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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神について勘違いが多いのは なぜでしょう?)

神について勘違いが多いのはなぜでしょう?

このQ&Aのポイント
  • 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
  • また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
  • 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。

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noname#155689
noname#155689
回答No.49

>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  非経験の領域を想定するメリットは  この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。  少なくとも自分にとっては。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまいことおっしゃる。  ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~  そもそもの勘違いは  非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。  神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。  この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。  ★ ~~~~~~~~~~~~   > わたしは自分の子を信じる。  それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。  ★ ~~~~~~~~~~~~  ・・・  そう仰るだろうとは思ってました。  bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。  自己完結を目指されているのだろうな、と。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・

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その他の回答 (55)

noname#155689
noname#155689
回答No.45

> これでほとんど全部の疑いに答え得たと思うのですが > いかがでしょう? これを多くの人が容易に理解できれば 神に関する勘違いは是正されるでしょう。 でも容易に理解できないと思います。 表層的には文章の分かりにくさがあると思います。 > じつは心の窓もそこをたたくノックの音もすべては比喩です。 > 何のたとえかと言えば非経験の領域に想定してみるその神のです。 > 神は 思考や理性で捉えるものではない。こう言っています。 > 心で・つまり意志行為として受け容れるものだと言っています。 > 何を受け容れるのか? 非経験の領域にある何ものかをです。 神は人間の想像力や理解力を超えた存在だから 人間に出来るのはその存在を信じることだけだ。 簡単に言えばそういうことではないですか? 「受け容れよ」とか「感じよ」と言ってしまうのは かえって誤解の元になると思う。 言えるのはだた「信じよ」ではないか。 文章の問題よりも多分もっと難しいのは なぜ信じるのか?の動機づくりではないかと思います。 神は思考や理性で捉えるものではない、と仰いますが 非経験の領域の想定というのはやはり思考的な作業ですよね。 ただしその作業をする前に「非経験の領域の想定するぞ!」という意思が 不可欠です。 何のために「非経験の領域の想定する」必要があるのか? 現代人に好まれる動機付けをするなら 非経験の領域を想定することでどういうメリットがあるのか? そのメリットを共有しあえないと 勘違いは是正されていかないと考えます。 > あたかも神を自分のものにしたといった判断が > 伴なっているように思われます なぜなら多くの人は神を自分のものにしたいと思っているからです。 そういうニーズがあるわけです。 ニーズに応えようとすれば浸透しやすくなる。 勘違いが多いのは浸透に注力してきた宗教が多いからでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 取り急ぎご返事します。(これから 野暮用があります)。  ★ ~~~~~~~~~~~  これを多くの人が容易に理解できれば  神に関する勘違いは是正されるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ありがとうございます。これだけでも 天地の違いがあるかと思います。だってオウム真理教と同一視されかねなかったのですから。  ★ 表層的には文章の分かりにくさがあると思います。  ☆ そのような分かりにくさというのは 日常生活における感覚との比較対照が大事だということではないかと思います。  いま取り敢えず〔というのもヘンですが〕 次の AXIS_ さんとのやり取りは 参考になると思います。  