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にんげんの前史を終えるということ(!?)

 について あらためて問います。第三セッションです。  まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。  今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース      (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は      ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。       人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。    階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

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回答No.3

アメリカさまへのご批判が所望とのことなので・・・。 アメリカさんの問題点は、 「我こそは正義」 という揺るがない自信でしょうね。 アメリカさんは、「これぞ一神教の権化」みたいなもので、自分と異なる主義主張を絶対に認めてくれない。 地域的特殊性、歴史的背景などをまったく無視し、 他国にアメリカの《正義》を一方的に押し付ける。 しかも、その《正義》が自国の利益に深く結びついているだけに、質が悪い。 話し合いは確かにしますけれども、 その圧倒的な《経済力》と《軍事力》をバックにして、すぐに恐喝するので、 交渉相手は一方的に譲歩する以外ない。 アメリカさまは、そもそも、互いに《譲り合おう》という気持ちを微塵も持ち合わせていない。 まぁ、それだけならば、まだいいのですけれど、 やっている途中でコロコロと変心するし、 うまくいかないと、他国に干渉すべきではないというモンロー主義の動きが国内で起こりだし、 喧嘩をみずから売っておきながら、あるいは、他人に喧嘩をけしかけておきながら、 「正義(民主化や人権、自由などなど)は教えた。あとは皆さんヨロシク」とそそくさと逃げだす。あまりに無責任過ぎる。 基本、 ダブル・スタンダートだし、ご都合主義だし、途中でハシゴを外すようなマネをよくするし、ホント、ホント・・・。 しかも、 「我こそは正義」と信じて疑っていないから、 ヨソサマがいかなる事態になろうとも、途端の苦しみを味わっていようが、良心は傷まない。 そして、自分たちが、実は、ヨソサマから快く思われていないことに、まったく、気づかない。 すこしでも反米的な動きが起こると、 「オレたち、何も悪いことをしていないのに、何でオレたちは嫌われているのだろうか? 不思議だ」 としきりに首を傾げる。 ───この世でひとりアマテラス界の市民であるアメリカさまは絶対に過ちをおかさないのだ!!─── 一階に住む人々、国々にどれだけ迷惑をかけていることか・・・。 能天気といおうか、おバカといおうか、お目出たいと言うべきか、ふぅ~っ!! ホントKYだもんな~。 ご主人アメリカさまの忠犬、ポチである日本とイギリスは、ご主人様のご意向に面と向かって逆らうワケにいかず、 いつもいつも振り回されて、損な役回りをさせられるし・・・、 ふぅ~っ。 で、結局、 ご主人様の尻拭いを、日本やその他の西側諸国が連携してやらないといけない。 最近のドイツは、唯我独尊で我が道を行くでしょう。よほどのことがないと、損な役は引き受けてくれないし、他国のイザコザにできるだけ関わらないようにしているし・・・。 フランスは・・・。 今回のウクライナの騒動だって、アメリカの影が見え隠れするようですね~。 前政権を倒した右派武装勢力・《右派セクター》との黒い噂が立ち始めているようです。  ───敵の敵は味方。 何と浅はかな!! アルカイダから何も学んでいないよ~。 どうしてこんなにおバカなんだ、アメリカは!!─── ホント、かわいそうなウクライナ国民(涙)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  話し合いは確かにしますけれども、  その圧倒的な《経済力》と《軍事力》をバックにして、すぐに恐喝するので、  交渉相手は一方的に譲歩する以外ない。  アメリカさまは、そもそも、互いに《譲り合おう》という気持ちを微塵も持ち合わせていない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ TPP でけっきょく《相手のつまり日本の国家主権をも奪い取ろうという姿勢と提案》があるそうですね。アメリカの言いなりになる制度をつくろうという。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  まぁ、それだけならば、まだいいのですけれど、  やっている途中でコロコロと変心するし、  うまくいかないと、他国に干渉すべきではないというモンロー主義の動きが国内で起こりだし、  喧嘩をみずから売っておきながら、あるいは、他人に喧嘩をけしかけておきながら、  「正義(民主化や人権、自由などなど)は教えた。あとは皆さんヨロシク」とそそくさと逃げだす。あまりに無責任過ぎる。  基本、  ダブル・スタンダートだし、ご都合主義だし、途中でハシゴを外すようなマネをよくするし、ホント、ホント・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 尖閣を守るというのも 《変心》を覚悟で受けとめておかないと。・・・  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  そして、自分たちが、実は、ヨソサマから快く思われていないことに、まったく、気づかない。  すこしでも反米的な動きが起こると、  「オレたち、何も悪いことをしていないのに、何でオレたちは嫌われているのだろうか? 不思議だ」 としきりに首を傾げる。  ───この世でひとりアマテラス界の市民であるアメリカさまは絶対に過ちをおかさないのだ!!───  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。ここですね。わたしの思っていたところです。  ですから 《不思議でなく あなた方は嫌われていますよ。こういう理由でこれこれの点についてです》としっかりとおしえてやらねばならない。という問題です。  太地町のくぢら取りに対して何とか言いました。その《正義》は 独りよがりですよとおしえてやらねばならない。  オバマ氏にだって 同じです。自分たちは《正義》が堂々と歩いているのだと思っているはずですから。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご主人アメリカさまの忠犬、ポチである日本とイギリスは、ご主人様のご意向に面と向かって逆らうワケにいかず、  いつもいつも振り回されて、損な役回りをさせられるし・・・、  ふぅ~っ。  で、結局、  ご主人様の尻拭いを、日本やその他の西側諸国が連携してやらないといけない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 政治と言いますか 特に国際関係の場では そうだと思うのです。日本はいちばん弱いでしょうね。そういう役回りを引き受けて来たのですから。  ただ 文化の面では かなり違うとも考えられます。  こちらでは 一泡吹かせてやればよいかと思うのです。  そういう意味でひとつ思い浮かぶことがあります。神学ないしキリスト論 あるいは具体的に三位一体論 これらの主題で あっとおどろく理論を示してやれば イチコロではないかと思ったことがあります。(これが 言いたかったから 設問したのか? と言われれば 前々からそういう方向で思っていたことは ほんとうだと答えねばなりませんが)。  いや じっさいそうだと思うのです。アメリカは 聖書学では おそらく研究者の数だけでも群を抜くのではないかと思います。成果が積み重ねられて来ているようです。  でも神とは何か? あるいは信仰とはどういうことか? について 必ずしも分かっていない。この点 わが神論は かなりの武器になるかと思っています。  アメリカ人は その場はバツがわるくても そういう批判ないしあたらしい理論というのは 歓迎すると思います。・・・  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  今回のウクライナの騒動だって、アメリカの影が見え隠れするようですね~。  前政権を倒した右派武装勢力・《右派セクター》との黒い噂が立ち始めているようです。  ───敵の敵は味方。 何と浅はかな!! アルカイダから何も学んでいないよ~。 どうしてこんなにおバカなんだ、アメリカは!!───  ホント、かわいそうなウクライナ国民(涙)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうなんですか。《黒いうわさ》はまだ知りませんでした。まぁ 裏工作は裏工作で とことんやるでのでしょうし。  とにもかくにも たとえば メートル法にあらためろと まづは言いたい。です。  

