自問自答するには悪くない材料だと思ったのであげておきます。 ここでも「オリエンタリズム」が出てきますね。 仁科さんでしたっけ、彼が仰っていた「萌え」じゃない「燃え」って、きっとこちらの意味に近いと思う。 大浦信行と村上隆/オリエンタリズムをめぐって(校正2) [アート論] http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2009-04-22

bragelonne
質問者

お礼

  ご回答をありがとうございます。  § 1 ★ ここでも「オリエンタリズム」が出てきますね。  ☆ まづこの視点の問題から入ります。  § 1-1 まづ資料です。最小限にまとめました。  ▲(彦坂尚嘉:大浦信行と村上隆/オリエンタリズムをめぐって(校正2))~~~  ( a ) サイードは、欧米諸国が、自らの内部としてもたない「異質な」ものを「オリエント」(=「東洋」)に押し付けてきたとし、「オリエント」を不気味なもの、異質なものとして規定する欧米の先入観の姿勢を、《オリエンタリズム》と呼び、批判したのです。  《オリエンタリズム》とは、欧米諸国によって作られたイメージであります。  それは優越感や傲慢さ、偏見とも結びついているのです。  つまり中国現代絵画に見られるのは、欧米人のオリエンタリズムに媚びて、欧米人の優越感や傲慢さ、偏見を満たすような戯画化し、被虐的に描き出す愚かで醜い中国人なのです。  ( b ) 日本においても、セルフ・オリエンタリズムを、決定的に押し進めたのが、村上隆でした。そこにあるのは、異質で、白痴的で、漫画の精神しかない、愚劣な、歌麿的な、巨大な性器を持つ、浮世絵の枕絵的な日本人像なのです。  欧米人の優越性に媚びた、こうした自嘲主義的なオリエンタリズムは、中国現代絵画の世界的成功と、そして村上隆の世界的な成功を生み出したのです。  ( c ) そして村上隆のオリエンタリズムへの先導をはたしたのが、大浦信行(*1)の自虐的ヒロヒト的オリエンタリズムであったのです。    *1 大浦信行:《日本人が、海外に出て、ある種のアイデンディ      ティ・クライシスに陥って、その中で見た幻想や妄想の作品      として、意味があったと〔彦坂尚嘉は〕評価するのです。       それは、ある意味で日本を日本人自身が戯画化してとらえた      オリエンタリズムの作品であります》。  大浦信行と村上隆は、連続していたのです。共に、原爆と日本の被爆を、自虐的に、欧米に媚びたオリエンタリズムとして描き出したのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  § 1-2 彦坂の指摘するオリエンタリズムは 《性をめぐる思想(生活態度)の異質性》とそして《いわゆる元首に 天皇ないしいまでは象徴天皇をいただくという特異性》だと ここでは 見ます。  § 1-2-1 性をめぐる異質性    そうですね。感覚の違いと言われればそれまでなんですが ( b )の評価は いま問うている《 My Lonesome CowBoy 》については わたしは感じないですねぇ。  ▲ 異質で、白痴的で、漫画の精神しかない、愚劣な、歌麿的な、巨大な性器を持つ、浮世絵の枕絵的な日本人像  ☆ という印象は どこにも感じません。ほかの作品はいざ知らず いまのフィギュア作品にかんしては そもそも エロスの問題を超えているように感じます。  そしてわたくしは 主題が――現代人が現代社会ないし現代世界を生きる上で味わわざるを得ないことのひとつとして――《自己満足》だと見ての話しになっています。そうしています。  自己満足ということ自体は いわば中立の主題であり 見る者にその価値自由から出発してそれぞれに自分の思いをいだかせる芸術作品になっていると。  彦坂は わたしの先を越したかのごとく 大浦信行を先駆者として 村上隆に《天皇という或る種の普遍性(=おほやけ)を設定している社会における――欧米人にとっての――異質性》に着目した。次です。  § 1-2-2 《天皇》をめぐって  ▲( c ) ~~~~  大浦信行の自虐的ヒロヒト的オリエンタリズム  大浦信行と村上隆は、連続していたのです。共に、原爆と日本の被爆を、自虐的に、欧米に媚びたオリエンタリズムとして描き出したのです。  ~~~~~~~~~  ☆ これもじつは わたしは感じないのです。もしヒロシマ・ナガサキを出すのなら あたかもいまここで主題ないし鍵語のひとつとしている《くにゆづり》の精神と同じように 《罪を憎んで人を憎まず》として核兵器なりそもそも戦争なりから自由なおとなの共生をまなびましょうとうったえている。こうとでも受け取ります。《自虐》でも《自嘲》でも何でもありません。  しかも よく考えてみれば このこころは たとえあの訴訟好きな欧米人であったとしても 決して異質性なのではなく――だから日本人作家によるセルフ・オリエンタリズムではなく―― ふつうの人間のこころであると言わねばならないからです。共同自治の問題です。  きわめて簡単な議論に終わってしまいます。大浦の作品じたいについては わたしには きわめてあいまいな印象をまづ受けたのですし 村上のほかの作品については いま別として話をすすめたほうが 生産的であるかとは考えます。(ということは 回答者によっては そうではなく 作品全体を見て評価したほうがよいと見る場合もありましょうから その旨において回答を寄せてもらえればよいと考えます)。  § 2 萌えか 燃えか  ★ 仁科さんでしたっけ、彼が仰っていた「萌え」じゃない「燃え」って、きっとこちらの意味に近いと思う。  ▼(sube-sube-note:【Q:フィギュア、萌え、階級闘争】回答No.4)~~~  村上隆さんのぶっかけチンポ汁は萌えじゃないと思う。そっちはいわゆる燃えに近いかも知れない。おっぱい縄跳びも萌えじゃないと思う。あれは狂気だ。ちんぽの方もどうも狂気。戦闘機と美少女の合体の奴も何だか怖いから狂気。個人的にヤンデレ(*2)には萌えない。  萌えはもっと可愛い。猫のように丸い。ネコへの愛は萌え。狂気じゃない。娘への愛情も萌え。年寄りの孫を愛でる心も萌えなのかな。それは日常の静かな感覚で、非日常ではない。萌えフィギュアは精緻であっても、激しいような芸術ではない。燃えではないから。    *2 ヤンデレ:(ヰキぺ) ~~~~~~~~~~     ヤンデレは、キャラクターの形容語の1つ。「病み」と「デレ」の    合成語であり、広義には、精神的に病んだ状態にありつつ他のキャラ    クターに愛情を表現する様子を指す。     一方、狭義では好意を持ったキャラクター(「デレ」)が、その好    意が強すぎるあまり、次第に精神的に病んだ状態になることを指す。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ しょうじき これだけぢゃ 分からないですねぇ。わたしはすでに触れたように 《カウボーイ》のフィギュア作品は 中立と感じるので しづかな萌えからはげしい燃えにまでは到っていないとは見ます。  知りたいこととしては  ▼ 萌えは 日常の静かな感覚で、非日常ではない。  ☆ というとき ひとつに 《自己満足》とはどうかかわるのか。たとえ自己満足な日々の送り方でもよいとするのか。あるいはそんなことはおかまいなしに 生活のひとこまそれだけを取り出して取り上げているだけなのか。  もうひとつに 多少とも何かに不満や疑いを持って その是非をただすというようなうったえるこころにかかわるのかどうか。  ▼ ヤンデレには萌えない。  ☆ ということは 不満があっても 自分で処理しつねに乗り越えているということなのか。  中途半端なままです。  § 3 縄文土器・岡本太郎・呪術そしてフィギュア  フィギュアは 呪術か  ●(noname・・・:【Q:フィギュア、萌え、階級闘争】回答No.2) ~~~  今回私はフィギュアを呪術に供するための像や道具とみなそうと思いつきました。  それはつまり、太郎がその非日常的で魑魅魍魎とした価値観──呪術性(笑いや爆発)でもって覆しようのない西洋中心の権威主義的なシステムや日本の美術界へ挑んだとするなら、フィギュアのほうには、自分の「道」を極め偏愛し癒され、繊細で、男性間の賞賛や牽制を求めてやまない強い願いが込められているかのようでもあり。  それが女性の眼にはどことなく排他的であり、強い愛着や執着の対象としてのフィギュアは、時として妙な呪術性を帯びて映ることも場合によってはあるのです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 短絡して私見をのべます。心性として 《ヨリ(憑り)・イリ(入り=歴史知性)・ヨセ(寄せ)/コギト》の仮説によれば縄文人は コギトをまだ知らない前歴史知性であって それは原始心性であると捉えられます。アニミズムないしシャーマニズムと呼ばれる呪術性にとどまります。  ところが――端的に述べますが―― このヨリ原始心性がそのままで――基礎としては自然本性としてはスサノヲ市民性を宿しておりスサノヲ人間語を体現しており いつしかそのいきほひを得て―― イリ歴史知性ないし現代人の知性にとっても美だと見られるその美へと 火焔型土器の創作をとおして 突き抜けて行った。つまり 呪術性を飛び越えたと見ます。  そして フィギュアのカウボーイ作品については 何度も言いますが 本体じたいは価値自由ないし中立と見ますので 人によっては呪術性が付与されていると見ることはあるだろうと思うと同時に そうでなく何かを語ろうとしていると見ることもあり得る。こう捉えます。  4000字です。中途半端の中身ですが あえてこのままとします。つまり再考の結果があれば 補足欄に記そうと考えますが 案外この舌足らずのままにも ひとつの完成度があると感じます。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ○ くにゆづり ないし 非戦論としてのゆづりあい〔のこころ〕  ☆ これが アマテラス(ないしアマテラシテ)天皇をいただく社会構造を作り上げたところから来ているとすれば それは 欧米人から見ると 異質な社会制度であり その限りでオリエンタリズムであると見られるではないか? こう問い返されるなら 説明を継がなければなりません。  くにゆづり によってスサノヲ市民とアマテラス公民とに分かれたといった《くにづくり》の方程式 これは 競争型ないし闘争型のヨーロッパ社会の社会形態とは異質であると言っても そしてそのことを フィギュアは表わそうとしていると見たとしても それが自虐でもなければ自嘲でもない。このことは すでにいま 添えておかねばならないとは思います。むしろ この謙譲の精神および非戦論の社会づくりは ほこってもよいと思われるからです。  社会づくりの方式にかんして 次の三つに分けます。  (α) 対話型:日本  (β) 競争型:西欧  (γ) 暴君型:アフリカ      (これは スサノヲ市民の側が アマテラス公民に対して その国家     の経営がうまく行かなかったときには 引きずりおろし それだけでは     なく ころしてしまうという意味で 暴君として振る舞う型)  この土地は おれのものだと宣言した者が その所有主だと成る(もしくは 見なされる)というのは 競争に勝ったからだと捉えられます。所有権が確立されていなかったなら 闘争によって奪うという方式になります。    イヅモのスサノヲ共同体は そのときすでに子孫のオホクニヌシが市長でしたが そこへ アマテラス帝国から 服属の要求が来ます。そこは おれの土地だから おれたちに従えと。  じつは その使いは 何度も何人も来ています。そのうちの一人は イヅモのムラが居心地がいいものだから とうとう住み着いてしまって 帝国へ帰らなかったと言います。何年かのちに イヅモの海岸にちょっとは武装した者が来て 服属を迫ります。  オホクニヌシは ふたりの息子の考えにしたがうと答えます。そして じつは 息子のひとりは 非戦論でしたが もうひとりは 〔じつは〕主戦論の持ち主でした。実際にたたかい イヅモから信濃の諏訪まで逃げてそこでころされたとか。  コトシロヌシでしたか その息子とオホクニヌシとは けっきょくくにゆづりをしました。主戦論も非戦論も 人の心の弱さから来る。だったら 殺し合わないほうを採ろうと。  アマテラス側は けっきょく帝国主義的行動をしているのですから 言ってみればヨーロッパの競争型です。そのような方式を相手に迎えた場合にも ゆづるという方式で行動したなら 対話型だと考えられます。対話を拒否され 有無を言わさずの暴行を受けたのですが でも対話型をつらぬいた。  したがって 《人は人に対してオオカミである》やあるいは《万人の万人に対するたたかい》といった自然状態を オホクニヌシないしスサノヲは 想定していない。その自然状態は放っておくと 共倒れになり皆殺しになるからというので 国家というそれとしての絶対的権力を秩序維持のために設定したという社会契約説 これも おそらく日本人は採らないでしょう。なじまないでしょう。国家のお二階に 暴れん坊は追いやりつつまつりあげつつ 社会全体の秩序をおもんじた。    * スサノヲこそが 暴れん坊だと誰れもが見ているし そのように   書かれてもいますが おそらくその場合には 二つの側面において見る   必要があるかと考えます。    スサノヲ市民は スサノヲどうしのあいだでは けんかをし合うとい   うこと。それほど仲が良い。しかも《和を以ってとうとしと為して》い   る。    もうひとつの側面は ヨコの関係ではなく タテの関係では はじめ   は――という意味は スサノヲのミコトその人に限っては―― じつは    その実の姉のアマテラスオホミカミに対して 姉さんがまるでかれを取   り合わなかったとき 神の宮にくそをしただの 皮を剥いだ馬を機織り   家に投げ込んだだのと大暴れをします。    スサノヲが 亡き母のところへ帰ると言って 姉のアマテラスのとこ   ろに暇乞いに来たとき 姉は これは弟のスサノヲは わが権力を奪い   に来たに違いないと言って 女ですが武装して待っていたと言います。    この信頼関係の破綻 人間不信に際して スサノヲはしたい放題のこ   とをして 暴れました。    そのあとは いっさいおとなしくなりました。オホクニヌシなどは    まるで その兄さんたちに数々のいじめに遭っても 反抗することなく   しかもその難を切り抜けるという行動をつらぬきました。もっとも 兄   たちをしのいだあと 近隣のムラを襲うという挙にも出ていますが。  こうして 競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。そして対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。  そのような対話型社会における人間の生活態度ないし生活実感 これをフィギュアに表わすなら マイ・ロウンサム・カウボーイなる姿になるであろうと考えた人間がいた。のだろうか?  こういう問いです。

