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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ進化の過程で苦しまずに死ねる機能を手にしたのか)

進化の過程で苦しまずに死ねる機能の理由と重要性

noname#160718の回答

noname#160718
noname#160718
回答No.46

 Jagar39です。  急にどうしたんでしょうか。私程度の人間なら理系の職場にはゴロゴロいますよ。 >然しながら世界五分前仮説は全ての物事のあやふやさを示しています。よって科学自体もあやふやではない か、ということです  違うと思います。  世界5分前仮説が示していることは、「どんなことでも人間は信じない(もしくは信じる)ことができる」ということだと思います。  5分前仮説は、全ての証拠が何者かに捏造されている、というのが成立するための必須条件です。この条件を受け入れる限り、仮に科学が完璧であってもその証拠を拒否することができます。  つまり、人間は100%の証拠があっても信じないことができるし、証拠がゼロであっても信じることができる、ということを示しているだけの話でしょう。これは「科学の仮説」ではなく「哲学の説」ですから。 >よってニュージーランドの最大の宗教がキリスト教であることは風土的には大した意味を持たないと考えます  それを言うなら、ヨーロッパも同じですよね。  キリスト教が"発生"したのは現在のイスラエルですから、世界の他の地域全ては「持ち込まれた」ものに過ぎません。  宗教は政治的な、支配者がその支配を確立するためのツールとして用いられた例が非常に多いですから、それを言い出すと宗教と風土を結びつけること自体が怪しくなります。アジアでも仏教国、イスラム国、キリスト教国がモザイクのように入り乱れています。これらの国々の「風土」にさしたる違いはないはずですが。  日本にもニュージーランドにもキリスト教が布教されたのに、日本では多数派とはなり得ずニュージーランドで多数派となったのは、「風土」より政治史の方が影響が大きいでしょう。  それと、江戸時代から明治時代~大戦、戦後を経て現在に至るまでのほんの数世代の短期間では、日本人の遺伝子的な特徴が変化しません。  自然淘汰によって集団の遺伝子頻度が変化することを「進化」と言うのですが、それには数千から数万世代の長い長い時間が必要です。人間の平均世代年数を15~25年あたりの幅で考えても(今現在は女性の平均初産年齢はほぼ30歳に至っていますが)、数千年では「進化」するには短すぎます。  江戸時代末期から現在に至るまで、日本人の気質は目まぐるしく変化しているように見えますが、それは遺伝子の変化によるものではなく、元々遺伝的に持っているどの性質を発揮して生きるか、ということに過ぎません。  犬の場合は事情が違います。  犬は人間によって「人為淘汰」されて育種されています。人為淘汰というのは、自然淘汰より圧倒的に「淘汰選択の効率」が高いのです。  自然淘汰は、このQ&Aで私が何度か述べたように、有利な遺伝子と不利な遺伝子は、「十分大きな集団と長い世代数で見ると、平均して有利な遺伝子は不利な遺伝子より子孫を多く残す」程度の差でしかありません。  それに対して人為淘汰は、有利(人間が有用と認めた)な遺伝子を持つ個体と持たない個体の「繁殖率」の差を、ほとんど無限大に近い差まで設定することが可能です。シェパードで言えば、「攻撃的な個体」は100%子孫を残せるが、「温和な個体」はただの1頭も子孫を残せない、ということが理論的にはあり得ます。  実際は、有用な遺伝子は1つではなく、また有用な遺伝子と不要な遺伝子が同居している個体も特に育種初期では多く存在するので、0対100のような極端な淘汰率にはならないのですが、それでも自然淘汰と比較すれば圧倒的に高い淘汰率になります。  それが何を意味するかというと、「進化の速度が圧倒的に速い」のです。  