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回答No.8

 こんばんは > ★ (イラク戦争後若干おとなしくなりましたが)  ☆ これが オバマ氏の性格によるものなのか。それとも・・・。でも一度そういう行為を取ったということは かなりあとあとに尾を引くのでしょうね。  おそらく、財源の問題が一番だと考えております。また、実質上、イラク戦争は成功に終わったとは言い難いですから、同じ過ちは犯したくはない、といったものかもしれません(つまり、尾を引いているのだと思われます)。 > ☆ これを アメリカ側が どう考えているのか。極端に言えば 日本を犠牲にしてでも対等で仲良しの関係になるのか。あるいは そうではなく きちんと距離を置いているのか。  そして いづれにしても 日本は 刺身のつまくらいなのか。  アメリカ国債を買っている限り、無視はできないと思います(たぶんですが)。  ただ、今後はアメリカという国を考える上で、中国も必ず絡んでくると、そう考えた方がいいのかもしれません。 > ○ ケネディ大使のくぢら  ☆ 日本人は 針供養までするほどなのですから かわいそうだと思っているのは どこの誰よりも深いはずです。そう知って欲しいと思います。  はい、わたくしもそう思います。 > あと日本の進路や使命などをめぐって 感じとしては みなさん口をつぐんでいらっしゃるという感覚が これまで寄せてもらった回答とのやり取りでは 受け取られます。  国際政治に興味がなかったこと、または、日米同盟重視等の意見のお持ちの方が多かったのかもしれません。 > もう少し開いていますが そういった点などを考え直して行きたいと思います。もう一日で閉めましょうか。  了解致しました。  どうもお疲れ様でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  中国では ネットをにぎわす話題が ひとつに日本旅行の体験記のようです。  おどろいた。感動した。といった記事が かなり多いようです。  市民と政府とを分けて考えるようになっているかも分かりません。  それにしても うざこいですね。政府のほうは。    おつかれさまでした。  アメリカ論は 出直します。

