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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神について勘違いが多いのは なぜでしょう?)

神について勘違いが多いのはなぜでしょう?

このQ&Aのポイント
  • 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
  • また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
  • 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。

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noname#155689
noname#155689
回答No.49

>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  非経験の領域を想定するメリットは  この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。  少なくとも自分にとっては。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまいことおっしゃる。  ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~  そもそもの勘違いは  非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。  神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。  この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。  ★ ~~~~~~~~~~~~   > わたしは自分の子を信じる。  それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。  ★ ~~~~~~~~~~~~  ・・・  そう仰るだろうとは思ってました。  bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。  自己完結を目指されているのだろうな、と。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・

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その他の回答 (55)

  • AXIS_
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回答No.35

 まとめると、 「《神とは何かについて把握していない}}かいるか それにまつわるすべてのことは、非思考の場としての信仰におさまっている」  ということですね。なぜこのように考えるのかというと、 >☆ 信仰を持つ者として そのように捉えているという状態をそのまま伝えているという意味です。なぜかと問われれば そこまでしか知らないからとなります。そこまでは体験して知っている。  であると。  結局、そこまでしか知らず、そこまでの体験として言っているだけですね。つまり質問者も把握していないのでしょう。  従って、「神について勘違いしている」と質問者が言うのは欺瞞ですね。  しかし「自分が体験と非思考を通して知っている神が真の神である」と考えるなら別です。

bragelonne
質問者

お礼

 微妙にちがいます。主題をきちんと把握するなら わたしの《知っていることの不十分さ》の理由が分かります。  言いかえると 知っていることが不十分でも しっかりとした議論ができるという意味です。  なぜなら 《神》について・つまりは同じことで《人間が信じるとはどういうことか》についてという主題は どの一人の人間をとっても けっきょくその知識としては不十分なのです。  ぎゃくに言えば 不十分な知識(もしくは むしろ無知)の上に《神ないし無い神を信じる》という事件が起こるということです。  信仰の成立という事件が起きたあとでも 知識が質の差をともなって増えるというものでもありません。分かりやすいたとえとしては 神の代理を自認するひとであっても 神についての知識は どこまで行っても不十分だということです。  そういったあやぶい道を渡りながら それでも《信じる》という言語習慣について その人間的な自然本性に合ったあり方は どうであるのか。(合っていない場合は 勘違いであるはず)。あるいは この世には組織のもとに個人の信仰を扱うという慣習も現われている。これは 無効の行為であるということ。こういった主題について 何がしかの議論を提出することができる。そしてそれは 人間と社会にとって大事なことである。  ★ しかし「自分が体験と非思考を通して知っている神が真の神である」と考えるなら別です。  ☆ すでにさんざん神について偽札かほんものの紙幣かを論じて来ていますが 今度は 《真の神》という言い方には 抵抗をおぼえます。  神は 《真の神》しかあり得ません。ほかには その代理表現としての偶像があるのみです。偶像を神とすれば 偽札になります。  けれども 偽りの神というのは 存在しません。存在し得ません。  だから たとえ偶像を抱いていたとしても ほんものの神にかかわっています。だから  ★ 「自分が体験と非思考を通して知っている神  ☆ が――たとえ勘違いに落ち入っていたとしても その偶像をとおして―― ほかのひとが抱いている神とまったく同等なかたちにおいて ほんものの神なのです。真でない神がいて 真の神がいるというようなことは ありません。  そういう意味でも 知識が不十分でも 安心してゆったりとまた誰もが自由に堂々と 神を抱くことができるし 望むなら やはり自由に表現してひとと対話をすることができます。  世界はうまく出来ていますね。    こういった事情のもとにあります。

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  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.34

