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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ進化の過程で苦しまずに死ねる機能を手にしたのか)

進化の過程で苦しまずに死ねる機能の理由と重要性

noname#160718の回答

noname#160718
noname#160718
回答No.45

 Jagar39です。 >科学の立脚点は宗教の補強なのです。科学史、勉強しましたか? >科学は神学のはしため、は有名な言葉です。  その言葉、「哲学は神学のはしため」だったのでは??  いずれにしろそれは中世ヨーロッパ限定の話であって、普遍的な話ではないと認識しています。  まあ、政治や社会制度そのものが宗教に立脚していた時代では、全てが宗教と結びついていたので、科学も宗教の補強となっていたことは否定はしません。  ですがそれは「科学の"起源"は宗教の補強」というべきであって、立脚点はその時代ですら科学と宗教では異なります。  宗教の立脚点は「神の言葉」とその解釈です。神の言葉は多くの場合は直接聞けないので、「神の言葉」は「神の代理人と称する人間の言葉」と同義ですが。その点は一神教でも土着的な多神教でも変わりません。シャーマニズムが原点でしょう。  科学の立脚点は「事実とその解釈」です。その解釈は論理によってなされるところも宗教とは立脚点を異にするところです。 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC >↑しかし上のものすら証明されていないようです。あなたはこれについてどう考えますか?  これも哲学の話で、少なくとも科学の議論ではありません。  「証拠」が全て捏造され得るという議論には反論することができません。このような反証不可能な議論は「科学」ではありませんよね。ついでに言えば、この「世界5分前仮説」を立証することもできません。  これは単に「科学がそこまで進んでいないから」ではなく、どのような証拠があろうが「そのように作られた」と言い張れば済むので、「本質的に反証不可能」な議論です。  ですから「証明されていないようです」というのはおかしいです。「証明も反証も不可能」な形をわざわざ考えているわけですから。  もし仮に全ての証拠が捏造されているのだとしても、全ての証拠がある推測を導くのなら、我々はその推測をするだけでしょう。つまり、「そんなことは我々の知ったことではない」ということです。 ><宗教が砕かれるのは、科学が完全になったときではなく、 ><人類がもはや宗教を必要としなくなった時、なのでは。 >そのような時代は本当に来るのですか?  来ないと思います。  今も昔も、「宗教を必要としない人」は一定の頻度でいたと思いますが、進化的に多数派にはなれないのでしょう。  なぜなら、宗教は社会の人間同士の結びつきを強くする効果があって、「宗教を持つ集団」は「持たない集団」より強くなり得るからです。 >はい、成立しないと私は考えます  ここの下りですが、実は「私が提唱した「性格は遺伝する」という議論」の反論になっていないどころか、全面的に支持するものです。 >たとえば日本人は和を大切にして、和を乱すような問題人は排除されます  これはつまり、「和」を大切にしたり乱すという性格に「遺伝子」が関与している、ということですよね?私が主張していることを全面的に支持していただけるのですね?  また「風土と遺伝子」も、非常に単純化している話ですよ。環境の全てが「風土」なので、それらを1つ1つ分解して考察しないと「幅広い視点」にはならないでしょう。日本と国土面積が大差ない島国であり、年間降水量も平均気温もあまり差がない、つまり自然環境的な「風土」はあまり違わないニュージーランドはキリスト教が最大の宗教ですが、それはどのように説明しますか?  それと、そういう意味では、犬にとっては「人間」が最大の「風土」です。気温や標高などはあまり関係ありません。  ブルドッグなどはあの短い鼻のおかげで極端に熱さには弱いのですが、それは飼い主たる人間がカバーするのですから。そもそもブルドックはあの頭の大きさから自然分娩がほとんどできません。現在のブルドッグは大半が帝王切開によって生まれているのですが、人間なしには「風土」云々以前にそもそも絶滅する運命の犬種です。  つまり、家畜たる犬にとっては「人間」が最大の影響を与える「風土」なのです。標高や地域などは犬にとっては微々たる問題です。  その「犬に対する人間」に着目したわけです。  「警察犬になる訓練」、「軍用犬になる訓練」、「盲導犬になる訓練」は、その国がどこであれ何国人がその訓練をするのであれ、訓練の方法は大差ありません。 >食虫植物は虫を食べます。その食べる為に虫を食べるのでは? これは意図とはいえませんか?  言えないでしょう。  「意図」というのは判断や意志といったものを伴う「精神活動」です。植物は精神活動ができません。そのための器官を持ちませんから。  車が通ると開くETCゲートは、「車を通そう」という「意図」を持ってやっているのですか? >『音楽……心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組合せによって聴者の感動を求める芸術。』  「託す」のは誰ですか?  「聴者の感動を求める」のは誰ですか?  この文章では「感動を求める」存在と「託す」存在は同一の"省略されている主語"ですよね。  自然が「感動を求め」ますか?自然は「託して」音を出すのですか?  この辞書の定義では、自然の音は「音楽」ではありません。  自然の音を「音楽」と認識するのは、いわば「自然の擬人化」によってなされていることなのでは?  単なる情報伝達のための音(鳥やカエルの鳴き声など)、単なる物理現象に過ぎない音(風や川の音)と区別するために「音楽」という言葉があるのではありませんか?  鳥の声を「美しい」と感じたり風や川の音を「楽しむ」のは、人間の主観です。  ホームレスは人類の中の1つの階層に過ぎません。  チンパンジーに楽団がない、というのは「チンパンジー社会のどこを見ても楽団は絶無」という事実を指しています。  では人類はなぜ楽団を作るのですか?「音楽を楽しむ」からではないのですか?ちょっとした歌遊びの延長に楽団があるのではありませんか?その「延長線上」のそれぞれの段階に定着した形式がありますよね?ソロ、デュエット、トリオ、カルテット・・オーケストラ・・と。  ではチンパンジーが「音楽を楽しんでいる」のなら、彼らはなぜ楽団を作らないのですか?楽団を作ることができるだけの知能と社会性は彼らは持っていますよ。 >小学生の喧嘩といわれましたが、あなたがそう思う理由を教えて下さい  どこでそんなこと言いましたっけ??記憶にないのですが・・・あまりに大量のテキストを書いているので、失念しているのかもしれません。  人生の目的、真実は、誰か他人に規定されるものなのですか?  もし質問者さんがそう思っているのなら、人生の未知に目的はあるのかもしれませんし、真実は1つかもしれません。  でも、現に私は他人に規定されるものではない、と思っているのですが、それは明らかに間違っていますか?  間違っていないのなら、人生の数だけ目的も真実もあって然るべきでしょう。 >フジテレビのビルは見る角度によって違って見えます  それぞれの「見る角度」ごとに「形」は1つしかありません。  それらの情報を結集して、「本来のビルの形」を推測するとき、「正解」は1つしかありません。  私が、「科学の命題とは自然を切り出している」と書いたのは、ビルを「ある角度」から見ることに等しいです。  それらの知見が蓄積すれば、ビルの「正しい形」を導くことができる、ということです。 >殺処分と戦場は決定的に違います。あなたは戦場について研究したことがありますか?  その人間の緊迫感を牛が「自分の死」と結びつけて受け取る義理があるのか?ということを言っているのです。  口蹄疫の殺処分でも人間は相当な緊迫感を持ちます。事実、人間にとっても危険ですから。宮崎で30万頭近くの殺処分をする中で重大な怪我人が3人ほどで済んだのは僥倖と言って良いくらいです。私が7日間働いただけでも、私自身「あの時は危なかった・・・」と肝を冷やしたことが何度もありますから。  その緊迫感は、「牛の死」と直結しています。牛を殺すための作業なのですから。  その緊迫感は牛にも伝わります。そりゃ白装束を来た人間が数十人もやってきて片っ端から牛を連れ出し、その牛たちが次々と倒れていくのですから、どれだけ牛が鈍くても異様な雰囲気は感じて当たり前でしょう。  でも、牛たちはその緊迫感を「自分の死」と結びつけて受け止めた形跡はないと感じました。  本と現実は違います。 >そのような本がすなわち現代の医学界の問題とされる分野の本なのです。私自身に迫害が及ぶので一応、ここでは書きません。これはすみません。ただしその本を書いた人達は皆が医者です。内部告発の本です。彼らはしっかりと手順を踏んだ上で意見を主張しています  医者であればまず間違いなく、何らかの「学会」には所属していると思いますが。  また、それらの本が「しっかりと手順を踏んでいる」ことが、どうして判るのでしょうか?  失礼ながら、質問者さんは「しっかりとした手順の踏み方」を未だご存じないように思えます。これまでの議論からはそう見えますね。  と、きついことも書いてみましたが、再反論をお待ちしています。