回答No.7

 こんばんは > マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  おそらく、そうだと考えられます。  特に冷戦終了後、勝ち残ったアメリカ(ほとんど、一人勝ちと言っていいかもしれません)。この国を制御することも困難な状況からみましても(イラク戦争後若干おとなしくなりましたが)、必然的にそうなってしまったのかと考えております。 > 中国人は 度を越している。ゆがんでいる。  今や、米国の最大債権国の1国となりました。チャイメリカという造語も作られ、2国間の共存関係についても言及されている状況にございます。  つまり、”チャイナ アズ ナンバー1”を目論んでいるのかもしれません。その意味においても、アメリカを除く他の国々を圧倒している観が見て取れます。そう鑑みますと、”度を超した”アマアガリシンドロームを呈しているといっても過言ではないでしょう。ただし、バブルの崩壊も危惧されておりますため、アメリカを凌ぐかどうかは不確定要素が多過ぎると考えています。 参考: http://en.wikipedia.org/wiki/Chimerica  > 韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    駄々っ子に近い状況にございますが、小国でもあるため、中国のような脅威にはならないと考えております。  そこでなのですが、   > (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  現在、出し切ろうとしている”最中”かと推察しております。 > § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  ”Deeply concerned by inhumaneness(非人道的で深く遺憾)”とまで言われました。  しかし、他の国々、例えばノルウェー等には言わないです(何故だか言わない)。おそらく、TPPと絡んで、「アメリカの牛肉を食べろ!」と言いたいのかもしれません。自国の利益しか考えていないアメリカらしい言葉かと受けとりました(アマアガリに病んでいいるとしか言いようが・・・)。 > もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  その任をむしろ進んで果たしていくべきかと考えております。ただ、外交戦略の欠如からなのかどうかは不明なのですが、ノルウェー等に、”交渉国”として、遅れをとっているのが現状かと思われます。 > しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  現在は、その旧体質の最後の段階といったところでしょうか。もちろん、テロル含め武力の衝突はあろうかと思われます。ですが、世界大戦のような大戦争は起こらず、ある意味、老獪かつ強かにやっていくのだろうと考えております。  すみません。もう一つまとまりがない文章となってしまいました。ですが、思うところを、まずは回答させていただいた次第でございます。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  むつかしいですね。  アメリカ論は けっこう現われないですね。たたき台も乏しかったのですが 少ないですね。  ★ (イラク戦争後若干おとなしくなりましたが)  ☆ これが オバマ氏の性格によるものなのか。それとも・・・。でも一度そういう行為を取ったということは かなりあとあとに尾を引くのでしょうね。  ★ 今や、米国の最大債権国の1国となりました。チャイメリカという造語も作られ、2国間の共存関係についても言及されている状況にございます。  ☆ これを アメリカ側が どう考えているのか。極端に言えば 日本を犠牲にしてでも対等で仲良しの関係になるのか。あるいは そうではなく きちんと距離を置いているのか。  そして いづれにしても 日本は 刺身のつまくらいなのか。  ○ ケネディ大使のくぢら  ☆ 日本人は 針供養までするほどなのですから かわいそうだと思っているのは どこの誰よりも深いはずです。そう知って欲しいと思います。  あと日本の進路や使命などをめぐって 感じとしては みなさん口をつぐんでいらっしゃるという感覚が これまで寄せてもらった回答とのやり取りでは 受け取られます。  まぁ 勇み足の質問である嫌いもあるようですが。  思ったことはもう少し焦点をしぼって 具体的な論点にしたほうがよい。ようです。  もう少し開いていますが そういった点などを考え直して行きたいと思います。もう一日で閉めましょうか。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

私はここで、個人の実成という言葉を使いたいと思います。おっしゃるところの二階建て構造は、外的にあるだけではなく、内的、個人の内部にこそ存在して、葛藤を生み出していると考えます。ですから、ブレイクスルーがあるとするなら、個人の内部の葛藤が終息する時だと思います。 立派な人間であろうという思い、自然な素朴な人間であろうという思い、これら二つの思いが融合して、新たな人格を形作り、その新たな人格を持った人々が、それに相応しい新しい社会を作っていくのではないでしょうか。 個人の実成からなる社会構築が、前史からのブレイクスルーだと考えました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  それは 手前味噌になりますが    《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる二層構造  のことでいいのでしょうか?   ・ あやまちうるスサノヲ人間語( S 語)   ・ あやまちえないアマテラス普遍語( A 語)     (普遍科学語および普遍人格語)    ★ 立派な人間であろうという思い(* = A 語普遍性)、自然な素朴な人間であろうという思い(* = S 語自然的人間性)、これら二つの思いが融合して、新たな人格を形作り、その新たな人格を持った人々が、それに相応しい新しい社会を作っていくのではないでしょうか。  ☆ 高度経済成長を遂げたあとからは――と言っても すでに前々から批判はあったのですが―― 社会のあらゆる分野における《アマテラス語普遍性》を担っているという人びとや職業が ことごとくと言ってよいほど その権威も信用も 崩壊してしまいました。  医者から大学教授から警察から官僚から・・・。政治家は 前々から信用されてはいません。  学術論文における不備ないし不正までが しばしば見かけられるようにまでなりました。  ★ 個人の実成からなる社会構築が、前史からのブレイクスルーだと考えました。  ☆ 《実成》って まさかガウタマ関係ではないでしょうね。それならそれで 中身を充実させてもらえればいいのですが。  ○ 修身斉家治国平天下  ☆ と言いますが 考え方としては そういう捉え方でしょうか? わが身から始め 家庭におよび 国を治め天下を平らかにする。  お二階さんは 《公僕》であるというよい理念もあるのですがねぇ。