>☆ いま考えている《神 / 信じる》という事態のすべてです。 / はどういう意味ですか。  神 と 信じる と言う言葉を使って別の表現で書いてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.27お礼欄) ~~~~~~~~~~~~   ★ ということは、神とは何かについて把握していないということでしょうか。   ☆ まづ基本的な答えは こうです。  (1) すべては 非思考の場としての信仰におさまっています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《すべて》とは何を指しているのか? こういう問いですよね。  あらためて答えなおすとすれば こうなりましょうか。  ○ 《神とは何かについて把握していない》かいるか それにまつわるすべてのこと  ☆ どうでしょう? そしてあるいは つぎです。  ○ 《神》について考えること――それは もっと詳しく言い直せば 《神》を説明せよという問いに答えること―― そのすべて。および・または或るいは 人間が《信じる》ということはどういうことか? この問いの答えることのすべて。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の最後の一文に入力のまちがいがありました。  まちがい:この問いの答えることのすべて。  ただしい:この問いに答えることのすべて。

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  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.33

> ☆ 《物性》というのは 要するに《かたちのあるもの・表象しうるもの》ということですよね。その《背後》というのが ここではあいまいですね。つまり両義的です。 物性とは物質の性質のこと。もし、この世界が物質だけでできているとしたら、人間存在を説明できない。人間存在を説明するには、物質以外に何らかの働きがなければならない。その働きが精神です。 > ☆ ただしこの《理》は けっきょくのところ 神を《人間を越えた働き、方向性、意図》と捉えたその中身を 人間精神が把握しうるという前提に立っています。 中身を人間精神が把握するのではなく、中身の分からない、すなわち、得たいの知れないものを身近なもので、見立てただけです。幽霊を幽霊と呼ぶのと同じです。

bragelonne
質問者

お礼

 こばれろさん ご投稿はありがたいのですが どうもふつうの問い求めの道を逸れてしまっている部分が見え隠れします。  だってそうぢゃないですか。  ☆☆ (No.25お礼欄) ~~~~~~~~~~  つまり   ★ 神をも精神に見立てることは理にかなっている。  ☆ ただしこの《理》は けっきょくのところ 神を《人間を越えた働き、方向性、意図》と捉えたその中身を 人間精神が把握しうるという前提に立っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《理》について  ★ 中身の分からない、すなわち、得たいの知れないものを身近なもので、見立てただけです。幽霊を幽霊と呼ぶのと同じです。  ☆ とは口が裂けても言えない。《理にかなっている》というのは 精神の知解作用および意志行為がはたらき 合理性いかんを認識し妥当性いかんを判断するということです。《隠喩》の問題ではありません。  ★★(回答No.25) ~~~~~~~~~~~    > A. 神は 精神であるという勘違い。   精神とは物性の背後にある物性とは異なるもう一つの働きである。従って、人間のみならず、神をも精神に見立てることは理にかなっている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこれに従うなら 《人間は 神である》となります。これを経験合理性に反する命題だという前提で話をすすめています。  ★ 物性とは物質の性質のこと。  ☆ ならば 質料で出来ている身体の神経組織――つまりそれとしての質料(いわゆる物質)――の《性質》といえば そのはたらきのあたかも翻訳としての精神作用であるとなります。精神のうちの知解(その想像力)は 神経細胞のはたらき以上の思惟をこなすと思われますが それとても 神経組織のはたらきを基礎として成り立っています。つまり 物質の性質であることから 精神作用は始まっています。  ですから もし《人間は神である》という不合理な命題を避けるとすれば 神はこの人間存在についての《身体=精神》のはたらきを超えたところに想定するしかないはずです。  そこのところを問うています。互いにはっきりさせましょうと。  ★ 中身の分からない、  ☆ ではなく そうではなく 《中身が分かるか分からないかが分からない非思考の場》です。  ★ すなわち、得たいの知れないものを身近なもので、見立てただけです。幽霊を幽霊と呼ぶのと同じです。  ☆ この《隠喩》は分かりました。そのように隠喩で呼ばなければならないところのその何ものかは では この世界のどこに位置すると見るのか。これを問うています。  わたしの出したたたき台は この経験世界を超えたところ・すなわち非経験の領域。すなわち 非思考の場というものです。  この非思考の場は 人間にとって――しかしながら―― あたかも心の窓のごとくでありしかも或る種の動態としてそなわっているのではないか。神が 或る日その窓をたたく。これを迎え入れるなら それが 《考える》ではないところの《信じる》なのだと言っています。この神であれば 《幽霊を幽霊と呼ぶ》場合にたとえても大丈夫なはずです。  そこのところを どうもあいまいにしようとしていると 感じてしまうように話をすすめておられる。こういう率直な感想です。