noname#142902
質問者

お礼

<Jagar39です。 何度も有難うございます。あなたにはかないません。あなたのように賢い人と議論できて私は幸せです。お世辞ではなく、本当に。それに私は楽しませてもらっています。 <その言葉、「哲学は神学のはしため」だったのでは?? その通りです。私が間違えていました。 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C% … >↑しかし上のものすら証明されていないようです。あなたはこれについてどう考えますか?  これも哲学の話で、少なくとも科学の議論ではありません。 <「証拠」が全て捏造され得るという議論には反論することができません。 科学の証拠が全て捏造されている、とは言いません。然しながら世界五分前仮説は全ての物事のあやふやさを示しています。よって科学自体もあやふやではないか、ということです。 <来ないと思います。 <今も昔も、「宗教を必要としない人」は一定の頻度でいたと思いますが、 <進化的に多数派にはなれないのでしょう。 <なぜなら、宗教は社会の人間同士の結びつきを強くする効果があって、 <「宗教を持つ集団」は「持たない集団」より強くなり得るからです。 説得力があります。 <日本と国土面積が大差ない島国であり、年間降水量も平均気温もあまり差がない、 <つまり自然環境的な「風土」はあまり違わないニュージーランドはキリスト教が最大の宗教ですが、 <それはどのように説明しますか? ニュージーランドのキリスト教は欧米の人間が持ってきたものでしかありません。ニュージーランドでキリスト教が発生したのではありません。よってニュージーランドの最大の宗教がキリスト教であることは風土的には大した意味を持たないと考えます。風土によってキリスト教が生まれたわけではないのですから。 <現在のブルドッグは大半が帝王切開によって生まれているのですが、 そうなのですか。驚きました。勉強になりました。有難うございます。 <その「犬に対する人間」に着目したわけです。 その部分を切り取った、ということですね。 <「警察犬になる訓練」、「軍用犬になる訓練」、「盲導犬になる訓練」は、 <その国がどこであれ何国人がその訓練をするのであれ、訓練の方法は大差ありません。 しかし風土によって人間の雰囲気が変わってきませんか? 白人と黄色人種では矢張り雰囲気が違うと思います。 <植物は精神活動ができません。そのための器官を持ちませんから。 普通はそう思います。また、私はこれに反論するほどのものを持ち合わせていません。 >『音楽……心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組合せによって聴者の感動を求める芸術。』 <「託す」のは誰ですか? <「聴者の感動を求める」のは誰ですか? 新明解国語辞典は多様な解釈が出来るように、あえて誤魔化しています。言葉を厳密に定義するというよりはより広がりを持って定義しているようです。英語のように主語・述語・目的語がハッキリしていないのがそもそもの日本語の性質です。日本語は曖昧な言語です。日本語に厳密性を求めたら、大変です。厳密性を求めたら、政治家はどうなりますか? 『最低でも県外、出来れば国外』などと言った鳩山さんの言葉があります。これも『何が県外?』『誰が移動する?』などは全て不明です。このような文はいくらでもあります。日本語ではこのあいまいさが却って普通と私は考えています。それが日本語です。そういう意味では新明解国語辞典は日本語に即した正統派の辞書と私は思っています。曖昧だから日本語は小説に向いています。 <この文章では「感動を求める」存在と「託す」存在は同一の"省略されている主語"ですよね。 そのような所は曖昧です。同一とも限りません。 <この辞書の定義では、自然の音は「音楽」ではありません。 <自然の音を「音楽」と認識するのは、いわば「自然の擬人化」によってなされていることなのでは? 擬人化でなくとも、音楽と考えれば音楽と言えます。 <単なる情報伝達のための音(鳥やカエルの鳴き声など)、単なる物理現象に過ぎない音(風や川の音)<と区別するために「音楽」という言葉があるのではありませんか? <鳥の声を「美しい」と感じたり風や川の音を「楽しむ」のは、人間の主観です。 逆に音楽はそれ程自然と変わるのでしょうか? 洞窟の音楽や水辺の音楽というのもありますが、あれは物理現象に過ぎない音と大して変わらないと感じます。音楽といっても静かな、単純なものならば、単なる情報伝達や物理現象に過ぎない音よりも音楽はもっと単純とも思います。それ程区別できないのでは? <ではチンパンジーが「音楽を楽しんでいる」のなら、彼らはなぜ楽団を作らないのですか? <楽団を作ることができるだけの知能と社会性は彼らは持っていますよ。 音楽を楽しんでいるからといって楽団を作らなければいけない、ということではありません。鳥も音楽を楽しんでいますし、異性を鳴き声で呼び寄せる動物もいます。しかし彼らは楽団を作っていません。『音楽を楽しんでいる=楽団を作らないとおかしい』というのはやや論理に無理がある気もします。 <人生の目的、真実は、誰か他人に規定されるものなのですか? かもしれないと思うことはあります。人ではなく、神や天という思想を持ち出した時には。 <現に私は他人に規定されるものではない、と思っているのですが、それは明らかに間違っていますか? 他人に人生が規定されたら大変でしょう。人知を超えた存在に規定される、という考えを持ち出した時には間違っていると言えるかも知れません。とはいっても人知を超えた存在、いわゆる神の存在は科学的ではないとも言えます。また、現代の一般的な価値観では矢張り神や天という思想は馴染まないかもしれませんね。 <間違っていないのなら、人生の数だけ目的も真実もあって然るべきでしょう。 現代人ならそう考えるでしょうし、それで良いと思います。 <それぞれの「見る角度」ごとに「形」は1つしかありません。 <それらの情報を結集して、「本来のビルの形」を推測するとき、「正解」は1つしかありません。 しかし『ある方向から見たビルの形』を推測する場合、正解はいくつも現れます。また、本来のビルの形、とありますが、ビル自体が常に『動いています。』ビル全体が常に空気の酸素で酸化しています。ビル自体が常に地面と共に僅かに動いています。また、ビルの構成原子の中の電子は常に移動していて一定ではありません。ゆえに電子の場所を推察するシュレーディンガー方程式があるのです。よって、厳密には正解は1つではありません。 <それらの知見が蓄積すれば、ビルの「正しい形」を導くことができる、ということです。 厳密には正しい形は無理ではありませんか? その形もあくまでも『大体』の厳密性しか持たないのではありませんか? 正しい形とは厳密に言えば素粒子ひとつひとつの場所まで規定することでは? <その人間の緊迫感を牛が「自分の死」と結びつけて受け取る義理があるのか? 人間の緊迫感どころか、人間が正気を完全に失います。戦場では体中ががたがた震えて、訳のわからない言葉をブツブツ言うほどに追い込まれます。正気を失った人間と共にいれば牛も矢張り正気を失うのではありませんか? もしくは、牛も(ただごとではないな)と緊張するのでは? それで牛も自分も『死ぬ』と思うのでは? <宮崎で30万頭近くの殺処分をする中で重大な怪我人が3人ほどで済んだのは僥倖と言って良いくらい 戦争で敵の30万の兵隊を殺すとしたら味方も30万近く殺されます。10万倍以上も死ぬ確率が高い、というのは矢張り緊迫感が違います。 <本と現実は違います。 そうですね。名言です。 <また、それらの本が「しっかりと手順を踏んでいる」ことが、どうして判るのでしょうか? 臨床の場を通して自分の考えが正しいかどうかを見ている、ということです。このあたりは私が判断するのは良くないでしょうけど。一方で現代の主流の論理が致命的に間違っている、ということを彼らは述べていますし、臨床の場でもそれを確かめています。実際に彼らの論理では主流の学説よりも圧倒的に良い臨床結果を残しています。私はこれで充分だと思っています。手順を踏めば万全、というのは個人的には疑問を感じる面も否定できません。 <失礼ながら、質問者さんは「しっかりとした手順の踏み方」を未だご存じないように思えます。 <これまでの議論からはそう見えますね。 <と、きついことも書いてみましたが、再反論をお待ちしています。 その通りですね。私などまだまだです。きついどころかあえて厳しいことを書いてくださって嬉しく思います。あなたに鍛えられて成長しているのを実感しています。愛の鞭を有難うございます。何度も色々と教えてくださって嬉しいです。本当に有難うございました。

