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フーコーは 人間は権力人だと見たのですか

 【Q‐1】 かつての実存主義で言うように 権力ないし権力関係というのは 社会生活において一般的に見られるものであって それは 基本的に言って 人間関係における視線の上下関係のことを言うと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐2】 もしそうだとして このように 視線をそそぐ・受けるという関係が たとえば西欧中世では《羊飼いと羊の関係》のごとくであったと考えられるが これは そういう《認識の装置》が 大きく言って《物語》として 人びとに共有されたことを意味する。これで よいでしょうか?  【Q‐3】 この《認識の装置》としての物語は いわば 権力関係の素であるように思われるのですが それは どこから来るのでしょうか? たとえば 《構造》から来る。もしくは社会の総体的な《構造》じたいが そういうものである。ということでしょうか?  【Q‐4】 このような構造ないし物語が どの時代にも はたらいて その意味で一定の文明をかたちづくっているとするのならば 人間は 権力関係人ないし権力人(――これを ホモ・何と言えばよいでしょう――)であると規定したと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐5】 もしすべてこのようであるとすれば そのときには フーコーは そのように自分の紡いだ《権力人物語》を 人間と社会とに あらたな認識の装置としてのごとく おおいかぶせようとした。としか捉えられないのですが じっさいのところは どうなのでしょう?  おおしえください。  【Q‐6】 わたしの見るところ どうも 《構造》を 人間の意志の与り知らない《無主体の過程》であると捉える前提があって 簡単に言ってしまえば この前提が わざわいしているように思えるのですが どうでしょう?

