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何故なお神を勘違いしたままでいるのか?
人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか? A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか? A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか? B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか? B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか? B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか? B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか? C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか? C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか? D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか? D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか? D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか? * ○ (神とは何か?) ~~~~~ §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 ~~~~~~~~~~~~
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わたしの回答は明確です。回答の前に質問者さんの整理された視点に加え、「人間の歴史」に対する視点を考える必要があります。さらに、「言語の魔力」についての理解もまた重要だと思います。わたしたちは生まれてまもなく「神は存在している」と口にする前に、わたしたちはまず生まれた環境によって現在ある宗教並びに信仰の対象となっている神の存在について教えられるのであって、それらは私たち自身が直接体験したのではなくて、かつてそこに存在していたと知らされていること。そこにおいてわたしたちが始めて神に遭遇し、それが何ものであったかと考えることになること。これらは一般的な歴史にたする思考方法や議論と同じ様相なのであって、大半は神に対する議論でない可能性があること。その上で、ここでは「神」というシニフィエだけが与えられ、わたしたちはそれに対するシニフィアンの不在に困窮し、これを探すの欲望にかられてしまうこと。言語というものが、普段はわたしたちの経験や体験というものを前提に機能しているはずだと思い込んでいて、通常はシニフィエとシニフィアンがワンセットである故に、それが突然片方の不在にあうことによって、シニフィアンの存在を埋め合わせようとし始めるある種の病のような欲望が生まれること。そしてこの欲望を根拠としたアプローチが理性的なものであるか、感性的なものであるかによって、語り口が違うだけのことであること。それらはまるで芸術作品のようなのであって、わたしたちは「勘違いしたまま」でいれるのだ、とわたしはその様に思います。
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- ok9608
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No.10です。繰り返し同じことを言っております。差異が明確にはなると思います。ご容赦を。 B氏は神は(1)非経験かつ非思考(思考回路外)の場面にのみあらわれるものであると主張します。他方O氏は(2) 経験かつ固定回路で神の存在を信じると発言しています。 BragelonneさんはB氏の場合を神としてみておられると思います。(2)からいくら(1)に近づいたとしても(1)にはならなく (2)は偽神ということになります。その通りでしょう。 ところで B氏の(1)神の存在を信じる を他者へ伝えたい あるいは反芻したい場合には 主には言葉を使用すると思います。それは『神の存在を信じる』とまず発声するのです。O氏の(2)神の存在を信じる を他者あるいは自分へ伝えたい場合も 同様に言葉を使用します。それも『神の存在を信じる』と同じく発声するのです。(1)と(2)の発声言語には差がないことになります。この場合他者にとっては 言葉が全てであってB氏もO氏も 『神の存在を信じている』と認識するのです。B氏の神は非経験領域であってO氏の神は経験領域である とはわからないのです。コミニケーションは言葉(言語)です。言葉(言語)という経験領域の手段を使う限り 言葉が同じなら同じ意味なのです。ここで重要なことは 神の存在を信じる という言葉なのです。この言葉が 定義に相当しているのかどうか 問われます。これは 結局 これ以上は 遡れない 言葉の一つと思います。神の存在を信じる は経験領域の定義語として使用していいのです。ヒラメキ神でも 突然神でも数式的神でも その言葉に矛盾がなく 言葉が同じなら同じ意味であって 非経験域と経験域の差は区分できないのです。 勿論B氏の非経験、非思考の神を自分ひとりでのみ瞬時納得していく場合はコミニケーションは必要ありません。O氏をみても偽神と思う だけで 他者との関わりがないのですから何も問題ありません。 そうではなく 言葉以外で 他者に伝えることは できないでしょうか。出来ると思います。感性に直接働きかける方法です。音楽であり、絵画であり、芸術の世界のように思いますが 相当に困難と思われます。しかし、ここにおいても言葉が他の手段に代わっただけで 経験、思考の神から同じように感性に働きかけることが出来ます。同じように感性で受け止めれば 言葉と同じく(1)と(2)の差はないのです。 おそらく 唯一の伝達方法は(1)と同じ非経験、非思考のヒラメキ場を他人に もたすことだと思います。がはたして可能でしょうか。かなり難しいと思います。万一可能であっても極少人数の納得コミニケーションによる神の共有化であって 言葉による神(B氏からは偽神と呼ばれますが)が多数を占めると思います。 結局、この議論は 神は言葉で定義できるのではないか という提示です。非経験、非思考の神からみると偽神と呼ばれるとしても。 以上失礼しました。
お礼
ok9608 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 違いは 次にあります。 ★ この場合他者にとっては 言葉が全てであってB氏もO氏も 『神の存在を信じている』と認識するのです。B氏の神は非経験領域であってO氏の神は経験領域である とはわからないのです。 ☆ すなわち 経験世界のものか非経験の場のことか 尋ねればよいわけです。どのように説明するかで――つまり たとえその心の内面においてどのようになっていようとも―― コミュニケーション論としては ことが決まります。少なくとも 定義が互いに違って来ます。 ★ コミニケーションは言葉(言語)です。言葉(言語)という経験領域の手段を使う限り 言葉が同じなら同じ意味なのです。 ☆ と見るのは 早計です。同じ《神》と言っていても・つまりあるいは同じく《神を信じる》と言っていても やはり定義上《非経験》か《経験世界》かは 違いますし それは 本人の表明によって決まります。 じじつ イラーハ(アル・イラーハ⇒アッラーフ)とエローホ(冠詞なしの複数形⇒エローヒーム)と――ちょっとどちらかが母音が訛っていますが――まったく同じ《神》という言葉を用いていても 互いにいがみ合います。 ★ ヒラメキ神でも 突然神でも数式的神でも その言葉に矛盾がなく 言葉が同じなら同じ意味であって 非経験域と経験域の差は区分できないのです。 ☆ とは成りません。