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回答No.9

実物を見てみないと何とも言えないけど、 「無邪気な征服」みたいにも見えるかな。 まだ、だいぶまえに、たくさんのチビが遊びに来たことがあって いたずらのかぎりをはりきってしていた男の幼児がの表情が 澄んだ目なんだけど鬼みたいに猛々しくて、ちょっと身震いしてるような ああいう感覚は女子には絶対ないですね。 狩猟民族のイノセントをくすぐったのかなあ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「無邪気な征服」  ☆ ということは 自己満足を超えていますね。  ★ 澄んだ目なんだけど鬼みたいに猛々しくて、ちょっと身震いしてるような  ☆ 自己満足を超えて 《澄んだ目》まで見せているとなれば 天皇制のもとのパックス・ヤポニカ――戦前の印象で わざわざこう言ってみました――は まだまだおとろえていないといったところでしょうか?  ただしそのように 質問者が受け取った感覚とは別に 欧米人の眼には  ★ 狩猟民族のイノセントをくすぐったのかなあ。  ☆ といったところなんですね。それはそれとして ありうるでしょうね。もし《澄んだ目をして無邪気な征服》といったタイトルだとすればです。なるほど おもしろい。  ただし 世間の眼は たいしたものではないといった評価のようですね。よい評価をもらっていないようです。もっとも 欧米の市場で市民権を得るべく闘いに勝ったことは それとして快挙かも知れないともお聞きしました。  つまり質問者は そのような事情や情況にはいっさいかまわずに 問いを立てていましたというお話でした 今回は。  さて どうしましょう。もう少し開いていましょうか。

bragelonne
質問者

補足

 ○ くにゆづり  ☆ をめぐってすでに書いていますが その議論をやや詳しくしたわが文章を見つけました。かさねて参照していただくためにこの場を借りてかかげます。   西欧近代における社会契約説にあっては  ○ 人は人に対して狼である( Homo homini lupus. ) / 万人の万人に対する戦い( bellum omni contra omnes )  ☆ という命題がかかげられました。土地を囲っておれのものだと宣言したら その所有が決まる。けれども あとは・そのあとでも 奪い取ればよいというような考え方だと思います。  これを《主戦論》の思想として規定し それに対してわが国では そもそもの二階建て構造の国家が打ち建てられるときには そうではなく《非戦論》としての《くにゆづり》をとおしてであったと仮説しています。これをめぐってだと思われます。  ちなみに主戦論も非戦論も どちらも人びとの自由を社会的に実現するためには 人は弱いものであるというその人間の能力の限界がからんでいるであろうと見ています。同じ人間の弱さから来る思想であれば 人殺しをしなくて済む非戦論を取ろうという考え方が その昔の日本人にはあったのではないか。この問題です。  二階建て構造が《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の連関から成るという仮説も 公民・市民の規定は ふつうの経験科学のものだという反面で アマテラス・スサノヲは明らかに神話にのっとっており 歴史事実であるかどうかも分からない事柄ではあります。  そしてその神話に関する限りで 両者は 実の姉と弟であり それぞれのクニ(市民社会)のあいだに主導権の争いが起こったのも そのとおりであるようです。そこでスサノヲ共同体は 非戦論により国ゆづりをおこなったとも書かれています。  国ゆづりをするに到るまでの経過は 要するに《アマテラスの国に従え》という服属の要求があったということです。たとえば:     ~~~  タカマノハラに神留まりまして 事始めたまひし神ろき・神ろみのミコトもちて 天の高市に八百万の神たちを神集へ集へたまひ 神議り議りたまひて     我が〔* アマテラスの〕皇御孫(すめみま)のミコトは 〔* スサノ   ヲの〕トヨアシハラのミヅホの国を 安国と平らけく知ろしめせ  と 天の磐座(いはくら)放れて 天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて アマクダシ寄さしまつりし時に     誰(いづ)れの神をまづ遣はさば ミヅホの国の荒ぶる神どもを神攘   (かむはら)へ攘ひ平(む)けむ  と 神議り議りたまふ時に もろもろの神たち皆量り申さく    〔* 第一の使い:アメノホヒのミコト〕    アメノホヒのミコトを遣はして平(む)けむ  と申しき。  ここをもちてアマクダし遣はす時に この神は返り言申さざりき。    〔* 第二の使い:タケミクマのミコト〕  次に遣はししタケミクマのミコトも 父の事に随ひて返り言申さず。    〔* 第三の使い:アメノワカヒコ〕  また遣はししアメノワカヒコも返り言申さずて 高つ鳥の殃(わざわひ)によりて 立ちどころに身亡(う)せにき。    〔* 第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト〕  ここをもちて天つ神のミコトをもちて また量りたまひて フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト二柱(ふたはしら)の神たちをアマクダしたまひて 荒ぶる神どもを神攘ひ攘ひたまひ 神和(やは)し和したまひて こと問ひし磐ね樹(こ)の立ち・草の片葉も語(こと)止めて 皇御孫のミコトをアマクダし寄さしまつりき。   かくアマクダし寄さしまつりし四方(よも)の国中(くぬち)と 大倭(おほやまと)日高見の国を安国と定めまつりて 下(しも)つ磐ねに宮柱太敷き立て タカマノハラに千木(ちぎ)高知りて 天の御蔭・日の御蔭を仕へまつりて 安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫のミコトの 天の御舎(みあらか)の内に坐す皇神(すめがみ)たちは    荒(すさ)びたまひ健(たけ)びたまふ事なくして   タカマノハラに始めし事を神ながらも知ろしめして 神直び・大直びに直したまひて この地(ところ)よりは 四方を見はるかす山川の清き地に遷り出でまして    吾が地と領(うしは)きませ  と たてまつる・・・    (《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》――《祝詞》)       ~~~  ☆ 古事記には《第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト》が スサノヲ側と腕相撲をしたとも書いています。  《侵略によって奪い取られた》と言えないこともないと思います。ぎゃくに その場合でも奪い取った側のほうが それはもともと我が領土であったと言いたいし 言っているのだと見られます。どうでしょうか。