みんなの回答

noname#82774
noname#82774
回答No.2

 こんにちは。スピーディーですね。  どうも、「フーコーは人間は権力人だと見たのですか」というタイトルに対して、補足される文章を鵜呑みにして吟味していると、再びまな板の上でひとり踊りをさせられそうですから、タイトルの文言のみに話を戻して答えてみます――という、断りをしておかないと、ならないような気がしました。というのも、  僕は別な質問で「歴史はくり返す」と問うたのですが、僕らが「歴史はくり返す」と言うとき、その「歴史」という言葉は、その都度、他の言葉に置き換えることが可能な、言わばひとつの「例」としての役割として語られているように思うからです。  「歴史はくり返す」と言いつつも、例えばそれは、ある時には「戦争はくり返す」であるとか、もう少し抽象化して「悲劇はくり返される」といったような、そういう代替可能な言葉の例として「歴史」という言説は語られていると思うのですね。  それが「例」であるのかどうか、それはその「歴史」という言葉を少し引いたところから眺めてみると、よくわかります。それが例である証拠には、僕らはその「歴史」という言葉がいったい何を意味するものなのか、まるで特定できないでいる自分に気付くからです。  それは、一般的な何らかの史的事実を指す「例」であるとともに、その語り手のみが語り得る個別的な「こと」を指す「例」でもあり得るわけです。どちらかが判然としないこれら二つの例の狭間で、ある者はその例を歓迎し、またある者はその例を嫌うでしょう。  ある者にとって、外的環境の出来事など、「歴史」という言葉のなかでは明確な境界線が引けないわけですから、「歴史はくり返す」という言説の「歴史」は、意味とは別に言い換えてみると「例はくり返す」というほどの価値でしかありません。  ところで、その「歴史」という言説から、見る者にとっては(外的環境として築かれた)意外にソリッドな部分を、一つひとつ殺ぎ落としていってみるとどうでしょうか。  最後に残されるものは、「人は生まれ、やがて死ぬ」この一点でしかないのではないか、という気がするのですね。僕は、それを良い事だと思ったのですが、それは良否の判定は不可能だよというすばらしい回答と、「そのようにして」わたしの中へと返るのですよ、というすばらしい回答を、ふたつ頂くことができました。このためかどうか、  どうもあなたの場合、「人は生まれ、やがて死ぬ」――こういう次元から、まさにフーコーをひとつの例として問われているんじゃないの? という、どうも常々そういう気がするものですから、最初に釘を差しておかないとならないと思いました。  その上で、いちおう答えを補足してみることに致します。   (1)にある「視線を上から注ぐ場合」この言説に、すでに前提として「主体」が規定されていますよね。ですから、《抑圧》《道徳や社会慣習の規範に 倣うべし》どちらも主体を前提にした問題提起ですと言う事ができます。(1)の部分でずれているので、軌道修正が大変ですが、  (2)の「規範に従いなさい」という言説が、「規範に従いなさい」と言う「主体」を生むのだと言ってるわけです。規範を信じる個々の言説が、やがてその規範を戦略として持つ何らかの制度を作り出す。ですから、(3)の〔それがどのように生じたにせよ〕と仰る部分が重要です。禁止というのは、すでに仕上がった主体が下すものです。そうではなく、その前段階を問題視しているわけです。  >中央集権と地方分権  これはフーコーの表現ではなく、僕の表現ですから、お詫びします。また文中で主体に対し、戦略という表現を使っていますが、人間が集団生活を営む上で、そもそも制度というものは、いったい何を目的として、どういう必要性から生まれたのでしょうね。  