noname#142902
質問者

補足

<年間降水量も平均気温もあまり差がない とあります。しかし年間降水量という、年間の降水量の総和と年間の平均気温だけを見ては不十分ではありませんか? 季節による降水量の変化、年間の気温の変化まで見なければいけません。 手元にある『Dorling Kindersley World Reference Atlas』によると 平均気温: 日本は一番暑い時が30度、一番寒い時がマイナス2度、ニュージーランドは一番暑い時が21度、一番寒い時が6度です。 ニュージーランドは一年を通して涼しいようです。日本は寒暖の差がニュージーランドよりも大きいようです。一年を通した平均気温が同じでも、その変化は違ってきます。平均気温だけにとらわれてはいけないのではないでしょうか。 降水量: 日本は一番多い時が240ミリ、一番少ない時が50ミリ、ニュージーランドは一番多い時が130ミリ、一番少ない時が90ミリです。 ニュージーランドは一年を通して降水量は大して変わらないようです。日本は夏と冬で降水量が大幅に変わります。日本は寒暖の差だけでなく、降水量の差もニュージーランドよりも非常に多いといえるでしょう。 以上のことより <日本と国土面積が大差ない島国であり、年間降水量も平均気温もあまり差がない、 <つまり自然環境的な「風土」はあまり違わないニュージーランドはキリスト教が最大の宗教ですが、 <それはどのように説明しますか? 日本とニュージーランドの風土があまり違わないという前提自体が間違っています。 昔のアトラスが役に立ちました。またアトラスを読み直して楽しんできます。アトラスを使う機会を与えてくださってまことに有難うございました。

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