- ベストアンサー
信仰を目的とする偶像について
- 人が何かをしようとするときに、直接的な目的と合目的な道具と技術の二つの経路を同時に選択しているといわれています。
- 偶像崇拝は、信仰の心を失い、金権主義に走った人々に再び信仰を取り戻させるための反逆ではないかと思われます。
- 神の偶像を作る禁止は、悪魔の意図する選民思想への乗せられることになり、信仰を衰退させる悪魔の作戦ではないでしょうか。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
はじめまして、高校2年の時洗礼を受け、まもなく還暦となるカトリック信徒の男性です。 この「哲学」カテゴリーの格調の高さ(高レベルの質問・回答の文章)には感服しています。 特にGA_CK_UNさんの今回の質問は、タイトルからして高尚で、私のような者が回答して良いか少し躊躇してしまいましたが、思い切って感じていることを少々書いてみることにします。 実は、私は未だに「偶像」或いは「偶像崇拝」というものが何を意味しているのか、今一つよく理解できないでいます。 確かに、十戒には、偶像崇拝を禁ずる、と読める戒律がありますね。・・・と思い、只今、Wikipediaを検索して初めて知ったのですが、実は驚いたことに、「十戒」には、カトリック・ルーテル教会で採用しているものと、正教会・プロテスタント(ルーテル教会以外)で採用しているものの2種類があり、 前者で「偶像崇拝を禁ずる」と読める戒律は、 1.わたしのほかに神があってはならない。 だけなのに対し、後者では、 1.主が唯一の神であること 2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止) と、2で更に丁寧且つ明確に規定していますね。 これを見て感じられるのは、どうもカトリックでは、あまりこの点をうるさく言わないようであり、有名無実化しているようだということです。対して、プロテスタント諸教派(ルーテル派を除く?)は、偶像崇拝というものに厳密、厳正であり、キリスト教の神以外の者は、一切「偶像」として斥ける「ガチガチの信仰」に固執しているように感じられることです。 基本に帰って、「偶像崇拝」をWikipediaで検索してみましたら。概略次のように掲載されていました。 ・偶像崇拝とは、偶像を崇拝する行為である。偶像崇拝の用語そのものが改革派教会の特徴であり、そのパスワードであると言われる。 ・関連聖句:あなたは自分のために刻んだ像を造ってはいけない。天にあるもの、地にあるもの、水のなかにあるものの、どんな形(あるもの)も造ってはいけない。それにひれ伏してはいけない。それに仕えてはいけない。— 出エジプト記 20:4、「モーセの十戒」 ・上智大生靖国神社参拝拒否事件(1932年5月5日、上智大学の学生の一部が靖国神社の参拝を拒否したため、キリスト教が日本の国体と相容れない邪教であり、売国奴であるとのバッシングを受けた事件)を契機に、カトリック教会は「祖国に対する信者のつとめ」を出し、神社参拝を行うようになったり、日本基督教団などエキュメニカル派も神社参拝、宮城遥拝、国民儀礼、玉串、焼香を行ってきたが、その後プロテスタント教派の中の福音派や改革派は、これが聖書に反する偶像崇拝であるとして、禁じる所が出て来、改革派では1951年「すべての神道神社は偶像であり、我々はそれを礼拝する事を拒絶する。神棚、仏壇その他どのような宗教的事物に対しても頭を下げて礼をしない。」と決議した。 又、「偶像」とは何か、更にWikipediaで調べると、 ・木・石・土・金属(などの具体的なモノ)で作った像。 ・神や仏などの存在をかたどって造られた像で、かつ崇拝の対象となっているようなもののこと。 ・古代メソポタミアの人々は神々を身近な存在と考え、その姿を人間に求めた。そして多数の像が作られ、人々はそういった像を拝む日々を送っていた。 ・旧約聖書出エジプト20:4-5、レビ26:1、申命記4:25-26、イザヤ44:9、新約聖書の第一コリント8章により偶像は否定される。聖書信仰の福音派では仏教、神道の仏壇、神棚、焼香、玉ぐし等も神に禁じられた異教の偶像と断定して拒否する。 ・本来信仰するはずだった(不可視の)対象ではなく、それを模したとされる偶像のほうを崇拝してしまう行為を偶像崇拝という。 ・・・ということで、やはり、福音派などは、他教の神仏そのものを偶像として斥けており、更には「無教会派」のように、キリスト教の神像さえも「偶像」と定義して聖堂に置かず、あくまで「目に見えない神」を崇拝するために、何もない聖堂で礼拝する教派もありますね。 こうしたプロテスタント諸教派の「偶像崇拝」に対する考え方は、より聖書に忠実な、立派な心掛けなのかもしれませんが、カトリックの人間、少なくても私から見れば、非常に異様であり、相容れないものを強く感じます。