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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ進化の過程で苦しまずに死ねる機能を手にしたのか)

進化の過程で苦しまずに死ねる機能の理由と重要性

noname#160718の回答

noname#160718
noname#160718
回答No.47

 Jagar39です。前回は1本にまとめることができたのに、また2本になってしまいました。 >新明解国語辞典は多様な解釈が出来るように、あえて誤魔化しています  そんなのは「辞書」ではありません。辞書は言葉を定義するために存在するのですから。  日本語は主語や述語が曖昧なのではありません。それらは明確なのですが、主語や述語の相互関係を崩して記述する自由度が高い言語、というのに過ぎません。また、英語でも崩して記述することはできます。  つまり、日本語でも英語でも厳密に書くことも曖昧に書くことも可能ではあります。  日本語に曖昧な表現が多いのは、日本人が曖昧に表現することが多いため、「曖昧に運用しても通用する」形になっているのに過ぎません。言語自体の性質が曖昧なわけではないのです。  日本語そのものが曖昧で英語そのものが厳格ならば、日本語で論文を書くことはできなくなりますし、そもそも日本語をネイティブにする日本人から科学者は出ないことになります。日本語自体が曖昧な言語なら、日本語で思考する日本人は厳格な思考ができませんから。  日本語で科学論文を書くのはけっこう苦労しますが、それは我々が日本語の文法を曖昧に適用することに馴れてしまっているからというだけの話です。  オバマ大統領の、「Yes, We can.」なんて鳩山さんの「最低でも県外」より曖昧なセリフだと思いますが。  英語も日本語も、厳格にも曖昧にも記述できる言語です。要は曖昧に記述するか厳格に記述するかだけの話です。  そして辞書は「言葉を定義するために存在するもの」ですから、曖昧に読んで良いという代物ではないでしょう。  少なくとも、自然の音や鳥の声が「音楽」であるというのならば、「心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組合せによって聴者の感動を求める芸術」の主語には「自然」や「鳥」が入り得るのか?ということは論述しなくてはならないでしょう。 >洞窟の音楽や水辺の音楽というのもありますが、あれは物理現象に過ぎない音と大して変わらないと感じます  それは人間が、それを狙って作っているだけでしょう。 >鳥も音楽を楽しんでいますし、異性を鳴き声で呼び寄せる動物もいます  鳥が音楽を楽しんでいるという証拠はありますか?それは人間の(もっと言えば質問者さんの)主観に過ぎないのでは?  異性を呼び寄せる鳴き声は、音を単なる情報伝達の手段として使っているので音楽とは呼べません。 >しかし彼らは楽団を作っていません。『音楽を楽しんでいる=楽団を作らないとおかしい』というのはやや論理に無理がある気もします  音楽は辞書の定義にもあるとおり、「聴者に感動を与える」ために音を出すこと、ですから、ひとつの社会的なコミュニケーションツールとして機能するものです。  その音楽の楽しみを集団で共有するためには、複数の個体で「共演」をするようになる、というのは極めて自然な成り行きです。  質問者さんも言われているとおり、「音楽を楽しむ」敷居は非常に低いです。何かを叩いて音を出すだけでも良いのですし、声を出すだけでも「音楽」は成立させることができるのです。だとすれば、複数の個体で声を出し合ったり、叩いて出す音と声を同調させたり、といった「複数による演奏」を楽しむまでに至るというのは、極めて自然で、そうならないのがおかしいくらい自然でしょう。何も様々な楽器を発明してオーケストラをやれ、と言っているのではありません。  それぞれの動物にとって「心地よい音」や「不快な音」は当然あるでしょう。それは生き延びるための情報源でもあるわけですから。  でも、その「音の情報源としての由来」を離れて「音そのものを楽しむ」ことは、人間以外の動物がしているという証拠はない、と思います。 >擬人化でなくとも、音楽と考えれば音楽と言えます  音楽と考えているのは「人間」です。それは主観で考えているのです。  ヒト以外の動物が「音楽と考えているか」というのはまた別の問題です。 >正気を失った人間と共にいれば牛も矢張り正気を失うのではありませんか? >もしくは、牛も(ただごとではないな)と緊張するのでは? >それで牛も自分も『死ぬ』と思うのでは?  牛にとって人間がどれだけ死のうが、自分の死と結びつけて考える必然性はありません。結びつけるためには、「牛が死を知っている」ことが条件になります。緊迫感といった漠然とした感情は察知するでしょうが、それを「自分の死」と結びつけるのは、「死」を知っていないとできないでしょう。  そもそもこの話は、質問者さんが「牛が死を知っている」という「質問者さんの仮説」の証拠として提出したわけですから、「牛が死を知っていないと成立しない論理」に陥っている時点で循環論法になってしまっています。  口蹄疫の殺処分の現場は牛から見れば、白い服を着た多数の人間が異様な緊迫感で自分たちを取り囲み、現に仲間の牛たちがバタバタ倒れていく、という状況です。  この状況で、「自分の死」を察知しないのであれば(現に察知していた証拠は見いだせませんでした)、戦場でどれだけ人が死んでいようと、察知するだろうと考えることはできません。  質問者さんは、自分の住む街に野犬の大群が侵入してきて、勝手に互いに殺し合っている状況と、野犬の群が直接自分たちを襲いだしている状況では、どちらが「自分の死」をより強く感じますか?  音楽の話もそうですが、「人間の目から見た主観」に支配されすぎていると思います。 >臨床の場を通して自分の考えが正しいかどうかを見ている、ということです  医者でもない人が十分な例数を見ることができますか?  目で見える臨床像そのものは複雑な要素が絡み合った現象ですが、それらを「切り取る」ことができるデータを直接見ることができていますか? >実際に彼らの論理では主流の学説よりも圧倒的に良い臨床結果を残しています  それらはきちんとした「手順」を踏んで出されたデータですか?というより、それを質問者さんが判断できるのですか?  少なくともこれまでのここでの議論を見る限り、失礼ながら質問者さんにはそれを判断する力はないと感じています。 >手順を踏めば万全、というのは個人的には疑問を感じる面も否定できません  万全、ではなく、「判断ができるか否か」という問題です。  「彼ら」が主張していて質問者さんが信じていることが何なのか、具体的に述べられていない今の状況では、彼らの主張そのものが妥当なのかどうなのか、私には判断することができませんし、質問者さんが妥当な判断をしているのか否かも判りません。まあここでは具体的な話には進まない方が良いとは思いますが。  でも、世の中には千○説やホ○○パシーのような、提唱する方もする方だが、こんな荒唐無稽な話を信じてしまう人もいるのか・・・と愕然とするような話を信じてしまう人もたくさんいるんですよ。ま、生理学や薬理学の専門書を読み潰している人なら、こんな失笑モノの話に騙されていることはなかろうと思うので安心して極端な例を挙げたのですが。  でも、論理的な思考ができないと、他人の「論理の嘘」を見破ることができません。  現在の医学や生物学が全て正しいなどとは言いませんが、専門書にも論理的に破綻していて後の世では「あれは"トンデモ"だったね」などと言われかねない話も、おそらくいくつか堂々と書かれているでしょうし、それ(いわゆる"主流")から少し外れたところでは、それこそ魑魅魍魎の世界です。いくつかは後の世では新たな定説になるものもあるでしょうし、最初から見る人が見ればトンデモ、というものも多数あるでしょう。  ですから、それらの魑魅魍魎の中から何が笑止で何が妥当かを判断するためには、「論理的な思考力」と「物事を立証していくためのルール」を知ることが必要なのです。

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