その到達点は  ○ 回答No.41でのやり取り  ☆ です。時間がゆるせば 最初からの《攻防》の軌跡をごらんになっていただきたいと思います。  戻ってきてさらに考えるところがありましたら 補足欄にても書きこみます。  不一にて。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~  神は人間の想像力や理解力を超えた存在だから  人間に出来るのはその存在を信じることだけだ。  簡単に言えばそういうことではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~   ☆ そうですね。まだ 二点があいまいだと思います。  (1) 《人間の想像力や理解力を超えた存在》は この経験世界の中にも 超自然の現象などとしてあると思ってしまうかも知れない。《存在》といっているので そうは誤解しないかも知れないとしても。  (2) 《信じる》というのは どういう行為か? これが案外はっきりしていません。《強く思う・念じる・疑わない》と言うのとは違うことをしっかりと言わなければなりません。つまり《思う・考える あるいは言いかえると 表象しうるものごととして取り扱う》ことではない人間の心の動きのようなもの――心の明けもしくは伸び あるいは志向性――ということ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  「受け容れよ」とか「感じよ」と言ってしまうのは  かえって誤解の元になると思う。  言えるのはだた「信じよ」ではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (3) 上の(2)とつながっていて いつの日にか非経験のものだと感じられる声を聞いたときに これを受け容れること これが《信じる》だと定義しています。また受け容れたという事件を人生におけるあたらしい出発点として その受け容れた状態を保つこと これも《信じる》〔という動態〕です。  言いかえれば こちらから《信じていく》のではないわけです。おそらく神のノックすることをこちらから呼びこむのでもないと思います。そういう思いや願いを抱いていても構わないのですが そのことによって信仰が成り立つのではない。    (4) つまり 人間が信仰をこしらえるものではなく 人間が神を――非経験として想定すると言っていますが――創造するものでもない。  神はこうこうであると想像することは構いませんが その想像の産物が 神なのではない。それはあり得ない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  非経験の領域の想定というのはやはり思考的な作業ですよね。  ただしその作業をする前に「非経験の領域を想定するぞ!」という意思が  不可欠です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ ここは大事なところでしたね。つまり こうです。  (5)  そもそもじんるいは 《信じる》という言葉をどの言語でも持っています。そういう言語習慣が現実にあります。つまり それはなぜか? それは どういう現実であるのか? ここが出発点なのです。  (6) もしこの《信じる》が まやかしでないのなら それは 経験世界を超えたところと《わたし》との関係の問題である。こういう帰結になりました。つまり そのときにこそ《非経験の場を想定する》のです。そういう意志行為ですが 何だかおれは神が欲しいんだと言って この想定をするわけではないのです。  (7) つまり次の問いに答えた格好になります。  ★ ~~~~~~~~~~~~  何のために「非経験の領域を想定する」必要があるのか?  ・・・・  非経験の領域を想定することでどういうメリットがあるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《かみ あるいは 信じる》という言語慣習は どうしてあるのか? ここから出発しているというのが 答えです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  なぜなら多くの人は神を自分のものにしたいと思っているからです。  そういうニーズがあるわけです。  ニーズに応えようとすれば浸透しやすくなる。  勘違いが多いのは浸透に注力してきた宗教が多いからでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (8) 《かみ》をその代理〔の声や文字や姿や香りや〕において受け容れたという信仰 これなら 集団としての教義と組織をもった宗教〔ましてや その教祖〕などは 個人の主観内面における信仰とは何のかかわりもありません。    (9) 言いかえると 個人の信仰は わづかにそれを文字化することがあります。《この信仰においては わたしはおのれの持てる力を超えて無理にむさぼるようにしてものごとを得ようとすることはしない》という命題を そのように人間の言葉において(=偶像としても)持つようになります。  この一人の信じる人間の信仰命題を 《むさぼるなかれ》という規範としそれを教義として宗教をつくる。これは 信仰の自殺行為だと考えます。偶像が教義となって規範とされ個人の信教の自由を犯すようになります。  (10) どうか人びとは こういう宗教にしがみつかないように!  たぶんそれは 近代人の理性信仰の裏側でしょう。

