• 締切済み

善・善という人がいて困っています。

littlekissの回答

回答No.8

こんばんは、mamanGT1992さん。 行為 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%82%BA 正当防衛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BD%93%E9%98%B2%E8%A1%9B 「うまい使い方の場合のうまい理由」 http://d.hatena.ne.jp/izumino/20091120/p1

noname#131233
質問者

お礼

ご参加ありがとうございました。 「善・善という人は全然こころがわかってないひとですね。」というのが、私の得た回答です。No5さまを参考に当質問に参加なさった「ぜんぜんわからない人」の態度・手口を参考にまとめてみました。 ---------------------------------------------------------------- 「善・善わからない人」とは? この方たちの言う「善」の根拠は、エゴイズム。エゴなどという無垢なものではない。エゴイズムだ。 「ぜんぜんわからないひと」とは、別名「ひのもと随一の科学者」のこと。どの分野で科学者であるかというと自分でもわからない。とにかく自分は専門屋であると思い込んでいる。何の専門家かと問われるとわからない。無知(無認識)の専門家=専門屋である。 業績=キリスト真宗の教義 人間(預言者・キリスト)は死なないと悟った。オレ様は医者であり預言者である。人間は、善の愚民である。オレ様は子羊の棟梁=経営者である。愚民は無知である。科学は人間の無認識を証明した。しかし、オレ様にとって全ては、認識・科学されている。科学は無認識であるからだ。 性格 こころがない。精神的満足は「おれさまたち」にとって自己満足・自我の不満解消である。人間・社会は、病気である。自分は、「善の医者」。他人は、善の素質がある「患者」である。オレも患者みんなも患者。平等である。しかし、私(オレ様)は人間ではない。預言者である。他人の中に存在する行基・病気を指摘する為に現れた救世主である。今の世に生まれた「行基」である「おれさま」を見習え。お前にも行基の素質はある。 人類の病を治癒する「救世主=ぼくちん」 社会・政治・民衆が、病気である。自分はその病気を治す為に日々活動しているというのが、信条。 問診票 「人類みな、病人。」と定義し、会うひとあう人に「病人であることを知っている。おれは、お前が病人であると知覚した医者である。みとめろ!」と怒鳴りつける。 治癒力検定と称して問診票への記入を迫る。俺様に治療してもらいたいのならこの問診票に記入せよと通りすがりの人に痴漢行為を働く。 問診票に記入したら、あとは、知らんフリ。ありがとうとも言わない。治療は当然しない。他人が病人であると指摘しただけでオレの役目は終わった。しかし、問診票は情報として収集する。 いつもあいてにしてくれる人にかんして、当然、治療をせず、 「おまえは『善い病人』である。お前は直る見込みがある!おれさまのアシスタントになれ!」と叫び、治療した気になっている。患者を看護婦として雇っても、「その患者の病気を治したことにはならない」というのは、述べるまでもない。 その(おかま)看護婦が、自分に都合の悪いことをしでかせば、いつでも解雇する。 医師免許に関しては、「免許を持っていないのに治療しようとしている」という「自分自身の大きな間違え」には、一指たりとも触れず、おれには医師免許がないから、「医師の責任」はないと自分に都合のよいだけの主張をする。 医者の能力=治癒能力がないのではないかという問いには、「おれさまが、目指しているのは、素晴らしい治癒の井戸端会議である。」「俺には、免許がないから藪医者ではない」と開き直り、「俺を批判しようとするお前には『治してもらおう』という謙虚さがない」と とんでもない反批判を企て、即座に逃げる。 結局、はなくそ=ぼくちんは、社会・政治・人間も、治療することは出来ない。他人のすることは納得いかない・きにいらんという指摘だけの「へんなひとたち」。 結論 定義として、「善・善わからない人」とは、結局、他人を気持ち悪い手段でさわり、嫌がらせをする人=「お医者さんごっこ」の好きな「社会逃避の精神難民」です。

noname#131233
質問者

補足

「わかる方」は最低日本語の記述を用い、文章を書くことができることであるかと理解しております。 主語・述語を使っていただいて結構です。日本語はわかります。文章でお願いいたします。 リンクこぴべ山カキコ様、 もとい しょうせっぷんサマ(チョット汚いww)どういう意図で書き込みをなさっているのでしょうか?

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