神について勘違いが多いのはなぜでしょう?

このQ&Aのポイント
  • 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
  • また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
  • 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。
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神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

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noname#155689
noname#155689
回答No.49

>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  非経験の領域を想定するメリットは  この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。  少なくとも自分にとっては。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまいことおっしゃる。  ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~  そもそもの勘違いは  非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。  神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。  この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。  ★ ~~~~~~~~~~~~   > わたしは自分の子を信じる。  それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。  ★ ~~~~~~~~~~~~  ・・・  そう仰るだろうとは思ってました。  bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。  自己完結を目指されているのだろうな、と。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・

その他の回答 (55)

回答No.56

まず勘違いがなぜあるかでしょう。 まずキリスト教の神なのか、イスラム教の神なのかがあります。 仏教には神はいませんから。  A. 神は 精神であるという勘違い。  精神が過度に日本で強調されている。たとえば旧日本軍の精神偏重主義。部活にも見られると思うが、これが誤らせる原因。つまり人間が神になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。  宗教団体には人がいる。つまり、宗教において神ではなく、人間が信じられている。カルト集団が一番いい例。教祖があがめられる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   これはつまり実体ではなく、表面を信じるということ。本質ではなく、うわべを信じるから。 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。    神がどういうかたかわからないから。神を人間と同じにするから。 偶像は人間を罰さない。だから信じる。都合いいから。

bragelonne
質問者

お礼

 ヨーク出身さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。質問者としては 四つの事例を《偶像崇拝が原因だ》と類型的にまとめていますので  ★ 偶像は人間を罰さない。だから信じる。都合いいから。  ☆ という事由は そうかも知れないと思いました。言いかえると いわゆる昔風の言い方で《自然への畏れ・大自然への畏敬》といった感覚がなくなったということかも知れません。出産をつうじての生命の神秘やら宇宙探索をつうじての自然の神秘など いまも接する機会はあるようにも思えるのですけれど。  でも《偶像なら 少々間違いを仕出かしても 罰を受けないだろう》というわけですか。それもあるかも知れませんねぇ。ということは わるいことは忘れていいことなら信じるという占いのたぐいでしょうか。  つまりは 自分の思考しうる範囲内のことであれば 都合のよいほうに賭けるのだけれども 賭けがしくじったならほかへ移るし 思考能力を超えたところのことはもうお呼びでないという心づもりなのでしょうか。  ★ A・・・精神が過度に日本で強調されている。たとえば旧日本軍の精神偏重主義。部活にも見られると思うが、これが誤らせる原因。つまり人間が神になる。  ☆ 高校球児の精神(ふるいかも)でしょうか? そう言えば 某テレビ局の番組でプロ野球解説者と女性ジャーナリストとのあいだでこの《精神主義》の是非について ひと悶着があったそうですね 最近。昔は練習のあいだ 水を飲んではいけなかったようです。  あるいは この精神主義の影響だと思うのですが 日本人は《さとり》について梵我一如が好きなようです。精神において宇宙と一体となるとか何とか。この哲学カテでも見かけます。あほかいなと思います。(そんなことを意識的に精神においてなどと目指さずとも すでに初めから そうだとすれば 一体です。そうではなく 神を自分から迎えに行くというくせなのでしょうね。それは 精神主義だからです)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  B. 宗教・・・人間である教祖があがめられる。  C. 教義・・・これはつまり実体ではなく、表面を信じるということ。本質ではなく、うわべを信じるから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どちらも《うわべ》を信じる。つまり思いこみとしての信じ込みのようです。あほかいなと思います。意識的に精神ないし心の中に《神》を抱きたいのでしょう。精神主義のくせゆえに。こう考えると もしその弊害に落ち入っているなら 二千年遅れているということでしょうねぇ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。  神がどういうかたかわからないから。神を人間と同じにするから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ けっきょく《分からない》のだから そのまま《信じる》。つまりはこの場合 自分から何かを追い求めるというくせをその場で捨てればよい。そうすれば 即身成仏ですよ。一瞬のうちにさとりが得られるでしょう。すなわち 《非思考の場》としての信仰が あなたの心のうちに芽を吹かせるということではないでしょうか。  灯台もと暗し。  こう考えました。ありがとうございました。

