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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神について勘違いが多いのは なぜでしょう?)

神について勘違いが多いのはなぜでしょう?

このQ&Aのポイント
  • 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
  • また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
  • 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。

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noname#155689
noname#155689
回答No.49

>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  非経験の領域を想定するメリットは  この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。  少なくとも自分にとっては。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまいことおっしゃる。  ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~  そもそもの勘違いは  非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。  神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。  この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。  ★ ~~~~~~~~~~~~   > わたしは自分の子を信じる。  それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。  ★ ~~~~~~~~~~~~  ・・・  そう仰るだろうとは思ってました。  bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。  自己完結を目指されているのだろうな、と。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・

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その他の回答 (55)

noname#131234
noname#131234
回答No.15

ANo.12お礼に対し 分析主義が間違っているから、「神が存在する」ということは、いえない。 存在しないという想定をまず受け入れるべきです。 思考するということに対する想定の違いで、話をかみ合わせたくないということなら、 無心(神)論者を無心(神)論者として そこにおいておくということが必要であると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 存在しないという想定  ☆ この表現にまちがいがある。  ★ 存在しない  ☆ という命題(ないし判断)は 経験世界のものごとについて述べています。つまり《有る》か《無い》かです。どちらかですし どちらか一方であることに決まるものです。経験合理性にもとづくかぎりで 有るか無いかのどちらかに決まるという性質の命題です。  ところが 神は これが決まらない。決まるか決まらないかが 決まらない。だから 非経験の領域だとか 非思考の場だとか さんざん説明しています。  だから   ○ 存在しない(あるいは する)という規定  ☆ であり   ○ 非経験の領域を想定する / 非思考の場を想定する / 神については人間の理性等の能力によって分かるか分からないかが 分からないというかたちで想定する  ☆ のです。なぜなら そのほかの設定の仕方によれば すべて経験思考ないし精神の作用のおよぶ範囲におさまるというものだからです。

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noname#131234
noname#131234
回答No.14

ANo11お礼へのほそくもかねて >精神は 物質(質料)の運動を翻訳したものである。 精神と物質につながりがない。 という前提で話を進めるべきでしょう。 精神を運動として解釈しようとするとき、 必然的に、空間的・時系列的思考様式が、考えるプロセスの中に組み込まれてくる。 コレが誤謬の原因です。 つまり、点を説明しようとする為に、線及び空間と行ったさらに高次元の「もの」を援用してくる。 簡単なことをより難しく説明しようとしているのです。 神は、精神であるということは、神に、精分(エッセンス)を付加して、分析しようという事です。 エッセンスの分析は神の分析ではありません。 エッセンスの分析をしている人間は哲学者であり、哲学者は神ではありません。 エッセンスをもっているかいないかということは更に、「てつがくしゃのめんじょう」うんぬんとは かんけいのないことです。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ 精神は 物質(質料)の運動を翻訳したものである。  ☆ という見方に仮りに立つならうんぬんという話であるに過ぎない。そういう見方で応答するなら 話は早いという事例を挙げたのみ。  けれどもあなたは この唯物論に近い発言をしているようにもうかがえる。これは 決定版ではないようなので いまはまだ例示しません。今後その決定版が現われたら 例証しましょう。  ★ 精神と物質につながりがない。 / という前提で話を進めるべきでしょう。  ☆ それならそれで対処しましょう。  けれども 《物質と精神につながりがない》というときにも 《翻訳という作業を介している》と言えば つながりがあるとも言えるし ないとも言える。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  精神を運動として解釈しようとするとき、  必然的に、空間的・時系列的思考様式が、考えるプロセスの中に組み込まれてくる。  コレが誤謬の原因です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは あいまいな表現である。  (1) 《精神を〔その翻訳としてだが 物質の〕運動として解釈しようとするとき》とも読める。その場合には すでにおこなった例証による反論が有効である。  (2) 《運動》をただ単に 《記憶‐知解‐意志》の動態であるという意味だとすれば  ★ 空間的・時系列的思考様式が、考えるプロセスの中に組み込まれてくる。  ☆ は そのままを言ったものである。特に《知解》の行為過程のそれである。  (3) そのとき  ★ コレが誤謬の原因です。  ☆ というのは はっきりしない。次である。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、点を説明しようとする為に、線及び空間と行ったさらに高次元の「もの」を援用してくる。  簡単なことをより難しく説明しようとしているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは《点》だという説明を採らないが もし精神が点だとした場合 その場合にも この《点》が 人間の存在じたいがそうである時空間のこととしてひろがるというふうに捉えられる。つまり 精神は動態であり過程であると。つまり ひとが生きているということにほぼひとしい。  ここに易しいも難しいもないと言うべきでしょう。  ★ 神は、精神であるということは、神に、精分(エッセンス)を付加して、分析しようという事です。  ☆ たぶん違うでしょう。ただ  ○ 神は 人間の精神のうち 至上のものである。  ☆ と言っているのです。またそれだけのことです。何か別のものをつけ加えようというものではありません。もともと人間にそなわる精神のすぐれた徳といった意味合いでのみ言っているのです。また そういう場合を捉えて それを勘違いだと言おうとしています。  だから  ★ エッセンスの分析は神の分析ではありません。  ☆ そうですよ。そのとおりですよ。