回答No.2

こんばんはです。 ☆今般オバマは 韓国で《従軍慰安婦は ひどい人権侵害》だと述べたようです。 ◇その一方で、 "My hope would be that we can honestly resolve some of these past tensions, but also keep an eye on the future." とあります。 で、but以降が本音!! この意味は、 「(いつまでも過去にとらわれず)未来に目を向けてほしい」 です。 keep an eye on the future. anか~、ずる賢い表現を使っているな。 両目ではなく、片目だけは、ジッと未来を見つづけるか・・・。 と、すこし感心。 練りに練った表現だったというわけか・・・。 ところで、 最近、お隣のK国さん、すこし世論の潮目が変わってきたらしく、 お二階さんへの批判を強めていますよ。 ──────────── 歴史が私たちに与える教訓の中の1つが、人間は過ぎ去った歴史から何の教訓も得られないということだ。 (中略) 西海(ソヘ)フェリー号、聖水(ソンス)大橋、大邱(テグ)の地下鉄、マウナオーシャンリゾートの原因も同じだ。 http://japanese.joins.com/article/853/184853.html?servcode=100§code=120 ──────────── いえいえ、普通の国は、歴史から学び、それを教訓とするんですよ。二度と同じような事故が起きないように、法整備を行ない、その対策を講じるものです。 ──────────── 正直や誠実、勤勉という倫理は消え、顔色をうかがい知恵を絞って生きるべきだという要領がその場を埋めた。 http://japanese.joins.com/article/853/184853.html?servcode=100§code=120 ──────────── そんな倫理があったことがあるんだろうか(ハテナ)。 額に汗水して働くヒトを、ずっとバカにしていたのでは。 韓国の大学進学率の高さは、ブルーカラー蔑視に基づいていたはず。 以前、「韓国の理系への進学率が低いのは、このためである」と分析し、論評していたような気がするんですが・・・。 それに、 《顔色をうかがい知恵を絞って生きるべきだ》、これが、韓国のお家芸ともいえる《事大主義》でしょうに・・・。 つい、最近、始まったことではないのでは・・・。 そして、 ──────────── 「官僚マフィア」はこのようなシステムの一部だ。全てではない。精神や文化などのソフトウェアを変えない限り、官僚マフィアは消えないという意味だ。 http://japanese.joins.com/article/853/184853.html?servcode=100§code=120 ──────────── と、今回の旅客船事故の責任を一方的に《官僚マフィア・アマテラス社会》になすりつける。 当初は、「今回の事故の責任は中古の船を売った日本にある」としたかったみたいですよ、お隣さんのマスコミ。 さすがにこれは無理筋ということで、すぐに方針転換したようですが・・・。 それでも、廃船同然の船を売りつけたから、今回の悲劇が起きたのだ、といわんばかりの記事が、昨日の『中央日報』に掲載されていたようでございます。 やっぱ、病んでるわ、この国は・・・。 病んでるついでに。 【断末魔の中韓経済】韓国の悲惨な若者たち 大学卒業と同時に4割が「失業者」 http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140402/frn1404021820007-n2.htm 格差広がる韓国「両親から小遣い貰うのがつらい」と若者嘆く http://news.mynavi.jp/news/2013/07/08/184/ 中国も実は同じような悩みを抱えていて、蟻族、モグラ族、鼠族などと呼ばれています。 ──────────── 蟻族 蟻族(ありぞく)とは、中華人民共和国における、2000年代後半以降急増している、大卒でありながら良い給料の職に就けない若年者層のことである。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%BB%E6%97%8F ──────────── 家賃の安い地下の部屋に潜って暮らしているので、蟻族・モグラ族。 これよりさらに貧乏なのが、鼠族。 チャイナ・ドリームなぞ、遠い過去の話で、今や存在しない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  で、but以降が本音!!  この意味は、  「(いつまでも過去にとらわれず)未来に目を向けてほしい」  です。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その指摘は いいのですが 問題は変わらないと考えます。  ▲ 従軍慰安婦は ひどい人権侵害だ  ☆ というのなら 戦争時におけるいわゆる一般に〔理論上・現代から見て〕犯罪に相当するような国家行為全般について これこれこういう見方であると まづ 大前提の議論をしてから言わなければならない。と考えます。  《テラボー ワイオレイション》というのなら 原爆はどうだ? そもそも徴兵制度はどうなんだ? 等々と議論をしつつ同時にそれらについての見方を明らかにしていなければいけない。と考えます。  そのうえで 各論にもおよぶ。  さらにあるいは 具体的につぐないの問題にも入っているのなら 法的・道義的な事情や問題をきちんと明らかにしたうえで 結論をのべなければなりません。あるいは すでに日本は謝罪していることにも触れるのが ふつうだと考えます。  ちなみに 例の親日家の《テキサス親父》が オバマに反論しているようです。  ▼ (オバマ大統領、あきれた慰安婦発言 テキサス親父「勉強不足だ」) ~~~~   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140428-00000013-ykf-soci    夕刊フジ 4月28日(月)   マラーノ氏が指摘した米公文書とは、太平洋戦争中の1944年、米軍が慰安婦から聞き取り調査した報告書で、ワシントンの国立公文書館にきちんと保管されている。  ここには、《慰安婦は強制されたものではなく雇用されていた》《接客を断る権利を認められていた》《女性たちは大金を持って楽しんでいた》《洋服や化粧品など好きな物を買うことができた》《日本兵とスポーツやピクニック、宴会などをしていた》などと記されており、韓国が世界中で吹聴している「慰安婦=性奴隷」「強制連行された」といった主張がウソだと分かるのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という一つの見方もあり得ると考えます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  ところで、  最近、お隣のK国さん、すこし世論の潮目が変わってきたらしく、  お二階さんへの批判を強めていますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。これは 実際であるようですね。慰安婦がふつうの売春婦だったという論調も出て来ていると言います。親の仇だとしてたたかれようとしているとも。  ◇ 額に汗水して働くヒトを、ずっとバカにしていたのでは。  ☆ これは ほんとうのようですね。儒教関係の《貴族》階級 両班(ヤンバン)が何もしない・何も自分では動かないし仕事をしないという流儀を《構築》してしまったようです。そのほうが偉いという或る種(変種)のアマテラス公民族であるようです。    ◇ と、今回の旅客船事故の責任を一方的に《官僚マフィア・アマテラス社会》になすりつける。  ☆ なるほど。自浄作用は まだまだですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  病んでるついでに。   ○【断末魔の中韓経済】韓国の悲惨な若者たち 大学卒業と同時に4割が「失業者」  ・・・家賃の安い地下の部屋に潜って暮らしているので、蟻族・モグラ族。  これよりさらに貧乏なのが、鼠族。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということのようです。  中韓はいいのですが・つまり さらに情報を寄せてもらっていいのですが ここでは アメリカ論が メインです。さらにさらに どうぞ。