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noname#155689
noname#155689
回答No.44

> 神は思考や理性で捉えるものではない かつて(20年ぐらい前)、 自分の周りでそのような物言いがよく聞かれました。 「頭で考えるな、感じ取れ」と。 彼らは感じ取るために最初はヨガを推奨しました。 (自分は友人から脚で呼吸してみろと言われました。) ヨガの実践を通じて、多くの人は何か感じた気がしたそうです。 中には神を感じたと言う人も出てきました。 もちろん彼らにとってヨガは信仰対象ではなくあくまで手段です。 手段は徐々に大掛りになっていきました。 ちなみに彼らは「オウム真理教」といいました。 > 神は思考や理性で捉えるものではない 多くの人はここで勘違いしているのではなく > 心で・つまり意志行為として受け容れるもの ここで勘違いするのではないでしょうか。 心で受け入れる、とは ヨガなどで神性的な気分を感じ取ることと 何が違うのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ふむふむ。  まづは ご回答をありがとうございます。  そうかなぁ。まづその批判を受けた文章全体をかかげます。  ☆☆ (No.42お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  ( a ) じつは 心の窓も そこをたたくノックの音も すべては 比喩です。隠喩ですかね。  ( b ) 何のたとえかと言えば 非経験の領域に想定してみるその神のです。  ( c ) 神は 思考や理性で捉えるものではない。こう言っています。  ( d ) 心で・つまり意志行為として受け容れるものだと言っています。  ( e ) 何を受け容れるのか? 非経験の領域にある何ものかをです。  ( f ) 分からないから 神とか霊とかナゾとかと言っています。  ( g ) あるいは人によっては 無神というのだと思います。  ( h ) つまり 無神論も この非思考の場に立ったということまでは 有神論と同じだと見ようとしています。つまり どちらも 信仰であると。  ( i ) そして有神論の中では ヤハヱーとかキリストとかアッラーフなりブラフマンなりあるいはアミターユス(阿弥陀仏)なり何なりといろいろな名前に呼ぶけれども それらはみな 互いに同等の神であると。呼び方が違うだけだと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さて簡単な問いから答えてまいります。  ★ ~~~~~~~~~~~  心で受け入れる、とは  ヨガなどで神性的な気分を感じ取ることと  何が違うのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは( b )の《非経験の領域に想定してみるその神の》であることが 大事です。( b )では《たとえ》を言うための説明ですが 《受け容れる》ものも 同じです。つまり ( e )です。  言いかえると  ○ 《非経験の領域に想定してみるその神の》仮りのかたちとしての《気分》を感じたなら それをそうだとして受け容れる。  ☆ こうです。ヨガとの違いは知りませんが おそらくこの場合に注意すべきは   ★ 神性〔* 神聖?〕的な気分  ☆ というときにそれが《思っていた神つまりナゾの何ものか》の《代理(偶像)》だということです。代理だと知って受け容れることです。  つまり 代理でないのなら(代理だと知らずに そのまま偶像を丸飲みしたら) 偶像崇拝になります。このことを 初めから問うています。  そしてこのことは ヨガにしろ何にしろ 修行をしている・していないにかかわらず 当てはまります。  これで ほとんど全部の疑いに答え得たと思うのですが いかがでしょう?  * 蛇足になりますが たとえ《思考や理性でとらえたものでない》にしても   ★ ヨガなどで神性的な気分を感じ取ること  ☆ の場合には それが神だという判断をしているように考えられます。あるいは言いかえると その気分を感じ取ったとき あたかも神を自分のものにしたといったやはり判断が伴なっているように思われます。――これは あり得ません。ノックしてきた何ものかを こちらは受け容れるというのは 与えられたと認識することを意味します。自分にもその何ものかのちからが与えられたという意味です。また つねに与えられつつある状態にあるわけです。  あるいはもっと言うならば   ○ あなたの持っているもので 与えられなかったものはあるのか?   ☆ といった認識に到ります。  勝ち取ったものなどではなく ましてや自分のものにしたなどいうことはあり得ません。  ☆☆ (趣旨説明) 偶像崇拝という勘違い  ☆ には そういう意味が込められています。つまり 偶像を偶像だと分からない状態になっていく錯覚は 偶像をほんものの神と思いこんで むしろこれを自分のものにしたというヘンな確信を持つに到るのではないでしょうか。

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noname#116743
noname#116743
回答No.43

表象はもの自体ではないのだからいいではありませんか? まあおそらく否定神学かハイデッガーの存在論に感化されたのでしょうが。 そのハイデッガーの一節をご紹介しうておきましょう。 神が生きているか死んでいるかは、人間の宗教性によって決定されるものではないし、哲学と自然科学の神学的な願いなどによって決定されるものでもない。神が神であるかどうかは、存在の配置の中から、その内部において生まれる。何があるかについて思惟しつつ経験しない限り存在そのものに鳥獣することはあり得ない。

