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生きることに意味や価値はないのでは?
僕らは(?)は、生きることや命に意味や価値があると考えてはいないだろうか? 「一つの命は地球より重い」と言う言葉があるが、中東の戦争で数多くの命が失われたりしているけれど、それは、地球に、僕らの生活に何らかの変化を与えただろうか? 石油の値段が上がったりするけれど、それは、命が失われた事と直接の関係ない。 僕らは生き、食するため、多くの動物の命を奪うけれどだからと言って、僕たちが何かを「大きく」損ねているだろうか? 物心ついてから、生きることや、生命に意味や価値を考えてきたかも知れないけれど、 物心つかない子供の頃は、そんなことを考えないでも、充分に生きていてた。 生きることの意味や価値を考えないでも、快活に生きていた。 宗教には、偶像崇拝を禁じる考えがある。 神に形を与えるのを誤った態度だとする考えがある。 何らかの像をつくり、そこに心のやり場を求めるのは、人間が未熟で容易に安心を求めようとするからではないか? 真摯に、不安を受け入れるなら、偶像は不要ではないか? 真摯に、不安向き合うなら、生きることの無価値の中でも子供のように快活に生きられるのではないか?
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- kirakirabana
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生きることに価値や意味はもちろんあります。 今からお伝えする事は質問者さんの今後の人生にとって大変重要な事ですので、お心に留めて頂いて、質問者さんの今後の目標設定、人生計画を立てて頂ければ幸いです。 生きる意味を知り、人生に喜びを見出すには、根本的な人生観「人間とは何か?」、「神は何故宇宙や人間を創ったか?」、「人生と目的と使命とは何か?」を知る必要があります。 何故、神が宇宙や人間を創ったか? 神は自己実現の一環として芸術を創るような気持ちで宇宙や星々や人間を創りました。 そして、その宇宙を文明実験場として、人間の魂にこの世とあの世を何度も生まれ変わり、無限の向上を目指す中でユートピアを創る使命と自由を与えました。 何故、そのような事をする必要があったか?というと神は全知全能と言われるように完全無欠の存在ですから、そのままでは何の進歩も発展もない訳です しかし、あえて宇宙や人間を創り、無限の向上を目指させてユートピアを創る使命を与えて努力させる事によって自らの喜びとしようとしたのです。 人生の目的と使命 私は、死後の世界を実感として120%確信しているものとして、お伝えしますと死んで「無」にはなりません。 死後の世界は120%存在します。 質問者さんも死んだら魂として、あの世に帰り生き続けます。 そして、あの世で数百年過ごした後に、またこの世に生まれ変わって来ます。 人間の魂は、神仏に神仏の光から分光されて、神仏の光の分け御霊、神仏の光の子として創られて以来永遠の生命を与えられこの世とあの世を何度も生まれ変わり無限の向上を目指すとともに、この世の中を愛と優しさに満ちたユートピアする使命を与えられた存在です。 ですから、なぜ質問者さんは今生きているかというと自らの愛の器を大きくし、魂を神仏に近づかせていく中で神仏の光の子としてこの世の中を美しいユートピアにする使命を果たすために生きているわけです。 そして、質問者さん魂は死んであの世に帰ると照魔の鏡といって、映画館に行き質問者さんがこの世に生きている間に生まれてから死ぬまでに心の中で思った事と、行った事が全て上映されて、いかに神仏の子として、美しい心で他の人に優しくして生きたか?どれだこの世の中神仏の理想であるユートピアを実現する事に貢献したか?により質問者さんがあの世のどのような世界に行くかが決まります。 なので、美しい心でユートピア実現に貢献した人ほど死後天国の光輝く世界に帰れるといえます。 では、ユートピア実現に貢献する生き方とは何かと言いますと現在、上記の価値観を知らずに無軌道な人生を送ってしまい死後地獄に落ちてしまう人がたくさんいらっしゃいますが、神仏の目から見て、死後地獄に落ちてしまいそうな生き方をしている人に対して、死後の世界の真実を伝えて天国に帰れる生き方に導いてあげる事は最も尊い事と言われていますので日々の生活で縁あるたくさんの方々に上記の人生の目的と使命、死後の世界の真実をたくさんの方々に伝える生き方であるといえます。 なので、質問者さんも回答に納得がいったか分かりませんが、質問者さんもたくさんの知人友人にメールやネット媒体、口頭でokwaveでこんな事を言っていた人がいたよ。」と生きている目的と死後の世界の真実を伝えてあげて下さい。 