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  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.32

>いま考えている《神 / 信じる》という事態のすべてです。  神 と 信じる の間にある / は、どういう意味でしょうか。  

bragelonne
質問者

お礼

 主題として挙げているという意味です。二つを挙げています。

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  • ztb00540
  • ベストアンサー率18% (119/647)
回答No.31

bragelonneさん、殆ど同意見と思います。 >たぶんそれは やはり仮りのもの(代理表現つまり偶像)になるのではないかと思うんですが どうで >しょう? 目に見えるものしか信じられない人の為に偶像があるのではないでしょうか。 > ★ 序でに、あらゆるところに神様の痕跡が残っているとね。 > ☆ ですから大きくは《痕跡》も 偶像(偶有的にして像となっている)だとは思います。 痕跡とは、動植物の命、鉱物の存在と考えています。 他全て同感です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 目に見えるものしか信じられない人の為に偶像があるのではないでしょうか。  ☆ あぁ そうなんですか。ぢゃあ 例のトマスのように 体の傷跡に触って確認するというタイプということでしょうか。あぁ そういうふうに見ればよいのですか。偶像も用を足すのでしょうか。ううーん。たしかに手段や途中の道は どうでもよいかも知れません。ううーん。  ズィーティービーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    偶像はまづ重要視するなんていうようなことはなかったです。そうですか。幅を広げなくてはいけないかも知れません。  ★ 痕跡とは、動植物の命、鉱物の存在と考えています。  ☆ これも偶像としてということですね。  ★ 他全て同感です。  ☆ ありがとうございます。  分かりました。まづは決着ですね。ほかの投稿にも注意してまいります。  それでは ひとまづでしょうか。

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  • ztb00540
  • ベストアンサー率18% (119/647)
回答No.30

今日は、こちらで頑張っていたのですね。 基本的に神は1つと信じています。 この宇宙、地球上の自然、他惑星の自然を作ったエネルギーと考えます。 そもそも、浅はかな人間は宇宙を理解できていないから目に見えるもの、何か感じるものを神としたと思いますよ。日本には神様が沢山居るじゃないですか。 その時、その時の人間の理性の範囲で作られたと思います。昔は太陽がなにで、月はどうして満ち欠けるか分からないし、お星様はなにかなんて知る由もない。更に宇宙が出来て約140億年とまだ新しいなんてね。最近分かったことなんですよね。 この理性を考えれば、その先は、宇宙を創造したエネルギーだと思っています。 序でに、あらゆるところに神様の痕跡が残っているとね。 この痕跡は信じる人のみに、何となく分かるものと思っています。 私?言うまでもないでしょう。bragelonne さん。