noname#155689
noname#155689
回答No.55

> 《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。 > つまり 非思考の場は そういう経験世界における > 目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。 やはり、そう来ましたか。 つまり ●bragelonneさんの神はメリットがない。 それは多くの人にとっては価値がない。 意味がない。 用がない。 そういうふうに写ってしまうのではないでしょうかねぇ。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。さらに突いて来ますね。おもしろい。  キュウさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。次の考え方をも参照して欲しいのですが。  ☆☆ (No.49お礼欄) ~~~~~~~~  たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。  この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《特異点》に立つ〔かに思われる〕ときには おっしゃるように  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ● bragelonneさんの神はメリットがない。   それは多くの人にとっては価値がない。   意味がない。     用がない。  そういうふうに写ってしまうのではないでしょうかねぇ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであって もう仕方がないでしょうね。あるいは積極的にそうなのだと・つまり《無価値なのだ》と言ったほうがよいとさえ思われます。  言いかえると 神は《無根拠》なのです。人間にとってどういう根拠があるのか 人間に分かるようには成っていない。  だって 《根拠》があって分かっていれば それは《非思考》ではなくなり 《思考》した結果おのれの考えで判断して決めるものになるからです。それは 《非経験の領域》ではありません。でしょ?  でもね。けっこうメリットはあるのです。  船に乗っていて嵐に遭い 波に身をまかせる船もろとも運命をともにするかに思われたとき   ◆ おそれるな。わたしだ。  ☆ と声をかけられれば かなり安心しますよ。  ということは 出発点として《信仰の成立》の時点があり――そしてそれは おおよそ一回きりであり―― その後の信仰の持続としての動態は 時間的な過程として生きることと結ばれている格好です。  出発点については 無根拠で メリット無しです。  その後の動態においては けっこうメリットを与えられます。  たとえば 仮りに無実なのに(もしくは 無実ゆえに)権力から咎めを受けたときに その申し開きをするのは あなたではなく聖霊だと言われます。メリット以上の力が与えられるようです。だって《無根拠》は 無根拠ゆえに絶対であるようなのです。  そのことを称して わたしたちはふたたびおそれに落ち入らせる奴隷の霊を受けたのではない。光を失うことはないのだと言われます。無根拠ゆえにです。  人間には分からないゆえにです。非思考ゆえにです。  つまり 信じているからだということですが この信じるも与えられたものです。わづかにこちらからも――出発点において――その受領証を発行したわけですが あとはすべてみちびかれる格好になります。いわば勝手に自由に振る舞うのですが それもこれもみなみちびかれているという格好に 事後的に見れば なります。  つまり言いたいことは 《信じる》は たしかに受領証を発行するという意志行為で出発したのですが いづれやがて信じるその非思考の場そのものをわたしたちが見たときには もう信じる必要はなくなります。だってすでに見ているものをもう信じる必要はないからです。  信仰は やがて要らなくなります。ただかつて動態的な過程においてあったその信仰にもとづく行為とその社会的な関係 ここにおける言わば人びととの関係としての愛は なお残ると言われています。愛は いつまでもどこまでもあり続けると言われています。なんちゃって。(つまり 将来すべきこととして臨むべきことがらを述べています)。

noname#116871
noname#116871
回答No.54

主の流れはすべての虚飾を離れる 勘違いから偽の流れは発生し 偽の流れは偽の流れと気がつかないから偽の流れをとどめる 末法もしくは終末期における新興宗教の乱立状態はこうして起こる そして 主の流れが決して言わないことを偽の流れは平気で言ってしまうという特徴がある                                       `