犬が家畜化されてたかが1~2万年、犬種によっては本格的な育種が始まってからわずか数十年でここまで多彩な犬種を育種することができたのは、「効率的な人為淘汰」のおかげです。  人間は「人為淘汰」されずあくまで自然淘汰によって進化しています。アフリカ人とそれ以外の世界中の人々が分かれた(生殖的に隔離された)のは、せいぜい10万年前です。ヨーロッパ人とモンゴロイドが分かれたのは、最大限見積もっても8万年より昔にはいきません。  そのくらいのスケールで、ようやくヨーロッパ人と日本人の遺伝的な差違のようなものが見えてくるので、日本人の中で戦後と現在(たった3世代ほど)では、日本人の遺伝子構成はまず何も変化はしていないでしょう。  人間が「家畜化されている」=「人為淘汰されている」というのは、文学的な比喩としてなら別に止めはしませんが、生物学的な認識としてはまったく的外れです。  我々は何者かに生殖を「管理」されていますか?優しい人が不利だとか言うのは、単なる自然淘汰であって人為淘汰ではありません。「年収3000万以下の者は子供を作ることを禁止する」というような法律でもできれば、それは人為淘汰の第一歩になるでしょうけど。  人為淘汰というのは、生殖できる個体に基準を設けて、集団の生殖活動を何者かが「管理」することを言います。  ま、そういう意味では階級制度が存在して階級を越えた婚姻が認められなかった時代は人類史上長かったですから(それでも正式な婚姻外の生殖活動はいくらでもありましたが)、むしろ現在は「人為淘汰」的な淘汰圧はほとんどなくなった時代と言えるでしょう。これまで保たれてきた「人種間の生殖的隔離」も急速に取り払われつつありますし。 >しかし風土によって人間の雰囲気が変わってきませんか?  その人間の「雰囲気」は、「選択淘汰の基準」に何か影響しますか?  訓練方法と選択の基準は、シェパードならドイツで作られて育種されてきています。日本でもシェパードの訓練はドイツの方法に倣っています。  まあ、日本人とドイツ人の基準の適用の仕方は若干異なるかもしれません。  その結果、日本とドイツのシェパードの持つ「性格」が多少異なってくるのなら、それは「性格は遺伝する」証拠の補強になりこそすれ、否定する根拠にはなり得ません。  日本とドイツのシェパードの性格に違いがないのなら、「性格は遺伝する」ことを否定する根拠になると思いますか?  なりませんよね。  「シェパードとラブラドールの性格が違う」ことが何より強力な「性格は遺伝する」根拠に既になっているのです。そしてその証拠は1つではなく、ほとんど犬種毎に証拠立てができているのです。  日本とドイツのシェパードの「性格」に違いがないのなら、それは日本もドイツも訓練方法と選択基準は概ね同じなので、両国のシェパードの性格に人間の「雰囲気」はほとんど影響しない、という結論が出るだけです。僅かな違いがあっても検出できないのなら、訓練するのが日本人だろうがドイツ人だろうが、同じマニュアルに従って訓練する以上、犬に与える影響もほぼ同じだというのは妥当な推測ですから。  つまり、「性格は遺伝する」ことを論証するのに、日本人とドイツ人の「風土の違い」は、考慮する必要がない、ということです。考慮して調べてみて、どういう結果が出てきても結論に違いがないのですから。日本とドイツのシェパードの違いを調べてみて、どういう結果が出てくれば「性格は遺伝する」ことを否定することができると思いますか?  何かを取り出して論証しようとする場合に、細かな要素をどこまで考慮すればいいのか、というのはそうやって決めるのです。この要素で切り出したときにこういう成績が出れば、これまでの結論が覆る可能性があるのなら、そのデータは取らないといけませんが、「この切り方ではどちらに転んでも結論は影響されない」のであれば、その要素は考慮する必要はありません。  まあ、別の話でそこに注目することはあるでしょうけどね。日本人とドイツ人の訓練の仕方で、シェパードはどのように違うのか、を調べる意義はあります。その場合は、「犬の性格の違い」、「訓練方法の詳細な違い」等をもっと細かく分類する必要があるでしょう。