bragelonne
質問者

お礼

 ズィーティービーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  けっこういくつか質問していますよ。  ★ この理性を考えれば、その先は、宇宙を創造したエネルギーだと思っています。  ★ この宇宙、地球上の自然、他惑星の自然を作ったエネルギーと考えます。  ☆ そうですね。わたしの考えにしたがって げんかくに捉えるならば:  理性によって究極の何ものかを探るというところですよね。  たぶんそれは やはり仮りのもの(代理表現つまり偶像)になるのではないかと思うんですが どうでしょう?  こういうふうに神を わたしは説明として捉えます。  1. この世界は いま分からなくてもいづれかのときに科学の手段によって人間が理性において分かるようになるものごとである。経験合理性で説明がつく世界である。  2. この世界を超えたところを――つまり言いかえると 非経験の領域を――想定するとどうなるか? これは 経験世界の有限に対して 無限であり 相対に対して絶対であり 可変性に対して不可変性といった属性が与えられる。  3. おそらく神は この非経験の領域のことであるだろう。  4. この神は 絶対であるなら 擬人化して絶対者と呼ばれる。さらに 全知全能といった属性も与えられる。  5. このような属性において 《創造主》だという物語も 説明として添えられる。創造主であれば その創造のときの《エネルギー》を含むであろう。  ☆ と。  ただ エネルギーは 経験世界のものごとなんですよね。象(かたち)に表わせます。しかるに 絶対・無限・不可変性なる神は 人間には 表象し得ません。  ★ 序でに、あらゆるところに神様の痕跡が残っているとね。  ☆ ですから大きくは《痕跡》も 偶像(偶有的にして像となっている)だとは思います。  たぶん 目に見えるものを例に出して分かりやすく説明しているのかと思うんです。でもげんみつには わたしは上のように考えていますよ。  ★ 基本的に神は1つと信じています。  ☆ この数字の《一》ですが これも一つ二つの個々のものとしてではなく 《全体》だと思うのです。《神》といえば 神しかない。ただ その名前はいろいろに変わっている。しかも《無い神》 これとても《全体》としての神の別名であるのではないか。こういうふうにわたしは考えています。どうでしょう?

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  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.29

「偶像そのものを 後生大事にする片向き」がどれくらいあるかは知りませんが、なにかを後生大事にするという行為と(あなたが勝手に言っている)正しさが矛盾したとしても不思議ではないと思います。なぜなぜと聞くんですか?

bragelonne
質問者

お礼

 もうもうグ-さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ( a ) なにかを後生大事にするという行為と  ( b ) (あなたが勝手に言っている)正しさが  ( c ) 矛盾したとしても不思議ではないと思います。  ( d ) なぜなぜと聞くんですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ特には次の箇所ですよね。  ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに≫ 偶像そのものを ≪ 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ  (1) ( b )の《正しさ》について これは簡単に使えることばではないと考えます。(つまりこういうふうに《勘違い》とそうでない場合とを比べる場合にはです)。たとえばわたしも  ☆☆ (No.16お礼欄)~~~~~~~~~    ★ 正しい / 間違った   ☆ という言葉をこのように安易に使ってはなりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とすでに述べています。言いかえると 《妥当性があると多くの人の同意が得られる》といった意味でわたしは用いています。  (2) 次に  ★ ( a ) なにかを後生大事にする  ☆ というふうに表現を変えてはいけません。《なにかを》ではなくて あくまで《偶像そのものを》です。  (3) さらに  ★ ( c ) 矛盾したとしても不思議ではないと思います。  ☆ これは 精確な表現に直した( a )と同じく妥当な見方として言い替えた( b )とが《矛盾する》というのは ここでもやはりあくまで《神とは何か》をめぐってのことだという前提があります。  言いかえると端的に言って 《偶像を後生大事にする》ということは 偶像崇拝であり――つまりは 《むさぼるなかれ》という偶像をその文字どおりに鵜呑みにしてわき目も振らずに守り通すというのが 崇拝の事例なのですが―― これは もしそのことが神のこころにかなうことだと言うのであれば 勘違いであると言おうとしてです。それが 《なぜ》への答えです。  重ねて述べるなら むさぼるなかれという・神にかかわる命題を それだけでは神の真理の仮りの姿・つまり偶像でしかないのに そのまま至上命題だと受け取って実行するということは もしそれが神の心にかなうことなのだと言うのであれば 勘違いである。と言おうとしています。こう言おうとすることが 《なぜ》への答えです。  むろん おっしゃるように 神のことを勘違いすることも 何らかの偶像(要するにアイドルですね)を崇拝することも まったくひとの自由ですよ。  ただし神にかかわらせた議論においては 勘違いは勘違いだと言うのが 哲学だと思います。  アイドル崇拝の場合でさえ そのアイドルを神だとは――文学的な表現として言ったとしても 哲学思想としては――言わないと思います。