上記の価値観が広まれば世の中は確実にユートピアになりますし、質問者さんの神仏の子としての徳が増し、魂の糧にもなります。 ちなみに、天使という存在がいますが一般的に生前無償の愛でもって1万人以上の方々の魂を救い地獄に落ちそうな方々にあの世の真実を伝えてあげて天国にかえれる生き方に導く事が出来た人は天使になれると言われていますので、質問者さんももし可能でしたら多くの方々を救うためにokwaveで上記の回答を様々な方々とシェアするなりして、お力お貸し頂ければ幸いです。 一見ユートピア実現というと難しい事のように思うかも知れませんが落ち着いて考えると例えば、質問者さんが上記の回答を10人の人とシェアしたり10人の知人友人に伝えて、さらにその10人に上記の真実を10人以上の方々に伝えるようにお願いして100人となり100人の人がまた 10人に伝えて、1000人、10000人、100000人の方々に伝えて…と人から人へと伝えていけば、あっという間に日本中全ての方々に上記の価値観が伝わり、世の中はユートピアになるわけです。 なので、質問者さんは高2で若いですし、今日から一念発起して上記の価値観を1日1日コツコツと伝えて、生きていけば、質問者さんも天使になれる可能性もあるわけです。 質問者さんも残りの人生を神仏の光の子としての使命に目覚めてユートピア実現の戦士となり愛と優しさに満ちた光の天使になる事を目指してはいかがでしょうか? 質問者さんの人生がさらに充実して下さる事を心から願います。
我々人間は人間であるからして、何にしても人間を本位に考えてしまう。 命は大事。 そう言われて虫や動物を大切そうにしている自分を思い浮かべる人間は少ないでしょう。 全ての命を大事など出来ない。 命は生まれ、そして失われていくものなのだから。 しかしながら人間は『意味』なしでは生きていけなくなってしまった。 命というものに意味を見出ださずにはいられなくなった。 策士、策に溺れる。 と言ったところなのでしょう。 自らを生かすために進化したはずが生まれた不安や恐怖が首を締め始めた。 だから『意味』や『価値』を作りさらに自らを生かそうとした。 と、いう感じではないでしょうか。 あと思ったのですが、人間は未熟です。いつまで経っても熟すことなどないと思います。 それならば未熟なりに簡単な方法で不安を取り除くというのは中々頭の良いことではないですか? 人間は不安を抱えきれない。 だから何かに逃げる。 だから何かに押し付ける。 そういうことなのだと、私は思います。
私見です。 一人一人の人間を見る限り、生きている価値などないと思う。 けれども少し大きな目で見て、一つのコミュニティ、ひとつの国、ひとつの時代、を区切りながら見てゆくと、少し違った意味が見えてくる。それは人と人とのかかわりの中から生まれてくる大きな時代の趨勢であったり、一人のリーダーが無自覚に行った事績の、後世から見た意味の大きさだったりする。 個人的には、”人一人の命は地球より重い”というのは、とんでもない嘘であると考える。嘘でなければ非真実である。生物的には、子供を作って育て終わった、私の余生などに何の意味もない。せめて土葬にしてもらって、土を肥やすぐらいしか地球に貢献する道はない。 自分の存在が無意味で、無価値だと薄々感じるから、不安になるのだろう。もしその不安に目をつぶることなしに向き合うのなら、自分の非力、愚かさ、あほらしさを目の当たりにすることになる。 そこから先は、もう、適当な相手を見つけて、持ち合わせたものを与え続けるしか快活に生きる道はない。知識でも、物でも、カラスが洞をガラクタで満たすようにためてゆくと、哀しみは増すばかりである。
- イトゥ アキラ(@ssc7271)
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人が生きることで、意味や価値が生まれるのではないでしょうか。 そして子供は、人生を振り返るということがないから、意味や価値を考えない。 「生きることに意味や価値がないのでは?」と疑問に思うということは、人生を振り返ることができるようになったということであり、もうそこに意味や価値が発生していると思う。
- ok9608