noname#146813
noname#146813
回答No.8

No.3です。 参考サイトをかいつまんでお読みくださったようですね。 敗戦後に飛躍的に発達した《ジャパニメーション》という造語には、多少なりとも蔑称の意味が込められていたそうです。 その理由の一つには、漫画やアニメは幼児向けに過ぎないという欧米の価値観に対する日本のそれは、大人になってもなお日常慣れ親しむという特異な社会性のもとで高度に発展し、宗教的倫理道徳に縛られることなく、混沌とあるいは雑然とした開けっぴろげな性的表現や暴力シーンが容易に入り込む隙が彼等自身の価値観に照らし合わせば癇に障ったのだとかと察せられます。 周知の通り、それを逆手に取り、積極的に自ら理論武装をして欧米で一定の評価を得たのが日本画出身の村上隆なのですが、評価の逆輸入を受容した点においては、曽我蕭白や伊藤若冲といったエキセントリックでキワモノ的な作品群の再評価と似た構図であって、今後も同じ問題に反復撞着せざるを得ないのかもしれません。 ルイヴィトンの日本の家紋から発案されたモノグラムに村上隆の文様とが混在してそれを私たちがそれなりに受容したのも例のオリエンタリズムの流れを何ら逸脱していないのです。 いずれにせよ、ジャパニメーションや関連するおたく文化を貶めたりするどころか日本が輸出できる最たるサブカルチャーとして欧米市場で知名度を高め相応の市民権を得ることが出来たという点においては権力闘争に一矢報いたと言えるのかもしれませんね。 ところで、あの作品には何か意味など込められているのでしょうか。 アニメ然とした二次元の絵が3次元に表現されたに過ぎないとも思われますけれども。 むろん、彼の一大キュレーションタイトル「スーパーフラット」にちなんで、あなたの仰る天皇制云々と独自の思索を深めていくなり、バリアフリーの影響が他の分野に波及した可能性を模索するなり、カリカチュアが意味する真の矛先はなどと、観る人それぞれがホームワークを自分に課すのは各人の自由ではないでしょうか。 だから自問自答を、と申し上げたのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  アニメもフィギュアもそして美術界の国際関係的文化社会学の事情も知らないという三重苦の中で 《マイ・ロウンサム・カウボーイ》なるフィギュア作品を見て――ほかの作品は知らずに―― ふと思い浮かんだことが 日本人は《自己満足》の子として 表わされているのだな でした。  それなら歴史的経過があるから そうなのかなぁでした。それ以上・それ以外のことは あとから得る情報でしかなかったという種明かしになります。  ★ ~~~~  ところで、あの作品には何か意味など込められているのでしょうか。  アニメ然とした二次元の絵が3次元に表現されたに過ぎないとも思われますけれども。  ~~~~~~  ☆ ということなんですか? つまり おおむねそういった通念がすでにつくられているのですね。  この質問じたいは そういった通念のあるなしにかかわらず ふと思いついたことのみを取り上げて問うている。これだけのことでした。  ★ ~~~~  むろん、彼の一大キュレーションタイトル「スーパーフラット」にちなんで、あなたの仰る天皇制云々と独自の思索を深めていくなり、  バリアフリーの影響が他の分野に波及した可能性を模索するなり、  カリカチュアが意味する真の矛先はなどと、観る人それぞれがホームワークを自分に課すのは各人の自由ではないでしょうか。  ~~~~~~   ☆ といったことも議論にすでに上がっているのでしょうか。  スーパーフラットについて 調べると 面白い見方に出会いました。ちょっと取り上げてみます。前回紹介いただいた彦坂尚嘉も通念なり評論なりに参加しているのですね。  ▲(ヰキぺ:スーパーフラット) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88  § 評価  浅田彰は渋谷パルコギャラリーで開催された「SUPER FLAT展 at PARCO」とそのコンセプトブックについて、   「日本の伝統美術の中からとくに平面性を取り出してくるのも、それ   をアニメの平面性とつなげてみせるのも、世界市場に向けてのマーケ   ティング戦略に過ぎないことは、言うまでもない。    それを、『自虐史観』(彦坂尚嘉)を逆手にとった捨て身の戦術と言   うこともできるだろう。    さらに問題なのは、それが『自閉的〈村〉空間』(同)に根ざして   いるところだ」  と評した。さらに浅田自身も先行して1987年にアメリカで行った短い講演「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」のなかで「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」と発表していたことに触れながら、その講演から13年後に現れた村上隆のスーパーフラット宣言については    「ただ、彼が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいま    は super flat。』と宣言するとき、そこにはもはやシャープなアイ    ロニーは感じられない。     それは、いわば『スーパーフラット』なアイロニー――つまりはナイ    ーヴな自己肯定に基づく、『J-POP』とほぼ同レヴェルでの『Jアー    ト』の自己主張なのだ」  と、日本文化に対する自己言及性や批評性すらも平板化し、後のクール・ジャパンを思わせる日本文化の輸出を目論んだ一種の商標にすぎないことを指摘した。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ● 日本は世界の未来かもしれない。  ☆ と村上が言っているのですね。わたしは まったくお人よしで――浅田彰にはかかわりなく―― この命題は おもしろいと考えます。つまり 前からそう思って来ています。《ゆづりあい》の生活思想は おそらく輸出しうる最大の商品であろうと。  いえ 商品かどうかは知りませんが ちょっとそう言ってみたくなるような評論や議論がすでに広く交わされて来ているのですね。つまりは 天皇制は副産物ですから 主な商品は《くにゆづり》の思想です。  ★ 敗戦後に飛躍的に発達した《ジャパニメーション》という造語には、多少なりとも蔑称の意味が込められていたそうです。  ★ 曽我蕭白や伊藤若冲といったエキセントリックでキワモノ的な作品群の再評価  ★ ルイヴィトンの日本の家紋から発案されたモノグラムに村上隆の文様とが混在してそれを私たちがそれなりに受容したのも例のオリエンタリズムの流れを何ら逸脱していないのです。  ☆ アートの世界は まるで実質的には帝国主義が横行しておりあたかもオリエントは 植民地あつかいされているようなものなのでしょうか?  ただしその村上も  ★ いずれにせよ、ジャパニメーションや関連するおたく文化を貶めたりするどころか日本が輸出できる最たるサブカルチャーとして欧米市場で知名度を高め相応の市民権を得ることが出来たという点においては権力闘争に一矢報いたと言えるのかもしれませんね。  ☆ なんですね。いやはや キャピタリズム一色ですね。  何もしないたたかいが 有効性を実現させていくとよいのですが。こちらのゆめのほうに賭けています。  今回は うぶさをほこってみました。

回答No.7

そうですね。 実は私もよくわかんないです。 もっと無邪気なものかもしれないし、自分が男の子だった経験が あればもう少しわかるのかもしれないですけど。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  この質問は つぎのふたつの質問を継いでいることは ご存じでしたか?  ●【Q:フィギュアの美?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7233602.html  ●【Q:フィギュア、萌え、階級闘争】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7235436.html  そして これらは 別の人の設問ですが それに到る前には その設問者とわたくしとのあいだに次のわたくしの質問でやり取りがありました。それをも踏まえています。  長いですから 読みづらいでしょうが いちおう成り立ちとして 説明をしておくこととします。  ☆☆【Q:縄文土器の美を 現代人は作り出せるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7224684.html  この質問への回答No.2で フィギュアのことが出たのが はじめです。きっかけです。  そんなところです。

回答No.6

焦っても答えはでないと思うけど。 一つの機能として、他の人も言っているけどコミュニケーションがへたな人の 練習用とか慰めとしてと考えているんですよね、それで質問者様もその答えを 気にかけている。 多種多様に存在する身の回りの記号も、そんな機能をもちあわせている。 だけど現実の世界をそれがしばしばじゃまをするなんていう弊害があるし、 もっとそういうものをかいさずにダイレクトに大人のコミュニケーションが できるほうがいいんじゃないかって意見があるとして だけど、私たちの生活に記号がなくなればそれはそれで都合が悪い。 また、芸術的な問題点として、お金と芸術は切り離したいと願わずにはいら れない人が古今東西いるから、これはむかしからきっても切り離せないもの であり、「対象物への愛」と「対象物の社会的価値」のような切ないずれが つきまとう。 おいもを食べている人達の質素な風景を愛してやまないのに、自分はそれより ずっと高価な絵の具を浪費して食べられない絵を描くという、そんなやりきれ ない矛盾があってしかるべきだったのに。 それなのに、今の世の中はそういうものに特権階級扱いを恥ずかしげもなく 平気でして、またされているという風潮に、嘲笑してやって、それで儲けた金 で、チャリティ活動しちゃおうよ。 そんなこと考える人がいたって不思議じゃないと思いますが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  回答No.4がまだサポートのほうでの内容確認にかかっているようです。けっこう長い。  余計なことでしたが さて今回のご回答内容はと言いますと:  分かりません。  カウボーイなる作品を批評する前に 社会やあるいは美術作品をめぐるその情況を分析しておこうという狙いなのでしょうか?  質問に対する答えは ないですよね?  つまり  ★ 焦っても答えはでないと思うけど。  ☆ ゆえに この作品をめぐる背景事情について考えてみる。こういうことでしょうか?  でも 答えは 問いとしては 二つに一つというかたちに成っているんですけれど。  ○ (問いの骨子)~~~  村上隆の例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品は 天皇へのオマージュか?  それとも パロディなのか?  いづれにしても その作品の心の解明をするなら それは何か。  ~~~~  ぢゃあ答えが出るまで 待つとしましょう。

