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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世の中は屁理屈だらけでできているのでしょうか!?)

世の中は屁理屈だらけ!?菜食主義の論争に哲学的アプローチと高度な技術の助言

kimhyonhiの回答

  • kimhyonhi
  • ベストアンサー率23% (9/38)
回答No.2

要するにディベートに勝つには?って事ですよね。 恐らく他の人が色々と論法を羅列してくるれのもとして、そちらは任せることにします。 私は少し違った切り口で^^ 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」って知ってますか? その中に「北で訴訟や喧嘩があれば、行ってつまらないからやめろと言い」・・・・ 最後に、そういう人に私はなりたい。と結ばれるわけですが。 当事者も本当はストレスも溜まるしつまらない筈。 争いごとが始まったら、「つまらないからやめようぜ」と言いましょう。 はたから見たらあなたが一番立派です。 ごめんなさい、論点ずれてますよね?^^;

noname#127170
質問者

お礼

そうですね。ディベートが理屈も屁理屈も含まれているのでしたらそういうことになりますね。 >「つまらないからやめようぜ」と言いましょう。 確かにそれが一番立派です。また一番悪いのが傍観者です。傍観者はいじめを認めたということになり、さらに拍車をかけてしまいます。 でも不特定多数が特定の個人や少数派に対し、執拗に攻撃することは確かに褒められたことではありません。私もフレーミングされた経験がありますし、だから同じようにされている人を見過ごすわけにはいかないのですね。いくらネット環境に匿名性があるといっても、やっている当事者は生身の人間です。繰り返しさらされ、公平な判断で削除されない限り媒体に保存されるから傷も深くなります。 言葉には言葉をという大人のケンカがしたいのです。 相手方はむしろ挑発し、自分たちに意見する者、誰かをかばう者(と彼らには見えるのでしょう)が登場するやいなや、寄ってたかってこてんぱんにするんですね。何も言えないような理屈で攻めて言論の自由さえ奪おうとします。だから彼らの頭の回転は速いし、知識もあると思います。(ただし痛いところをつかれて何も言えなくなったときの慌てぶりようはあまりにも稚拙で、わざわざそのざまを文字にあらわすイタイことをやっくれますし、屁理屈ですからひとつひとつ解体していくとその矛盾さをさらけだせるのですが、それにさらに詭弁の上塗りをして煙に巻きます)。 そういう理由で論法のあれこれを教えていただきたく思ったしだいです。 ありがとうございました。

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