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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ進化の過程で苦しまずに死ねる機能を手にしたのか)

進化の過程で苦しまずに死ねる機能の理由と重要性

noname#160718の回答

noname#160718
noname#160718
回答No.44

 このところ一度に2本ずつ書くのが定番になってしまっているのはまずいなと思ってはいるのですが・・・  1本ずつは少しずつコンパクトになってきているので、もう少しかな。 >私は科学が完全な形になり、それが信仰と一致しないならば信仰は砕かれてしまうと思います。最後は科学はそこまでいくと私は考えます。  人間は矛盾するものを共に心に抱えることができる精神構造を既に獲得しています。ですから科学がどこまでいってもそれによって宗教が砕かれることはないでしょうし、そもそも科学と宗教は立脚点がまるで異なるので、それを科学の指標にするべきでもないと思います。  単に知見だけで言えば、科学は既に宗教を砕くところまで達しています。  ヒトは神によって"神に似せて"土から創造されたのではなく、類人猿から進化してきたことを示す証拠はもう十分あります。ヒトが神から「地上の管理者」を委託された特別な存在なのではなく、他の生物と何も変わらない、たまたまこの数百万年の間で著しい成功をした生物種の一つに過ぎないことも、「証拠」はもう十分です。  つまり少なくとも、キリスト教の「全能の神」は存在しない、という証拠はもう十分挙がっていると思いませんか?  そのことによって宗教が砕かれないのは、科学が不完全だからではなく、ヒトが無慈悲な自然を受け入れたくないから、ではないでしょうか?受け入れたくないから部分的には科学を受け入れつつ、でも不完全ながら十分な証拠が挙がっているのは横に置いておいて、「科学がまだ不完全だから」というセリフを逃げ口上にして、科学と宗教の矛盾を抱えているのでは。  宗教が砕かれるのは、科学が完全になったときではなく、人類がもはや宗教を必要としなくなった時、なのでは。  宗教が人類に与えてくれたものを科学が与えてくれないのは明白ですから。 >丁寧な議論では反論の足がかりすら与えないはずです。  手の内を晒せば晒すほど、その論理構成のそれぞれのステップに異論を提出することができます。  逆に「あんたの言うことは科学的には間違いだ」と一言で済ませると、反論のしようがないでしょ?  それぞれのステップに反論を試みて通用するか検証して、それで初めて著者が主張する結論が「どれくらい妥当か」を判断できるのです。  また、その結論を修正するための、あるいは補強するための「論理」を読み手が展開させることができるのです。  質問者さんはどうしても「結論(すなわち知識)が正しいか否か」を最優先させて考えがち、というよりそれのみに価値を見いだしがちですが、大切なのは論理です。論理が正しければ結論は自ずから妥当なものになりますし、論理が間違っていれば必然的に結論も間違っているものです。  先に、「科学の未知は命題に対する真実の答えは1つ」と書きました。  でも、その「命題」はたいてい現実からは乖離しています。  なぜなら、現実の自然界は無数の要素が絡み合った現象なのですが、複雑な現象を複雑なままで論じることも理解することもできませんから、1つずつ分解しながら理解を進めていくしかないわけです。  ですから、「性格は遺伝する」ことを「犬の性格を人為淘汰によって定着させてきた」という事実を論拠として論じる場合も、他のあらゆるパラメータは無視します。というより正確には「無視できる形を作って議論する」わけです。それは実験系ならもっと意図的かつコントロールされた状況下で行われるわけです。  そうやって命題が真か偽かを論理によって推測するわけですが、そのは命題そのものが現実の自然そのものではなく、ある形で「切り出された」自然であることを意味します。でもそれは自然そのものではないから現実的には意味がない、のではないのです。複雑な現実の自然でも、どこかで生きているシステムであるわけです。  その、「命題そのものがどのような「切り出し方」をされているものなのか」、「その命題が真であるとされた論理構成」を理解しないと、目の前の現実の中でそれがどのように生きているのかを考えることができません。  再び相対性理論を例に挙げると、特殊相対性理論は「現実の自然」を非常に思い切った形で切り出した命題です。つまり「等速直線運動」に限るという前提付きなわけですよね。  そこの前提から1つずつきちんと理解を進めないと、「双子のパラドックス」なんてカビの生えた話を持ち出して、「相対論は間違っている」などという誤解をしてしまうわけです。  これだけ解説書が何冊も出て丁寧に説明されていても、まだこれを持ち出して相対論がおかしい、という人は後を絶ちません。  それは「相対論が科学として不完全だから」でしょうか?  そうではなく、受け手の問題なのではないですか?最初から1歩ずつきちんと理解を進めていけば、こんな初歩的な誤解はしないものでしょう。結論(高速で運動する時計は遅れる、運動は全て相対的なものである)だけをさくさくと読んで理解したような気になっているから、そんな誤解をするのではありませんか? >また、この言葉尻を取り上げるのは大事なのでしょうか?  言葉尻を取り上げたつもりはありません。そのように受け取られたのならお詫びします。  ただ、私にとっては「専門書」にそのような定義の使い分けは必要ありません。  というのは、 >しかし論文を書けなくても専門書、即ち総論に対する突っ込んだ各論は書けますし、事実、私はそのような本も持っています  職人のための技術書なら話はまた別ですが、「科学分野の専門書」は不可能です。第一研究者としての実績がない人には「専門書(いかなる定義でも)」の執筆依頼が来ないでしょう。  そのような本をお持ちとのことですが、何という本なのでしょうか。その著者は研究者ではないのですか?  学会に入ったところで何かに縛られるわけでも自由が奪われるわけでもありません。  議論も「他人をねじ伏せる」ためにするのではありません。科学的な「真実」に近づくためにするのです。自分の中で緻密な論理構成ができていない話では当然他人を納得させることはできませんが、それ以前にその話はたいていの場合「科学的に間違っている」可能性が高いです。  また、例えば「エベレスト頂上での水の沸点」という「未知のこと」を知るのに、それこそwebで調べれば5分で知ることができます。これも確かに「未知の探求」です。  でも、それより自分で、それを知るためには何が必要か考えて実行し、自分で推定する方が楽しいと思うのですが?  また、その成果を世に問うことで、さらに精度を高める方法(天候の変化による気圧変化を補正すればもっと精度が向上するよ、とか、単になんとなくグラフを描くのではなく回帰式を出した方が良いよ、とか)を教えてもらえるかもしれません。  そういう経験があるのとないのでは、同じ本を読んでも読み方ががらりと変わってくる、ということを言いたいだけです。