回答No.1

こんにちは。 ☆前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか? ◇ネットの社会を見ると、運用と運用の管理をするヒトは存在しますけれども、基本的にすべてのヒトは《横並び》の関係であって、身分・階級といった《上下》の関係は、そこに存在しない。 それでも、ネットの中で、群れて集まって、《村・ムラ》の如きものは作りますけれども。 現在の、このヴァーチャルの世界が、リアルの世界の先駆けであるとすれば、前史は終わり迎える。終焉の時を迎える。 そして、いま、 このネットの中に存在するヴァーチャルの世界が、リアルの世界の領分を次第次第に侵食し、リアルの世界を大きく揺さぶっている。社会改革の大きな原動力になっている。 このことだけは、事実。 まぁ、リアル世界がネットに現在存在するヴァーチャルの世界になったら、つまり、仮想世界が現実世界かしたら、 お二階さんが消滅し、ネットの世界のようにカオス・混沌の渦巻く世界になってしまう可能性もあるんですけれども。 それでも、選択肢の一つとしては、なりえるのでしょう。 ☆☆☆☆☆☆ ☆このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか? ◇アメリカン・ドリームは、いまや死語です(笑い)。 アメリカの識者は、このことを誰よりも強く自覚しています。 ☆中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。 ◇中国人、韓国人ともに、わたしの理解できる大幅に範囲を超えています。 まったく理解できません。 中国人の行動原理は、あくまで、《利》、《個人や宗族の目先の利益》ですしね~。 《お上・オカミ》なんて、端から眼中にない。道理はすべて《利》の前に屈してしまう。 法律や約束は、守るためにあるのではなく、破るために存在する。 これを守るのはバカのやることで、いかにうまくバレないで利を得るかが、成功するか失敗するかの別れ道となる。 中国民衆において、基本的に、《アマアガリ・シンドローム》は存在しない。 あるのは、「他人(ひと)を出し抜き、理財を稼ぐ」こと・・・。 韓国人は、2000年以上の長き間、ずっと、中国の子分、奴隷ですからね~。 もう拭えきれないほど、奴隷根性が深く民族性に染み付いている。 で、 基本、奴隷(根性)だから、ご主人様におねだりをする。 ───中国の朝貢制度では、ご主人さまは常に赤字状態。もらったもの以上のものを与えていた─── 現在のご主人様であるアメリカさまに「チョッパリ、お金くれないんです。叱ってください」と泣きつく。 元ご主人様の中国さまのところに行っては「チョッパリ、ヒドいんです。懲らしめてください」と泣きつく。 さらに、元ご主人様である日本には「ウリたちは、助けてもらって当然ニダ。ウリたちにはその権利が未来永劫存在するニダ。だから、チョッパリ、助けるニダ。嫌だけれど、助けてもらってやるニダ!!」と泣きつく。 しかも、受けた恩はきっちり仇(あだ)というカタチで返してくれる(笑い)。 無視されると、「アイゴ~」と叫び、火病(ファビョ)る、思考停止状態に陥る。 韓国人は、死ぬほど、台湾人に嫌われているですよ。 韓国の方が台湾よりも早く日本に編入され、統治されるようになったんで、 「ウリたちの方が台湾土人より偉い!! 台湾土人は、兄貴分のウリたちの言うことを聞くニダ」 みたいな尊大な態度を取るんで・・・。 奴隷内の序列の中でしか、物事を考えられない。 ご主人様であるアメリカさまの(アジアの中での)一番の子分であると、これまで信じて疑っていなかったけれど、 現在、 「実はそうではないのではないか?」とその自信が揺らぎ始めています。 自信喪失中。 「ならば・・・。元ご主人様の中国は、現在のご主人様・アメリカさまよりも自分たちのことを可愛がってくれるかもしれない・・・。でも、これはオッカナイ!!」 朝鮮・韓国の外交方針・国家戦略は、その時々の、大に事(つか)えるという《事大主義》ですんでね~。 奴隷として一番を目指すという《アマアガリ・シンドローム》は存在すると思うのですけれど、ご主人様になろうという《アマアガリ・シンドローム》は欠如しているのでは、と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  現在の、このヴァーチャルの世界が、リアルの世界の先駆けであるとすれば、前史は終わり迎える。終焉の時を迎える。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  まぁ、リアル世界がネットに現在存在するヴァーチャルの世界になったら、つまり、仮想世界が現実世界かしたら、  お二階さんが消滅し、ネットの世界のようにカオス・混沌の渦巻く世界になってしまう可能性もあるんですけれども。