noname#142902
質問者

お礼

<Jagar39です。 何度も有難うございます。 <急にどうしたんでしょうか。私程度の人間なら理系の職場にはゴロゴロいますよ。 色々と感傷的になっていました。あなたに鍛えてもらって有難いな、としみじみ思っていたのです。 <つまり、人間は100%の証拠があっても信じないことができるし、証拠がゼロであっても信じることができる、 私は逆だと思うのですね。ソクラテスの無知の知という考えがある様に、そもそも100パーセントはなど存在しない。それが世界五分前仮説の最も言いたいことだろう、と。 <これは「科学の仮説」ではなく「哲学の説」ですから。 逆に言えば科学は哲学をもってすれば無意味になってしまうのでは? そもそも哲学的に考えた時に科学が簡単に否定されるのならば、科学はそれ程立派なものなのでしょうか? それは利己的な遺伝子説も同様かもしれません。 <キリスト教が"発生"したのは現在のイスラエルですから、 キリスト教は単発的に発生したのではありません。ユダヤ教から変化していったのがキリスト教です。ユダヤ人のユダヤ教がイエス・キリストによってキリスト教へと分裂した、と解釈すればほぼ正しいと思います。何事もポンと発生はしないかと思います。歴史でも発生するまでの背景は様々です。宗教で『発生』という単語が使われるのは恐らくははじめて見ました。 <それを言い出すと宗教と風土を結びつけること自体が怪しくなります。 このあたりは納得しました。一方で宗教自体も国によって違ってきます。同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントはだいぶ違います。同じ宗教でも風土によって少しずつ変化する、というのはあるでしょうね。 <アジアでも仏教国、イスラム国、キリスト教国がモザイクのように入り乱れています。 <これらの国々の「風土」にさしたる違いはないはずですが。 キリスト教国家に占領されて宗教が上塗りされてしまったからでしょう。上塗りされた宗教だけを見てはもともとの風土や国民性は見えてこないと思います。上塗りされれば、元の色などそう見えるものではありませんから。 <日本にもニュージーランドにもキリスト教が布教されたのに、日本では多数派とはなり得ずニュージーランドで多数派となったのは、「風土」より政治史の方が影響が大きいでしょう。 これは違いますね。日本は国家神道の影響が濃かったが故にキリスト教を受け入れることが出来ませんでした。政治的に神道や天皇崇拝が濃かったと言えども、そこに至るまでの国民性は矢張り風土が重要になってきます。水に恵まれて危険な病原体が他国に比べて少なく、台風によって他国の侵入からも守られる閉鎖的な風土。他国に侵入されることがほぼ無い故に、島国根性と言われる平和を求めて何事も曖昧に誤魔化す日本人像が出来上がりました。それと同時に散り行く桜に風情を感じるという『余裕』も生まれたのです。何故なら、他国の脅威がほぼ無かったからです。その様な平和な国ではキリスト教の様に砂漠生まれの元々が戦闘的な宗教が根付かないのはむしろ当然でしょう。神道は天照大御神という女性の神様ですが、キリスト教では『父なる神』という男性の神様を敬います。女性の神様を敬う平和な日本が男性の神様に助けてもらう戦闘的なキリスト教を受け入れられないのはある意味では当然です。国民性は政治史よりも風土に影響されます。上述からでも政治史よりもむしろ風土の影響によってキリスト教が根付かなかったことが見えてくるはずです。 <江戸時代から明治時代~大戦、戦後を経て現在に至るまでのほんの数世代の短期間では、日本人の遺伝子的な特徴が変化しません。 私は元々、江戸時代の話をしていたのではありません。もっと長い目で見た時に遺伝子的な変化が起こるよね、という意図を持って話していました。と、いうよりもなぜ江戸時代がここで出てくるのか不思議でなりません。 <犬が家畜化されてたかが1~2万年、犬種によっては本格的な育種が始まってからわずか数十年で <ここまで多彩な犬種を育種することができたのは、「効率的な人為淘汰」のおかげです。 こういうのはあまり知りませんでした。犬の話はとても勉強になりました。有難うございました。 <人間は「人為淘汰」されずあくまで自然淘汰によって進化しています。 人間社会は基本的に人為淘汰ではありませんか? と、いうよりもどう考えても人為淘汰と言えるはずです。西洋ではキリスト教を用いた人為淘汰がはびこっていました。日本でも同様にお上に逆らうと大変です。どの様な国でも人為淘汰が主流で自然淘汰はそれほどでも無いと思います。逆に自然淘汰がどの様に人間を淘汰するのか教えて下さい。 <日本人の中で戦後と現在(たった3世代ほど)では、日本人の遺伝子構成はまず何も変化はしていないでしょう。 そもそもそこに限定していません。いつから期間が限定されたのですか? <我々は何者かに生殖を「管理」されていますか? 管理されております。逆に管理されていないのですか? 直接的には管理されていませんが、現在、貧困層の人々は簡単に結婚できません。現代は『管理社会』と言われますが、制度が複雑になって見えなくなっているだけで、確実に管理されていると言えます。 <「年収3000万以下の者は子供を作ることを禁止する」というような法律でもできれば、それは人為淘汰の第一歩になるでしょうけど。 実際は年収300万円を境に結婚率がガクンと変化するようです。これも一種の人為淘汰では?   人為淘汰というのは、生殖できる個体に基準を設けて、集団の生殖活動を何者かが「管理」することを言います。 <ま、そういう意味では階級制度が存在して階級を越えた婚姻が認められなかった時代は <人類史上長かったですから(それでも正式な婚姻外の生殖活動はいくらでもありましたが)、 これは今でもそう変わらないでしょう。普通の男性が朝吹真理子氏に求婚しても大体は婚姻を拒否されるはずですから。逆にお嬢様は苦役列車の著者の西村賢太氏と結婚したいとは殆ど思わないのでは? (私は朝吹さんよりも西村さんの方が好きなので書いていて西村さんに対して申し訳なく思ってしまうのですが)その様な階級制度が無くなったというのはあくまでも建前であり、実際は階級制度は今でも存在しますよ。 <むしろ現在は「人為淘汰」的な淘汰圧はほとんどなくなった時代と言えるでしょう。 それは早計かと思います。現在では日本でも格差が広がってむしろ人為淘汰が広まっていると言えるでしょう。 <その人間の「雰囲気」は、「選択淘汰の基準」に何か影響しますか? 矢張り雰囲気は大きいと思います。日本人の女性は配偶者に求めるものは『優しさ』です。欧米の女性は配偶者に求めるのは『強さ』と感じています。雰囲気によっても選択淘汰の基準に影響します。もし雰囲気が影響しなければ、恋愛本が存在しないはずです。恋愛本では雰囲気についても教えるものです。雰囲気が影響しなければそもそも恋愛講座など存在しませんし、服の流行も存在しないのでは? <訓練方法と選択の基準は、シェパードならドイツで作られて育種されてきています。 <日本でもシェパードの訓練はドイツの方法に倣っています。 そうなのですか。知りませんでした。勉強になりました。有難うございます。   今回も色々と教えてくださって誠に有難うございました。論理的に鍛えられているのを実感しています。あなたに論理面を教えてもらわなければ大変でした。本当に感謝しています。

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