回答No.5

お久しゅうございます。 すごいむずかしそうだけど、ざっくりしてみると。 人間関係は様々な記号が発達すると、それをかいするようになって 複雑化する。 例えば、体の一部分が象徴、または記号化として機能していた時代 もあれば、 本来は体を覆う機能である肩紐の滑り落ちる加速度または角度が、 その役割を果たす時代もあるでしょう。 また質問者様みたいに、そういう記号を一切排除しようという動き もでてくるかもしれません。 ただ、どのような時代になっても、いえることは市場原理だけが全て であるというのは、やはり疑ってみるべきことだとも思いますが、 確かに芸術に真摯な人なら、いつも自分のなにかが許せないような 気持ちに苛まれているのが本当なのでしょうが しかし、それがすべてじゃないと肩の力を抜いたって、 何も悪いことはないのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ問いは すでに述べたところにつけ添えて言えば:  ○ ~~~  村上隆の例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品は 天皇へのオマージュか?  それとも パロディなのか?  いづれにしても その作品の心の解明をするなら それは何か。  ~~~~  ☆ です。  ですから  ★ ただ、どのような時代になっても、いえることは市場原理だけが全てであるというのは、やはり疑ってみるべきことだとも思いますが、  ☆ は おそらく《16億円で売れた》というところに焦点を当てて反応なさっている。あるいはまた  ★ ~~~~  確かに芸術に真摯な人なら、いつも自分のなにかが許せないような  気持ちに苛まれているのが本当なのでしょうが  しかし、それがすべてじゃないと肩の力を抜いたって、  何も悪いことはないのです。  ~~~~~~  ☆ というのは 《心の解明》と言ったときにそれは《自省かつ自戒の現われであるはずだ》と質問が決めつけていないか? と問うているように思えます。  ですからこれら二つの事例にかんがみて 逆の側から言いかえるなら 次のようになります。  ○ いくらで売れたかを別として 作品そのものに迫ってみるとき あなたは どのような鑑賞結果を得ますか? という問いとして回答を寄せて欲しい。と言っているのだし あるいは  ○ この質問は 芸術家の創作態度として 何も《つねに向上の意欲を持っていて 自省や過去の自分に対する叱責の念が現われるであろう》と見ているわけではありませんが いづれにしても この作品は どのようなメッセージを持つものか? を問うています。  ☆ むろん メッセージなど何もないのだという見方とその回答でもよいわけです。  このカウボーイ作品をどう見たか この単純な問いですよ。歴史的な背景については くどいように説明を費やしていますが 美術論としての《記号》だとか《象徴》だとかについては――それについての見解を述べてもらってもいいわけですが―― 質問者としては無頓着ですよ。  というわけで どんな回答内容なのか ついぞつかみ切れませんでしたが 仕方がないとは思います。  

noname#146857
noname#146857
回答No.4

 こんにちは。すべすべノートです。  天皇やその周辺の家系は昔々闘ってその地位についたらしいので、日本で最も攻撃性が高いY染色体を宿しているのかも知れませんね。天皇家も白色人種も強い攻撃性が精子に宿っていて、だから精液が剣になるのでしょうか。すっ裸で大勢の民を征服するぞという燃えなのか知りません。  燃えというのは状況の温度を示す言葉で、熱ければ燃えです。その状況はたいてい下克上です。弱い者いじめではありません。弱小チームが甲子園を勝ち上がるのは燃えがちですし、恐ろしく強大な怪獣をひ弱なはずの人類が返り討ちにするのも燃えやすいです。燃えはぜったい勝つぞ負けないぞという気概みなぎるドラマのことです。演出によって巧みに読者や視聴者を乗せ、やっけるぞという戦闘意欲――男気――を盛んに内発させるものが燃えです。野球やサッカーでよくある勝て勝っちまえというファン心理です。お相撲ならお相撲さんが怪我したりバッシングを受けたりしながらも、それを押して跳ねかえして勝とうとする姿勢にお客さんが魅せられて応援・後押しする現象が燃えです。  萌えは対象を守り慈しむ姿勢です。母性です。父性です。弱いもの小さなものを保護する親心です。    縄文土器に見合う現代の表現が問われていましたから、失業もあいまって暇なので、そんなもの何かあるかなとハロワに行かずネットをぶらぶらしていましたら、質問がもう締め切られていました。せっかく作ったリストなので投稿します。燃え系も萌え系も入ってます。岡本太郎がハマコーに芸術について一生懸命に語るも不毛に終わるという動画があるらしいですが見つかりませんでした。そういう動画は見れば岡本太郎の熱意に燃えを見出しつつ、ハマコーの前で無力化される太郎に萌えつつ、またマイペースで無害なハマコーにも萌えうる動画だと思いますが、たんにがさつな怖いおやじでは萌えません。縄文土器は人類が言葉で知識を貯め始めたしるしらしいです。カンブリア期みたいに言語は爆発したそうです。  以下リストです。  天元突破グレンラガン(これが燃えというやつです。)  http://www.youtube.com/watch?v=qeq7M8o5brg&feature=related  新世紀エヴァンゲリオン(キチガイ燃えです。)  http://www.youtube.com/watch?v=cVW7ahL6p9s  http://www.youtube.com/watch?v=MiT0HlvLaoc  飯器少女コメコ(縄文土器の現代版≒炊飯器、に、萌えを加えたものだと思います)  http://phantasm16.blog67.fc2.com/blog-entry-1342.html  平成土器 http://blogs.yahoo.co.jp/kaikoma3001/archive/2011/9/6  平成土器(6年生)です   http://www.suginami-school.ed.jp/momo5shou/2011gakunenn/senka/doki/senka_doki.html  よつばと!(いま最も萌えの王道を行っている作品らしいです。じっさいはマンガです)  http://www.youtube.com/watch?v=s-N3t16IJYY&feature=related  ローゼンメイデン(萌え)http://www.youtube.com/watch?v=BwvLnoGnmh0  輪るピングドラム(去年やってたアニメです。モエです。愛は自己犠牲だそうです)  http://www.youtube.com/watch?v=xomtacoOeEY  ひとりだけの部屋(縄文模様っぽいです)  http://www.youtube.com/watch?v=_5i4pwXEzfQ&feature=related  新世界エヴァンゲリオン(関西弁です)  http://www.youtube.com/watch?v=vHYi88rO4XE&feature=related  http://www.youtube.com/watch?v=UG2E-VZalDE&feature=related  わからないブタ(短編アニメです)http://www.youtube.com/watch?v=j99Ik5axI_U&feature=related  AKIRA(グロ燃えです)http://www.youtube.com/watch?v=_2KjCViFbRI&feature=related  ロン・ミュエク(巨大フィギュアです)  http://artmonkey90.deviantart.com/art/Ron-Mueck-2-161942568  http://www.snopes.com/photos/arts/ronmueck.asp  http://joeys24.blogspot.com/2011/01/ron-mueck-take-2.html  鼻の日(短編アニメです)http://www.youtube.com/watch?v=NwoJLoQQ5Ig  池田学(細密画です)http://www.gei-shin.co.jp/comunity/04/60.html  冨樫義博(萌えや燃えを巧みに用いる漫画家です)  http://livedoor.blogimg.jp/taimuzu09-mira2/imgs/9/6/962a6ef1.jpg  oil(静かアニメです)  http://www.youtube.com/watch?v=gPHc8b70mjQ&feature=related  高島野十郎(画家です。燃えていたと思います)  http://www.flickriver.com/photos/22081105@N03/tags/高島野十郎/  立川談志 やらせろ(縄文土器です)  http://www.youtube.com/watch?v=YJ9bOGAJN-g&feature=related  和田淳と世界のアニメーション(アートアニメというやつです)  http://www.youtube.com/watch?v=C0Spj2FNkkA&feature=related  お絵描き共和国(リアル絵です。描く過程をリアルタイムで見られます)  http://oekyo.org/06/  ゴッホケーキ(食べられる縄文土器です)  http://www.sayitwithcake.ca/apps/photos/photo?photoid=91482702  ブランカ・ブラシッチ(手足ながいです)  http://www.youtube.com/watch?v=YTwTfDeLtUM&feature=related  プーチンとマーチン(ラーメンズです)  http://www.youtube.com/watch?v=6OStZxBq4Y8&feature=related  舞踏(縄文土器みたいです)  http://www.youtube.com/watch?v=AnR1FJ6yQq4&feature=related  アニマ(裸の女のダンスです)  http://www.youtube.com/watch?v=q91ceXsdXzM  土器と言語(断言する人のブログです)  http://nando.seesaa.net/article/129436528.html  春のしくみ(亀と蛙です)  http://www.youtube.com/watch?v=Vfc3FwzAz1A&feature=related  かなしい朝ごはん(犬と鳥です)  http://www.youtube.com/watch?v=FPFXlZzuVSE&feature=related  赤坂憲雄(静かな男性です)  http://www5f.biglobe.ne.jp/~daddy8/y/159/f.htm  縄文文化(土器に死者を入れたそうです)  http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/area/ne_asia/Jomon/index.htm  縄文人のあの世(通路が鼻の日のに似ています)  http://www.systemicsarchive.com/ja/a/afterlife.html  大鹿ふりだし塾(日本一美しい村のひとつらしいです)  http://www.osk.janis.or.jp/~balihai/  内藤礼(静かな女性です)  http://www.youtube.com/watch?v=BrBPOZIiDQ4