bragelonne
質問者

お礼

 おまえは阿呆か2さん こんにちは。ご批判をありがとうございます。  でも どういう意味になりましょうか。  というのも この質問趣旨には 確かにからくりがあるかも知れませんね。  ★ 表象はもの自体ではないのだからいいではありませんか?  ☆ つまり 偶像をめぐって《表象》していることを勘違いと呼んでいるのではないからです。  すでに一度述べた記憶がありますが ここで質問趣旨として批判している偶像崇拝というのは A・B・・・の事例について そのように文章として書いた場合に対してなのです。  言いかえると 文章として偶像崇拝を示すことを書いたとしても じっさいの心の奥の信仰は ふつうである・つまり間違っていないということもあり得ます。  ☆☆ A. 神は 精神である。  ☆ と明らかに書いたのなら その命題は 神にかんして勘違いをしていますよという物言いです。そう読めなかったですか?  ▲ 神が生きているか死んでいるかは、人間の宗教性によって決定されるものではないし  ☆ (1) 《宗教性》などという分かりにくい言葉を用いていますが それは措いておきます。  (2) 《神が生きているか死んでいるか》 この表現もウソくさいですね。つまり 著者がよっぱらっている。すなわち人間が 神についてその生や死やらを規定することができると思うそのことからして 頭がいかれています。  (3) ただし 神に相い対する人間のその主観にとっては その信仰のあり方によって 神は生きている場合もあれば死んでいる場合もあるとなります。主観の問題ならです。  ▲、哲学と自然科学の神学的な願いなどによって決定されるものでもない。  ☆ (4) 哲学や自然科学が 《神学的な願い》を持つとは思えない。それは 《哲学する人間あるいは 自然科学する人間が その人間という存在の全体において神と向かい合いその結果を 何がしかの人間のことばで表現したいと願ったときの神学》といったところでしょうか。  (5) この場合も 主観にとっては その神学的な願いによって 神の生死が――その主観としては――決まるでしょうし 主観を超えては 神は普遍の存在であろう。神の存在は むろん――非経験の場であるのだから―― 非存在のことである。  ▲ 神が神であるかどうかは、存在の配置の中から、その内部において生まれる。  ☆ (6) 上に述べてきた《主観にとっての問題》 ここにおいて神が神であることもないことも決まると言おうとしている。《存在の配置》ったって分かりにくい。主観にとって《存在》は《わたし》ひとりであり それは時空間としてのひとつの動態である。  (7)いちいち《内部において生まれる》というほどのものでもない。つまりは 非思考の場なる信仰の最初の成立のとき このときだけは おおごとであるだろう。驚天動地の事件である。だけれども 《内部において生まれる》と言うが それは 有神論の場合には こう表現するはずである。つまり 《神がわが心をおとづれ その窓における心の明けもしくは伸び〔なる信仰〕を与えてくれた》。これが《主観内面において生まれる》という実質である。  ▲ 何があるかについて思惟しつつ経験しない限り存在そのものに聴従することはあり得ない。  ☆ (8) 意味が不鮮明である。聴従するの主体は 何か。誰か。  たぶんこの一文は 余分であろう。なくても 上に読んできたようにつじつまは合っている。

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  • kobarero
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回答No.42

>灯台もと暗しと言えるほど 身近に神はいた。ということではないでしょうか。  あとは その神を あくまで非思考の場として見出すことではないかと考えます。  さあ どうでしょう。 非思考という言葉をどのような意味で使っておられるのか、段々わからなくなって来ましたが、私は「静けさ」だと思っています。その「静けさ」の中には常に光が差し込んでいるということです。 「哲学としてなら そして一度はしておかねばならない定義としては だめです。」とおっしゃられるように、哲学の世界とは違うかも知れませんね。お役に立てず申し訳ありません。

bragelonne
質問者

お礼

 コバレロさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  あぁ そうでしたか。つまりコバレロさんは わたしなんかとは違って 回答者としての責任といったものを感じておられる。むそんわたしも 自分の書いたものについて文章責任を保ちつづけますが 回答が問いに対して つねに適切な内容で応じているかどうかについては――質問者の心つもりなどもあることですから―― あまり留意をしていません。自分の持っているものの最良最高を発表するのみです。  それに 質疑応答と言っても 情報交換だとも規約では言っています。特に哲学カテゴリは その点 特異ですね。最近も 回答の中には 《回答者は 質問者に質問をして 質問者はそれに答える。これが ここでの質疑応答だ。だからわたしは質問する》と言った投稿をもらいました。  またわたしの質問は そのまま分からないことを問うものから 或る程度は分かっているのでさらに詳しいことをおしえて欲しいという場合もあり 果ては相当程度において自信さえあるがその考えは 一般のとは違っているので 問うのだという場合までがあります。  じつはこの質問は 何を隠そう 自信満々です。でも 一般の常識とは違っているでしょう? だから問うています。  ★ 非思考という言葉をどのような意味で使っておられるのか、段々わからなくなって来ましたが、私は「静けさ」だと思っています。その「静けさ」の中には常に光が差し込んでいるということです。  ☆ 《静けさ》からは わたしはそのまま 心の窓を何ものかがノックするという場面を思い浮かべますが 《非思考》については そのまま《思考に非ず》を意味しています。  じつは 心の窓も そこをたたくノックの音も すべては 比喩です。隠喩ですかね。何のたとえかと言えば 非経験の領域に想定してみるその神のです。  神は 思考や理性で捉えるものではない。こう言っています。心で・つまり意志行為として受け容れるものだと言っています。何を受け容れるのか? 非経験の領域にある何ものかをです。  分からないから 神とか霊とかナゾとかと言っています。あるいは人によっては 無神というのだと思います。つまり 無神論も この非思考の場に立ったということまでは 有神論と同じだと見ようとしています。つまり どちらも 信仰であると。  そして有神論の中では ヤハヱーとかキリストとかアッラーフなりブラフマンなりあるいはアミターユス(阿弥陀仏)なり何なりといろいろな名前に呼ぶけれども それらはみな 互いに同等の神であると。呼び方が違うだけだと。  そんなこんなを考えています。どうですかねぇ。(つまり 人びと一般にとっては という意味ですが)。