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noname#116897
noname#116897
回答No.13

★ ~~~~~~~~~~~~~  さて、それは、まず、それ以外のやり方を知らないからでしょう。  何につけ、どこか自分の経験の範囲内で安定させたいという衝動がありますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは たとえば精神修養のようなものだと思っているということでしょうか? 信じるということをです。  神が神であるが如く神であることを人間が自分の経験の範囲内で把握することは不可能だけれども、何とかして捉えるなり、自分のものにしたいという衝動です。  その不可能を知りつつ継続した追求をすれば精神修養となるでしょう。その根底が信じるということ。 >問題は けっきょく窓をたたく音に耳を傾けるかどうか  自分が〈信じる〉をやっているのか、〈信じる〉がやってくるのか、その瞬間は、風にゆれる木の葉の如く。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  神が神であるが如く神であることを人間が自分の経験の範囲内で把握することは不可能だけれども、何とかして捉えるなり、自分のものにしたいという衝動です。  その不可能を知りつつ継続した追求をすれば精神修養となるでしょう。その根底が信じるということ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこの説明を定義のごとく見なすなら たしかに  ★ 自分が〈信じる〉をやっているのか、  ☆ のほうをえらんでいると思われます。つまり 神が窓をノックするのを待たずに ノックがあったと見なして(もしくは そういうシナリオを描いて) そのいわば神の道を走りつづけているというように受け取ります。そういう修行をしているというふうにです。  ★ 〈信じる〉がやってくるのか  ☆ これは微妙な表現のあやであるかも知れませんが やはり  ○ なぞの何ものかがやって来る。→その訪れを受け容れる。→その領収証の発行が 《信じる》という行為である。  ☆ 言いかえると これらの過程をちぢめただけとすれば 違いはありません。  ふたつをきびしく分けてみましたが 表現として外に出たものから受ける印象でその区分を決めたようにも思います。さて。

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noname#131234
noname#131234
回答No.12

いづれにしても その《精神》という概念において《神》を規定しまた実際に抱くことが見られる。つまりそういう表現が見られる。 勘違いではないかという疑問に答えています。 勘違いではありません。 神と精神を記号論的に比べてみると、妥当性という観点から、 神は精神的「神」と物理的「精」として「分析可能」であるというないようです。 存在しないものを存在すると仮定して分析するとすれば、精神としてみていくしか方法はないのです。 コレをやってはいけないというならば、 「神が存在しないという」か、「人間は無能であると述べる」か の「2つに1つ」しかありません。 大前提が「分析」であるというのが間違っているだけです。何の問題もありません。

bragelonne
質問者

お礼

 次の前提が違っています。  ★ 存在しないものを存在すると仮定して分析するとすれば、  ☆ すなわち この質問のばあいには――趣旨説明には書いていませんが これまでの回答No.1からの質疑応答で書いて来ているように――  ○ 神は《存在しないもの》とは前提していません。  ○ 神は《存在するかしないか 人間には分からない》非思考の場として想定する。  ○ そもそも神は 非経験の領域にのみ想定する。そうでなければ 《信じる》という言葉をひとは使わない。経験領域は むろん 《考える》の場である。  ○ 精神は 経験世界のもの・ことである。ゆえに 神ではありえない。  ○ あらためて言って 《信じる》という言語習慣をどう解釈するかで その信じる対象である神の定義は 決まってくるはず。いまのところ ここに述べている定義が もっとも妥当だと考えた上での質問である。  ★ 神と精神を記号論的に比べてみると  ☆ これは 別の議論になる。

