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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人間(現実)が変わる。)

人間が変わる

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.2

感想です。 一つは 全てのホモサピエンスが相互自由独立でかつ交通(交流)ができる(反対意見もふくめ)なら 新しい歴史が始まるとしてもいいと思います。ご指摘の通りと思います。 他は相互自由独立であるが、交通は必ずしも必要ないと思います。ただ交通がない部分どうし殺し合いはあってはならないと思います。これも新しい歴史かも と思います。 ホモサピエンスの歴史は 種の保存については  数万年前までは ネアンデルタールとか他種もあって 他動物と同様の多様な種の展開をして 人類種の保存をはかっていたとも見られましたが 他種を 結果的に全て絶滅させてきたのです。そして一種になり、なってからは内部抗争よろしく、小さな表面的差(皮膚の色など)とか、人為的な国とか、思想とか、とにかく差を見つけ 排除か さもなければ征服を繰り返しているように思われます。各個人間も相互理解も多少進行しましたが 不信感、も増大しているように思われます。何かの差がある場合は排除か あるいは征服(支配)するのです。しかし そこまでを ホモサピエンスの前史として区切るのです。  これからは 各個人が独立自由に振舞え かつ 交通がある という新しい状態を創ります。 究極の多様化の種の展開と捉えていいのかもしれません。どんな他人(交通のない場合も)とも共存(殺さない)するという寛容の姿勢がキーポイントになると思います。他動物は種の多様化をDNAの差(ハードの差)で成し遂げます。環境が変ったとき、今まで主流であったモノが適応できなく 少数異端的なモノが適応して全体としての種の保存がされるのです。 がホモサピエンスは 主にはDNAが固定され 思想というソフトウェアーの差で多様化を成すのです。もちろん NDA突然変異派も受け入れるのです。宗教もソフトウェアーであり 宗教団体は 解体して 個人の信じる形になっているのです。ポストモダンの究極の形と考えてもいいし 後史に対応させて後期ポストモダンとしてもよい と思います。そのような状態は 究極の個人を相互に認め、かつ 環境変化にも対応できる ベター社会と見做される と思います。 しかし結局、環境が ガラリと変った場面では ソフトウェハー派ではなく 他の動物と同様 ホモサピエンスDNAの変位が 多少ある少数異端的なモノが 生き延びるかもしれませんが。という考えを捨て切れません。 しかし 現実 大きな問題は どのようにして 前史を終わらせる かでしょう。国家、各種の格差、障害者問題、食糧、などなど 問題山積でしょう。私に出来ることは ポストモダンの理解者を増やす努力であるとか 個人の延命(ホモサピエンスの延命に少しは繋がる)に少しは役立つ仕事をしたい と思っているぐらいです。この哲学カテ内の諸氏の発言をみますと 寛容な姿勢で対応する方もおられますが そうではない方もおられると思います。とにかく前史を進んでいるという印象です。 という現状からは 前史を終わらせるのは 大変とおもいます。 以上、大変失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 取り急ぎお礼をしたためます。  いやぁ まいりました。そこまで考えておられるのですか。たぶん 理科系なら これくらいはふつうに歴史を振り返り行く先を展望しうるということなのでしょうね。(誰もが成し得るわけではないですが)。  アフリカに出現したヒトが 世界のあちこちに移り住んだということを確かに理科系のお二人におそわりました。血液型の細かい分類で相関関係が全部分かるとか。  ★ ~~~~~~~~  ホモサピエンスの歴史は・・・そして一種になり、なってからは内部抗争よろしく、小さな表面的差(皮膚の色など)とか、人為的な国とか、思想とか、とにかく差を見つけ 排除か さもなければ征服を繰り返しているように思われます。  各個人間も相互理解も多少進行しましたが 不信感、も増大しているように思われます。何かの差がある場合は排除か あるいは征服(支配)するのです。  しかし そこまでを ホモサピエンスの前史として区切るのです。  ~~~~~~~~~~  怖れとしては  ★ ~~~~~  しかし結局、環境が ガラリと変った場面では ソフトウェハー派ではなく 他の動物と同様 ホモサピエンスDNAの変位が 多少ある少数異端的なモノが 生き延びるかもしれませんが。という考えを捨て切れません。  ・・・  この哲学カテ内の諸氏の発言をみますと 寛容な姿勢で対応する方もおられますが そうではない方もおられると思います。とにかく前史を進んでいるという印象です。 という現状からは 前史を終わらせるのは 大変とおもいます。  ~~~~~~~~  ☆ この哲学カテの事例は分かりやすいです。  いま取り急ぎひとつ言えると思うことは   ○ なにごともそのコト(モノ)自身の中に潜む契機をすべて 必要なまでにはオモテに出してその――想像裡においてであってもよいかたちで――必然性としてのみづからの展開を終えるまではその前史を終わらない。  ○ この必然的な歴史展開のほうを――未来や将来の展望をもにらみつつながら―― 大事にすることが 歴史を前に推し進めるものと考えられる。    ☆ 言いかえると するべきことは今の現実から現われてくる問題をむしろまったく前史のやり方において――しかもその行為主体である人間じしんはすでにあたらしいヒトになっていてもよいわけですが――取り扱い処理して行くことではないか。  と同時に――このことがややこしいのだと思いますが―― 歴史の必然的な過程を 言わば段階の飛び越しをも交えて 進めることもありなのだと考えます。  ムラ(市町村)が勝手にイニシアチヴを取り 国家よ邪魔するなかれと言って 経済・政治・文化その他の交流・交通を推し進めて行くことが どこかで起こるかも知れないというようにです。  あとで再考します。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  §1. ホモサピエンスの台頭  について ヰキぺを見ました。議論があるということを知りました。留意として掲げます。  ▼(人類の進化) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96  ホモ・エレクトゥスからホモ・サピエンスへ移行・・・を示す直接の証拠は、ホモ・エレクトゥスがアフリカから他の地域へ移住した間にアフリカで種分化が起きたことで(アフリカのどこで起きたかについてはわかっていない)エレクトゥスからホモ・サピエンスが分かれたことを示唆している。その後アフリカとアジア、ヨーロッパでエレクトゥスがホモ・サピエンスに入れ替わった。  このホモ・サピエンスの移動と誕生のシナリオは単一起源説(アフリカ単一起源説)と呼ばれていて、現在古人類学において多地域進化説と単一説で激しい議論がされている。  ~~~~~~~~~~~~~~  §2. マジハリ および ウヤマヒとユヅリアヒ  これらを サピエンスに代わる(それを一段高いところに揚げて保つ)特徴としては どうでしょうか?  自由が 基礎の基礎です。  ○ マジハリ  ★ これからは 各個人が独立自由に振舞え かつ 交通がある という新しい状態を創ります。  ○ ウヤマヒ・ユヅリアヒ  ★ どんな他人(交通のない場合も)とも共存(殺さない)するという寛容の姿勢がキーポイントになると思います。  §3.多様性の保証  ○ 思想による。《自由》に基礎を置く。ゆえに 群れない。  ★ ホモサピエンスは 主には DNA が固定され 思想というソフトウェアーの差で多様化を成すのです。もちろん DNA 突然変異派も受け入れるのです。宗教もソフトウェアーであり 宗教団体は 解体して 個人の信じる形になっているのです。  §4. ポストモダンとの関係  《ポストモダン》について 今一度尋ねさせてください。  ★ ポストモダンの究極の形と考えてもいいし 後史に対応させて後期ポストモダンとしてもよい と思います。そのような状態は 究極の個人を相互に認め、かつ 環境変化にも対応できる ベター社会と見做される と思います。  ☆ おそらく《自由 相互独立 交通》という特徴を言っておられると思います。このことに何の異見もありません。  そのときただし たとえばフーコの思想〔の一面〕には《権力人(ホモポテンス?)》といった性格が見て取れるのではないかとおそれています。社会としての関係構造のみでヒトの存在は成り立っている(《無主体の過程》)が その構造関係においてあたかも地から湧き出るように互いの間に《まなざしを相手に注ぐ者と注がれる者という関係》が現われると言っているようです。これは必ずしも《究極の個人》を認めているものではないように考えられるのですが どうでしょう?  【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html  §5. 《どのようにして 前史を終わらせる か》  これは 基本的に《何もしない》が答えだと考えます。お礼欄にも書きましたので それと合わせて対案は 次です。  基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的・文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。  これは 同じく基本的に《ひとり》としての人について当てはまると見ます。その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させるということをとおして もしそうだとすれば前史が終わるのだと。  言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることで果たされるかとも見ます。あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。  ★ 私に出来ることは ポストモダンの理解者を増やす努力であるとか 個人の延命(ホモサピエンスの延命に少しは繋がる)に少しは役立つ仕事をしたい と思っているぐらいです。  ☆ ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下関係とその錯綜構造としては 生まれとその身分という要因において 社会的自然の要素がからんでいると思われますが―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。  ★ 国家、各種の格差、障害者問題、食糧、などなど 問題山積でしょう。  ☆ 考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。前史としては そこで社会力学の過程をたどって行くはずです。    そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。  あるいは抽象的に言って 《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と考えます。前史のシガラミや短所をののしっている間は のぞみが薄いのではないでしょうか?  断定口調のところについては元よりのこと 全体にわたって みなさんともども 吟味・検証またご批判をくださいませ。