なぜなら 《いわしのあたま》と名づけた神を持ち出す場合 それはあくまで最初に《非経験の場》を想定したというところから出発しているゆえに あぁ それも神の定義に合致すると捉えられるのであって もしそれが《経験世界》のものであり そこから出発しているとなれば まったくコトは別です。 つまりは 文字通り《鰯の頭》という言葉の意味内容が 神であるとなります。 それと同じように 《全知全能》という思考から出発してその末に神を持ち出す場合も 非経験の場から出発する場合の神とは違うものになります。《あらゆるものごとを知っておりすべてのものごとについておのれの意志を貫き得るチカラを持つ。つまり すべて思い通りにことをはこぶ》という思考内容 これは 非経験の場ではないからです。 すくなくとも定義は違って来ます。 神は 非経験の場の想定においても 全知全能という形容を属性として持つではないか? という反論に対しては こう答えます。 ひとつに 全知全能という概念内容として 神を受け容れるのではないということ。 ひとつに 属性とは 人間が神について推理したものであり 二次的な派生的な意味内容であるに過ぎないということ。つまり 神の本体ではない。本体は 非経験の場であり 人間にあっては非思考の庭であるのですから。 属性による神の把握は 言わばおまけとしての認識であるに過ぎません。おまけが本体に取って代わることはあり得ません。 ★ ~~~~ そうではなく 言葉以外で 他者に伝えることは できないでしょうか。出来ると思います。感性に直接働きかける方法です。音楽であり、絵画であり、芸術の世界のように思いますが 相当に困難と思われます。しかし、ここにおいても言葉が他の手段に代わっただけで 経験、思考の神から同じように感性に働きかけることが出来ます。 ~~~~~~ ☆ これは・つまり芸術という自己表現行為をつうじての・間接的な神の広報伝達というのは 総じてヒラメキと同じです。直感および直観ということであり インスピレーションのことです。 つまりは 言葉をつうじての場合とまったく同じです。言葉ないし思考をつうじての場合にも ふとその一瞬その経験思考や感覚すらも 途切れるということです。(途切れなくても その途切れない思考の過程を超えて現われます)。それが ヒラメキです。つまり非経験の場を初めに想定するという定義の仕方です。 質問者の定義の仕方が はっきりと違うところは 次の問題についても現われます。 ★ おそらく 唯一の伝達方法は(1)と同じ非経験、非思考のヒラメキ場を他人に もたすことだと思います。がはたして可能でしょうか。かなり難しいと思います。 ☆ 《難しい》のではなく 無理というものです。出来ないという答えを持つところが 基本的に言って違います。 ○ (神をめぐるコミュニケーション) ~~~ 1. 神をひとに伝達することと その伝達が成ることとは 別です。 2. 前者は 人間のすることです。表現の自由のもとに直接・間接に神をめぐる自己表現をおこないます。 3. ところが 後者すなわちその伝達行為が成就するかどうかは 別の話です。言いかえると 成就するのは 無根拠によります。つまり 神のわざによります。多少とも経験科学の言葉を使うなら 《自然史過程に従う》というかたちです。ですが 人間のわざではありません。人間は 神ではないからです。 4. それゆえにも 神は 非経験の場であり 人間にあっては 非思考の庭という動態です。 5. 全体について言いかえると もし神がこのような内容としての定義に従うものでないならば それは 経験事物とそのまま対応するところのモノゴトや概念やあるいは人間の精神などと同じものになります。 6. つまりそれなら わざわざ神という言葉を特別に取り上げ規定する意味はありません。ときどき人間の主観は勝手にモノゴトという言葉とほとんど同じ意味で《神》という言葉を使うことがあるのだ。と説明するだけの言語習慣である。となります。 7. ところが 人びとは おまえの神は おれたちの神とはどうも違うらしい。けがらわしいから 捨てたまえ。そうしないと 戦争をしておまえたちをほろぼすぞ。という論理が絶えないままです。 8. つまりは そのような信仰や宗教とは別の経済的な利害関係によって戦争を(あるいは軍事力にものを言わせての近隣窮乏化政策を)けしかける国家などの行為が その神の違いによる他者排除の論理を人びとのあいだに活性化させて 賛同を得てしまう。 9. ★ 〔* 思考の末の経験事物に対応するところの〕言葉による神(B氏からは偽神と呼ばれますが)が多数を占めると思います。 ☆ というそのような状態は じっさいに今ある情況であるわけですが 上の(8)のような社会現象を引き起こし得ると考えます。《神》の定義ひとつで 世界は真っ二つに別れ得る。こう見ます。 10. 世の中は 秩序ばかりではない。混乱も戦争も ときどきあって ふつうなのだ。という史観に立つのならば 経験事物に対応するという定義に成る神も 偽りの神ではないとなりましょう。 ~~~~~~~~~~~
補足
お礼欄のあと おぎないます。 もし経験事物の何ものをも神と呼んでよいという場合には けっきょくそのあらゆるモノゴトに神の霊がやどるといった内容が想定されているということのように考えます。 ですから その場合に神を信じると言えば それは 事物そのものについて言うのは無理ですから やはり背後の神の霊について言っているのだと捉えられます。 神の遍在という場合も その神は 聖霊なる神として《非経験の場》だと推し測られます。 さもなければ その神は クオークか何かの物質であるとなりましょう。 いわゆる唯物論の物質は 非経験の場であるか所謂るイデアとしてのモノなのだと見ますが――だから 唯物論と唯心論とはけっきょく互いに同じことだと見ますが―― いまの経験事物を自由に神と呼んでよいと場合にその神の内実と考えられる物質は あくまで経験事象として人が認識しうるモノであるとなるはずです。 けれども その量子か何かを人は《信じる》と言うのでしょうか?
- MOG777
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もし私が子供のときに仏像を見ていなければ、仏教に関心をもつことはなかったと思います。 表象は単なる入り口ではあるが入り口が無ければ奥の院も廃れるわけで、おおらかな気持ちも大切でしょう。 言いたいことは、他人は各人の縁でやればよく、必要以上のお節介は怠けや自己顕示欲の表れでしかないということです。
お礼
あぁ もぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 これでも 純然たる哲学です。 ちょうど直前のやり取りでも出て来たところですが 信仰の中身は一人ひとりそれぞれの問題です。ですから・と同時にそれでも 信仰やあるいはけっこう神という言葉も出て来ますから神やこれらを 哲学としてどのように議論に載せて行くか? そして一般に社会の中で同じく神や信仰のことをコミュニケートして行くか? これが おもな問い求めなのです。 むろん だからと言って 神とは何か? の問い自体についてないがしろにしてよいとは成りません。しっかりと 間違いがないかを吟味し その定義を固めて行こうというところです。 自慢ぢゃないですが いえ自慢ですが こういう問い求めは まだ世界でもないのではないでしょうか? ですから どの神どの信仰そして批判すべきどの宗教であるにしてもそれらにかんして 定義ないし公理から 基本的なことがらとして共通の認識を持てるならそれは鬼に金棒です。つまり 世界はそうとう風通しがよくなりましょう。 そのための作業です。 もしこれを成しておかないと いつまで経っても ★ 必要以上のお節介 ☆ が特に宗教の側から出されて来つづけることでしょう。 どうでしょう。
- ok9608