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  • AXIS_
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回答No.41

>勘違いのばあいは 《勘違い》――つまり 偶像崇拝にまで到ったかたち――において その錯覚をとおして ほんものの神に接している。という意味です。どんな場合にしても わづかに直接にか間接にかの別を持って ほんものの神はひとに関与しています。 ◇偶像崇拝でも、偶像を通して 本物の神に接しているという意味でしょうか。そのように言うなら、偶像崇拝も勘違いではない、と言えるでしょう。 A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 ◇「精神を持つ人間がそのまま神であることになる」と、何か困ることでもあるのですか?  人の精神性は幅があるので、精神のレベルにより神のレベル(神度合い)が測れるということでも良いですね。なにも「誰でも、どのような精神を持っていても、そのままで」神であるとは誰も言っていないでしょう。 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。 ◇「人間の存在および能力の一般を信じる」のは、おかしいことなんでしょうか? C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。 ◇言葉や文章は完全ではありませんが、それなりに正しく表現することは出来ます。100%完全でないとはいえ、言葉や文章などによる行為成果は人間には必要でしょう。 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の能力》信仰となる。  ◇《人間の能力》は完全ではないが、ある程度人間の能力を信じています。車にも電車にも乗るし携帯電話もパソコンも使うし、人間が作った農作物も食べます。あらゆるものに世話になってますね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇偶像崇拝でも、偶像を通して 本物の神に接しているという意味でしょうか。そのように言うなら、偶像崇拝も勘違いではない、と言えるでしょう。  ◆ 崇拝している状態にあるかぎり――ということは 頭の中では そのたとえば《教義》 この教義がこの上ない至上命令だと思いこんでいるということなのですから それは―― 勘違いであると いちどは 明言したほうがよいのです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  「精神を持つ人間がそのまま神であることになる」と、何か困ることでもあるのですか?  ・・・(中略)・・・なにも「誰でも、どのような精神を持っていても、そのままで」神であるとは誰も言っていないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 神を非経験の領域に想定するということは その神と人間とのあいだには 絶対的なへだたりがあることになります。そのあと この絶対なる神が――絶対であるゆえ―― 相対としての存在をすべて覆うということが 思弁的には 帰結されて来ます。神は 人間を包み込んでいるというわけです。そういう複雑な事情もあとでは出て来ますが ともかく第一義としては 神は人間ではない。人間は神ではない。となります。  ならば 《神は 精神ではない》ですね。  ◇ 「人間の存在および能力の一般を信じる」のは、おかしいことなんでしょうか?  ◆ はい そうです。なぜなら 《信じる》は 非経験の領域を想定したあと これを人間の存在に即して《非思考の場》と言いかえた。さらにしかも これは人間の心の窓というふうにたとえて捉えた。  この心の窓をおとづれる神 この神に対してのみ《信じる》という言葉は用います。  ま ただし 経験世界のことがらについて思っているとき そのことがらの妥当性を強調したいためや その人の人となりについて持つ信頼を強調したいために 《妥当だと考える》や《その人を信頼している》をいづれも《信じる》と言いかえることはあります。これは げんみつには誤用ですが 習慣として受け容れられているようです。  ◇ 言葉や文章は完全ではありませんが、それなりに正しく表現することは出来ます。100%完全でないとはいえ、言葉や文章などによる行為成果は人間には必要でしょう。  ◆ わづかに上の課題と同じく 《信じる》と言うかどうかが問題とされます。  ◆ 次の問いも同じく《信じる》を 神について言う場合と同じかたちにおいて使うかどうかだと考えます。  ◇ 《人間の能力》は完全ではないが、ある程度人間の能力を≫信じて≪います。車にも電車にも乗るし携帯電話もパソコンも使うし、人間が作った農作物も食べます。あらゆるものに世話になってますね。  ◆ 偶像を偶像と分かっていればだいじょうぶというように 《信じる》の使用を 単なる強調のための習慣だと分かっていれば問題ありません。  おつかれさまでした。九合目くらいにまで来たでしょうか。いや 仮りの姿の背後には つねにほんものの神は控えていますから すでに富士山に登頂したということでしょうか。