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    【人間が人類に残した遺産で価値があるものが何もない現実をどう思いますか?】 人類はホモ・サピエンスから地球の覇者となったが今後も人間が地球の覇者であり続けるという保証はどこにもない。 猿から人間に地球の覇者が入れ替わったように次の覇者が地球を使うようになったとき人間が作り上げてきたもので次世代の覇者が使えそうな前覇者の人間の遺産で何が使えるでしょう? 住宅はゴミで、車も移動手段の大半は地球破壊をする遺産というよりゴミですよね。 何が次の覇者に有効活用されるようなものがあるでしょう? 何も思い浮かばない。 人間は地球環境破壊をするものばかり作ってきた。 はっきりいって次の地球の覇者にとって人間が作った作り上げてきた地球を破壊するものを必要とするとは思えない。 まあ必要じゃないから人間は滅亡か覇者では無くなったわけだけど我々も前覇者のホモ・サピエンスの猿から得たのは言語と火の使い方だけだった。あと衣服を作る着るとかは自分たちで考えたが、前覇者の猿は服は必要じゃなかったから作らなかったわけで人間は猿より生命体としては弱者であったのに猿を撲滅して地球上の覇者になったので人間を越える生命体が人間より生命体として強者であるとは言い切れないし、過去の事例から言うと地球上の次の覇者は人間より弱者の生命体が漁夫の利で地球の覇者になる確率の方が高い。 次世代の地球の覇者に残せる遺産って何かありますか? 人間は産まれてからこれまで次世代の地球の覇者が次の世代でも有効活用出来る発明は何もしていない気がします。 次の地球上の覇者になる条件として言語を話せること。会話が出来る生命体で火を使える者と言ったら、ロボットぐらいしか思い付かない。 んー次世代の地球の覇者はロボット語を話してロボット同士の隠語を人間に分からないように話して人間を撲殺するのだろうか。 ロボットは自己学習機能とロボット語を既にロボット同士が目視で認識し合って学習してその動作を表すロボット語を自己生成しているし、人間より生命体の力は太陽の力で自己発電出来るようになると完全に記憶力でも人間は負けることになるし動きもスタミナも天才の動きをコピーしてどのロボットでも天才にも超一流スポーツ選手にもなれる。 人間が勝てる気がしない。 エネルギーが太陽で食事も不要。車も不要で家も不要。