フーコーはそこに規律とか、規範というものを見ているのだと思います。  正しく運用される上では規則のための規則というものはないと思いますが、それゆえに規律はそれ自体では主体とならず、規律が働くことで生み出される「何か」こそが、主体足り得るわけです。律令に限らず、それは道徳であり、可能性であるような、そういう(生み出された主体からすれば、戦略に当たるような)何かのなかに、権力は表れるのであって、そこから生じた主体をいくら排斥したところで、権力の本質は捉えられないだろうという見立てだと思います。この構造を、制度一般から切り出してフーコーは語るわけですね。万事がこれだという万能性は語らない、いわば非対称の言説です。  >というよりも これでは 経験科学の議論ではないと見ざるを得ないのですが どうなのでしょう?  通事的でないと書いたのはこの事で、フーコーの場合は、古代・中世・近代と時代を三つに切り分けて、それぞれの区分に属する言説を吟味しているわけですが、そのように区分を切り分けるのは、変遷がグラデーションではなく断層が見つかるからだと思います。  そうではないよというふうな見立てができれば、結論は同じであっても導出方法の間違いは指摘できると思います。ただし、どうしてこのような論じ方になるかといえば、それは言説に対する反証可能性を明確にするためではないでしょうか。科学というものに、普遍性とか万能性を見る人もいますが、科学が科学足り得るのは、反証可能性があるか・ないか、この一点にかかっています。フーコーの準備した材料、そして推論を用いた結果、違う回答が導出できるかどうか、反証可能性とは、これが検証できるかどうかということです。もしも「経験科学の議論ではないと見る」ならば、彼の作品の検証にどこか不足があると、ご存知だということになると思いますが、どうでしょうか。  別な材料、別な推論を用いた結果、違う回答が導けたとしても、それは並列する二つの仮説があるというだけで、一方が他方を否定する根拠とはなり得ません。同様に、    恣意性説は、合理性に支えられた音象徴説に対して立てられたお説というだけで、言語の発生から変遷に至る過程をきちんと解明したようなものではないでしょう。近年になって恣意性説が注目されたのは、言語が普遍性や合理性に支えられて今日まで伝えられたと考えるよりも、数度に渡ってパラダイム変化を経験しており、その変化の痕跡が見つかるという点で、信憑性が高いというほどの意味だと思っていましたが、違いますでしょうか。  このサイトにも科学に携わっておられる方は大勢おられると思いますが、それが科学的か否かという言説には、とても神経質になられると思います。あとは余談ですが、  恣意性説に因んで二年程前ですが、少し議論の機会を得たことがあります。  対象は、アリストテレスのプロブレマータ(『諸問題』)ですが、哲学のジャンルで語られる『諸問題』には、ひとつの大きな誤謬があって、大事なことである割に、案外知られていない事です。今では定説ですが『諸問題』には、独立したふたつの作品があった。ひとつは、ラテン語で流通した本来の『諸問題』、もうひとつは、13世紀あたりに創られ、俗語で流通した『諸問題』です。前者は学者の間でのみ広まり、後者は学者以外、とりわけ医者の世界で広く利用された。産婆術であるとか、民間治療に関する逸話は後者に属するもので、本来なら出自の異なる別なテクストに由来するはずが、ずいぶん長い間、アナロジーとして解釈されて同じアリストテレスに帰される問題として取扱われてきました。  解釈に解釈を重ねて成立してきた近代のアリストテレス関係学が、実は別々の冊子に由来する言説の違いにあったんですよとなれば、このような断絶は、どう言い包めても溝が埋まらないようなものだと思います。こういう溝は、ほんとうに度々経験致します。