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回答No.53

>今回は キモイ文章から足を洗ったと思ったら また元にもどっちゃった。  ぴったりとくっついた ☆ と ★ を A と b に分けたらキモサも半減、気持ち悪くならずになんとか回答できそうですw(吐かずに済むかも、ていう。) >読んでも答えは変わらない。  で、実際に読んだの? >それでも やり取りの続き具合いから言って容易に分かるはず。  こちらは毎日やることもあるし、それよりも重要な仕事もしているし、書いたことをすべて覚えているわけではないので。bragelonne君とのやりとりはどうでも良いものらしく、すぐに忘れます。ぎゃくに覚えていなくてはならないものや興味のある人などについては良く覚えているようです。(しつもんしゃと質問については本当はあまり興味がない(失礼)。)  あと、No.51のお礼欄の1から5は何について説明したものか、念のため確認をしておきたい。

noname#116821
noname#116821
回答No.52

違うんだよなぁ その一字。。 その一句。。。 違いを峻別できないなかに 単なる入力ミスとは質の異なる 誤謬は起こる                                               ´

  • AXIS_
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回答No.51

> ☆ No.41と取り違えました。(なんでだろう?) そのくらい分かるでしょう。  こちらは一日中このサイトにかかりっきりのしつもんしゃと違って、時間をそんなに取れないんですよ。探すよりも、質問者自身の間違いに対する訂正を聞いてから対応したほうが時間の節約になるんです。 >A: 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ >b: にはならないのですがねぇ。  ◇No.50の回答文を良く読んでから返答しましょう。なんと書いてありますか? >A: 何らかの神体験はしたことがあるのか? >b: 心の窓をノックする音ではなかったけれど あたかもそのような窓が――開くというのでもなく―― どこまでもこの世界につうじているという感覚をおぼえたことがあります。非思考の場の発端としては それだけです。その感覚をさらにそこに覆いかぶさるように精神の胃袋に飲み込んだ。それが 神(むろん 代理としてのことば)を受け容れたという事件でした。  「そのような窓」の そのような とは一体何を指しているのか。最後の文章全体についても、違う表現で説明を試みてください。

bragelonne
質問者

お礼

 今回は キモイ文章から足を洗ったと思ったら また元にもどっちゃった。  質問者の責任を果たさなきゃならんか。  1. この《いま・ここ》の経験世界を超えたところに《非経験の領域》を想定する。なぜなら 《信じる》という言葉を じんるいはおよそ普遍的に使って来ているその現実の習慣にかんがみてである。  2. 非経験の領域は 人間の《身体=精神》に即して言えば 比喩として《心の窓》である。  3. 《信じる》という言語習慣を分析するならば おそらく神が――つまり非経験の領域のナゾの何ものかが――この心の窓を 或る晴れた日 ノックする。このおとづれを受け容れるならば その受容が《信じる》ということではないのか。  4. 一般に次の方程式で捉える。   ○ ナゾの何ものかからのはたらきかけ(ノックでなくてもよい)→   ・ これを聞き入れ受け容れる→   ・ 《信じる》の成立→   ・ この《信じる》は 動態である=   ・ 人間が時間的な存在であることよりその信じるの事件を大事にする    とすれば 持続することになり 動態となる。  5. 人間の存在〔をめぐる思惟〕のかたちは 構造的である。   ○ 《考える‐信じる》のふたつの領域があり それは時空間を生きると    いう意味で 立体的構造的である。   ○ 神についての《勘違い》は――偶像崇拝という一般的なかたちであると    言ったが 別の言葉で言えば―― この思惟・内省の構造が 平面的に    なることである。   ○ われ考えるゆえにわれありの《考える》がひとの心のすべての領域を    近代人の理性の顕揚このかた 占領してしまった。   ○ 知は力なりという意味での科学の知が 神に取って代わっているか    それとも ドラえもん(たぶん)かである。(後者は 想像の産物におい   て心が憩うという意味)。    ★ ◇No.50の回答文を良く読んでから返答しましょう。なんと書いてありますか?  ☆ 読んでも答えは変わらない。  ★ ・・・時間をそんなに取れないんですよ。探すよりも、質問者自身の間違いに対する訂正を聞いてから対応したほうが時間の節約になるんです。   ☆ それでも やり取りの続き具合いから言って容易に分かるはず。