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     について あらためて問います。第三セッションです。  まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。  今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース      (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は      ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。       人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。    階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • 人間は他人を規制するのが好き?自由は建前?

    就職活動で、学生がアロハシャツを着てたり、ヒゲが生えていたり、茶髪だったら、企業側は内定を出さないよね。 国会で、議員がガムを噛みながら発言してたら、「吐き出せ」って他の議員は注意するよね。 「表現の自由」とか憲法に書いてあるのだけど、コレって、ただの建前なんですかね?だって、「何でもかんでも自由というわけではない」とか、「自由には責任を伴う」とか論破して来るじゃん。誤解を招きかねないから、憲法から表現の自由を削除した方が良くね? 何なんですかね?マウントをとって、「お前より私の方が偉いんだゾ!」って主張したくなるのが、人間の本能なんですかね?結局のところ、自由奔放って感じの人を見ると、目障りで卑しく見えて、「世の中そんなに甘くない」とか「調子に乗るなよ」とか「大人しくしておけ」って言いたくなるのかな? 基本的に人間は、偉くなって、他人を規制で縛るのが好きなんですかね?人は自由が嫌い? 自由奔放な人は、社会に馴染めず、生きて行けないですかね? 言葉では自由だと言いながらも、実際は自由がムカつく訳で、自由を規制で縛るのが社会。本当に自由を望むのならば、無人島に行って一人でやってくれって感じですか?

  • きょうだい別人間ウォチング

    この前ハイヒールさんのTVでやっていました それぞれのタイプを書きますので、皆さんも美奈さんもみーなさんも当てはまるかよく読んでください 1 第一子の場合 「面倒見がいい」「責任感が強い」「真面目」「典型的優等生」「旅行かばんが荷物でパンパン」 2 真ん中っ子 「空気が読める」「揉め事が嫌い」「手がかからない」「本心が分かり難い」「人間関係の達人」「物を等分するのが上手」「観察力が優れている」 3 末っ子 「サービス精神旺盛」「お調子もん」「要領がいい」「負けず嫌い」「自分をアピールしたがる」「口が軽い」 4 ひとりっ子 「自己中」「わがまま」「マイペース」「妙な自信がある」「話にオチがない」「空想が好き」「独自の世界観がある」 だそうです 私は2人きょうだいの末っ子ですが、「負けず嫌い」「口が軽い」は当たっていません 別に負けても良いと思うヘタレなときもあるし、子供がよく「誰にも言わんといてな」っていうヒソヒソ話を第3者に喋ったことは1度たりともありません 今でこそ時効だからここで何かを回答やお礼で書いたかも知れませんが…? あくまでも統計学になりますが、どのぐらい当たっていますか? たくさんの回答お待ちしております、ペコリンm(*μ_μ)m

  • にんげんの前史を終えるということ(!?)

     § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人       工的な性格のものとがある。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性       格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度       として固定させようとして出来たもの。        身分関係。世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度としての       社会力学的な交通関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて        いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。   ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  ご教授ください。

  • にんげんの前史から後史へ(!?)

     歴史を展望してみたい。第三弾。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ         の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース       (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は       ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。        人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。        チカラ関係としての社会力学の兆し始め。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。  ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。    階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。  一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。