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  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.28

>(1) すべては 非思考の場としての信仰におさまっています。  「すべて」とは何のことを指しているのでしょうか。  また、「すべてが非思考の場としての信仰におさまっている」と考えるのはなぜでしょうか。 >(2) たとえばとして A B C D のような勘違いがあるにもかかわらず《神 / 信じる》という言葉はなくなりません。それは ほんものについての現実性があるからではないか。  神について述べた、あるいは神ではないものについて定義した「A B C D 」が 勘違いである と判断できるのはなぜでしょうか。  いずれにせよ、「ほんもの」の神は何でしょうか。勘違いではない神は、言葉でどのように表現できるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「すべて」とは何のことを指しているのでしょうか。  ☆ いま考えている《神 / 信じる》という事態のすべてです。  ★ また、「すべてが非思考の場としての信仰におさまっている」と考えるのはなぜでしょうか。  ☆ 信仰を持つ者として そのように捉えているという状態をそのまま伝えているという意味です。なぜかと問われれば そこまでしか知らないからとなります。そこまでは体験して知っている。  ★ 神について述べた、あるいは神ではないものについて定義した「A B C D 」が 勘違いである と判断できるのはなぜでしょうか。  ☆ そこにしるした推論によってのみ判断したものです。これまでにおいては まだその論理が破られていないという段階での判断です。  ★ いずれにせよ、「ほんもの」の神は何でしょうか。勘違いではない神は、言葉でどのように表現できるのでしょうか。  ☆ ひとつの側面として じんるい社会において《信じる》という言語習慣がおこなわれているということ(単純にそれです)。ひとつには それが非思考の場としてあると思われるということ。もしくはその非思考の場を飲み込む意志行為として成ったということ。  このような側面を合わせて わが主観において つまり《信じる》としての体験が成ったのであり そのようにわたしが認識しているということ。  これにもとづいて ここに信じる神は ほんものであると感じている。ただしその神が 何であるか。これは 分からない。説明のために たとえば《信じさせる表現を与えるちから》などと規定することはしますが 分かっているというわけではない。  つまりもう少し詳しく上のたとえを敷衍するならば いまこのように質問を受けて その考えるところを述べるということではあっても その過程の途中で こう考えればよいとか そこにはまだまだ関連する主題がいくつかあるとか 説明の仕方や表現のためにどういう言葉をえらぶかなどなどについて 或る種の仕方ではわたしをみちびいてくれる。  つまりは わたしが自分の人間としての能力でまかなう部分とそしてそれ以上に何ものかのちからがはたらいてその推論や表現の筋道をみちびくかに思われる部分とがある。  これが 《信じさせる表現を与えるちから》だと認められるように思う。  そこに勘違いがあったら 必ずそれを修正して表現することができると思っている。そういう状態もしくは情況が いまのわたしの現実だということをもって 間接的に神は わたしの中でほんものだという予感を得ている。こんな情況でしょうか。

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  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.27