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  • kobarero
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回答No.40

☆わたしの出したたたき台は 『この経験世界を超えたところ・すなわち非経験の領域。すなわち 非思考の場というものです。この非思考の場は 人間にとって――しかしながら―― あたかも心の窓のごとくでありしかも或る種の動態としてそなわっているのではないか。神が 或る日その窓をたたく。これを迎え入れるなら それが 《考える》ではないところの《信じる》なのだと言っています。』 何故、ややこしく考えるのか。もっと単純に『確信は、思考を超えたところ、すなわち、天から生まれる。』で良いではないか。 上記の認識がご質問の背景ということであれば、NO.25の回答は以下のように変更します。 A. 神は 精神であるという勘違い。 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。 C. 同じく 教義を信じるという間違い。 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって表象しうると思っている間違い。 いずれも、確信を得るための試行錯誤である。それを勘違い間違いと呼ぶことは論理的には正しい。しかし、「じゃあ、どうしたら良いのか」と言う人に対して、「難解ではない分かりやすい答え」を用意する義務がある。

bragelonne
質問者

お礼

 コバレロさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    ★ 何故、ややこしく考えるのか。もっと単純に『確信は、思考を超えたところ、すなわち、天から生まれる。』で良いではないか。  ☆ 哲学としてなら そして一度はしておかねばならない定義としては だめです。  《天 ないし 天から生まれる》は 経験世界におさまるのかどうかがはっきりしないからです。天と言えども 経験世界の範囲内であれば 精神とその想像力の問題として扱うかたちです。  したがって それにかかわってなら《確信》も けっきょく経験思考の範囲におさまる精神の意志行為です。《経験合理性に照らし合わせて 妥当であろうと判断した》その結果の確信でしかないことになります。《非思考の場》にかかわる《信じる》ではありません。    さてあたらしいご回答を得ました。  焦点は 次の箇所です。  ★ しかし、「じゃあ、どうしたら良いのか」と言う人に対して、「難解ではない分かりやすい答え」を用意する義務がある。  ☆ 詭弁だと言われかねない答えになりますが こうです。《難解であろうとなかろうと 人間の思考をとおして理性によって 分かりやすいにしろ何にしろ 分かる答え》は――非思考なのですから―― ないのです。あり得ないです。それが 神です。  神は 表象しえないなぞです。  だから たとえば この非思考の場は 心の窓のようなものだ。或る日その窓を神がたたく音がするはずだ。感性ないしひらめきによって それは待っていた神だとさとったなら 受け容れるとよい。その受け容れるという――こんどは――経験行為が 信じるということである。といったふうに喩え話をしています。  どう話したところで すべて喩え話になります。それが 神です。この《かみ》ということばも ほんとうの神についてのたとえとしての言葉です。仮りの・代理の表現になっています。    あと言うとしたら A B C D の事例は   ★ いずれも、確信を得るための試行錯誤である。  ☆ ことにまちがはないのですが 別の視点からみれば すべては 偶像を偶像として捉え損ねて それが最終の神なら神だと錯覚している状態を現わしています。ということは 《ほんとうの神》の仮りのすがたなのです。だとすれば 《試行錯誤》でありながら すでに問い求めるべき最終の神に触れていることを見出します。   灯台もと暗しと言えるほど 身近に神はいた。ということではないでしょうか。  あとは その神を あくまで非思考の場として見出すことではないかと考えます。  さあ どうでしょう。

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noname#131234
noname#131234
回答No.39