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No.9です。蛇足で恐縮です。 『非思考の庭は 思考に非ずであって 思考を固定した状態とは別』という点が重要です。 『クレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』はウソか本当か、を考えます。勿論 堂々巡りで答えは収斂しません。この堂々巡り からはなんら新しい発想は出てこなく 私は固定回路に入ったモノの一つとみます。何かを信じる ということはどうでしょうか。言葉と連動して 脳の思考回路が動くが 新しい発想はでてこない ことはクレタ人と同様であります。そこで固体回路に入ったものとみなしたのです。 非思考はどうでしょうか。脳の思考回路を使っているなら 固体回路という考えはあたっているように恩われますが、そうではない とbragelonneさんはお考えです。ではなにか 思考回路ではないところ で感じている ということではないか と思います。一種の感覚機能器官のようなところではないかと推察します。経験したことがない場面で突然 感じるということでしょう。そのことを他人に伝える あるいは 反芻する場合は 言葉が大きな手段となり やむ負えず 信じるという習慣的表現言葉を使用してだけである。だから 思考の末の固定回路とは まったく異なると。 100%ではないでしょうがbragelonneさんのお考え は理解しているつもりです。そのうえに そうではない新思考は生まれない 信じるという 固定回路の神もいると 思うのです。多様な神を 多くの人が持ち出していますが 勿論 言語習慣的表現としての多様な非思考の神もいますが 思考の末の多様な固定回路の神もいると思います。後者の思考の末というのは 論理的には存在証明はできないものです。だから 神としても いいと思うのです。 以上失礼しました。
お礼
ok9608 さん さっそくのご説明・ご回答をありがとうございます。 1. 《思考の末》ということは 有限世界から無限なる非経験の場を望み見ようとすることではないだろうか? それは・そこで得られるのは 無限への近似値であって・つまり可能無限であって 経験に非ずではなく 経験にある だと思われます。 2. けれども そうは言うものの非経験の場から出発したとしても けっきょくたとえばヒラメキのあとに説明のための思考経験を持つわけである。ゆえに いくら非思考の庭が成ると表現したとしても 《思考の末》の場合の神と――それが 存在証明になじまないものであるなら―― 同じものとなるであろう。 こういうご見解でしょうか? 3. また そのとき 《非経験の場》を受け容れるのは人間の経験行為であり しかもヒラメキさえ感覚器官としての神経細胞のハタラキであるからには 《思考の末》なる神としての固定回路と同じからくりであるだろうと。 4. おそらく 次のように例示されたその内容をめぐって なお疑問点が思い浮かびます。 ★ ~~~ 『クレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』はウソか本当か、を考えます。勿論 堂々巡りで答えは収斂しません。この堂々巡り からはなんら新しい発想は出てこなく 私は固定回路に入ったモノの一つとみます。 ~~~~~ ☆ 言わば《思考の末》なる神を受け容れる場合の はじめの思考過程であり それが固定回路をかたちづくっている例であると。これをめぐって考えます。 5. 先に言語表現という問題からの議論を片づけます。 たとえば《誇張》という表現方法があります。《〔すべての〕クレタ人は うそつきだ》という文字通りの意味内容のほかに それはただ大げさに言っただけだという手法がありまたそれとして聞き手も受け止めるという言語習慣があるわけです。 つまり 《クレタ人》という決めつけた表現にアソビを持たせていて 《ほとんどの》とか《過半数に届くかどうか分からないが 多くの》という意味だとかに解釈するならわしです。言語学なら いろはのいです。論理学では 通用しないでしょうか? という小さな反論は措きまして: 6. ○(α) (固定回路とは言うけれど――ヒラメキの問題) ~~~ 思考をすすめ思考を重ねた末に 問いと答えは堂々巡りに落ち入る。このような閉じられた固定回路におさまる。けれどもそこから ひょいと――《非経験の場》なる神のことをヒラメキとして持つならば―― 抜け出る窓が見えた。窓を開ける・開けないというよりは そこが窓であるということの直感において すでに固定回路は突き抜けたように思われる。 ~~~~~ ☆ こういった場合があろうかと見ます。これなら しかしながら 《非思考の庭》が成るというのと まったく同じです。《信じる》という行為です。 ★(α-1) 経験したことがない場面で突然 感じるということでしょう。 ☆ この要素を取り立てた場合に当たります。 7. そうでなく《思考の末》なる神を受け容れる場合は どうか? あるか? ★★(回答No.9) 切っ掛けはどうであっても 信じるという非思考の固定回路に入ることができるということです。 ☆ たぶんこの《固定回路》は (α)および(α-1)つまりヒラメキが抜けていると思われます。 ですが そうであっても(α)の場合でさえそのインスピレーションのあとには 《かみ》なら神という言葉を持つのだし それを使って何らかの説明をおこなうのだから けっきょく《思考の末》という場合と同じ成り立ちになるのではないか? 8. 問題は 思考の末なる神が 思考の過程として堂々巡りに落ち入ったその固定回路から自由であるかどうか。ではないでしょうか? その回路を突き抜けていないとおかしくありませんか? ですから たとえば ★ 全知全能の神 ☆ これは 《全知全能》という或る種の固定回路そのままの概念内容をもって 《神》とするなら それは ヒラメキではなく 非思考でもなく あくまで《思考》でありゆくゆくは《観念》となるものです。 ヒラメキの場合は この全知全能ならそれとしての観念を 前回示しましたように《非経験の場》からの派生概念として持つに過ぎないとなります。 9. いやいや 《全知全能》なる思考は どこまで思考を推し進めてみても その全容を人間の理性によっても感性によっても捉えることが出来ない。その意味で固定回路を成す。しかもそこから 思考をうっちゃって ふと《神》を 《思考の末》なる神として持つことはあるではないか? ――たぶん この場合 《思考回路》と《神》とは つながっていないというところが 鍵となるでしょうね。隔たりがある・切れているというのならば その場合の神は 思考の末と言えども 思考とは別だとなります。思考の延長ではないわけです。 10. ですから 問題は 思考の延長線上に《神》が思い浮かんだというのであっては まづいと思われます。なぜなら 思考とつながっているのなら その神は人間の思考力や想像力によってつくられた経験事物であるとなるからです。 11. ならば 《思考と非思考 / 経験と非経験 / 相対と絶対 / 有限と無限》 これらはそれぞれ互いにどのように切り結びしているのか? それぞれ後者が前者を覆い包むとみるのなら やはりつながっているのではないか? それはありません。ゼロに限りなく近づく値とゼロとは 根本的に違います。 12. では一体 何が 神にかんして《ほんとうの神》と《思考や想像の産物としての・つまり偽の神》とを分かつのか? 13. たぶん その真相を問うのではなく・必ずしもそれを問うのではなく ずるいようにしてでも その人の《神についての説明》が違うなら それは困るという問題だと思います。 《思考の末》というとき その《末》が神と地続きであるなら その神は思考の産物であるに過ぎないとなります。名前はどう呼ぼうとかまわないわけですが その説明内容が 問題になります。 14. ★ ~~~ ・・・勿論 言語習慣的表現としての多様な非思考の神もいますが 思考の末の多様な固定回路の神もいると思います。後者の思考の末というのは 論理的には存在証明はできないものです。だから 神としても いいと思うのです。 ~~~~~~~~~~ ☆ 《論理的には存在証明できない》場合なら すべて《非経験の場》としての神になるか? それは ★ 思考の末の多様な固定回路の神もいると思います。 ☆ という説明が まだあいまいであるということではないでしょうか? 神は固定回路から自由だという条件をつけて欲しいというのが いま言えることだと思います。まだお聞きしてみないと分からない。こうなると思います。 15. ★★(回答No.7) 信じる神は あくまで X+Z の世界である。宗教団体の唱える神は Y 領域であり 死せる神である。 ☆ これは すでに明らかになりました。生きた神が 非思考の庭が成るといった事例すなわち端的にはヒラメキによる神の場合のほかにあるかどうか? 《思考の末》なる神 これは 果たして どうであるか? おそらくまだ正直に申して ok9608 さんのご説明が必ずしもじゅうぶんではなく さらに待たれるのだと思いますが いかがでしょう?