bragelonne
質問者

お礼

 したがって わたしが  ☆☆ 経験科学の議論ではないと見ざるを得ない。  ☆ と言うのは このように   1. 第一次の主体なる人間を不問に付したかたちで   2. 地中から湧き上がって来たと言うかのような第二次の主体の誕生のみをもって   3. 権力関係の発生を説くという仮説   ☆ に対してです。どうも 《第二次の主体の誕生》のみを見ているように思われるのです。  あるいは 簡単に言って このような主体の誕生を仮説することは  ○ 《構造》が――あくまで 人間の意志ではない《構造》が―― 人間に影響を与えるだけではなく その実存の有り方をも 権力人なる類型において 規定する。  ☆ ということですから それは 《反証可能性》がない理論になりませんか?  ☆ 社会構造なるなぞの無主体が   ○ 人びとの耳に 道徳規範を――建前だけとしてでも――守り その上で 互いに まなざしを注ぎ注がれる関係に落ち着くというかたちの 《権力人》(ホモ・ポテンス?)になりなさい。  ☆ と ささやいていると その理論は 言っていないでしょうか? これは もしそうだとしたら 神秘ですね。実証の可能性も 反証の可能性もないスピリチュアルな議論にはならないでしょうか?  ○ 言語記号の恣意性説 : 人間が その歴史において 自然状態ないし自然本性から離れた 非自然としての文化状態に 或る日或る時  一挙に移行して ホモ・サピエンスは 出現したという仮説  ☆ についても この《一挙なる出現》という点が 《構造からの ホモ・ポテンスと言うべき主体の――時間過程的ではあるが 無根拠・無責任・無意志での――湧出》という見方とその事実措定とに 同じようであると わたしには 捉えられるのです。そのような意味において 持ち出しましたし その点を問うているのですが どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 passcard さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ スピーディーですね。  ☆ これは たぶん 推測によって〔なのに〕 議論を先のほうへと けっこう 進めていると言っていただいたのかなと 嬉しく思っていますが でも そのスピーディーな大胆さが 何でもかんでも まな板の上にのせて 勝手に 料理してしまうというぶっきらぼうさを伴なっているとご指摘いただいたというようにも 思います。ただ この後者のほうは その軌道修正には 四苦八苦しておりますと 正直に 申し上げます。  かなり広く深く 議論を みちびいていただいたのではないでしょうか。(これも はじめの推測を延長させたその判断にもとづくものです)。  ★ 「歴史はくり返す」と言いつつも、例えばそれは、ある時には「戦争はくり返す」であるとか、もう少し抽象化して「悲劇はくり返される」といったような、そういう代替可能な言葉の例として「歴史」という言説は語られていると思うのですね。  ☆ そういった見方は わたしは あとで気がつきました。  ★ 最後に残されるものは、「人は生まれ、やがて死ぬ」この一点でしかないのではないか、という気がするのですね。  ☆ おっしゃるとおりだと思います。したがって  ★  どうもあなたの場合、「人は生まれ、やがて死ぬ」――こういう次元から、まさにフーコーをひとつの例として問われているんじゃないの? という、どうも常々そういう気がするものですから、最初に釘を差しておかないとならないと思いました。  ☆ となると思います。思いますが ここで フーコー論に入るとも思うのです。   この《生まれて死ぬ》存在を 大前提とし その次元から 世界観一般を問うというわたしの姿勢は 端的に言って この《ただ そこに いま いるという存在》を 《わたしという人間》であるとし いわばすでに《主体》としてもよいと考えていることを意味します。この次元から 批判にも及ぶのだと たしかに お断りせねばならないかと思います。  この前提の議論は ご指摘いただいたとおり 重要であるようですね。(あとの中味の議論に割く字数が少なくなりましたが ご了承ください)。  ★ (1)の部分でずれている〔というその箇所として〕:ですから、〔権力の効果として〕《抑圧》と《道徳や社会慣習の規範に 倣うべし》〔の二つの事例について〕 どちらも 主体を前提にした問題提起ですと言う事ができます。  ☆ については 問題提起者のわたしのほうからも 説明が出来たと思います。いわば《自然本性なる状態の第一次の主体》が 前提なのです。と同時に そうではなく 自分の前提を当てはめる前に フーコーの側にぴったりと就いて 批判は行なわねばならないとも反省します。  ただし それほどの偏向でもないと考えます。というのも  ★ (2)の「規範に従いなさい」という言説が、「規範に従いなさい」と言う「主体」を生むのだと言ってるわけです。  ☆ と重ねて説明いただいた点につきましては わたしの前提に立てば 社会具体的な いわば第二次の主体が 誕生したと見ればよいかと考えるからです。それは したがって 全体として 二重の主体だという意味です。――つまりは この点で すでに 別の見方からすれば 批判にもなっているのではないかと考えるのですが どうでしょう?  そのこころは こうです。  ○ すでに ひとりの《いま・ここにいる〈わたし〉》〔なる第一次の主体〕が 一般に ひとを寄せるという意図を 或る晴れた日に みづからの意志として持った。  ○ 寄せるための手段は 《ならわしの合理化》である。すなわち 社会的な交通の形式として 道徳規範を説き それに従うという《規律人間》なる物語を紡いだ。  ○ この規律人間(被規律人間?)なる第二次の主体が 生まれれば 権力関係が 成立する。  ☆ こういう歴史的な事態だと捉えられます。  言いかえるなら  ○ 権力としての人間関係は 人間の意志によって 起こされた。  ○ のであって 社会という無主体の構造とその過程から 自然発生して 起こったのではないであろう。  ○ ただし 権力関係の網の目が 社会総体として 出来あがっていく過程で すでに その総体としての構造が 個々の人間に その構造からの要請のほうへと靡くよう影響を与える側面がある。