《主観が 人でない》場合というのは、ここではキリスト教がそれにあたると思います。基礎です。 内容としては、端的に外道の教えです。 《主観が 人でない》場合はあるの?との素朴な疑問ですが、 質問者様のところでは、キリスト教信仰の基礎が出来上がっていないようです。 信ずるものが救われる(かもしれない)のであって、 実感が伴わないというところでは自分の不信を認識するべきではないでしょうか? おぢぢ様の考えは 信仰としてのキリスト教から分離されたところでのグノーシス教にちかいものです。 サクラメントの基礎知識として 神聖な儀式の神聖性の基礎付けについて代表的なものが二つあります。 どちらも秘儀についてという題名の書物です。 辞書で引いて自分の考えと比較してみるとよいでしょう。 理性的信仰の基礎を醸成する必要はあるようです。 神の信仰をなさっては、いらっしゃらないようです。 仏教的にのべるとすれば、末法不信= 縁覚にとって信を研ぎ澄ますことは容易ではないということの実例です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  《主観が 人でない》場合というのは、ここではキリスト教がそれにあたると思います。基礎です。  内容としては、端的に外道の教えです。  《主観が 人でない》場合はあるの?との素朴な疑問ですが、  質問者様のところでは、キリスト教信仰の基礎が出来上がっていないようです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何を言っているのか分からない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  信ずるものが救われる(かもしれない)のであって、  実感が伴わないというところでは自分の不信を認識するべきではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何を言いたいのか分からない。  ★ おぢぢ様の考えは / 信仰としてのキリスト教から分離されたところでのグノーシス教にちかいものです。  ☆ 【Q:グノーシス主義の良さをおしえてください】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3183765.html  ☆☆ (趣旨説明) そもそも二元論などということからして――絶対者が 相反する二者であるという想定からして―― はっきり言えば 意味のないことを考えているとしか思われません。  ☆ 良さなどあるのかい? という調子です。  ★ サクラメント  ☆ とは 或る日わが心の窓を神がたたくのに出会うこと これが いちばんのサクラメントです。儀式は 組織宗教のものですから お呼びではありません。  ★ 理性的信仰の基礎を醸成する必要はあるようです。  ☆ そんなものはありません。  ★ 神の信仰をなさっては、いらっしゃらないようです。  ☆ ほざくだけでは 意味がない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  仏教的にのべるとすれば、末法不信=  縁覚にとって信を研ぎ澄ますことは容易ではないということの実例です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そんなことはどうでもよいと言うことすら 億劫になる。  鐘はつかなきゃ 鳴り響きません。

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noname#131234
noname#131234
回答No.38

さの回答者さまの「聖書を通じて」の救いとも関係してくるのですが・・・ おぢぢさまは、ケルン学は神学者=二人のトーマスを読んでいない。 アリストテレスも拾い読みさえさなっていないと察します。 キリスト教の教義的書物の中で使われるablativeは特殊な意味で使われています。 引用文 mente(..sed) contemplante は、「これこれを通じて」であるが、神との接触・神通を 明示するものではありません。 観照をする精神(魂)を通じてであり、魂・精神の主観が、人であるという言及はないのです。 厳密には読み違えています。 キリスト者をなのるのなら、仏教系の一般人と同程度の常識的基礎知識は持つべきでしょう。 ましては仏教理論を批判しようというのであればなおさらです。 おぢぢさまの 仏教知識は良としてキリスト教知識より少ないようです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 神との接触・神通を / 明示するものではありません。  ☆ 《神との接触・神通》 こんなものは 修辞学の世界です。実際ではありません。  ★ 観照をする精神(魂)を通じてであり、魂・精神の主観が、人であるという言及はないのです。  ☆ 《魂・精神の主観(あるいは 主体)が 人である》ことについて いちいち事割っていなければならないというのは どうでしょうねぇ。《主観が 人でない》場合などがあるのでしょうか?  あとは ただのつぶやきです。ひとりごとであるに過ぎません。聞こえない。で済みます。

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  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.37

No.35お礼欄より ~~~ 「自分が体験と非思考を通して知っている神が――たとえ勘違いに落ち入っていたとしても その偶像をとおして―― ほかのひとが抱いている神とまったく同等なかたちにおいて ほんものの神なのです。真でない神がいて 真の神がいるというようなことは ありません。 ~~~  ほんものの神 と真の神 は同じ意味で使っています。  結局、自分が思ったり感じたり信仰したりする神がその人にとって真の神(ほんものの神)であるということですね。  ならば他者に対して「勘違いしてる」とは言えないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 勘違いのばあいは 《勘違い》――つまり 偶像崇拝にまで到ったかたち――において その錯覚をとおして ほんものの神に接している。という意味です。  どんな場合にしても わづかに直接にか間接にかの別を持って ほんものの神はひとに関与しています。  ★ ならば他者に対して「勘違いしてる」とは言えないでしょう。  ☆ 微妙なところがあるので 重ねて述べます。   《勘違いしているではないか》と物言いをつけるのは あくまでその人が言葉で表現したその文章に対してです。たとえその文章表現が勘違いを呈していても その心の奥の信仰じたいは 間違っていないということもあり得ます。つまり それは 他人には分からないでしょう。  けれども 自己表現としての文章において 明らかな勘違いだという場合は あり得ます。A B C D などです。    組織宗教という集団的な自己表現 これにも勘違いがあると踏んでいます。