- ok9608
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No.7です。bragelonneさん丁寧な解説ありがとうございました。 少し、説明させてください。 bragelonneさんの神の定義は『15. したがって 《信仰》とは 非経験の場を 人が経験行為として受け容れるというときに成り立つ《わが心における非思考の庭》であると考えられます』がポイントである と再認識しました。先に私は この文のなかで『人が経験行為として受け入れる』 は言葉になっている部分であり で変ではないか と誤解していたのです。 これに対して私が示したものは 非経験の場を人が経験行為として受け入れ非思考に至る場合であっても、いきなり経験行為から非思考に至る場合であっても 非思考=固定回路に注視したのです。つまり 非思考は信じる を含んでおり、神の存在を信じるは 信じるの一つとしたのです。神の定義は 経験の場であってよいわけで、例えば、書物からの引用の全知全能の神でもよいし、故人の霊であってもよいのです。定義は 人によるというわけです。切っ掛けはどうであっても 信じるという非思考の固定回路に入ることができるということです。要は非経験者であっても神の存在を信じる得ることができる のではないか というわけです。これが多種の神がでる主な理由ではないかと思います。 説明の本筋には関係ありませんが、notXについては 論理的には X+notX=全体(単位)と考えるか X(無限)とかんがえるかで 意味が変ると思います。 以上 失礼いたしました。
お礼
☆☆(No.7お礼欄) 1. 論理学ないし経験合理性を超えた何ものか――たとえば非経験としての或る場――を 論理学にもとづき説明するという問題になっています。ですよね? ☆ と書きながら どうも論理学としての扱いが わたしの場合 あやふやであったかも知れません。まづは この点について目立ってしまいました。 ok9608 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ただし やはりひっかかっていた点 つまり次のように触れた点ですが そこに食い違いがあったように思います。 ☆☆(同上) ~~~ 10. このように(4)の言語習慣について問い質すかたちの出発と そして次のように捉えられた出発とは 同じであるかどうか わたしはよく分からないのですが どうでしょう? ★ 全思考対象をY(分かっている。言葉であらわされる。)とX(分かっているか分かっていないか、分からない。非言語。非経験。)にわけます。 ☆ つまり わづかに一点 わたしの物言いはそれがあるとすれば すでに初めに《全思考対象》という規定をされているところに向かいます。でも《言語習慣》についての問い質しと同じことになりましょうか? ~~~~~~~~~~ ☆ しかもこれが・つまりそこにあるかに見えた食い違いが 別のところに現われていた。こう理解しました。 ★ 固定回路 ☆ についての理解があいまいだったかと思うのですが 次のような食い違いがありました。 ★ 神の定義は 経験の場であってよいわけで、例えば、書物からの引用の全知全能の神でもよいし、故人の霊であってもよいのです。定義は 人によるというわけです。 ☆ これは じつはまるきり違うと考えます。 ☆☆(同上) 15. したがって 《信仰》とは 非経験の場を 人が経験行為として受け容れるというときに成り立つ《わが心における非思考の庭》であると考えられます。 ☆ つまり 信じるの対象は あくまで定義として想定するものとして 《非経験の場》です。またそこから出発しますし この出発の仕方よりほかには定義の道筋はありません。 たぶんこれでよいと思うし これで行かなくては 定義が成り立たないと考えるのですが したがって 次のような内容は はっきりとした違いになります。 ★ 神の定義は 経験の場であってよいわけで、例えば、書物からの引用の全知全能の神でもよいし、故人の霊であってもよいのです。定義は 人によるというわけです。 ☆ わづかに それでも誤解が生じ得る点は 上に(10)項として挙げた引っかかりです。《ことば(ないし 言語習慣)》であれば それは《経験の場》に属すではないかと反論されるからです。 でも そうではありません。 ○ あくまで最初の前提(想定)は 《非経験の場》です。わづかにこの非経験なるものをも 経験事物としての言葉で表わすということになります。また仮りにでも 言葉で表わしておかねば 定義も説明もできません。でもそれは 《経験の場》のことではない。というわけになります。 ★ 故人の霊 ☆ については この言葉全体をちょうど《いわしの頭》という言葉のように《非経験の場》を仮りに表わすシルシとしてのみ用いれば 成り立つかも知れませんが ★ 全知全能の神 ☆ では だめです。なぜダメかと言えば 《全知全能》には 概念がはっきりと入っているからです。思考という経験行為を表わしているからです。 しかもややこしいことに この全知全能という形容の言葉は 《非経験の場》を想定し終えたなら それの――つまり神の――属性として 推理されて来ます。 ○ 非経験の場 ・〔人にとっての言語習慣として〕=神 ・〔多少とも概念化する〕→ 絶対・無限・不可変性 ・〔擬人化〕→ 絶対者 ・〔その属性。つまり《絶対》であるなら《相対世界》に対して〕 → 全知全能・創造主・至高の善・正義・慈愛・慈悲 というような事態になっているのだと考えますが いかがでしょう? つまり この順序は逆からは さかのぼれないと考えます。 無限は 有限の世界を覆い包むと考えられます。つまり想像としてそのように推理され得ます。けれども有限から無限に向かう場合は つねに近似値になることで終わるはずです。可能無限(つまり 非経験の場としての無限ではない)に終わると思います。 ★ 固定回路 ☆ は もしこの説明内容でよいとしてそれに従うとしたら 《非経験の場》を 概念化する過程にすでに入っているようですから 定義としては それを《非思考の庭》とは出来ないと考えます。 非思考の庭は 思考に非ずであって 思考を固定した状態とは別だからです。変動とも違うはずです。 もしこうだとしますと ★ これが多種の神がでる主な理由ではないかと思います。 ☆ ここも微妙なところです。《多種の神》は あくまで名前が多種であるということだと言わねばならないと思います。 ○ (多種の神) ~~~~ 非経験の場 ・〔人にとっての言語習慣として〕=神(意味不詳の言葉として) つまり エル(=神)(これから次が派生); イラーフ(定冠詞をつけて:アル・イラーフ⇒アッラーフ); エロヒーム(複数形) ・〔多少とも概念化する〕→ 絶対・無限・不可変性 つまり エフヱフ(われあり); ヤフヱフ(かれはあらしめる?); ゴッド(呼び出されたもの?); デウス=ゼウス(光り輝く・天); アミターユス(無量寿); ブラフマン(?) ・・・ ~~~~~~~~~~~ * ★ 説明の本筋には関係ありませんが、notXについては 論理的には X+notX=全体(単位)と考えるか X(無限)とかんがえるかで 意味が変ると思います。 ☆ 論理学の文法をやぶるかも知れませんが こう考えます。つまり まづ X の否定は―― X が非経験の場であるなら―― けっきょく言葉としてまた名前として否定するだけになるはずですから notX ではなく nonX にしようと思うのです。そこで ○ X も nonX も―― X が無限であるなら―― やはり無限であり 仮りに《 X+notX=全体(単位)》を持って来ても それも無限であり いづれも互いに同じ無限である。 となると思います。例の三位一体なる神についても 子の父も 父の子も 両者から発出する聖霊も みなそれぞれ《無限》であり 互いにひとしいとなります。個々の位格(ペルソナ)は互いにひとしく それら三位格の一体なる全体ともそれぞれがひとしい。 これが 神であり じっさいにも経験思考を超えています。非経験の場であり それをわが心に受け容れるなら その人間としての経験存在の内に《非思考の庭》が――しかも 動態として――成るという見方です。 そして この神を否定しても・ということは 神が存在すると言っても存在しないと言っても 一向に神としては 痛くも痒くもないことになります。X = nonX になるはずです。これをいかなる言葉で呼ぼうとも かまわない。 ですから いわしのあたまでもよいわけです。全知全能でもよいわけですが その概念で あたかも神は人間の精神なり理性なりのこととして受け取られては困るというのみです。人間の精神が認識しうるものだと取られてしまっては こまります。 いやぁ 微妙ですね。勘違いや取り違えているところなどありましたら さらに お知らせくださいませ。