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#11です。お礼欄のコメントを読んで。 心の動きは後付けではない と説明されていることを受けて、本能と理解しました。 『心の動き(=本能)』に対して『後付けすることにより意味、価値が生まれ』、結局、意味、価値は 個人が決める と主張されるのであれば 同意致します。 もう少し吟味しますと、第一の本能は 幼児の行動によく表れると思います。幼児対幼児のなかの主張、あるいは幼児対大人のなかの幼児の主張には 必ずしも 相手の笑顔だけを求めているわけではなく、最悪の場合 相手の消滅を願っている場合もあると思います。本能の主張は 必ずしも 人道的、平和的ではないのです。第二の後付けは 家族、友人、学校、書物、あらゆる環境から受ける教育とおもいます。そこでは 例えば、人殺しはダメです とか 重要なことを教わるとおもうのです。それは意味と価値の教育でしょう。後付けこそ 社会生活が出来る 基本ではないかと思います。結局、後付け基礎の上に立ち 各個人は 自分の考えを注入して 意味、価値を決めていく ことになると思います。 今日、この後付け を遮断して 生きていくことは 不可能と思います。が、一切の後付けの意味、価値は不用なものとして 本能のまま 生きていくと 考える お人が表れたとしても不思議ではありませんが 実行は無理かと思います。
#9です。器について解説します。 自分の中で、迷いや、葛藤が、起きますね。 それは、心と、器の、意見が違うからです。 たとえば、人から注意された時、「不愉快」に感じるのが、心であり、 「自分が間違っていたのだ」と感じるのが、器である。 たとえば、美しい花を見て、「美しい」と感じるのが、心であり、 「生き物の、はかなさ」を感じるのが、器である。 たとえば、食事の時、「美味しい」と感じるのが、心であり、 「命あるものを、頂くのだ」と感じるのが、器である。 たとえば、戦いにおいて、「勝ってうれしい」と感じるのが、心であり、 負けた者に対して、「いたましい」と感じるのが、器である。 たとえば、クモの巣にかかった、蝶を見た時、 「助けてあげたい」と感じるのが、心であり、 「申し訳ないが、食物連鎖である」と感じるのが、器である。 つまり、心と器は、それぞれ、かたよった考えしか持っていないのです。 しかも、心は、なかなか成長できない、ものであり、 器は、心と、対話しなければ、成長できないのです。 器は、心と対話することによって、【 中道 】を、導き出さねばならないのです。 対話の回数は、多ければ、多いほど良いのです。 人と接する機会を、多くして、素直に、心で感じた事を、溜めておきましょう。 溜まったら、自分の、心と器に、問答をさせましょう。 そのためにも、いったん、「色即是空 空即是色」を忘れて、 素直に、心で感じた事を、ためておきましょう。 ちなみに、器という表現は、私の表現のしかたです。 人によって「仏性」など、いろいろな表現のしかたがあると思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.13です。 ★★(No.9お礼欄) ~~~~ ただ、仏教では、 諸行無常と言います。 色即是空と言います。 全ては、無とも、空とも言います。 これは、生きることを無意味、価値はないと言っているとも解釈できると思います。 ならば、悟りが無価値に生きるとも言えるのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《空観》というのは 《生きることは生きることである》と言っています。ものごとはうつろい行き おのれもやがて朽ちるその時空間を生きることは それとしてそれである。と言っています。 《無》だとも《有》だともそれぞれを断定するかたちでは言っていません。 《無常》は 《無価値》だと――あるいは《有価値》だと――決めなさいという意味ではないでしょう。 うつろい行くこの世界の中に生きて おそらく仮りに《生きることに意味や価値はない》という判断を下すなら その結果としての中身にというよりは その意志による判断の自由がとうといということに《生きること》が見出されるということではないでしょうか? つまり あなたが《生きることに意味や価値がある》という一つの判断に異議をとなえているというその自由な判断に 《意味や価値はある》という意味です。 ☆☆(回答No.13) それとも《生きることのとうとさ》というのは 《偶像》であり偶像を崇拝するに過ぎなくなるから 言ってはいけないというご主張ですか? ★(趣旨説明)( a ) 真摯に、不安に向き合うなら、生きることの無価値の中でも子供のように快活に生きられるのではないか? ☆ ですからこの命題については ★ 生きることの無価値の中でも ☆ という箇所を 三通りに じつは互いに対等・同等なかたちで示し得ると考えます。 ( b ) 生きることの有価値の中でも ( c ) 生きることに価値が有ると考えようが無いと思おうがそんなことにこだわることがなくても 諸法無我・色即是空といった空観は そういう意味だと考えます。 あまりにも容易に《命が失われている》からと言って これら三通りの判断の自由が失われることはないように人間の存在とその社会的な関係は出来ているものと思います。その自由意志は 一人ひとりにおいて掛け替えのないものだと見ます。 無価値説も 偶像に成り得ますよと言っているのではないですか 空観は?