  • AXIS_
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回答No.50

>★★ (回答No.23) ・・・偶像崇拝は勘違いではない、と言えるでしょう。 >☆ に対して答えたものです。  さて、No.23においてそういった記述は見られませんでした。 >★ 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ >☆ にはならないのですがねぇ。  なるほど、知っている・認識している というのではなく、あくまで知らない人間が「信じる」ということについてのみ論じているというわけか。 >★ 真の神(ほんものの神)とは何か? >☆ 表象し得ないと言って来ております。  何らかの神体験はしたことがあるのか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ さて、No.23においてそういった記述は見られませんでした。   ☆ No.41と取り違えました。(なんでだろう?) そのくらい分かるでしょう。  ☆☆(No.46お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この《信じる つまり個人の主観における信仰》から 集団としての組織宗教が出たと考えられますが だからと言って   ★ 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ   ☆ にはならないのですがねぇ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで問題にしているのは  《のみ》という限定です。これに対して  ★ なるほど、知っている・認識している というのではなく、あくまで知らない人間が「信じる」ということについてのみ論じているというわけか。  ☆ という応答をもらっています。  《知らない人間》だけを取り上げているのではないと言うべきですかね。《間違って知っていると思っている人》も含みますし 《ただ〈知っている〉だけで 非思考の場における神の受容・つまり 実際の受け容れをおこなっていない人》も含みます。  ★ 何らかの神体験はしたことがあるのか?  ☆ 心の窓をノックする音ではなかったけれど あたかもそのような窓が――開くというのでもなく―― どこまでもこの世界につうじているという感覚をおぼえたことがあります。非思考の場の発端としては それだけです。その感覚をさらにそこに覆いかぶさるように精神の胃袋に飲み込んだ。それが 神(むろん 代理としてのことば)を受け容れたという事件でした。

noname#155689
noname#155689
回答No.48

>> 非経験の領域を想定することでどういうメリットがあるのか? > こういう何だかおれは神が欲しいんだと言って この想定をするわけではないのです。 > 《かみ あるいは 信じる》という言語慣習は どうしてあるのか?  > ここから出発しているというのが 答えです。 ????? もう一度。 神について勘違いが多いのは 多くの人が神を自分のものにしたいと思っているからです。 > こういう何だかおれは神が欲しいんだと言って この想定をするわけではないのです。 ならば、多くの人にとってこの想定はメリットがない(自分の知りたいこととは関係ない)と 思われてしまいます。 なので勘違いは是正されません。 どうしますか?

bragelonne
質問者

お礼

 キュウさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ○ 信じる  ☆ という言葉は どういう意味か?  ○ たとえば わが子がそんなことをするはずがない。わたしは自分の子を信じる。  ☆ といった場合 これは げんみつには間違った語法です。《人間を信じる》ことは――経験思考でその人の信頼性やら人となりやらを考えて信用できるとか 信頼しているとか言えても 非思考の場としての《信じる》ではないのだから―― あり得ません。  ○ むさぼるなかれ。人を自分と同じように愛しなさい。  ☆ という信仰の命題は 人間の言葉で表現されるとそのときから経験思考の対象となります。つまりその妥当性を問うて《考える》わけです。したがってこのいわゆる聖句が 《信じる》の対象ではない。つまり その言葉が 神なのではない。  では《信じる》とか《かみ》とかは 合理的でもあって現実に成り立つと思われる用法は何かと尋ねれば これまで示した定義になると考えたわけです。  この言語習慣とは別に 最初から《神を想定する》といったことはしていないという意味です。何らかのメリットを求めてというのでもなく 語法の現実性を問い求めた結果だと考えるのが いちばんだと思います。  そのようである  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ならば、多くの人にとってこの想定はメリットがない(自分の知りたいこととは関係ない)と 思われてしまいます。  なので勘違いは是正されません。  どうしますか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 基本として この《信じる》の用法の解明あるいは《神》の定義を 言論の場で言い続けます。どこまでも・最後の一人が納得するまで 言い続けます。  それでも《勘違いが是正されなかった》なら どうするか? ――さじを投げます。  近代人の理性信仰あるいは科学信仰の影響を受けているものと思われます。狂気をよくみちびくことはむつかしいでしょう。《知性ないし理性は 至高のちからなり》とでも思いこんでいるのでしょう。まさに信仰 いや 似非信仰 つまり宗教ですね。その場合にも 信教・良心の自由は とうとばれなくてはならないからです。  