かなり長文ですな… ご質問の理由は至極単純… 全ては布教が楽だから… 宗教とはいえビジネスです。 具体的で無い神(自然崇拝など)は布教がしにくく当然ですがビジネスとして成り立たない… 宗教がこの様な地場の自然崇拝的な宗教から多神教を経て一神教に変化していったのはすべてが布教の容易さと、お布施の集めやすさ…つまりはビジネスです。 キリスト教でさえ初期には偶像崇拝は禁止されていたのですから…
お礼
はなのどあめさん こんにんちは。ご回答をありがとうございます。 まぁ そうなんでしょうね。 ★ 宗教とはいえビジネスです。 ☆ つまり《勘違い》しないなら 商売にならないのだと。 でしたら 勘違いしない前の《神》や《信じる》の定義があるということにもなりますね。 その点は 賛成してもらったのでしょうか? 言いかえると いわゆる宗教に対する批判は すでに終わっている。と言ってよいでしょうか? あっ でも《神とは何でないか》だけではなく 《神とは何か》についても たたき台を用意しましたので そのあたりについても書き込んでくださるとありがたいです。 でもありがとうございました。
- ok9608
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神とは何か につて参考になれば。 §B(bragelone)さんの神考 これはBさんの神考の私の理解です。 全思考対象をY(分かっている。言葉であらわされる。)とX(分かっているか分かっていないか、分からない。非言語。非経験。)にわけます。思考対象に人間存在についての思考Zを重ねます。論理的にはAND(かつ、+)をとります。Yは言葉で表すことができ Y+Z(Bさんの記号ではY-Z)も勿論言葉の世界です。Y+Zは 神について言葉で説明されている部分も含んでいます。無神についてもY+Zの領域です。Xは 非言語であって あえてイメージすると分かっているか分かっていないか、分からないという説明になる。X+Z(Bさんの記号ではX-Z)は非言語の人間存在 について領域である。信じるとは 理論ではないことなので この領域に入るのです。信じる の延長に ヒラメキとか、神が存在しているのです。神はX+Zの世界であってY+Zの言葉で表される神は印象を表記しているだけであり 神そのものではない。あるいは 死せる神とみなせる。信じる神は あくまでX+Zの世界である。宗教団体の唱える神はY領域であり 死せる神である。 あと意味がよくわからない表現があります。 ・notX=X notXはXの否定と思われます。すると 分かっている場合か或いはと分かってない場合になり、=にはならない 思えるのですが。 ・X-Y-Z(論理的にはX+Y+Z)のは信じる言葉の神ということのように思えますが、論理的にはそのような領域はないと思われます。 ・notX-Y-Z(論理的にはnotX+Y+Z)は信じない言葉の神であって論理学的神のように思われますが 今の場合 死せる神であって 神ではない ということを強調しているだけ と思います ・∑Y-Z(論理的には∑Y+Z)はX、notXに対して開かれている とあります。非言語、非経験領域の対象であっても印象の言語トライは許されている という意味でしょうか。 以上のように理解しました。 Bさんの主張は 神は非経験領域であり、非言語であり、説明のできない信じるという領域であって それより他の説明神は 神ではない と理解しました。 §もう一つの固定回路の神考 (1)はじめに 無神論者は『神は存在しない』ことを信じている ということで『何かを信じる』の一つとして 神を信じる派と同様に扱っている場合があります。もっと言えば 神だけでなく 何事も信じない は『何事も信じない』を信じる ことで『何かを信じる』の一つであって 信じるという点で同様になると言われるのです。不信=信 です。これは『ある』と『ない』が同時に存在するという論理の排中立に違反しています。なぜそうなるのか、信じるという言葉が 全てを対象としているからではないかと思います。論理的に思考するなら 信じるは 信じないは含まないと定義しておかなければいけない。参考までに 同様なことばは 例えば 愛する とか 思う とかの全てを対象としている言葉に当てはまると思います。 (2)何かを信じる とは 信じている間は 何も疑念は起きなく 新思考は生まれないと思います。思考は脳内の思考回路で行われると思います。そこで 信じるとは を考えますと 一定の思考回路を巡回するだけの閉ループになっており 何も新思考は生まれない状態と思います。固定思考回路ということです。信じる内容により回路長には多少の長短はあると思いますが。なぜ固定回路になるかですが 何かの切っ掛けがあると思います。例えば、思考の果てに堂々巡りの思考になる場合があります。定義をしないと始まらない場合です。この定義を正しいと信じる場合です。あるいは 論理的にはおかしいことであっても 何回も同じことを刷り込まされる場合です。幼児体験などです。 (3)神の存在を信じる場合も 信じるの一つですから 何も新思考は生まれない固定思考回路です。その切っ掛けとして brageloneは非経験、非思考の領域から 突然 降りてくる と言っておられます。これを否定するつもりはまったくありません。合理的に理解しようと思っているだけです。非思考ということは思考回路ではなく、本能のように経験がなくとも 行動できるモノなのでしょう。感性に直接 外部から働きかけてくる言葉では表されないモノと思います。私は経験ありませんが おそらく その切っ掛けは 不可思議なモノで言葉としては表されないが 神の存在を感じさせるモノが脳内に発生するのでしょう。その後 神の存在を構造化しようが 単なる一過性の経験として記憶するか はありますが いずれにしても神の存在を信じる ことになっていると思います。あと 何人かは 定義か 刷り込みから神の存在を信じる固定回路になっていくのではないでしょうか。刷り込みには宗教団体のモノもあると思います。 (4)信じない場合には 思考回路はどうなっているのでしょうか。固定されない新しい思考回路を通るのです。公理(定義)から始まる演繹構成の論理学では どうなっているのでしょうか。演繹思考が継続されている間は 変動回路なのです、が 演繹が無くなれば固定回路と思われ信じると同じになります。古典ユークリッド幾何学をマスターした場合などは 該当すると思います。数学の先生などに この手の固定回路型を見受けます。物理学(自然科学)の場合は 演繹で構成されたものは仮説の段階であって 実証確認をしないといけません。確認中は やはり変動回路ということになります。神の定義から始まる 論理学も同様で演繹が継続される場合は変動回路です。 (5)固定回路状態は 脳内の新しいことは出力するというエネルギー的なものは必要なく いたって安定状態になっており 心の平安に繋がっていると思われます。神を信じた心の平安、あるいは阿弥陀仏を信じ涅槃寂静の世界に繋がっていると思います。しかし 固定回路状態になると正義の殺人も辞さないという問題にも繋がります。他の問題は新しい発想に繋がらないことです。創意工夫が閉ざされた状態であります。だから24H 固定回路に浸ることは相当な問題と思います。固定か変動かのバランスが重要と思われます。 §一つの結論 Bさんの神であっても 固定回路の神であっても 他の神であっても 10人10色 一向にかまわない と思います。 以上失礼いたしました。
お礼