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ネットなどのワーチュアル世界の事実からのひとつの展望ですね。  ネットの世界が 何でもありの状態を呈しているとすれば そのことが リアルの世界で現実となったとしたら どうするか。の問題をも見通すことができるであろうと。  問題のひとつは いまの二階建て構造にもとづく社会秩序が のぞましく守るべきものかというところにあるかも知れません。  ◇ アメリカン・ドリームは、いまや死語です(笑い)。 / アメリカの識者は、このことを誰よりも強く自覚しています。  ☆ ええ。だから ハーフのオバマ氏が 大統領になれた・なるような時期であったとも見られるかも知れません。外部から来た人間のほうが 〔いい意味でのと思われているところの〕ナショナリストに成り得る。  ただ 黄昏時には 必死に元来た道の昼時をなつかしがる向きも多くいて その行動形式が 盛んにならないとも限りません。  ◇ 中国民衆において、基本的に、《アマアガリ・シンドローム》は存在しない。 / あるのは、「他人(ひと)を出し抜き、理財を稼ぐ」こと・・・。  ☆ ここも同じようであって 中国でもお二階さん方については アマアガリ症候群に罹った行動を 当面は 推し進めて行くものと思われます。  それと ふつうのスサノヲ市民たちにしても  ◇ 「他人(ひと)を出し抜き、理財を稼ぐ」こと  ☆ は お二階に上がることではなくても 社会的な地位としては 《理財をかせぎ 他人を出し抜くこと》は大きく広く――勤勉に輪をかけたガリ勉症候群だとすれば―― アマアガリ・シンドロームに関係していないとも限りません。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  現在のご主人様であるアメリカさまに「チョッパリ、お金くれないんです。叱ってください」と泣きつく。  元ご主人様の中国さまのところに行っては「チョッパリ、ヒドいんです。懲らしめてください」と泣きつく。  さらに、元ご主人様である日本には「ウリたちは、助けてもらって当然ニダ。ウリたちにはその権利が未来永劫存在するニダ。だから、チョッパリ、助けるニダ。嫌だけれど、助けてもらってやるニダ!!」と泣きつく。  しかも、受けた恩はきっちり仇(あだ)というカタチで返してくれる(笑い)。  無視されると、「アイゴ~」と叫び、火病(ファビョ)る、思考停止状態に陥る。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまいこと言いますねぇ。もうつけ加えること ありません。  ◇ 奴隷として一番を目指すという《アマアガリ・シンドローム》は存在すると思うのですけれど、ご主人様になろうという《アマアガリ・シンドローム》は欠如しているのでは、と思います。  ☆ ええ。つまり 駄々をこねるかたちの《あたかも》アマアガリ・シンドロームであるようです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご主人様であるアメリカさまの(アジアの中での)一番の子分であると、これまで信じて疑っていなかったけれど、  現在、  「実はそうではないのではないか?」とその自信が揺らぎ始めています。  自信喪失中。  「ならば・・・。元ご主人様の中国は、現在のご主人様・アメリカさまよりも自分たちのことを可愛がってくれるかもしれない・・・。でも、これはオッカナイ!!」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということで――つまり そのままを受けとめまして―― では アメリカという人間は どういう思惟・生産=行為の形式なるや? と問いたいと思うのです。  趣旨説明欄では アマアガリ・シンドロームという見地から ケネディ大使の発言をなじりました。  今般オバマは 韓国で《従軍慰安婦は ひどい人権侵害》だと述べたようです。  ▲ (Obama says ・・・) ~~~~~~~~~~~  https://news.yahoo.com/obama-says-japans-wartime-sex-slavery-terrible-violation-102322870.html   The Japanese wartime system of sex slavery was a "terrible" violation of human rights and its victims need to be heard,  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも ただのアマアガリ・シンドロームによって成せるわざではないのか? と考えます。  不注意で無知で無思慮なまでに アマテラス面(づら)をしたのだと。  本質問は このアメリカ論であります。どうでしょう。