bragelonne
質問者

お礼

 手がだと思っていたら ノートだったすべすべさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  こういうふうに資料がいっぱいある場合というのは 全部見終わってからやおら書き始めるというよりも 文章のひとくだりごとにそのつど反応して考えすすめた方が能率もたぶん中身も よいのではないかとさとったその途中から 書き出しています。  ★ 天皇やその周辺の家系は昔々闘ってその地位についたらしいので、日本で最も攻撃性が高いY染色体を宿しているのかも知れませんね。天皇家も白色人種も強い攻撃性が精子に宿っていて、だから精液が剣になるのでしょうか。すっ裸で大勢の民を征服するぞという燃えなのか知りません。  ☆ これは 大問題だと思います。  しかも短絡して私見を述べるなら 外から入って来たそのアマテラス族があったとしたら その場合もみな 婚姻関係によって同じ家系――つまり天皇氏――になったと見ます。  後世から第一代天皇とされた神武カムヤマトイハレヒコは 日向からヤマトにのぼって行ったとき そこにはすでにやはり《天つ神》としての――おそらく発達した文明を持ってやって来ていた――ニギハヤヒがいた。これとたたかった。  このたたかいの話が おそらく第十五代応神ホムダワケが――400年頃――筑紫からのぼってきて戦争ののち位に就いた話と重なると見ます。  つまり 戦争をもおこないました。  ただし 第十代崇神ミマキイリヒコの場合は――300年ごろ―― あたらしく文明人ニギハヤヒらのもたらした鉄と稲とで 縄文時代の生活様式を一変し――紀元前300年ごろ―― やがてヨリ(憑り)なる原始心性を脱ぎ捨て 時間的存在であるところのイリ歴史知性をつちかって来ていた。ヨリ呪術性の最後の花火は 例の卑弥呼です。つまりは 三世紀のこと。  すなわち ミマキイリヒコのイリ(世界への入り)歴史知性は――そしてそれにともなうあたらしい共同自治の社会は―― 縄文人の原始心性を脱ぎ捨て名誉革命のごとくに 歴史に一歩をしるしたと見ます。  すなわち このヤマトのイリ政権をのちに乗っ取ったのが 応神ホムダワケだと見ます。カフチ(河内)のワケ政権。400年頃から。  しかも総じて みな天皇氏に属すると見られます。    そののち 雄略ワカタケルのあと 跡継ぎがいなくなるという事態に際して 応神ホムダワケの五世の孫という継体ヲホドがおほきみに立てられたのですが――500年頃―― つまり五世代もさかのぼる血筋の人間が現われているのですが それでもおそらく血族でなくても姻戚関係はあるのだろうと思われます。  天皇氏というひとつの家系に 対話型と競争型とのふたつの人間類型が見止められるのではないかという見方です。      *  萌えと燃えは 単純なのですね。分からないという意味ではなく それなら おそらく燃えは 昔から使っていたであろうし 萌えは その用語をあたらしくつくったというだけのように思われます。ちいさき者への愛情。これをその昔は《うつくし》と言ったようです。  特に《 A-S 連関制》とは関係ないようにも見られます。      *  ★ 縄文土器は人類が言葉で知識を貯め始めたしるしらしいです。カンブリア期みたいに言語は爆発したそうです。  ▼ 土器と言語 (言語の発生)・・・★(断言する人のブログです)  ☆ あまりにも推論が粗いです。使えません。と断言します。  そう言えば 同じく  ▲ 永井俊哉:あの世は縄文時代どこにあったのか=★ 縄文人のあの世(通路が鼻の日のに似ています)  ☆ これもです。梅原猛が小説を書いてそれを永井が引いて その想像の世界をふくらませている。アイヌや沖縄が この程度のあつかいで学術性を持つかという疑問です。読み物として書いているのでしょう。万葉集とおもろさうしの研究を深めることから入らねばいけないと思います。それがないと見ます。  ▽ 死と再生のシンボリズム-=★ 縄文文化(土器に死者を入れたそうです) ~~~   階層を発達させつつあった社会   縄文文化は西暦紀元前1400年~紀元前1000年ごろに、日本列島に存在した、いわゆる縄文土器によって特徴づけられる文化である。・・・  ~~~~~~~  ☆ なんでこのような年代にかんする間違いを――しかも冒頭から――放っておくのか。紀元前300年ごろ弥生人の生活様式が始まるとすれば その以前一万年ほど縄文人の世界だったようです。  あとは 項目ごとにあらましをしるしているようです。  △ sankai juku - butoh dance (buto) =★ 舞踏(縄文土器みたいです)  ☆ 奇怪なり。半ばほどから 笑っている。うれしそうによろこんでもいるよう。これは 気持ち悪いと感じた。縄文土器は その怪しさを突き抜けているとわたしは 感じます。  ■ 「縄文のヴィーナス」=★ 赤坂憲雄(静かな男性です)  ☆ これは 踊りを見てみないと 何とも。  その昔 赤坂憲雄の本を一冊読んだら よくぞお勉強しましたねと思った。資料を集めたのみ。その後は知らない。  □ Impressionist Birthday Cake=★ ゴッホケーキ(食べられる縄文土器です)  ☆ 何でもないケーキなのに 縄文土器を連想させるというところが 考えてみなくてはと思わせるけれど そこからまだ進まない。  ここらで一たん仕切り直して ほかの資料集を補足欄で考えます。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 内藤礼(静かな女性です)  ☆ しづかすぎます。6分聞いても要領を得ないと思いました。  ★ 大鹿ふりだし塾(日本一美しい村のひとつらしいです)  ☆ よさそうですね。    ★ かなしい朝ごはん(犬と鳥です)=○ 一瀬皓コ アニメーション The Last Breakfast, Hiroco ICHINOSE  ☆ 最後の朝ごはんなんですか? 分かったと言えるかなぁ。  ★ 春のしくみ (亀と蛙です)=○ 'The Mechanism of Spring' Trailer  ☆ 《春》とまでは 描き切っていないのではないか?  ★ アニマ(裸の女のダンスです)=○ ANIMA"アニマ"[HD]メディア芸術祭優秀賞  ☆ じっさいに人がこのように踊ったらおもしろいと思った。終わりで倒れなくてもよいと思った。  ★ プーチンとマーチン(ラーメンズです)  ☆ 分からない。  ★ ブランカ・ブラシッチ(手足ながいです)  ☆ 最後 惜しかった。  ★ お絵描き共和国(リアル絵です。描く過程をリアルタイムで見られます)  ☆ なるほど。手間をかけて描くのであります。  ★ 和田淳と世界のアニメーション(アートアニメというやつです)  ☆ アートアニメは ポスターのようなものですかねぇ。  ★ 立川談志 やらせろ(縄文土器です)  ☆ 《縄文土器です》という批評をふくめて 分かりません。  ★ 高島野十郎(画家です。燃えていたと思います)  ☆ これだけでは 何とも。  ★ oil(静かアニメです)  ☆ 何でも想像力をはたらかせばいいってものではないっていう。  ★ 冨樫義博(萌えや燃えを巧みに用いる漫画家です)  ☆ この一枚から言えば 昔もありましたよ。  ★ 池田学(細密画です)  ☆ 上にも触れた 手間をかける仕事のよう。  ★ 鼻の日(短編アニメです)  ☆ 分からない。  ★ ロン・ミュエク(巨大フィギュアです)  ☆ 特には反応が出ません。  ★ AKIRA(グロ燃えです)  ☆ これは 自己欺瞞に悩み苦しむ姿だと思います。  ★ わからないブタ(短編アニメです)  ☆ これだけでは。  ★ 新世界エヴァンゲリオン ~関西弁で台無しにしてみた 最終話  ☆ そのとおり。  ★ ひとりだけの部屋(縄文模様っぽいです)  ☆ 縄文の話ではなく。  ★ 輪るピングドラム(去年やってたアニメです。モエです。愛は自己犠牲だそうです)  ☆ ただの断片では?  ★ ローゼンメイデン(萌え)  ☆ せっかく萌えとあるが 分からない。ストーリを自分でつくれって?  ★ よつばと!(いま最も萌えの王道を行っている作品らしいです。じっさいはマンガです)  ☆ ここまで単純なかたちにしたのは えらいと言うべきか。  ★ 平成土器 / 平成土器(6年生)です   ☆ 縄文土器の感じは出していると感じます。単純に これでも感じが出ているから おもしろい。  ★ 飯器少女コメコ(縄文土器の現代版≒炊飯器、に、萌えを加えたものだと思います)  ☆ ふうむ。この断片だけでも 萌えなのか。  ★ 新世紀エヴァンゲリオン(キチガイ燃えです。)  ☆ 燃えというのは チカラが欲しいという願いのようですね。  ★ 天元突破グレンラガン(これが燃えというやつです。)  ☆ そうしますと けっきょく権力に対する絶対的なチカラが欲しいといったところなのだろうか。  アニメの中でチカラ強い人間になったとは思わないでしょうね? それは 自己満足とは違うのでしょうね。  ★ 弱小チームが甲子園を勝ち上がるのは燃えがちですし、恐ろしく強大な怪獣をひ弱なはずの人類が返り討ちにするのも燃えやすいです。燃えはぜったい勝つぞ負けないぞという気概みなぎるドラマのことです。演出によって巧みに読者や視聴者を乗せ、やっつけるぞという戦闘意欲――男気――を盛んに内発させるものが燃えです。

回答No.2

こんばんは。 ブースターです。 フィギアの件だけ答えとくよ。 フィギアコレクターはブリキのおもちゃ愛好家の前例から擁護する理由がある。 ブリキのおもちゃはその風合いからオタク文化創成期より高く評価されるにいたったが、収集していた当初は、ごみ漁りみたいな真似をして子供のおもちゃを喜ぶ変人として評価され、時代が変わってからやっと評価されたそうな。 したがってフィギア等に関しても、収集する本人が何故それを好むかについて、世間様の冷たい視線を改めさせるには時間がかかるだろう。 それまでは、本人たちが好む事を阻害したり批判したりするのは得策ではない。あなたは間接的にそれをしている。 村上氏の作風に関しては、エロスに対する明るく肯定的な解釈に可能性がある。 そのエロスを美術と同列で扱う事に関して反目もあるようだが、16億円にしろ何にしろ稼いだもんの勝ちであり、彼はおたく文化から美をくみ取ろうとする先駆者である。 私は芸術に関して何らかの自らの見解を述べる事が出来るが、女性の裸身特有の美貌が、それを理解されながらも、一方で猥雑な表現に辱められる過程に村上氏はある。 彼がエロスを辱めているのではなくて、傍から覗き見る者の心の貧しさが芸術を卑しめているのだ。 処女性に対する変態じみた執着は西洋の文化の輸入品であるが、現代日本の女性への偏見に、成熟した大人の女性にすら、女の子のような幼さの片鱗を見出そうとし、そこを掘り下げて女性の美とする風潮がある。 この由来は、恐らく少女と相対したエロスが未成熟な子供時代の童心を、成熟した男性が引きずっている事である。 幼稚園や小学校のころに、女の子と仲良くした童心を大人になると忘れそうになる。しかしそれをかたくなに守ろうとすると、美少女アニメ趣味的に、学問的題材の処女性をはらんだ女の子に対する憧憬となり、大人の女性にエロスを予感しないで、幼児性愛的に「女の子」に関心が集中する。 このような処女なり女の子なりへの憧憬は、実のところ変態趣味で、宗教などにも見える観音信仰や女神信仰などである。 ここから哲学すると、神は母かそれとも父か?。と、なるがこの手の問題が障害として克服すべき命題に上がるのは、男性が有史以来あまりにも好き勝手にふるまい、無法を繰り返したからであろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですが よく飲み込めなかった。  問いは  ○ ~~~  村上隆の例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品は 天皇へのオマージュか?  それとも パロディなのか?  ~~~~  ☆ です。  収集という趣味をめぐってそれ自体やらその背景やらにかんして のべてもらったということでしょうか。    ★ ~~~  村上氏の作風に関しては、エロスに対する明るく肯定的な解釈に可能性がある。  そのエロスを美術と同列で扱う事に関して反目もあるようだが、16億円にしろ何にしろ稼いだもんの勝ちであり、彼はおたく文化から美をくみ取ろうとする先駆者である。  ~~~~~  ☆ よく分からない。  たとえば 16億円は誰れが出したか知らないけれど その買い取りという行為にしろ 現代かつ現在の社会における言わば閉塞感に満ちた情況をめぐって 質問者としては それは《天皇の存在に対するオマージュなのか それともむしろそれを批判してのパロディなのか》と問うています。  収集あるいはつまり フィギュアに思い入れを持つところの動機や狙いは どんな心でしょうか? と問うています。  エロスの問題であるという答えでしょうか?  それも 聖女といった観念のほうではなく ふつうのエロスということでしょうか?  でもそれでしたら その収集物が フィギュアである必要はないようにも思われます。  あるいは エロスと自己満足との関連性はどうなのか。  こういった疑問が かすかに読み取った中身から 出て来ると考えます。