ok9608 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 1. 論理学ないし経験合理性を超えた何ものか――たとえば非経験としての或る場――を 論理学にもとづき説明するという問題になっています。ですよね? 2. 《絶対》ないし《無限》という説明方法が いちばん論理的にはふさわしい。こう思われます。 3. たとえば ★ ・notX=X notXはXの否定と思われます。すると 分かっている場合か或いはと分かってない場合になり、=にはならない 思えるのですが。 ☆ X が《無限》でしたら X の否定も やはり無限である。となりませんか? これが 《神》です。 4. とは言うもののです とは言うものの この問い求めは いたって素朴な出発点に立っています。むしろ 言語習慣としての問題です。 ○ 《かみ》という言葉を 定義してください。もしくは 《信じる》とは どういう行為なのか? ここから踏み出しただけの問いです。 5. ところが 《かみ ないし 信じる》を定義するなら 神が経験世界のモノやコトであれば それは モノゴトに属すものであり 信じるも 大きくは思考や想像という行為に属することとなります。ですから これを避けた。 6. 避けて 《非経験なる場》を想定した。これが 《かみ》であると。 7. しかも今度は 人間という生身の存在がおこなうことであるからには 《信じる》とは この《非経験の場を 経験行為として受け容れること》だと見ました。 8. しかも《かみ》は それとしての言葉であるからには この言葉じたいは ふつうの経験的なモノゴトと同じように 概念となり 特にはモノゴトの感覚とは切り離された観念ともなる。 9. そこからさらに いろんな想像も生まれ 思考としても扱われて行く。神学が形成されるでしょうし さまざまな神体験に到るまでの神のお話が 信憑性に関係なく 語られて来ます。 10. このように(4)の言語習慣について問い質すかたちの出発と そして次のように捉えられた出発とは 同じであるかどうか わたしはよく分からないのですが どうでしょう? ★ 全思考対象をY(分かっている。言葉であらわされる。)とX(分かっているか分かっていないか、分からない。非言語。非経験。)にわけます。 ☆ つまり わづかに一点 わたしの物言いはそれがあるとすれば すでに初めに《全思考対象》という規定をされているところに向かいます。でも《言語習慣》についての問い質しと同じことになりましょうか? * 11. X は 非経験の場として――しかも 《わたし》としての主観を超えて捉えようとするなら――まったくの想定によって成るモノであり そのしるしです。 12. X‐Z は この単なるシルシである X を それでも人間 Z が 言葉として 受け容れた。ということを示します。 13. 受け容れなかった――つまり それは言葉には属しているがただの発音であるに過ぎず 意味はないと見た――という場合 それでも《非経験の場〔であり 多少とも意味のある言葉としては 無限〕》であるのですから この X というシルシじたいは受け容れたことになります。言いかえると X を否定して 受け容れた。つまりは X の否定は X と同じモノです。 14. すなわち ナゾの非経験の場と人間との関係 X‐Z は 具体経験的には 有神論 X‐Z と 無神論 nonX‐Z とに分かれて現象すると帰結されます。これが 《信じる》という言葉の基本的な中身であると。 ・ハイフン(‐)は 先行する項目に後行する項目が相い対するときの態度をしめし その態度の全般を言っています。 15. したがって 《信仰》とは 非経験の場を 人が経験行為として受け容れるというときに成り立つ《わが心における非思考の庭》であると考えられます。人が 生きているなら この非思考の庭も 心において時間過程を持ちます。信仰という動態です。 16. したがって ここまでの基本の中身にかんしては その信じるのあとにいろんな思考として持たれるようになるところの ★ 固定回路 / 変動回路 ☆ は 定義ないし公理の範囲には入れなくてよい。つまり 思考であり 信仰ではないわけですから 入れてはいけないと考えます。 17. 言いかえるなら 信仰のあと信仰によって得られた世界観について記した文章(つまりいわゆる聖典)やそれについての神学 これらを 教義としてあたかも侵すべからざる至上命題であるかのごとく抱きまた人にも抱かせる活動としての宗教は すでに《信仰》から離れています。 * 18. ご議論の一つひとつを直接に取り上げずお応えして来ましたが どうでしょう。少し個別にあたってみます。 19. ★ ~~~~ § 一つの結論 Bさんの神であっても 固定回路の神であっても 他の神であっても 10人10色 一向にかまわない と思います。 ~~~~~~~~~~~ ☆ ですから 神が《10人10色 一向にかまわない》というのは (13)の有神論か無神論かのいづれかに属するものであればとなります。 19-1. 《固定回路の神》は すでに信仰の域を逸脱しています〔=(16)〕ので 論外です。宗教における――観念の・にせの――神です。 19-2. 《Bさんの神》は このように信仰を定義して明らかにし得たその推進力としてキリストの神ですが それは 実際のことを言えば 人がたとえ同じキリストの神と言っていても 具体的に同じであるかどうかは 分かりません。それでよいという見方です。定義に合っていれば コミュニケーションが取れる。ゆえに かまわない。という見方です。 19-3. くどいように繰り返すなら 神ないし信じるという場合には 有神論か無神論 いづれかに限るとなります。げんみつには その形態のみとなります。それよりほかの神談義は 議論を直接には促し得ない文学の問題であるとなるはずです。 19-4. ★ 固定回路状態になると正義の殺人も辞さないという問題にも繋がります。 ☆ これは 定義にもとづく神の問題に発しているとしても 信仰ではなくなっています。信仰 X‐Zi と宗教《 Y (≒ X‐Zi ) ‐Zj 》とを峻別すべきだと考えます。 19-5. ★ あと 何人かは 定義か 刷り込みから神の存在を信じる固定回路になっていくのではないでしょうか。刷り込みには宗教団体のモノもあると思います。 ☆ おっしゃるとおりだと思います。 20. 《無い神》を心に受け容れる場合: ★ 公理(定義)から始まる演繹構成の論理学では どうなっているのでしょうか。演繹思考が継続されている間は 変動回路なのです ☆ つまりこの場合は いわゆる科学する行為である。いわば教義化せず規範化しない神学および哲学としての科学的ないとなみなのではないでしょうか? でもこの《変動回路》も もはやすでに《信仰》ではありません。《 Y (≒ nonX‐Zi ) ‐Zj 》。
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神の定義はそのような趣旨です。理論物理学が哲学とよく似ているといわれる所以でしょう。 和を以って・・・などの言葉は現在のお坊さんなどの説法ではその場のくうきにあわせるではなく、よりよい方向に導く為に使われていると思います。 宗教の歴史を見てもわかるように宗教上の戦争(殺人など)などありますが、その背景には正しく理解していない一面があるからだと思います。その教義を説いてもすべての人は理解できないのでたとえとしての教えなどがあったりします。ですから、よりよい方向に導くためには経典などの教えにほかの真理をつくような言葉を引用しても問題ないと思います。 情報交換といっても専門家ではありませんので、これくらいでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 ★ 神の定義はそのような趣旨です。理論物理学が哲学とよく似ているといわれる所以でしょう。 ☆ 了解しました。 ★ 和を以って・・・などの言葉は現在のお坊さんなどの説法ではその場のくうきにあわせるではなく、よりよい方向に導く為に使われていると思います。 ☆ 分かっているつもりでいるのですが つい聖徳太子となると 誇張して言えばわたしは 殺気立って来ます。 たとえば 次のような質問をしていますし そこでは 太子の政治的な狡猾さや《和を以って》の条文のそらぞらしさを唾棄したいという思いを露骨にしめしています。 ○ 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。 こういった点に焦点をあてたいと思って 前回では御託を並べました。 【Q:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6633903.html ○ (上記質問の趣旨説明欄) ~~~~~ 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・ ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α) この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。 