noname#82774
noname#82774
回答No.1

 こんにちは、passcardです。  この問題について、僕の意見はすでに申し上げていますから、回答の資格はないのかもしれませんが、しかし、ひと通りの回答を見比べる上において、ここに回答を置いておくのは無駄ではないだろうと思い、投稿します。 【Q1】【Q3】  まず「権力」ないし「権力関係」についてですが、フーコーの権力構図を、もう一度おさらいの意味をかねて書いておきます。  権力というのは、古来から、ある主体が別の主体に対して及ぼす影響というふうな意味で使われてきたと思います。「主体」と書いたのは、それが人間個人であったり、国家であるとか、階級であるとか、性差であるとか、そういう集団的なものに対しても語られてきたからで、テーマによって主体はいろいろ変わりますが、この方式によって及ぼされる影響、効果は、それが「権力の効果」であると、みなしてきた点において変わりがありません。  フーコーはこの「権力の効果」に対して、それは抑圧の仮説に過ぎないのではないかといって批判したのでした。「主体」という存在によって、中央集権的に権力が生まれるのではなく、そうではなく「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。  従来のかたちで権力が語られるとき、それは「――をするな」という禁止の形態を取るのに対し、フーコーのいう権力の戦略とは「規律」、すなわち「――になるべき」という当為の形態を取る。この制度的な権力に対して、彼は言及をします。 【Q2】【Q4】  フーコーは権力一般の問題意識から、極めて近代的な権力を切り取っていると思います。 例えば、中世あるいは古代において、人々が近現代のような社会を構成し、集団とのかかわり方のなかで社会生活を営んでいたとするならば、そういった時代にも応用は利くのかもしれないですね。どちらかというと通時的な問題を立てるのではないと思います。 【Q5】【Q6】  理性批判という意味では、仰る《無主体の過程》というのは妥当であろうと思うのですが、人間賛歌を言祝ぎたい僕としては、仰る言説の個々彼処に、何となくサルトル批判をなさりたいのだろうという気がしてなりません。「人間は自由という刑に処せられている」サルトルのこの言葉ひとつで、時代をまるごと包み隠してしまいたいと仰っているような気がします。本当に相手は、フーコーでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆ この《理性批判という意味では》という特定を意図していませんでしたが おおよそ そういう事態に 結果として なるのではないかとも考えます。【Q‐5】の《物語を おおいかぶせる》というのは たしかに 《自信に満ちた〈理性〉》の為せるわざだと わたしは 見ているわけですから。  そして もし フーコーの所説が この《無主体の過程》にもとづく議論であるとするなら 上の(4)の問題 すなわち  ★ 地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略  ☆ が どのように生起してきたか? の問題は きわめて 神秘的な見解が述べられていると思われるのですが どうなのでしょう? すなわち   ○ あたかも 《構造》が みづから 自然発生的に ここかしこで この権力の物語を 人びとの耳にささやく。  ☆ と言っているように受け取るのですが いかがなんでしょう? というよりも これでは 経験科学の議論ではないと見ざるを得ないのですが どうなのでしょう?  * 最後の問題点は おそらく 《言語記号の恣意性》説――言いかえれば じんるいの社会にとって 文化の世界が 或る日或る時 一挙に 出来あがり 《人間存在の自然本性から独立したかたちで》成り立ったという仮説――にかかわっているように思います。