>《神》は何でないか こういう切り口でなら妥当性のある説明ができるということです。それを A B C D として扱っています。  ということは、神とは何かについて把握していないということでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  するどく突いて来ます。いい質問だと思います。   ★ ということは、神とは何かについて把握していないということでしょうか。  ☆ まづ基本的な答えは こうです。  (1) すべては 非思考の場としての信仰におさまっています。   1-1. すなわち わが主観内面の問題であるに過ぎません。   1-2. 主観内面においては それでは 神を把握しているのか? 否です。そして主観としては 確信があるというものです。   1-3. 神とは 人間の能力によっては《表象し得ない》ものです。感性ないし予感として把握しているといえば 主観において そのとおりなのです。そして そこまでなのです。   1-4. ちなみに それゆえ 個人の信仰が 第一であり そのものとして完結します。   1-5. それゆえ この信仰を組織において 先輩後輩の関係によって優劣の順序をつけたりする宗教は 信教・良心の自由の侵害なのです。無条件にほぼ犯罪行為に準じる振る舞いだと考えます。   1-6. 繰り返しますが その組織において信仰度合いを どういう基準によってか測ってそれにもとづき権限関係をつくり 人の価値づけとしての位置づけを平気でおこなう。こういうような宗教は 非人道的であると断言しうると考えます。ローマ教会を初めとする宗教には 自己解体を勧めたい。   1-7. という提案をする程度には 《神とは何かについて把握して》いるわけです。と言っても その直接の答えでは やはり ないのです。  ☆ 情況証拠あるいは 違った観点からの情況証拠の補強として考えてみましょう。  (2) たとえばとして A B C D のような勘違いがあるにもかかわらず《神 / 信じる》という言葉はなくなりません。それは ほんものについての現実性があるからではないか。   2-1. その現実性を 人びとは理屈抜きに 感じているのであろうから。   2-2. 言いかえると それらの《勘違い》は おおよそ《偶像崇拝》という類型において発生しているとも捉えられます。すなわち 《仮りのもの》を《ほんもの》として錯覚しているということです。   2-3. 錯覚するということは たとえばコップの水の中に入ったストローが曲がって見えるようなもので 偶像を偶像として・錯覚を錯覚として扱えるようになれば ほんものが分かる〔と感じる状態に入る〕と思われます。   2-4. それにしても 古来ひとびとは この《神 / 信じる》という言葉を持ちえたということ自体が それは何故でどういうふうにしてかと考えるなら 不思議な事態であると考えられる。   2-5. つねにへびの誘惑にさらされているというのも現実だけれども 誘惑によって連れ去られて行くということは その元いた場があるということにもなる。言いかえると 現実は 偽札と本物の紙幣との入り交じって混在する情況だとも言える。なら そこに《ほんものの神とその信仰》は まぎれもなく存在するではないか。   2-6. 人びとは見よ。このなぞを。表象し得ぬほどにまぎれもなく存在する現実であるそのなぞのちからを。その香りを。   2-7. という程度には 神を把握しています。でもすべては このわたしも偶像としての人間の言語でのみ仮りの姿をえがこうとしているのみです。   2-8. 信仰とは 信じさせるものです。心の窓をノックした神のおとづれを受け容れたという《信じるとしての意志行為》に始まっていますが その動態においては 信じさせるものだとも考えられます。   2-9. ところが この非思考の場ばっかりは 他人から信じさせられて信じるということはあり得ません。仮りの偶像としてのあり方でなら あり得るでしょうが ほんものに関してはウソの信仰というのはあり得ません。自分の心で同意してでなければ 発動し得ません。うまい具合いになっています。   2-10. これも 神が現実だからです。人びとは見よ。この非存在にしてつねにどこにも遍在するわれらが存在のみなもとのちからを。その香りを。