参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。 ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▲ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に 《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと 雖も止まず》。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに》 (万葉集 三・426) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。 (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。 権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか? ~~~~~~~~~~~~~~ またまた ひとこと多いのであったかも知れません。 ご回答にあらためて感謝申し上げます。
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私には質問者や回答者のような文書力はありませんしよく読みませんでしたが、神とか宗教についてかたられているようですので私も私の意見を言わせていただくと 神の存在 理論物理学をもってしても我々の宇宙がどうしてできたかがわかってきた位で、物理学上の概念的外側がどうなっている のか誰にもわからず、宇宙には知的異性人の存在確立は高いというだけでその証拠は何もありません。したがって神の存在を否定も肯定もできません。 宗教(仏教)についての私の考え 仏教の言葉だと思うのですが、「和を以って尊ぶとす」とかいろいろ現代でも十分人々を納得させれる言葉を2000年も前の人が考え、哲学とした。すごい事だと思いますし、それが2000年もの間人々の信仰のたいしょうにされている理由の一つだと思っています。また、社会的にも法律に規定されていないモラルを教えている一面もあり高く評価できます。
お礼
るくじふぐふどぅささん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 さっそくですが 質問者からの反論です。情報交換です。 ★ 神の存在:・・・したがって神の存在を否定も肯定もできません。 ☆ このあと もう一歩踏み出していただけませんか? つまり では《信じる》という言葉 この言葉が――《考える》つまり経験合理性にもとづく経験思考とは別の意味内容をもったひとつの概念として―― じんるいのどの民族つまりどの言語にあってもその言語習慣として持たれています。じっさいに使われています。 この《信じる》という言葉の定義をしておくべきではないでしょうか? あるいは別の言い方をすれば ★ 和を以って貴しと為す ☆ ――これは 我が国の聖徳太子のことばですが――という命題を大切にするときと同じように 《信じる》という言葉も 実際の生活日常において実践されているということだと思われます。中身のない言葉だとは思われません。 つまり ただ定義をしておけば事足りるというのではなく そうではなく 人が・つまり《わたし》が 信じるというわけです。あるいは 信じないという実践になるわけです。 つまりは ★ 神の存在:・・・したがって神の存在を否定も肯定もできません。 ☆ このあと もう一歩踏み出していただけませんか?――となります。信じるとの関係においてです。 《肯定も否定もできない》でおしまいとするのではなく じっさいに人びとがそれぞれ《信じる》ことをおこなっているのなら その対象(ないし非対象)は 神(ないし 無い神)なのですから 一歩踏み込むことは 必要だと考えます。 だとしたら こうなりませんか? ○ 神とは ~~~~ 1. その存在について人間は肯定も否定も出来ない。 2. ただし 肯定するにしろ否定するにしろ そのいづれかとして人間が《想定》することになる。 3. すなわち 具体的なかたちとしては 有神論と無神論 これらふたつのいづれかとなる。 4. すなわちそれが 《人間としてわたしが信じる》という実際のあり方なのであり そのときの《有る神》か《無い神》かそのいづれかのものを 神と言う。 ~~~~~~~~~ ★ 宗教(仏教)についての私の考え ☆ たとえば 《空》という見方としての理論があります。あるいは《無我》説です。つまり ブッダにはです。 いくら尊いおしえを説いたとしても そのおしえも 諸行無常だというものです。すべて移ろい行くものごとであると。すべてのものごとは 仮りの現象である(諸法無我)と。 ただし 話は まだ終わりません。 そのあとそのように《空》だと見たものが そうは言っても・そして仮りにであったとしても 実際に現象しており それはそれとして現実であるとも見ますし 言います。はじめに 色即是空であり そのあと そうは言っても 空即是色でもあると。色つまり かたちとなって現われているのだと。 そのあとさらに これらふたつの側面ないし過程させたふたつの観点 これらをさらに総合する見方もあるというわけです。(中諦)。 しかも そのおしえが 絶対ないし無限としての神なのではない。 ――以上のように捉えますが 基本的に同じ主旨だと考えます。上の神の定義と違ってはいないと思うのですが どうでしょう? なお ★ 和を以って貴しと為せ ☆ は 聖徳太子が 仏教を摂り入れるかどうかで論争を引き起こしたとき 摂り入れるという崇仏派となって それに相対する廃仏派の物部氏らを けっきょく殺し合いの末にしりぞけ そうして権力を握ったそのあと 十七条憲法として起草したものです。その次に《逆らう事なきを旨とせよ》とも言っています。 要するに これで邪魔者は消えた。おれたちの天下だ。どうぢゃ。文句あっか? というための条文です。 おれたちに対しては逆らうな。おれたちは おまえたちに逆らう。つまりは おれたちの都合のよい和を以ってとうといことと心得よ。と言っています。 世の中は おれたちお二階さんの言うとおりに しかしそれは脅しや権力を行使しての見せしめによって和を保つのではなく 何となくその場その場のクウキによって――つまり ひとはすべからくこのクウキを読みたまえというみことのりによって―― 社会秩序を作り出そうと言っています。じじつ そのように歴史もいとなまれて来ています。 と考えますが いかがでしょう?
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bragelonneさん、こんばんは。 >「吾人は、すべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーションを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。」 ・・・自由闊達に思うところを述べ合いながら、「ふーん、そんなふうに違うんだね」と認め合う、 信教の自由ということと思います、けれど。 (参照)「信教の自由と、その(法律的(内在的))限界」
お礼
くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ ・・・信教の自由ということと思います、けれど。 (参照)「信教の自由と、その(法律的(内在的))限界」 ~~~~~ ☆ どうしてだろう? ● 憲法12条: この憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。 ☆ ということを言っておられますか? でも そういうことでしょうし。 ★ ・・・自由闊達に思うところを述べ合いながら、「ふーん、そんなふうに違うんだね」と認め合う、 ☆ しかも 信仰の類型としては みなけっきょく同じだと見るものです。なぜなら 《かみ》がけっきょく同じひとつのものだからです。名前が違っているだけです。 というお応えでよろしいでしょうか?