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  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性       格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度       として固定させようとして出来たもの。        身分関係。世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度としての       社会力学的な交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて        いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。

  • にっぽん がんばれ。

     われわれは にんげんの前史を終えることができるか  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ)   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。           したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会という           ヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづりなるクセ)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごくふつうに       自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手       に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみとめあっ       ている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるようにそ       れが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人工的な性格の       もの とがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性格のも       の》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度として固定さ       せようとして出来たもの。        身分関係。さらには その身分の世襲制。         特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》との二階建       ての構造として固定する国家における身分制度としての社会力学       的な(=世間のシガラミなる)交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されている社会       のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ扱われる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。どういうことか?     言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とすることとなった。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。  ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  よろしくご教授ください。  われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?

  • にっぽん がんばれ。がんばれ にっぽん。

     われわれは にんげんの前史を終えることができるか  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。  (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ)  (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。        したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会とい        うヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり        なるクセ)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。  (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを下にある       ことに甘んじて受ける者とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない作為的・人       工的な性格のもの         とがある。  (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な       性格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会       制度として固定させようとして出来たもの。自生的なもの       も 作為的となる。        身分関係。さらには その身分の世襲制。         特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》と       の二階建ての構造として固定する国家における身分制度       としての・その社会力学的な(=世間のシガラミなる)交通       関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて       いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ  (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ取り扱われる。  (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ情況としての二階建てに成ると捉えられる。どういうことか?    言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。そこから よくもわるくも 言わば《情感の共同性》なる情況を醸し出して来る。  ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。  (ただし 情感の共同性についてその綻(ほころ)びと繕いとは しょっちゅう起きている)。  ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し ほんとうはこのアマアガリ教とその実践はどうも行き過ぎだったと思ったときには人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。  (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として取り込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み 一面ではその《お金をとおしてのマジハリ》といった一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを一人ひとり誰をも世界史的な存在とすることとなった。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き)    社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいのお この位を下りて心だけとしてでもアマクダリしてみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ社会形成の道行きのもとにそれぞれが自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力をもう全部出し切ったと言える地点に来たのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。  ふるいニンゲンは ほろびる。んだにゃあ。  にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  よろしくご教授ください。  われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?  にっぽん がんばれというのは この新しい歴史にあって日本が先頭を走っていると推し測られるからです。  当てずっぽうなのですが それでもコジツケをおこなうならそれは あらゆる宗教から完全に自由な《もののあはれを知る》思想(生活態度)に立脚する縁の下の力持ちたるスサノヲ草の根市民が おっとどっこいと言って 立ち上がって来ると思われるからです。にっぽん がんばれ。

  • 日本社会は 対話型か? なら話し合いを!

     社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。  市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S  公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A  これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明します。  日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。  ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。  (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。  ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。  《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。  (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

  • 強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか?