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     それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明をともなったフィギュアの心の解明です。お聞きください。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。

  • 天皇を哲学する

     1. 万世一系とは いま生まれて来ている人の誰についても例外なく言えることです。  1-1. 記録がないだけでしょう。    1-2. 男系は 家筋としては途絶えているかも知れないけれど 血筋は とうぜん辿れるわけです。  1-3. 一般の人びとの場合は 側室による男系一系が少ないだけでしょう。  2. 天皇家は 祖先を遡るとアマテラスオホミカミにたどり着くと言う。けれども アマテラスは アメノミナカヌシらの神々のあとに出て来た神である。  2-1. そして――出生の謂われは生殖のかたちが微妙だけれど――スサノヲのミコトの実の姉である。  2-2. つまり 一般の人びとは スサノヲの子孫となっているが 天皇家も スサノヲの子孫である。スサノヲも 天皇家の祖先である。  3. 象徴天皇という社会的役割りは 決してめづらしいことではない。  3-1. 《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》なる連関制としての社会形態は 二階建て構造を成す国家という状態にかんして 世界において一般性を持つ。  3-2. アマテラス公民は 《公務員一般(狭義のアマテラス)とアマテラシテ》とに分かれるが この・象徴を意味するアマテラシテが やはり世界において一般的な元首のことである。  3-3. 具体的に 国王・象徴天皇・大統領などがある。  3-4. 一党独裁の党総書記は ふつうの国家におけるふつうのアマテラシテであると言えるかどうか。  ☆ 具体例を三件挙げました。――人びとはなぜ 天皇について哲学しないままでいるのか?

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

  • ことばで権力を倒せるか?

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままなナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとうその根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。《くにのいえ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人にはその発言(自己表現)にもつねに 本音と建前がある。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわちむろんこの問題をあつかうのだ。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》逆立連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。  ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。  つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。  添削をどうぞ。

  • 果たして《天皇》は何なのか?

     現在の憲法に照らし合わせて そのままわたしの答えは 国の象徴であり元首だと考えます。それだけのことだという意味です。  ですから そうではなく・つまりそれだけではなく 何かほかにいろんな尾ひれがついているのではないか? つけられているのではないか? そしてそれはどうしてか? こういう見方からの問い求めです。  ひとつ問題となるべきことは 世襲制です。ただこれも新しく即位したときに 国民投票をすれば済むことでしょうから そして現段階においては しなくてもウイ(諾)の声が多いでしょうから あまり問題にもなりません。  たしかに歴史的ないきさつが――それはそれは長年のことですし 昔昔のそもそもの成り立ちの話から―― いろいろとあるでしょうが そしてそれはそれで探究や話し合いの主題になることでしょうが 基本的に言って わたしの言葉で アマテラシテ(象徴)であるという答えを持ちます。  これらをめぐって ご見解をお寄せください。  * 趣旨説明としての簡単な註です。  社会は スサノヲ市民圏とアマテラス公民圏とから成り アマテラス公民の内に 元首としてのアマテラシテ象徴なる公民がある。  ○ 《スサノヲ市民社会 ‐ アマテラス公民圏 / アマテラシテ象徴》  ○ Susanowoschaft - Amaterasutum / Amaterasitaet( l'amaterasite / amatersity )  ○ Yasiro(やしろ) - Superyasiro(スーパーヤシロ)  ○ まつり  ‐ まつりごと

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。

  • 事大主義(アマテラス予備軍症候群)とその後遺症

     1. ひとの言葉は あやまち得るスサノヲ人間語とあやまたざる〔と見なされる〕アマテラス普遍語とに分かれる。   《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる構造的な成り立ち  2. アマテラス語をよく使いこなすひとは 社会の中で一般に指導的な地位に上がることが多い。言いかえると スサノヲ市民が《あまあがり》すると アマテラス公民となる。   《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》から成る社会のかたち   3. このかたちは 二階建ての構造であるように思われる。お二階さんの中でさらにアマアガリが起きると いわゆる国家元首としてのアマテラシテが出来る。   《 S 圏 - A 圏(アマテラス公民 / アマテラシテ)》連関制    ・アマテラス公民:官僚・政治家その他もっぱらの公民と見なされる職務    ・アマテラシテ:国王・皇帝・象徴  4. ここに第三次のアマアガリがあり得る。それは特に 《皇帝なるアマテラシテ》の場合であり 《帝国》というのは なおほかの国家をも自分の支配下に置こうとする動きである。  5. 韓国は 大いなる帝国主義アマテラシテに事(つか)えるという事大主義なる行動をしばしばおこなって来た。これを アマテラス予備軍と呼び得る。そのクセを アマテラス予備軍症候群と言えるのではないか?  6. 大日本帝国に仕えた朝鮮は 日本が敗けたあと いろいろ協力を求めて来たように思われるが 敗戦国は叩けということになる。反日である。国是のごとく。  7. ジャパン・バッシングそのものは 自分の責任でそういう表現をするかぎりで 仕方ないことですが 問題は 《反日》が 自己表現の大前提になっていることにある。  8. ▼ (ヰキぺ:反日主義) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ▽ 鄭大均:「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」  ▽ 崔碩栄:「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。・・・  ▽ 黒田勝弘:「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  9. もしこのようにおのれの行動方針が 真っ先に《反日・蔑日》を掲げているのならば 言葉としての《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる成り立ちよりも先に 日本叩きという頭が来ることになります。  10. すなわち 《統一方針なるアマテラス方言》が すべての言葉を凌駕してしまう。それは 子どもの頃から 頭に叩きつけられる。  11. これでは いくら思考能力を伸ばそうとしても 民族としての統一アマテラス語がつねに立ちはだかる。  12. これでは 気が狂わないほうが おかしい。のではあるまいか?  13. なお 中国の行動は アマアガリ・シンドロームに罹っていると見ます。最初のボタンをかけるときに そうなのである。

  • 国家とは何か? その存立根拠とは?

     (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?  (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。  (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。  ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。  これが 特徴であると考えられる。  (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。  これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。  (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?  (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?  (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。  (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?  (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。  (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?