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> C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか? 神は不可知な存在であることを認めると、信仰のモチベーションは低下するでしょうね。 いるのかいないのか不明な状態で信仰を継続するためには、神が説いたといわれる内容の合理性か信仰の結果という実績への納得が必要でしょう。
お礼
もぐとりぷるせう゛んさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。知恵としても知識としてもあるいは境地としても それぞれにおいて 神をおぼえることはあり得ますよ。 ただ 自分から自分のハカライとチカラで神を知るということは むつかしいのでしょうね。 まづ初めには 信仰の信仰たるゆえんについて――非思考が非思考であるゆえんについて―― パウロはこう語っています。 ▲ (コリント前書1:18-20) ~~~~ 18: 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 19: それは、こう書いてあるからです。 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さをむなしくする。」 (イザヤ書29:14) 20: 知恵のある人はどこにいる。 学者はどこにいる。 この世の論客はどこにいる。 神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もっと雲をつかむような・あるいはまた ぶらじゅろんぬのヤツめ ついに気がくるったかというようなくだりをも引きましょう。 ▲ (コロサイ書 2:3) 知恵と知識の宝はすべて、〔十字架上の〕キリストの内に隠されています。 ▼ ( 詩編 111:10) ~~~~ 主を畏れることは知恵の初め。 これを行う人はすぐれた思慮を得る。 主の賛美は永遠に続く。 ~~~~~~~~~ たぶん そのためにわたしたちは こころがきよめられなければならなかった。なぜなら 《こころのきよいひとは さいわいである。かみをみる》。 たぶん 予感をあたえられるのでしょう。はっきりとした《表象》が得られたわけではないはずです。 ★ 神は不可知な存在であることを認めると、・・・ ☆ この《不可知》という言葉については――表現の問題ですけれど―― このあとにも ★ いるのかいないのか不明な状態で信仰を継続するためには・・・ ☆ と表現されているように じっさいには ○ 不可知というよりは 《非知》なのだと見ます。 ですから 《知り得るか知り得ないかが分からない》というのですから ちょっと勇み足で言えば 人によっては・その主観内のこととして 《神を見た・神を知った》と思ったということがあるかも知れません。それは 言ってみれば 自由です。またそのあとの自己表現において その《こころのきよさ》をも 文章において自己の文体として表わして行ければ それでよいわけですから。 ★ ・・・神が説いたといわれる内容の合理性か信仰の結果という実績への納得が必要でしょう。 ☆ 先に引いたコリント前書のつづきは 次のようです。長く引用してみます。 ▲ (コリント前書1:21-31) ~~~~ 21: 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。 それは神の知恵にかなっています。 そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、 お考えになったのです。 22: ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23: わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。 すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、 異邦人には愚かなものですが、 24: ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、 神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25: 神の愚かさは人の賢さよりも賢く、神の弱さは人の強さよりも強いからです。 26: 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。 人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、 能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 27: ところが、 神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、 力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 28: また、神は地位のある者を無力な者とするため、 世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を 選ばれたのです。 29: それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 30: 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、 このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、 義と聖と贖いとなられたのです。 31: 「誇る者は主を誇れ」(エレミヤ書9:24) と書いてあるとおりになるためです。 ~~~~~~~~~~ ☆ 何だかわざといやがらせをするような中身になったかも知れません。 たぶん ★ 信仰のモチベーション ☆ をいつも高めていなくてはならないというものでもなく 或る日或る時 ふと――夜の盗人のごとく――おとづれましょうよ。そのうちに。
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あーこーぶさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。鍵語は ○ 主観 ないし 《わたし》 ではないでしょうか? つまり わたし・ぶらじゅろんぬは どう思うか。あるいは あーこーぶさんご自身は どのように考えるのか。 ★ それらはまるで芸術作品のようなのであって、わたしたちは「勘違いしたまま」でいれるのだ、とわたしはその様に思います。 ☆ というようにすでに本筋としての回答を明らかにしていただいたのですが そのとき――しかもそのとき なおです なおそのとき―― ご自身は 《勘違いしたままでいてよいのか?》 そこのところを どう思いどう処理されているのか? ではないでしょうか。 というよりも――話は ここから先にあると思われるのであって それは―― すでに《勘違い》だと見ているのなら あいまいなかたちとしてでも じつは《正解》をわたしたちは知っているということです。神という普遍性の主題であるなら 実際にはそういうことになっているのでしょう。 このことが しかも《主観》において どう扱われているのか? もしそれでも勘違いしたままでよいとするなら それは たとえばそれぞれの宗教や宗派がその《芸術作品》のごときおのおのの神学をもって勘違いを再生産して行くことになるけれども それをどう処理するのか? 放っておくのか? ではないでしょうか。 ★ 通常はシニフィエとシニフィアンがワンセットである故に、それが突然片方の不在にあうことによって、シニフィアンの存在を埋め合わせようとし始めるある種の病のような欲望が生まれること。 ☆ わたしたちそれぞれが主観において もし必要とあれば《神》に代わるあたらしい言葉を見つけ出せばよいのではないでしょうか? 病いと言う前にです。 ★ そしてこの欲望を根拠としたアプローチが理性的なものであるか、感性的なものであるかによって、語り口が違うだけのことであること。 ☆ といった全体の情況の中にあってその情況を見て では《わたし》は どう考えどう処理しどのような《わが神》を持つに到るか? つまり言いかえるなら 理性によるにしろ感性によるにしろ それらを総合してさらに《わたし》は どう哲学として捉えるか? ではないでしょうか。(むろん その前に《わが神》を明らかにしておのが信仰を持つに到ることが先行しますが この質疑応答の場では 哲学として世界全体をどう見るか これがおもな主題ですから)。 ★ ~~~ わたしたちは生まれてまもなく「神は存在している」と口にする前に、わたしたちはまず生まれた環境によって現在ある宗教並びに信仰の対象となっている神の存在について教えられるのであって、それらは私たち自身が直接体験したのではなくて、かつてそこに存在していたと知らされていること。 ~~~~~ ☆ さらにつづけて引用しますが: ★ ~~~~ そこにおいてわたしたちが始めて神に遭遇し、それが何ものであったかと考えることになること。これらは一般的な歴史にたいする思考方法や議論と同じ様相なのであって、大半は神に対する議論でない可能性があること。 ~~~~~~ ☆ おそらく それでもじつはわれわれ人間でも《神は何でないか?》については 明らかにすることが出来る。と思われますし そう言わねばなりません。そのことは 趣旨説明の前半に質問者としても つづりました。少なくとも 哲学としては 明らかにしうることは しかるべく明らかにしていることは 大事だと思います。 そして 質問者つまりわたしの場合 さいわいにも《神は何であるか?》の問いについてもそれとしての答えを得ました。その内容には普遍性があるとまで自負しています。 つまり そういう哲学のいとなみが ただ単なる《芸術作品》をかたちづくるような神学が重ねられるそのかたわらで 一たん明らかにされたなら これをたたき台にして大いに――密林を切り拓くかのようにしてでも――知の作業は起こして行かねばならない。のではないでしょうか? ★ さらに、「言語の魔力」についての理解もまた重要だと思います。 ☆ これは ひとつに《神は何々ではない》という定義においては 魔力が減じられ得ます。 もうひとつに 《神は何々である》という規定においては その定義を《想定である》という前提におけば やはりその《魔力》を突き抜けて広く晴れ晴れとした生活世界がじつはその密林のただ中に開けていたと知ることになる。のではないでしょうか? 《生まれる前からすでに〈かみ〉という言葉があって 〈わたし〉の心つもりとは別のところでとさえ言いたくなるようなかたちで遣われていた》という問題も おそらく解き放ち得たのではないでしょうか? ★ わたしの回答は明確です。 ☆ とおっしゃる視点 ここからあと一歩――あと ほんの半歩―― 以上のように伸ばしてみられては いかがでしょうか? と質問者ながら お応えいたします。どうでしょう。