- ponpon88899990
- ベストアンサー率12% (4/33)
No.12です。お礼ありがとうございます。 >質問の趣旨は、生きることに意味、価値があるかと言うことです。 その質問を分かりやすくするため、子供の例を出しています。 そういうことなら、そのことに絞って回答しますね。 察するに、命が絶たれても世界は何事もないかのように続くことから生きることの意味や価値に疑問をもったということだと思います。 確かに、個々の命をみると無価値のようにみえますが、因果の関係性の中でみれば変わってきます。 例えば、清盛の継母・池禅尼は、早世した我が子・平家盛に頼朝が似ている事から清盛に助命を請い、その結果、源頼朝は生き延びましたが、因果をみていくと ・平家盛が頼朝に似ていたこと ・平家盛が早世していたこと ・池禅尼が清盛の継母になっていたこと ・池禅尼と清盛の関係が悪くなかったこと 等などたくさんの因果の結果、源頼朝が生き延び、そして、東国政権を樹立し、その影響は現在の関東圏と日本人の生活にも及んでいます。 仏教でいう無我も逆の方向で同様で、実体感のある我というものを分解していけば儚い因の集まった結果でしかないというものです。 つまり、因=個々の命や自我を構成する要素、果=人間の歴史や自我 ということです。 見方により無価値であったり価値があったりということだと思います。
- larme001
- ベストアンサー率44% (271/608)
この手の質問はかなり回答が多くなりがちですね。 個人的には、生きる意味があるかなかろうか、あはたまた環境が勝手に「啓蒙」したものなのかという点に関してその絶対だと言い切る応えはわかりません。ただ、その生きる意味とかそういうものって結局人間の考えるものすべて、文化だとか科学技術だとか、宗教だとか、ありとあらゆるものと密接にかかわっていると思うのです。かりにも、生まれた赤ん坊が「言葉」を得る前に本能のまま存在したら自分が死ぬということにためらいも何もないのか、そもそも生と死の区別すら意識的にできるのかもわかりませんね。 幸か不幸か、私にはすでに「言葉」があって、それに伴ういろいろな価値観があるわけで、その中で単なる欲望や本能と思われるもの以外にも楽しみと思われるものをみいだしてしまったのですよ。そういう意味では、死ぬのはいやだ、やっぱりそれをもっと楽しみたいと思うことこそ生きる意味ほかならんと思います。 ちなみに戦争で影響があるかといえば無いようにも見えるし、一方でそれが積み重なって今の日本の様な社会があるのかもしれませんし、一概にはわかりませんよ。一人の人間の思い立ったカンニングで、将来の日本の入試制度が変わって、はたまた学歴社会というものが見直されるかもしれないですし。無論、自分が生きている間には変わらんかもしれませんが。 そういう意味では、どんな命であれ少しでもその世の中に影響を与えているなら生きたという意味が生じるのかもしれないですが。仮に子供が無心にただ生きていたとしても、それは両親の生きがいになっていたとするならばそれだけでも生きた意味があるかもしれませんしね。 まあ、もう少し本質的な意味では「ニヒリズム」とかはそういう議論があるのもまた、あなたの言う本質的な方向性はないという根拠が一定の認識を得ている理由にもなるのかもわからんですが。
#9です。 #20の続きを書いておきます。 一度、悟りを捨てる事により、心と器を、別々に認識できるようになります。 悟りは、捨てたからといって、消えるものでは、ありません。 心と器を、別々に認識できたなら、次にやらなければいけない事は、 心と、器の、対話です。自分が自分に、問うのです。 これにより、空であった器が、中道を知るのです。 仏教で、生きるということは、中道を歩む事です。 中道こそが、生きる意味なのです。 無限の可能性を生きるのです。 決して、空を、生きるのではありません。 やはり、いま、やるべき事は、悟りを捨てる事だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 No20のお礼の方に書かせていただきましたが、心と器の関係がよく分かりません。 そこの所を、詳しく説明していただくと嬉しいです。 重複のようなお礼で、恐縮です。
お礼
回答ありがとうございます。