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神の言葉なる聖典も 言葉として 偶像ではないのか?
(1) 組織宗教の場合に 組織上の権限〔を持つ人間の意向〕が各人の信仰にまで及ぶという――それによって信教・良心の自由を侵すおそれがある――問題があります。具体的には オシエが――それはいかに神の言葉だと言っても 人間の言葉で自己表現された文章であるからには神ではなく信じるものでもなくただ考えるものであるのに――信じるように説かれたりするという問題です。 (2) ここでは 偶像崇拝を禁じるというオシエについて考え問います。 (3) 旧約聖書には こうあります。 ▲ (出エジプト記 20:4-5) ~~~~~~~~~~~ あなたはいかなる像も造ってはならない。 上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですけれども このオシエは 人間の言葉――声および文字――で発せられ書かれているからには ただの偶像ではないのか? 地上のものであり そうとすれば被造物なのではないか? そのような言葉という素材で表わされたオシエを神の言葉として守ることは 偶像崇拝になるのではないか? こういう問いです。 (2) 新約聖書にも 偶像崇拝を否定する記事が――パウロの書簡などに――ありますが 教会も カトリックもプロテスタントもすったもんだしながら 特に偶像が問題ではないというところに落ちついたと言ってよいのでしょうか。 (3) イスラームにおいては 読誦されるアラビア語によるクルアーンが 神の言葉そのものであると説かれます。その根拠についての説明があります。 ▼ (ヰキぺ:クルアーン) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3 § 2 特徴 § 2.1 イスラーム教における位置付け (3-1) クルアーンは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。 (3-2) クルアーンが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。 (3-3) イスラーム神学では、クルアーンは神の言葉そのものである以上、神に由来するもので、神の被造物には含まれない。 (3‐4) クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。 (3‐5) 従って、神の言葉であるクルアーンが地上に伝えられていることそれ自体がムハンマドに対して神がもたらした奇跡であると主張される。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (4) さて どうでしょう? (4‐1) すなわち いかにアラビア語と言えども言語として被造物の一部であってその限りで偶像をつくりうる素材なのであるが そのような偶像要素としての人間の言葉を用いて著わされたクルアーンは しかしながら 被造物ではなくなる。ということか? (4‐2) 被造物ではない神の言葉が 被造物という素材によって現わされたのではある。 (4‐3) 被造物であるというのは 偶像もしくはその要素だということ。ということは クルアーンは 偶像であって偶像ではない。 (4‐4) さて どういうことでしょう?
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お礼
おうけい96さん お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。 イスラームは この《偶像〔崇拝〕》の問題について かなり考えていると まづ思われます。 と言っても 聖典を神としてこれを守るというのは 偶像崇拝である。と問うています。 こう問うほうが おそらく妥当であり定説に成り得るし あるいは成っているものと思われます。 それでもそこを・つまりイスラーム神学はそれでも 針の穴にらくだを通すわざを考え出そうという姿勢であるように思われます。 ★ しかし 問題は クルアーンの言葉が神によって創造されたことが実証されない限り 論理的 科学的には理解不能なことと思われます。 ☆ けっきょく――わたしが考えるに―― クルアーンは ムハンマドというふつうの(または預言者としての)人間をとおして神が語ったというふうにわれわれ人間が想定するのだと言ってしまえばよいのではないかとも考えます。 それか もうひとつに方策は イエスという人間は 母マリアがヨセフという許婚とのコイトスによって出来た人間であると同時に 聖霊によって(そのとき同時に)身ごもって出来た神の子キリストでもあるといったふうに想定する。 つまりは その人間イエスに 自分は神の子でありみづからも神であるキリストだと宣言させるという大嘘において 神のメッセージを伝えるという手法を採るかだと見られます。 ★ イスラム教では この理解不能なことを 個々の人々の 信じるという思考回路をへて 納得させて 来ているのです。言葉を信じるという 堂々巡り思考回路です。閉ループなので一種の思考停止になっていると思います。この思考停止は脳の活動を定常化させ精神的苦悩を除去させ 幸福感 満足感 など多くの精神的メリットを与えていると思います。 ☆ こういった状態・情況であるとわたしも思います。 ★ しかしながら この推察は逆であろうと思います。まず 神の言葉があり それ以外のものを 崇拝することを禁止したのです。[うんぬん] ☆ とつづくくだりは むつかしいですね。 ★ それ以外の 崇拝を許容すると その崇拝の意味を通して神の言葉の意味が変化する可能性があるからです。 ☆ と言ってもですね。