noname#142902
質問者

お礼

このところ一度に2本ずつ書くのが定番になってしまっているのはまずいなと思ってはいるのですが・・・  1本ずつは少しずつコンパクトになってきているので、もう少しかな。 <ですから科学がどこまでいってもそれによって宗教が砕かれることはないでしょうし、 その考えは興味深いです。 <そもそも科学と宗教は立脚点がまるで異なるので、それを科学の指標にするべきでもないと思います。 科学の立脚点は宗教の補強なのです。科学史、勉強しましたか? 科学は神学のはしため、は有名な言葉です。  単に知見だけで言えば、科学は既に宗教を砕くところまで達しています。 <ヒトは神によって"神に似せて"土から創造されたのではなく、類人猿から進化してきたことを示す証拠<はもう十分あります。ヒトが神から「地上の管理者」を委託された特別な存在なのではなく、他の生物<と何も変わらない、たまたまこの数百万年の間で著しい成功をした生物種の一つに過ぎないことも、 <「証拠」はもう十分です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC ↑しかし上のものすら証明されていないようです。あなたはこれについてどう考えますか? <つまり少なくとも、キリスト教の「全能の神」は存在しない、 <という証拠はもう十分挙がっていると思いませんか? クリスチャンに失礼ながら、私もそれに同意はするのです。 <そのことによって宗教が砕かれないのは、科学が不完全だからではなく、ヒトが無慈悲な自然を受け入<れたくないから、ではないでしょうか?受け入れたくないから部分的には科学を受け入れつつ、でも不<完全ながら十分な証拠が挙がっているのは横に置いておいて、「科学がまだ不完全だから」というセリ<フを逃げ口上にして、科学と宗教の矛盾を抱えているのでは。 このあたりは非常に鋭いです。有難うございます。 <宗教が砕かれるのは、科学が完全になったときではなく、 <人類がもはや宗教を必要としなくなった時、なのでは。 そのような時代は本当に来るのですか? <宗教が人類に与えてくれたものを科学が与えてくれないのは明白ですから。 そうかもしれません。 <「結論(すなわち知識)が正しいか否か」を最優先させて考えがち、というよりそれのみに価値を見い<だしがちですが、大切なのは論理です。論理が正しければ結論は自ずから妥当なものになりますし、 <論理が間違っていれば必然的に結論も間違っているものです。 そうですね。未だに知識にこだわっている自分がいます。もっと論理を大切にします。そしてあなたとのやり取りでも論理面は少しずつ鍛えられています。有難うございます。 <先に、「科学の未知は命題に対する真実の答えは1つ」と書きました。 <でも、その「命題」はたいてい現実からは乖離しています。 <なぜなら、現実の自然界は無数の要素が絡み合った現象なのですが、複雑な現象を複雑なままで論じる<ことも理解することもできませんから、1つずつ分解しながら理解を進めていくしかないわけです。 <ですから、「性格は遺伝する」ことを「犬の性格を人為淘汰によって定着させてきた」という事実を論<拠として論じる場合も、他のあらゆるパラメータは無視します。というより正確には「無視できる形を<作って議論する」わけです。それは実験系ならもっと意図的かつコントロールされた状況下で行われる<わけです。 <そうやって命題が真か偽かを論理によって推測するわけですが、そのは命題そのものが現実の自然その<ものではなく、ある形で「切り出された」自然であることを意味します。でもそれは自然そのものでは<ないから現実的には意味がない、のではないのです。複雑な現実の自然でも、どこかで生きているシス<テムであるわけです。 <その、「命題そのものがどのような「切り出し方」をされているものなのか」、「その命題が真である<とされた論理構成」を理解しないと、目の前の現実の中でそれがどのように生きているのかを考えるこ<とができません。 このあたりは非常に興味深く、楽しく読めました。有難うございます。私は相対性理論に限らず全ての理論は鵜呑みにはしていません。それぞれについて考察をしてはいます。 <言葉尻を取り上げたつもりはありません。そのように受け取られたのならお詫びします。 <ただ、私にとっては「専門書」にそのような定義の使い分けは必要ありません。 謝らせてしまって申し訳ないです。本来ならそのような曖昧さは私が控えるべきでした。すみません。 <そのような本をお持ちとのことですが、何という本なのでしょうか。 <その著者は研究者ではないのですか? そのような本がすなわち現代の医学界の問題とされる分野の本なのです。私自身に迫害が及ぶので一応、ここでは書きません。これはすみません。ただしその本を書いた人達は皆が医者です。内部告発の本です。彼らはしっかりと手順を踏んだ上で意見を主張しています。 今回も色々と教えてくださって有難うございました。

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