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noname#131234
noname#131234
回答No.11

精神という表現が髪を規定するものではないという説明も出来ます。 神は精神的であると述べたとき、神がそれによって厳密的に規定されるはずもないのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ちょっと待ちなさい。   ★ 神は精神的であると述べたとき  ☆ というのは この質問にかかわっていない。そんなことを言っていない。

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noname#131234
noname#131234
回答No.10

A. 神は 精神であるは勘違いではない。    おぢぢ様の意見は 〔《知に根ざす信条》が《究極のもの》であると言われる場合のあるその〕精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 というものですが 知に根ざす信条》が《究極のもの》が、接点であり、もつ事の出来ないこと(物ではないこと)であるという批判です。 そのまま神であるというのは、おぢぢさまの解釈です。 批判の焦点は、おぢぢさまの解釈が不明瞭であるということです。接点と所有の間には、関係がなく それをつなげる根拠がないということです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★★ (回答No.9) ~~~~~~~~~~~~~~  世界精神と自己精神を考えてみてください。精神は精神であり、自己も世界も関係ありません。外と内という次元の違う概念を、精神という言葉でつなげていますが、  述べている内容というのは、世界のことであり、一方、自己の内容です。  精神はオブジェクトを貫く、論旨でしかないのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《オブジェクトを貫く、論旨でしかない》ところの《精神》ということばで 《神》のことを説明する文章に出会うことがある。その表現は 神について勘違いをしているのではないか。  なぜなら その精神ということを述べたのは 人間だからです。あるいは 述べるという作用は 人間のものです。  あなたの論旨がいささか傾いているところの唯物論をたとえに持って来て話せば 分かりやすい。  ○ 精神は 物質(質料)の運動を翻訳したものである。  ☆ こうだとすれば 次のように言いかえれば済むことです。  A‐5 神は身体運動を翻訳した精神のいと高きところなり。これは 勘違いである。なぜなら 身体運動は 人間の〔持つ〕ことであるから 人間が神であることになる。

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noname#131234
noname#131234
回答No.9

Mは、Nである。 といった場合、 おおまかに、 Mという局面を、想定すると、Nは、存在する。 Mは、形容すれば、Nである。 Mは、Nという属性を持つ。 (人間というカテゴリーがあるとすれば、一人の人間はそれに属する。) Mという話題に関しては、Nである。(存在の様態) という意味があります。 A1神は、精神である。 A2神は、精神的である。 A3神は、神である。 A4神は、神的である。 B1人間は、精神である。 B2人間は、精神的である。 B3人間は、人間である。 B4人間は、人間的である。 論点Aに対する批判1 神は精神であるといった場合、神が精神を持っているわけではなく、 更に、人間が精神を持っているわけでもありません。物理的に存在しないものを所有及び占有することは出来ない。 おぢぢ様の勘違いは、「占有」という行為を説明的に優先している部分です。占有が人生ではありません。機能が、人生です。 精神とは、(時空)局面の範疇に当てはまらない、繋がり(ノード)のことです。物理的表現としては点である。点は物理的に存在しません。精神的にだけ存在します。 世界精神と自己精神を考えてみてください。精神は精神であり、自己も世界も関係ありません。外と内という次元の違う概念を、精神という言葉でつなげていますが、 述べている内容というのは、世界のことであり、一方、自己の内容です。 精神はオブジェクトを貫く、論旨でしかないのです。 精神の究極は知に根ざす信条です。それ以上でもそれ以下でもない。 社会心理学/政治心理学といったところで、心理学の内容というのは共通していないのと同じです。 更に簡単にのべるとすると、 OXスクリーンという映画雑誌があるとして、 雑誌の内容として語られる映画に関して内容が統一されるはずがないし、 統一されたとしてもそれはあくまで編者の方針に則ったものであり、 恣意的な(もしくは積極的に見ても歴史的な)ものでしかありません。 精神を持つ、人間が神である。というのは、「持つ」という言葉が、原因となった誤謬を表す文章になっているのです。 「精神を持つ、人間が神である。」が誤謬であるから、「神は、精神である」が誤謬であるというのは、間違った論的解釈です。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ (趣旨説明)~~~~~~~~~~~~~~   A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 〔《知に根ざす信条》が《究極のもの》であると言われる場合のあるその〕精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なお  ○ 精神は たしかに質料とその運動の反映です。その一対一の反映を超えて想像を――たとえ編集するだけだとしても――作りだすこともある。  ☆ いづれにしても その《精神》という概念において《神》を規定しまた実際に抱くことが見られる。つまりそういう表現が見られる。それは 勘違いではないか? なぜならうんぬんという問いです。