すでに《まづ初めに神の言葉があり》というところですでに じつは《意味》が現われています。神の言葉だったとしても 人間の言葉として《考える》ための意味がともなわれています。 たとえば クルアーンの冒頭からです。: ▼ (ヰキぺ:開端 (クルアーン))~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%AB%AF_(%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3) 1:3 الرَّحمـنِ الرَّحِيم Ar raḥmāni r-raḥīm アッラーは最高の慈悲を持ち、(慈愛深く慈悲深き者) 1:4 مَـالِكِ يَوْمِ الدِّين Māliki yawmi d-dīn 最後の審判の日の支配者である。(裁きの日に王である者) 1:5 إِيَّاك نَعْبُدُ وإِيَّاكَ نَسْتَعِين Iyyāka na'budu wa iyyāka nasta'īn 我々はあなたのみを崇拝し、あなたのみに助けを求める。(わたしたちはあなたにこそ仕え あなた〔の道〕にのみ定められている。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《1:3》では 必ずしも《アッラーは》とは書いてありません。《1:4》もです。そして《1:5》では 《われわれ》は 人間としてのわれわれであり 神が《あなた》として話しかけられているかたちです。 すなわちそれでも ひとつに《神(=アッラーフ)》がどういう存在であるかが規定されており ひとつにその神に対して人間のわれわれが どういう関係にあって どう振る舞うかが述べられている。 このようにすでに《神についてのことがらがいくらかの意味をもって表現されている》と見られます。 《慈愛深き者で裁きの日に王である者たるあなたにこそわたしたち人間は仕える》という意味が生じています。つまり その意味も観念であって 観念としての偶像です。つまり このくだりを文字どおりに守るなら――人間の能力で理解する意味をたずさえながら しかも無条件にそのことに従うならば―― 偶像崇拝になる。のではないでしょうか? ★ まず 神の言葉があり それ以外のものを 崇拝することを禁止したのです。それ以外の 崇拝を許容すると その崇拝の意味を通して神の言葉の意味が変化する可能性があるからです。だから 偶像崇拝も禁じたものと思います。 ☆ この部分がまだわたしは理解し得ていません。その反論を上に書きました。人間は 偶像崇拝を禁じられつつ その禁じる文章(神の言葉)を守るなら偶像崇拝をおこなったことになる。のではないかと。 ★ 多くの人々が 時空間を越えて 不変の意味をもつ神の言葉を信じ続ける ことはイスラム教に限らず 宗教では 最重要なことだと思います。 ☆ ここは 微妙です。《不変の意味を持つ》とは どういうことを言うのでしょう? 《意味》があるなら それはあくまで神の理解する意味ではなく そうではなく人間が理解する意味のことを言うはずです。そしてその人間にとっての意味は 思考なのですから うつろいゆくものであらざるを得ません。可変的です。 不可変性としての神の言葉は 《非知》として想定するナゾであるのでなければ それは真理ではなくなります。 ★ 厳密にいえば 神の言葉の文字表記は不変でも 文字に表した意味が変化することは 考えられます。 ☆ いえ。たぶん 文字表記も 可変的です。 ★ そこでは神の言葉の使用文字の意味は厳密に定義されていないといけない となると思います。 ☆ いえ。人間が定義など出来っこありません。出来たら それはナゾではなく 神の言葉ではありませんから。 ★ そのような文字言語が開発されているのか定かではありませんが 例えば 変化しないということでは 論理学的述語のような 神の言葉が必要かと思います。 ☆ 《神の言葉が必要だ》と言ってそれが理解できたら その内容は 経験事象としての移ろいゆく観念です。人間の言葉にすでに成っています。 ★ 宗教団体の多数の人々を対象とする言葉の教義は 正しいとは認められないと と主張されているように思います ☆ ここで引っかかりました。微妙に違うと思います。 組織宗教のオシエは 信仰から出たとは言え もうすでに人間の思惟であり思想である。変わり得る観念である。 いかに倫理的な妥当する内容を持ったものとは言え それは さらになお《考え〔て行動す〕る》ためにある。よく言っても 神を知るための補助線であるに過ぎない。 だから このオシエをそのまま受け容れる・つまり信じるのは あってはならない偶像崇拝であると成る。と言っています。 内容について 倫理思想として――朽ちるべき思惟や観念として――見るかぎりで 妥当なものはあるはずです。ただしそれは 信じるためのものではない。と言って来ています。 ★ なぜ偶像崇拝禁止問題を取り上げられるのか よく分かりません。神の言葉を信じるとは とんでもない ですよ と 何回目かの主張をされるつもりなのでしょうか。 ☆ (あ) 神あるいは神の名は 無条件で心に受け容れるものです。つまり 考えるや感じるを超えたところで 信じるものです。いやなら 信じないと信じることになります。 (い) 偶像崇拝を禁じるオシエは シュウキョウによっては 説かれています。けれども もしそのオシエに《信じる》をもって従うなら・ということはオシエを神の言葉として受け留めるなら それは 人間の言葉ないし文字ないしその観念としての偶像を崇拝したことになる。偶像を崇拝するなというオシエは 神の言葉ではなくその仮りの像すなわち偶像であるから 崇拝するなを守るなら 崇拝したことになる。それは 矛盾している。――と言おうとしています。それを 問うています。