noname#116757
noname#116757
回答No.47

>神について勘違いが多いのは なぜでしょう? 誰が何をどう勘違いしてるか。。。 何 言っても分からない。。 なら 汝自身を知れ さすれば 汝が勘違い 何処にあるかが分かるやも知れぬ  幸いなるかな 心清きものは  。。。。 いざ 何。。 心清くなかった。。。 ふむふむ さもありなむ さもありなむ 珠玉の言葉とウンコを峻別できないのであるから 心は汚れとるはなぁ 何 心清いの意味が分からない。。。 困ったもんだな。。                                            ´

bragelonne
質問者

お礼

 ここぐるしいことがあったから 投稿してきたようだ。  おれにかかわりはない。  ほかをあたってくれ。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の書きなおし。  まちがい:ここぐるしいことがあったから 投稿してきたようだ。  ただしい:こころぐるしいことがあったから 投稿してきたようだ。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.46

> ◆ 崇拝している状態にあるかぎり――ということは 頭の中では そのたとえば《教義》 この教義がこの上ない至上命令だと思いこんでいるということなのですから それは―― 勘違いであると いちどは 明言したほうがよいのです。  いちど明言すれば、偶像崇拝で真の神に接していることになるという意味ですか? >◆ 神を非経験の領域に想定するということは その神と人間とのあいだには 絶対的なへだたりがあることになります。  「神を非経験の領域に想定するということ」をなぜするのですか?経験した人であればそのような想定をする必要はないでしょう。 >そのあと この絶対なる神が――絶対であるゆえ―― 相対としての存在をすべて覆うということが 思弁的には 帰結されて来ます。  絶対と相対はそれぞれ全く別なので、絶対 が、相対をすべて覆うということはないですね。絶対は絶対です。 > ◆ はい そうです。なぜなら 《信じる》は 非経験の領域を想定したあと これを人間の存在に即して《非思考の場》と言いかえた。  なるほど、「宗教を信じる」ということについてのみ論じている、というわけですね。 > おつかれさまでした。九合目くらいにまで来たでしょうか。  やけに上から目線なんだね。質問者はどこまでいっているつもりですか? >つねにほんものの神は控えていますから  真の神(ほんものの神)とは何か?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ いちど明言すれば、偶像崇拝で真の神に接していることになるという意味ですか?  ☆ 《いちど明言する》というのは   ★★ (回答No.23) ・・・偶像崇拝は勘違いではない、と言えるでしょう。  ☆ に対して答えたものです。哲学として何も言わずに放っておくことは出来ないという意味です。それとは別に  ★ 真の神に接している  ☆ というのは 主観でそのように感じているかどうかにかかわらず 偶像崇拝の場合でも ふつうに偶像を偶像と知ってほんとうの神を抱いている場合でも 一般的に言える状態です。  ★ 「神を非経験の領域に想定するということ」をなぜするのですか? 経験した人であればそのような想定をする必要はないでしょう。  ☆ 《神体験を経た人》も あらためてその非思考の場を他人に対して説明するときには 分析的にこの《想定》のことを確認することはいいことだと考えます。また 社会に生きるかぎりで・つまり社会に生きるのですから 必要だと言ってよいと考えます。そういう問い掛けまでは してよいと思うという意味です。  ★ 絶対と相対はそれぞれ全く別なので、絶対 が、相対をすべて覆うということはないですね。絶対は絶対です。  ☆ ま これは 派生する議論です。派生する見方として 絶対は相対を包み込むというわけですが たとえば《無限(=絶対)は 有限を含む》といった考え方です。《永遠(=絶対)は 時空間を覆う》という見方です。これは 最初の《想定》からさらに派生させた第二次の想定です。  ★ 絶対と相対はそれぞれ全く別  ☆ でありつつ 相対世界は 絶対(つまり 非経験の領域)によっておおわれるという第二次の想定です。無理はないと考えます。  ∞ ÷ 2 =∞ であるとき 一面としては 無限大と数の2とは いわば互いに次元がちがうと同時に もう一面では あたかも数の2は 無限大に含まれるという見方も成り立つのではないでしょうか。むろん 《 ∞ 》は 文字どおり《無限=絶対》であり 《2》は《有限=相対》です。  ★ なるほど、「宗教を信じる」ということについてのみ論じている、というわけですね。  ☆ この文章の意図がどういうところにあるのか よく分かりませんが 次のように書いております。  ☆☆ (No.41お礼欄) ~~~~~~~~~~~   ◆ はい そうです。なぜなら 《信じる》は 非経験の領域を想定したあと これを人間の存在に即して《非思考の場》と言いかえた。さらにしかも これは人間の心の窓というふうにたとえて捉えた。  この心の窓をおとづれる神 この神に対してのみ《信じる》という言葉は用います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《信じる つまり個人の主観における信仰》から 集団としての組織宗教が出たと考えられますが だからと言って  ★ 「宗教を信じる」ということについてのみ論じている というわけ  ☆ にはならないのですがねぇ。  ★ やけに上から目線なんだね。質問者はどこまでいっているつもりですか?  ☆ 《やけに》という印象を与えてしまったことがいけなかったようですね。すでにいちど登頂した者にとっては そういった確認をするのがふつうだと思ってのことでした。  そうでなければ 確かに上から目線を出さないと思うのですが さらにしかも確かにまだ登頂していない者が出したら なるほど《やけに》という印象を持たれるかとは思いました。つまり これは わたしの失敗であったようです。  ★ 真の神(ほんものの神)とは何か?  ☆ 表象し得ないと言って来ております。  いや ちょっと待ってください。《おつかれさまでした》は 上から目線ではないですよ。《九合目》は わたしの主観による推し測りです。