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回答No.8

>神について勘違いが多いのは なぜでしょう? なるほど、こういった疑問が生じるからには「神」について質問者は正確に把握しているということですね。

bragelonne
質問者

お礼

 《神》は何でないか こういう切り口でなら妥当性のある説明ができるということです。それを A B C D として扱っています。

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回答No.7

 bragelonneさん、いつも素晴らしいご質問に驚きを持っております。  今回のもなんとか、コメントできないものかた思いましたが、普段何も考えていませんので只只ご回答を拝読するだけです。  ただご質問の事柄は、小うるさく私なりに理解しようとすると、神に関する事柄についての<勘違い>ということかなと存じました。  間違いかも知れませんね。  間違いかもしれませんので、私なりに、普段考えていることについて質問を起しましたことを報告申し上げ、でき得れば多くの方のお教えを賜りたいと存じます。  以下の質問です。  http://okwave.jp/qa/q6127394.html  どうかよろしくお願い申しあげます。

bragelonne
質問者

お礼

 首狩り族は 相手の首をとってそのたましいを自分のものにするということです。

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noname#116897
noname#116897
回答No.6

>わざわざ精神の想像力の範囲の中にどうして引き寄せ引っ張りこもうとするのか?  さて、それは、まず、それ以外のやり方を知らないからでしょう。  代理については、偶像と同質なところがあるでしょうけど、  そのままにしておく事ができないのでしょうね。  何につけ、どこか自分の経験の範囲内で安定させたいという衝動がありますね。  そこに 神についての勘違い の大きな原因があるのかもしれません。 >《信じる》とは どういう行為か? これが分からないのでしょうか?    行為というのか状態というんでしょうか、よくわかりませんが、自分の《信じる》については、自分の《信じ》ですから、明確です。 >この非経験のなぞの何ものかを受け容れるというのは けっこう思いきりが必要です。  理知的であればあるほど、そのハードルは高くなりそうですね。跳べないと否定にまわるということか。 >あっ それと そのほんもののをほうを精神の胃袋に飲み込むという(受け容れるという)行為も必要ですね。そう言えば。  そうですね。丸飲みですかね。  それにしても、神について勘違い甚だしい状況で、それを信じるとはどういう事かとも思いますが、 それは、その人の神ですし、その人の《信じ》であるわけで、その人に中に神が厳然と存在しているのですから、 それはそれで神々しいことではありませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 問い求めをつづけていただきありがとうございます。こんばんは 地勢ペンさん。  ★ それは、その人の神ですし、その人の《信じ》であるわけで、その人に中に神が厳然と存在しているのですから、 / それはそれで神々しいことではありませんか。  ☆ これは これとして そのとおりなのです。つまり《勘違い》は 自己表現・特には文章にして神を扱ったときの表現に現われると考えられるものです。つまり 表現されなければ分かりません。  そして 表現の自由は 批判の自由を含みます。  ★ 行為というのか状態というんでしょうか、よくわかりませんが、自分の《信じる》については、自分の《信じ》ですから、明確です。  ☆ これも まづ《自分の〈信じ〉ですから、明確です》の部分は 問題ありません。  《行為と状態》というのは 初めに心の窓をノックしてきたその音をつうじて神を受け容れるというときが《行為》であり その後の動態が《信じている状態にある》ことだと考えます。最初の賭けのような・清水の舞台から飛び降りるかのような決断が 信じるという行為です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  さて、それは、まず、それ以外のやり方を知らないからでしょう。  何につけ、どこか自分の経験の範囲内で安定させたいという衝動がありますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは たとえば精神修養のようなものだと思っているということでしょうか? 信じるということをです。  《信念》とか《信条》という言葉もあります。これは 精神修養だとか人格の陶冶あるいは倫理の実践といったカテゴリでしょうね。《信》が入っていますが 経験思考あるいは修行によって自分のものとするものでしょうね。つまり《信じる》とは別でしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 精神の胃袋に飲み込むという(受け容れるという)行為も必要ですね。そう言えば。  そうですね。丸飲みですかね。   ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ そうでもあるでしょうけれど いくら《賭け》と言っても 心で同意して飲み込むのだとおもいます。けれども 非思考ということは その《心で同意する》行為を超えています。《心で同意する》には どうなんでしょう 思考を超えた決断という要素はあるでしょうか? 心の同意も 結局は思考だとすれば やはり賭けになるでしょうか。さいころを振るわけでしょうか。  でも考えてみれば さいころを振るのは けっきょく心の窓を訪れた神を受け容れるか受け容れないか(つまり 無い神として受け容れるか)ですから その選択は 大したものにも思われません。問題は けっきょく窓をたたく音に耳を傾けるかどうか その判断に賭けがあるかも知れません。まぼろしだと思ってしまうかも知れないからです。  いづれにしましても 精神修養と信仰とを分けて考えることは――表現において・つまりはコミュニケーションにおいて―― 大事だと思うんですけれど。