bragelonne
質問者

補足

 passcardさん ご回答をありがとうございます。  まづ 回答を寄せていただくみなさんにも お断りいたします。質問者は フーコーの著書をひもとかず 解説書のみを読んだ状態で すでに フーコー批判に及んでいるという横着なところです。  さて まづ初めに 前提としてのごとく  ★ 権力  ☆ についての規定じたいが 問題となるとご指摘いただきました。  【Q‐1】の定義は 古来からの一般論で それとは違った定義において フーコーは 論じていくのだと。【Q‐1】の定義には 次の二点を付け加えておくべきようです。  ☆☆ 人間関係における視線の上下関係  ☆ という社会現象が 何のために 起きるかと言えば 当然のごとく 《影響を及ぼしたい》ためだと言ってよいから  ★ 《及ぼす影響》  ☆ の問題がある。二つ目には   ★ 主体  ☆ は 【Q‐1】が言う《個体としての人間》だけに限られず ほかに  ★ 国家であるとか、階級であるとか、性差であるとか、そういう集団的なもの  ☆ を捉えておかねばならない。  ところがその《影響をおよぼす》問題を取り上げるなら それに関連するところの  ★ 「権力の効果」  ☆ というのが やはり 従来の捉え方であって フーコーは この点において 違うということのようなのですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) フーコーはこの「権力の効果」に対して、それは抑圧の仮説に過ぎないのではないかといって批判したのでした。  (β) 「主体」という存在によって、中央集権的に権力が生まれるのではなく、そうではなく「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。  (γ) 従来のかたちで権力が語られるとき、それは「――をするな」という禁止の形態を取るのに対し、フーコーのいう権力の戦略とは「規律」、すなわち「――になるべき」という当為の形態を取る。  (δ) この制度的な権力に対して、彼は言及をします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (δ)は その《制度的な権力》が 全体の文章にかかると採りました。  細かい点について疑問・質問を持ちましたので ただちに お尋ねしてまいりたいと思います。  (1) (α)にかんして。視線を上からそそぐ場合 それは 《抑圧》するかたちで 従属させるという《効果》を期することもあれば 《道徳や社会慣習の規範に 倣うべし》という効果を期することもあると思いますが その点 どうか。  (2) (β)ですが。(1)の後者の場合には 規範に従いなさいという権力関係が 効を奏したなら 《そこかしこに》 この規律人間という意味での《主体》は 生まれてくるでしょう。そういう見方は どうなのでしょう?  (3) それ(=規律人間という意味での主体)は 言うならば 一定の社会形態(つまり 国家)の  ★☆ 〔それがどのように生じたにせよ〕権力が 中央集権的に統治するときに 生まれてくる。  ☆ のではないでしょうか?  (4) 次の分析内容が いまひとつ わかりにくいです。  ★ 「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。  ☆ つまり 《主体》が生まれる前に ここで言う《権力の戦略》が生起していることになっています。   ★ 地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略  ☆ これは いったい どういう主体なのでしょう? 何ら主体ではなく 《構造》のことなのでしょうか? どのように生起してきたのでしょうか?  (5) (γ)および(δ)は この上での考えに従えば 従来の《権力》概念で捉えても 現象すると考えるのですが その点 いかがでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  フーコーは権力一般の問題意識から、極めて近代的な権力を切り取っていると思います。・・・どちらかというと通時的な問題を立てるのではないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん このご指摘を前提として 全体として ご質問していると思います。ですから 時代による《断絶》があっても 《認識の装置=物語=権力》は 次々とあらたに 生起してくると捉えているのではないでしょうか? というのが ここでの推測です。  ★ 本当に相手は、フーコーでしょうか。  ☆ はい そうです。  ★ 理性批判という意味では、仰る《無主体の過程》というのは妥当であろうと思うのですが

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     にんげんの前史を終えるということ(!?)について――あらためて――問います。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度においてすでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性       格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度       として固定させようとして出来たもの。        身分関係。世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度としての       社会力学的な交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて        いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。

  • 何で人間(全体)っていうのはできが悪いのか

    人間っていうのは、総体的には、たいして上等な生物とはいえないようです。自分さえよければというマナー違反は横行し、このサイトでもQ&Aという原則などどうでもいいといわんばかりの主張の押し付けやら、質問さえ理解しようとしない傲慢さやらで、せっかくの疑問解決の趣旨が風前の灯のようです。2ちゃんねるだって便利なツールであるはずなのに、荒れまくりでろくな議論はほとんどない。 それらの現象は、つまり、少数のまともで理解力包容力ある人物が、大多数のろくでもない心根や理解力の不足しているものたちに圧倒されている、と言うことであるように思えます。つまり、まともな品質の個体が少ない。 そういう、人間のろくでもなさ、傲慢さ、理解力のなさというのが社会的総体の姿になっているように思われ失望感が襲ってくるわけですが、こういうのはやはり、人間の限界性(いい個体は少ない)から来るのでしょうか。それとも、なにかがうまく行きだせば、今度は多数が品質のよいものに変化し、居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会が実現するのでしょうか?

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     について あらためて問います。第三セッションです。  まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。  今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース      (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は      ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。       人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。    階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • にんげんの前史から後史へ(!?)

     歴史を展望してみたい。第三弾。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ         の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース       (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は       ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。        人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。        チカラ関係としての社会力学の兆し始め。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。  ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。    階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。  一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • 人間にとって物語って何なのでしょう?