    強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか? 政治カテゴリーによく首を突っ込んでいるのですが、社会的弱者に属する人や集団を排斥し差別する人の投稿が、守ろうとする人の投稿より圧倒的に多いように感じるのです。 植物には住み分けというのがありますが、同じ場所にある場合、より生命力の旺盛な種がそうでない種を駆逐して繁茂しますよね。 動物の場合はもっとはっきり、肉食獣が草食獣を食べて生きて生きます。人間社会の場合、途上国ではやはりこの法則がはっきり見えます。一部の権力と富を持った支配階級が、権力も金も無い大部分の弱者を徹底的に搾取する社会が固定化しています。アメリカの支配階級は全世界で傀儡政権を作って一般民衆を弾圧し富を略奪し続けています。 人間社会は違うと教えられて来たはずなんですが、日本社会もどうもその法則から抜け出せていないと見えるんです。日本にも支配階級というものが形成されています。官僚や利権政治屋、大企業が日本社会を自分たちに都合のいいように動かしており、弱者の立場を代弁する共産党や社民党が一向に反撃できません。在日は日本のマイノリティーであり、弱者です。その彼らを見下し、差別する投稿が政治社会カテゴリーでかなり優勢です。 人間社会も所詮、生物社会の法則に従うのか、強い者が弱い者を食う。人類の進歩、幾多の血を流してたどり着いた民主主義社会というのは幻想に過ぎないのか?戦時中の反省から、ずっと反権力で弱者の立場からモノを言っていた朝日新聞も数年前から、完全に世界一の強者であるアメリカの腰巾着のような新聞になってしまいました。最大多数の最大幸福なんてのは、所詮不可能で、人間社会も落ち着くところは、一部の強者が残りの大分を食うような社会ということになるのでしょうか? いや、人間社会は違うというなら、どこがどのように違うのか教えて下さい。人間社会には動物社会にはないモーメントが働く可能性があるのでしょうか? どうも今の日本社会を見ていると悲観的になってしまいます。

  • 《ウリナラ》は 《アフリカ的段階》だろうか?

     市民社会と公民圏との二階建て構造なる国家という社会形態を採ったとき 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) 対話型:日本社会    (κ) 民衆暴君型:アフリカ型社会  (ω) 競争型:西欧社会  以下にこれを説明した文章をかかげます。その中から 韓国社会については むしろこの《アフリカ的段階》なる要素を色濃く持っているかも知れないのではないかとたづねてみます。ふと思いついたもので 気軽に問うものです。  セヲル号沈没事件や これまでの大統領が任期を終えたあとには 石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて 思い浮かんだものです。どうでしょう?        *  (0) 用語の設定  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや生活態度としての思想やが かなりの程度において規定される。こう考えます。   市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S   公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A   これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明して行きます。  (1) 国ゆづり型としての A‐S 連関制  (1-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定するような檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (1-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  (2) A と S とが《競争型》なるその連関制  (2-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A = S 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  (2-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  (3) (α)および(ω) 両者の比較対照   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。  (4) さらに三つ目の A - S 連関制  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。

  • フーコーは 人間は権力人だと見たのですか

     【Q‐1】 かつての実存主義で言うように 権力ないし権力関係というのは 社会生活において一般的に見られるものであって それは 基本的に言って 人間関係における視線の上下関係のことを言うと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐2】 もしそうだとして このように 視線をそそぐ・受けるという関係が たとえば西欧中世では《羊飼いと羊の関係》のごとくであったと考えられるが これは そういう《認識の装置》が 大きく言って《物語》として 人びとに共有されたことを意味する。これで よいでしょうか?  【Q‐3】 この《認識の装置》としての物語は いわば 権力関係の素であるように思われるのですが それは どこから来るのでしょうか? たとえば 《構造》から来る。もしくは社会の総体的な《構造》じたいが そういうものである。ということでしょうか?  【Q‐4】 このような構造ないし物語が どの時代にも はたらいて その意味で一定の文明をかたちづくっているとするのならば 人間は 権力関係人ないし権力人(――これを ホモ・何と言えばよいでしょう――)であると規定したと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐5】 もしすべてこのようであるとすれば そのときには フーコーは そのように自分の紡いだ《権力人物語》を 人間と社会とに あらたな認識の装置としてのごとく おおいかぶせようとした。としか捉えられないのですが じっさいのところは どうなのでしょう?  おおしえください。  【Q‐6】 わたしの見るところ どうも 《構造》を 人間の意志の与り知らない《無主体の過程》であると捉える前提があって 簡単に言ってしまえば この前提が わざわいしているように思えるのですが どうでしょう?

  • 日本教は 自由な対話をゆるすか? なら話し合いを!

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  補論 § 5-d  日本教は 自由な対話をゆるすか? なら話し合いを!  (序) 用語の設定  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや生活態度としての思想やが かなりの程度において規定される。こう考えます。   市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S   公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A   これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明して行きます。  (1) 国ゆづり型としての A‐S 連関制  (1-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定するような檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (1-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  (2) A と S とが《競争型》なるその連関制  (2-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A = S 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  (2-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  (3) (α)および(ω) 両者の比較対照   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。  (4) さらに三つ目の A - S 連関制  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。(ときには 権力の代弁者もいる)。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。いや 洗脳状態か。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。