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     これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること   になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に   かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力   の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=   精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義   的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ   ている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人   間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 神は人の脳内に宿るもの

      神は人の脳内に宿るもの、決して既成のものとして他から与えられるものではありません。 その神を自らの人間精神に基いてデザインし、その神に本願を与え、その神に命を吹き込むのである。 ついでにその神にエンブレムを与えれば完璧である。 そしてその神を信仰すればよいのである。 他から与えられた神、既成宗教は全て偶像崇拝である。 イエスキリストも、アラーも、ブッダも、全て偶像である。 既成宗教なんぞクソ喰らえ、これでよいのではないか。  

  • 神様が信じられるようになるにはどうすればいいでしょうか

    なにか救いをもとめて、あるいは精神的な安らぎをもとめて、宗教にすがりたいと思っています。 ただし、わたしにとって信仰するに値する宗教であれば。 信仰するに値する…えらそうですが、どうしても教義に賛同できない宗教は信仰することもできないのです。 とりあえずこれくらいは満たしてほしい条件です。 ・納得できる教義がある ・あまり信者からお金を巻き上げようとしない ・男尊女卑な考え方ではない ・他者を排他しすぎない なにかおすすめはないでしょうか。 この本で○○教に感銘を受けた! とか こうすれば神様の声が聞こえるとか、なんでもアドバイスや意見を聞きたいです。 なにか救いをもとめて宗教を、というこの考え方がすでに間違ってると思われたらそうゆってやってください。でも打たれ弱いのでおてやわらかに… いまのところ、教会でお話を聞いても、勧誘をうけても、お寺でお坊さんの説教をきいても、宗教関係の本を読んでも、駄目でした。 神様や仏様を漠然と尊いと思うし、信仰の素晴らしさを感じても、自分はかけらほどの信仰心を持つことができません。 生来疑い深い性格ですし、およそ非科学的とされるものがあまり受け入れられない性格のせいだろうとは思います。

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神って。

    宗教を信じてる人には悪いですけどいないですよね? 人間が寄辺が欲しくて作った偶像じゃないですか。 実際、もしも神がいたとしたならテロや殺人も防げるわけですし。 それどころか神を信じすぎて頭がおかしい人たちが暴動を起こします。 しかも「神からのお告げにより・・・」って言ってる人は会った物的証拠でもあるんですか?