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浄土真宗の親鸞は、日本の仏教界を腐敗堕落させた張本人ではないでしょうか

noname#131234の回答

noname#131234
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回答No.28

宗教の自殺という題名に即して図式的に説明します。 わかりやすくするために、哲学的思想・倫理的行動・事実認識という3つの側面から見ていきます。 I)一般的仏教 思想 合理的哲学に基づいた宗教 思弁はしない。 行動 人道の実践 信仰の中心は「行」・倫理不幸を増幅しないこだわらない行動・高潔 事実 サンタさんはいない。いるとしたら想像の中であろう。事実とは関係がない。 II)親鸞 思想 俺がいいといったらいい。僧籍なんてくそ食らえ。仏陀なんてたいしたことない。俺が法。 「おすくいを」!と念(演・延)ずればよい。 行動 何でもあり。無戒。悪人であればあるほど成仏度が高いと嘘をつく。仏陀の教えにあやかるのは自由。 仏教の権威を利用し、自分を仏教の中に組み入れる。 事実 うそも方便。念ずればサンタさんもいるかもしれない。 III)キリスト教 思想 聖書に書いてあることは全てただしい。 何が何でも神は存在する。親鸞は低級な教えであり、仏教もそれからおしはかればダメなはず。 行動 他人は戒めを護るべき、俺は他人を監視する立場にある。 他人は厳格な戒律を護るべき・自分は無戒。神に恵まれたものは絶対間違いを起こさないと主張。 事実 サンタさんは存在する。 お前は信じろ。俺は信じるふりをするからだまってろ。 信仰のレベルから言うと 仏教・親鸞のおしえ・キリスト教 という順序ですが、 キリスト教にさえバカにされる根拠を作ったという意味で、 親鸞が直接の自殺を引き起こしたといえるでしょう。 西方浄土といった時点で、キリスト教への改宗の根拠も作っている。 いいかえれば 修行もしないバカと悪人が当然のごとく 何もしないで そのまま救われるといった時点で 愚かな子羊救済の専門家= キリスト教にも笑われる基礎を創りあげてしまったということです。 現に私の身の回りでキリスト教に親近感があるという人間は、真宗の檀家であることが多いのです。

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