もし私の考えが正しくないというのなら、私は即刻キリスト教を棄教し、その結果地獄に落ちるのも厭わないほど、極めて強い拒否感情があります。 これまで複数の当サイトでの質問や回答で繰り返してきた通り、私は、信仰厚い両祖母の下で育ち、世界の宗教の頂点(即ち「神」)はただひとつで、万教は融和してはじめて世界平和が到来するという考えを堅持しており、他宗教を排斥する考えには、一生涯、決して組することは出来ません。 カトリックは、第二バチカン公会議(1962-1965年)以降、世界宗教との融和に努め、又ミサ典礼の現地語化や現地の風習との融和を心がけました。私もミッションの小学校の時には、京都・奈良の寺社を訪ねて拝礼しましたし、他教のイベントに参列することについてもアレルギーは比較的少ないカトリック信者は多いようです。又、先祖を敬い、仏式で拝むことも当然だと思いますし、それを容認した、カトリック教会の手引書もあります。 明らかに「神」ではない動物や人間を拝むことは、確かに「偶像崇拝」に当たり間違っているという事はわかりますが、キリスト教の神像を、その背後にある「目に見えない」神を祈るためのイメージとして拝礼の対象とし、又、仏教の仏像に手を合わせたり、寺や神社の建物や敷地内で、神仏のおわします空気を感じて荘厳な気持ちになり、身を引き締め、自らの心を正していくということは、決して責められることではないと思います。 結論としては、私にとって「偶像崇拝」というものはやはり不可解であり、理解できませんし、これ以上理解しようとも思いません。
その他の回答 (2)
- bokudesuyo77
- ベストアンサー率12% (1/8)
宗教イコール詐欺団体。 洗脳されちゃいけません。 もしも オレが信長の立場にあれば すべての神社と寺を焼き払い、さら地にするだろ。 正義とは、そうゆうもの。 悪魔の光秀にやられてしまいました。 まあ、世の中は悪魔が勝つんでしょう。
お礼
ご心配いただき,ありがとうございます. しかし哲学者は洗脳を受けないという,神の加護を 賜っておりますので,ご安心ください. おお メフィストーフェレスをご存じでしたか. 彼は色々な名を持ち,色々な姿を持ちます. 光秀の姿を持っていたとしても不思議ではありません. しかもときどき神と話し合いをしているそうです. 創造と破壊が神の仕事だそうですが,果たしてどちらが 実行する役目なのか? まさか交代制では・・・
所有ということを、お忘れのように思います。つまり、よい偶像とは高価なものです。お金持ちだけが、よい偶像を所有し、高い信仰心をもっているといえるのか? そうではないのだ、とモーゼの神は言いたかったのでしょう。 お金もそうです。貨幣を多く持っている人が、よい信仰を持っているのか? 「量よりも質」と考えた人がいるのでしょう(たとえばマルクスなどは労働が受肉したものが貨幣だと述べていたようです。したがって、問題は、いかにして貨幣を得たかというプロセスなのです)。 しかし実際のところは、見事な絵画を所有することで信仰を示した貴族がいるでしょうし、所有欲をそそる美しい記念硬貨も出ていますね。現実には、モノによって信仰をもつ人もいることでしょう。実際、キリスト教のカテドラルが美しいから、信仰をもった人もいるようです。ただし持たざる者のことを考えて、そういうことは表立って言えない――と私は考えています。
お礼
ありがとうございます. パラドックスを予感させるご意見として賜ります. やはり弁証法的循環に陥りますか. 最近,現象学を取り入れてから,どうしても壁が視えて しまうんです. そこから逃れるには,『愛着』⇔『プロセス』として おいたほうが,たしかに無難であるともいえます. ちなみに,プロセスチーズより,ナチュラルチーズが ボクは好きなんです.
お礼
丁寧かつ正確なご回答を頂きまして,ありがとうございます. 拝読させていただいたところ,回答者様は,すでに狭い門を くぐられ,狭い道『命に至る道』を歩まれておいでのことと 存じます. やはり,正しい信仰をされているかたにしてみれば, 後付された≪偶像崇拝≫という言葉,観念そのものが不可解 にうつりますのは,なるべくしてなった結果なのだと思いま した. また,ボクの信仰の原点である,神は一元であり,様々な形 で現れる,という考えにも通じている印象を受けました. 総意として,偶像崇拝というカテゴリーを作ってしまった事 それ自体が虚像であり偶像である.という人間的な考え方と して受けとめました. 正しい信仰としては,神はすべてであり,十全なのだから, あえてカテゴリー分けなどする必要もなく,すべてが神の ものであるがゆえに,すべてを受け入れるのだ.そして返す のだ.ということと理解しました. (カエサルのものはカエサルへ.神のものは神へ.のごとく) ちなみに,ボクは広い道を歩みながら,狭い道を感じようと つとめている者です.とても高尚にはおよばない,人間的な あまりに人間的な,愚民のひとりです.