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 神は人の脳内に宿るもの

      神は人の脳内に宿るもの、決して既成のものとして他から与えられるものではありません。 その神を自らの人間精神に基いてデザインし、その神に本願を与え、その神に命を吹き込むのである。 ついでにその神にエンブレムを与えれば完璧である。 そしてその神を信仰すればよいのである。 他から与えられた神、既成宗教は全て偶像崇拝である。 イエスキリストも、アラーも、ブッダも、全て偶像である。 既成宗教なんぞクソ喰らえ、これでよいのではないか。  

  • 神様が信じられるようになるにはどうすればいいでしょうか

    なにか救いをもとめて、あるいは精神的な安らぎをもとめて、宗教にすがりたいと思っています。 ただし、わたしにとって信仰するに値する宗教であれば。 信仰するに値する…えらそうですが、どうしても教義に賛同できない宗教は信仰することもできないのです。 とりあえずこれくらいは満たしてほしい条件です。 ・納得できる教義がある ・あまり信者からお金を巻き上げようとしない ・男尊女卑な考え方ではない ・他者を排他しすぎない なにかおすすめはないでしょうか。 この本で○○教に感銘を受けた! とか こうすれば神様の声が聞こえるとか、なんでもアドバイスや意見を聞きたいです。 なにか救いをもとめて宗教を、というこの考え方がすでに間違ってると思われたらそうゆってやってください。でも打たれ弱いのでおてやわらかに… いまのところ、教会でお話を聞いても、勧誘をうけても、お寺でお坊さんの説教をきいても、宗教関係の本を読んでも、駄目でした。 神様や仏様を漠然と尊いと思うし、信仰の素晴らしさを感じても、自分はかけらほどの信仰心を持つことができません。 生来疑い深い性格ですし、およそ非科学的とされるものがあまり受け入れられない性格のせいだろうとは思います。

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神って。

    宗教を信じてる人には悪いですけどいないですよね? 人間が寄辺が欲しくて作った偶像じゃないですか。 実際、もしも神がいたとしたならテロや殺人も防げるわけですし。 それどころか神を信じすぎて頭がおかしい人たちが暴動を起こします。 しかも「神からのお告げにより・・・」って言ってる人は会った物的証拠でもあるんですか?