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回答No.26

 ANo.7  狩っても狩っても、出てくる首ですが。  刈り取るつもりはありませんで、回答ではなく質問文の確認をし、タイトルの質問フレーズでの質問なら、こういうことになりませんか?  という私の拙い見解を提示しました。ぶらじぇろんぬさんの質問に対応しませんで申し訳ありません。  でも通りすがって、タイトルのフレーズをそのまま放置していくこともぶらじぇろんぬさんを彼岸に出した態度になるかと思い、ご質問のタイトルフレーズではこんな質問となりませんか、という提示をさせていただきました。  失礼の段どうかご宥恕いただけますように。  私質問への回答は無論、門は大きく開いております。お教えいただければ幸いです。  知能が少し足りなくなってきていますので、高度なご回答にはコメントができないかも知れませんが、どうかお許しください。  先のご質問への投稿にきちんと対応してくださり、なかなかこちらが更なる対応を致しかねていますが、こちらの知能がもう限界でして複雑高度な事は困難を極めます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★★ ただご質問の事柄は、小うるさく私なりに理解しようとすると、神に関する事柄についての<勘違い>ということかなと存じました。  ☆ 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  = 勘違いが神について多いのは なぜでしょう?  ★ 硬度なご回答にはコメントができない  ☆ ところです。     ★  先のご質問への投稿にきちんと対応してくださり、なかなかこちらが更なる対応を致しかねていますが、こちらの知能がもう限界でして複雑高度な事は困難を極めます。  ☆ このようなウワベのことがらで 十年一日あるいは ブッダが出てから千年ニ千年も一日で過ぎて来ています。哲学の虚数のようなものなのでしょうか 日本語表現の主流は。  だいたいみなさん 多神教が寛容であるとおっしゃる。やほよろづの神々の共存があるからだと。  どうでしょう。多神の共存というひとつのまとまり これを後生大事に守るというじつは一神教 なのではないでしょうかねぇ。  ただし ブディズムは 仏教としてこの日本教という一神教の傘下に入った。道徳宗教としてのキリスト教もたぶん 入った。普遍性をおびた個人の信仰を基礎とするクリスチアニズムは 入りえない。つまり 理解し得ないという結論をもって 入れることがない。  ひとえにこのクリスチアニズムを排除しようとするエネルギを保ちながら 多神教という名の一神教を守ろうとしている。  言いかえると 組織宗教であるキリスト教という一神教としてしか把握することはなく その一神教・対・一神教という構図のもとに 自己保存を敢行している。それが 日本教であるようです。  神は 同じなのです。名前がちがうだけです。多神は 早くいえば 分身です。だから いづれにしても 唯一神としての非思考の場をひとは持つのです。ここから 人間の自由が開けます。無神論のいだく《無い神》も この唯一神と同じ非思考の場のなぞです。  これが 人間の普遍的な存在形式です。

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     これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること   になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に   かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力   の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=   精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義   的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ   ている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人   間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 神は人の脳内に宿るもの

      神は人の脳内に宿るもの、決して既成のものとして他から与えられるものではありません。 その神を自らの人間精神に基いてデザインし、その神に本願を与え、その神に命を吹き込むのである。 ついでにその神にエンブレムを与えれば完璧である。 そしてその神を信仰すればよいのである。 他から与えられた神、既成宗教は全て偶像崇拝である。 イエスキリストも、アラーも、ブッダも、全て偶像である。 既成宗教なんぞクソ喰らえ、これでよいのではないか。  

  • 神様が信じられるようになるにはどうすればいいでしょうか

    なにか救いをもとめて、あるいは精神的な安らぎをもとめて、宗教にすがりたいと思っています。 ただし、わたしにとって信仰するに値する宗教であれば。 信仰するに値する…えらそうですが、どうしても教義に賛同できない宗教は信仰することもできないのです。 とりあえずこれくらいは満たしてほしい条件です。 ・納得できる教義がある ・あまり信者からお金を巻き上げようとしない ・男尊女卑な考え方ではない ・他者を排他しすぎない なにかおすすめはないでしょうか。 この本で○○教に感銘を受けた! とか こうすれば神様の声が聞こえるとか、なんでもアドバイスや意見を聞きたいです。 なにか救いをもとめて宗教を、というこの考え方がすでに間違ってると思われたらそうゆってやってください。でも打たれ弱いのでおてやわらかに… いまのところ、教会でお話を聞いても、勧誘をうけても、お寺でお坊さんの説教をきいても、宗教関係の本を読んでも、駄目でした。 神様や仏様を漠然と尊いと思うし、信仰の素晴らしさを感じても、自分はかけらほどの信仰心を持つことができません。 生来疑い深い性格ですし、およそ非科学的とされるものがあまり受け入れられない性格のせいだろうとは思います。

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神って。

    宗教を信じてる人には悪いですけどいないですよね? 人間が寄辺が欲しくて作った偶像じゃないですか。 実際、もしも神がいたとしたならテロや殺人も防げるわけですし。 それどころか神を信じすぎて頭がおかしい人たちが暴動を起こします。 しかも「神からのお告げにより・・・」って言ってる人は会った物的証拠でもあるんですか?