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  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.36

No.29です。 長い長いご返信ありがとうございます。 「神」の定義はいろいろされているようですが質問者様の「神を信じる」ということの定義はなんですか?主体は誰ですか?その定義は哲学として意味があるんですか? すいません。「(あなたの定義する)神について勘違いが多い理由」を知るために、勘違いしている主体もあなたが定義する主体だとすると、それは、あなたが一番知っていることになります。逆に、あなたの言っている主体が一般的だとすると、たぶん、「神を信じる」という定義がその主体とあなたの間で異なっている可能性があります。つまり、「神を信じる」定義か、主体の定義がないと質問の体をなしていないのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 もうもうグーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  何だかむつかしいのですが お応えしてまいります。  ★ 質問者様の「神を信じる」ということの定義はなんですか?  ☆ 《生きる》ということです。《生き動き存在する》ことです。  言いかえると たぶんそれは《よく――ということは けっきょく自分にとってです よく――生きる》ことなはずです。  が さらにそれは もし意識しようとすれば・そして《信じた》ときの初めの体験を何らかの事由によって吟味し直そうと思ったときには 人間の言葉でそしてわたしにとっては日本語で《かみ》という言葉で呼ぶなぞの何ものかが 自己表現の一環として出て来ます。そうして わたしは《わたしがわたしである》こと――これが 生きるということの別解だと思うのですが――を再び三たび得ます。  信仰が成立するという初めの事件のことについては ほかのところで何度も述べています。心の窓を神がノックする。そのおとづれを我が心で受け容れる。これが 《信じる》であると。  ★ 主体は誰ですか?  ☆ 一人ひとりの人です。つまり《わたし》です。  ★ その定義は哲学として意味があるんですか?  ☆ 哲学として意味ある前に 人生にとって・あるいはわたしみづからの存在にとって その存在そのものだと思います。あるいは 人生のすべてだと考えます。人生のすべての中に 哲学は入ると思います。    ☆ このように述べてきたことがら――すなわち 《神を信じる》とは 《生きる》ということ。およびその主体は 一人ひとりの《わたし》だということ―― これによって 次の疑問に答えることは容易になったと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・逆に、あなたの言っている主体が一般的だとすると、たぶん、「神を信じる」という定義がその主体とあなたの間で異なっている可能性があります。つまり、「神を信じる」定義か、主体の定義がないと質問の体をなしていないのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《神ないし無神を信じる》という最初の事件とその後の動態は われわれ人間存在の普遍的なあり方にもとづいている。このことにおいて たぶん 問題を起こさないと思います。  たとえばこの《信じる》動態は じつは じつに ひとが評価するようなことではないからです。組織宗教においては 権限関係があって上が下を諫めたり助言を与えたりすることがあるかも知れませんが それも一般に勘違いなのだと考えます。偶像として・つまり仮りのかたちでそういう信仰の評価ないし〔評価にもとづく〕相互向上策のようなものが 起こされている。そういうことだと思いますし それだけのこととも考えます。  ですから 信教・良心の自由の領域では――つまり一人ひとりの心における非思考の場では―― 他人の干渉を寄せつけない。自然本性の底抜けかつ天井破りの自由が 息づいていると考えます。ですから問題ないと考えます。  どうでしょう?  ★ 勘違いしている主体もあなたが定義する主体だとすると、それは、あなたが一番知っていることになります。  ☆ 知らなくてもよいし また知り得ないという意味です。人間と人間の関係は 自由・対・自由だという意味です。だから 問題は起こりません。逆に そうでないと(つまり 人の心の非思考の場を他人が知り得るし 知っていると)考えるところから 勘違いや衝突やいざこざが起こると思われます。

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神って。

    宗教を信じてる人には悪いですけどいないですよね? 人間が寄辺が欲しくて作った偶像じゃないですか。 実際、もしも神がいたとしたならテロや殺人も防げるわけですし。 それどころか神を信じすぎて頭がおかしい人たちが暴動を起こします。 しかも「神からのお告げにより・・・」って言ってる人は会った物的証拠でもあるんですか?