    『レヴィ=ストロース入門』(小田亮著(ちくま新書))というのを読んでいると言葉になっていない観念Aが完結した言葉の体系の中で穴ぼことして認識されることにより、本当はAが割り当てられるべきだけれども、Aは言葉に対応ずけられていないので、Aではなく、なんでもありという観念Xにより補われる。そして、なんでもありの観念Xは神話というちぐはぐな体系の中で(有限の関係しか示せていないので普遍的概念としてではなく)有限の事柄との結びつきにより表現され、世の中の成り立ち(完結した言語体系)を人は理解した気持ちになる。とかかれていました(誤解しているかもしれませんが)。(C言語のポインターとvoidのポインタの関係みたいだなぁと思いました。)  そこで、この観念Aとして、個々人の未来という本質的に不確定な事柄を当てはめると、実は人はそのための観念Xを必要としており、その観念Xを含んだ体系が実は物語であり、そのために私たちは物語を必要としているのではないかと思いました(物語ではなくそりゃ宗教だろ!という人もいるかもしれません)。なぜ人間は夢を見るのかという話に近いのかもしれません。 話がうまく伝えられず発散していますが、要は人間にとって物語は本質的に必要なものなのでしょうか? ドキドキしたり楽しいから小説を読むと私なら答えるのですが、逆にそれは上の解釈でいくと人間のどういう観念とつながっているのでしょうか? (それを説明できないから、物語とい手法が必要なんだ!という話なのですがあえて、観念を言葉にするとどうなるかということです)

  • 人はそれぞれ、知識と思想を持っている訳ですが

    人はそれぞれ、知識と思想を持っている訳ですが 大きな権力を持つ人間ほど、社会に影響(よい影響悪い影響ともに)を及ぼします 社会に現れたさまざまな現象から、個人を特定し歴史の認識に役立てるといったような検証をされている人はいますか

  • にっぽん がんばれ。

     われわれは にんげんの前史を終えることができるか  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ)   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。           したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会という           ヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづりなるクセ)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごくふつうに       自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手       に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみとめあっ       ている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるようにそ       れが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人工的な性格の       もの とがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性格のも       の》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度として固定さ       せようとして出来たもの。        身分関係。さらには その身分の世襲制。         特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》との二階建       ての構造として固定する国家における身分制度としての社会力学       的な(=世間のシガラミなる)交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されている社会       のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ扱われる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。どういうことか?     言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とすることとなった。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。  ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  よろしくご教授ください。  われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?

  • 強弱や損得で判断する人間が成功する?

    同級生の実例1 私の同級生に 強弱や損得で判断する人間がおりました 彼は成績は優秀でした 唯彼は対等な友人関係や知人関係を結ぶ事をしませんでした 彼はクラスの大人しい子や鈍臭い子を大した理由もなく罵倒したりしておりました 又彼はその子やクラスメートの弱点を粗探しして自分が支配しようと考えておりました その故彼はトラブルが多く彼の言動に怒っ同級生から報復を受ける事もありましたが、 彼はその相手を更に弱みをみつけ攻撃しておりました 金八先生の兼末健次郎 少年時代の大原剛 弁護士時代の橋下徹氏が学生時代の人付き合いのテクニックを書いた本とどこか似ている様に思えます 整理すると 1 対等な友人関係はいらない 2 組織では支配する立場を目指せ 3 その為には相手を蹴落としのし上がれ 4 権力を持っている者を探し付け 5 権力を持っている人間には逆らわず権力が無くなれば、見放し攻撃しろ 会社や組織でのし上がる方法は正にこの様な感じ何でしょうか クラスメートの彼も友人は欲しいと云わず、常に攻撃 報復誰か強い者に付きと云う事を繰り返しておりました 橋下徹氏も友人はいらない 強い者に付けと自伝で述べておりました 社会でのし上がるのは彼等の生き方が成功するのでしょうか?