アルファベットの発明は必然か

このQ&Aのポイント
  • アルファベット文字の源流はシュメール文字であるとされるが、その発明は偶然の産物である可能性も考慮される。
  • 音素文字であるアルファベットは、人工的で不自然な要素があるため、大天才の出現がなければ存在しなかった可能性もある。
  • アルファベットの発明についてはまだ解明されていないが、必然性よりも偶然性が大きいと考えられる。
回答を見る
  • ベストアンサー

アルファベットの発明は必然か

アルファベットの発明は必然か 手元の書物には「アルファベット文字が独自に発明されたのは人類史上、ただ一度だけだ」との主旨の記述があります。これはすべてのアルファベット文字の源流はシュメール文字にある、といっているのだと思います。 素人考えでは表意文字を発明するのは極めて自然な発想だし、音節文字を発明するのも自然な発想に思えます。しかし、音素文字は発想に飛躍があり、極めて人工的で不自然な気がします。アルファベットは、もしかするとシュメールに人類史上、不世出の大天才が出現したことによる偶然の産物で、この人物が出なかったら今日の地球上にアルファベット文字は存在しなかったのではあるまいか、などと考えます。これは妄想で、そんなことはなく、いずれは何処かでアルファベットが誕生したと考えるのが自然ですか。 よろしくお願いします(もう、3年も前に言語学者の名前を教わっていて、本当は啓蒙書を読めばよいのですが私の読書量では中々順番が来ません。ついついこうして断片的質問を多発することになります)。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

「音素文字と音節文字に関して」の後続ではなく、 この質問が本丸とみての、回答です。 最初に優れた音素文字が誕生した地域は、偶然ではありません。 アジア・ヨーロッパ・アフリカの多くの異なる言語が交わる地で 最も文字の進化が加速される可能性のある地域でしょう。本件には 直接関係ありませんが記録媒体パピルスも近くで発明された。 アイスランド島のように孤立した地域では、言語もほとんど変化 しません。文字も同様です。 さらに有利だったのが、意味がほとんど子音だけで決まるセム語 があり、そこに文字が生まれたこと。ヒエログリフでは、表意に 加えて、表音的な用法も生まれ、しかも、それは、子音音素のみ にあてられた。その表音思想を受け継いだフェニキア文字では、 音素文字となったが子音字のみであった。対等な母音文字は、 現在のセム語系のアラビア語やヘブライ語でも生まれず、補助的 な母音記号も、初学者向け程度で、実使用はほとんどない。 (セム語母音には、品詞とか時制とか文法的に重要な機能あり) ギリシャ文字になって母音字が使われ、原則すべての音素を表記 する文字体系となった。 まとめると、母音の重要度の低い言語から母音を無視した文字が 生まれた。母音を必要とする言語に応用されて母音字も生まれた。 バラバラに生まれたため、子音+母音で一文字の音節文字ではなく アルファベットができた。必然かどうかは別にして最も確率の高い 条件の地で生まれた。ただ、「人類史上、ただ一度」は、大げさ で、試行錯誤で成功例が残ったと考えるのが妥当でしょう。 別の地域の観点から。 50音図の元になったサンスクリットは、デーヴァナーガリー文字 で表され、音節文字と音素文字の中間的なものです。基本文字は 「ア・カ・サ・タ・ナ・・・」のようなもので、母音a を含んで ます。[ケ]は、「カ(→e)」のように変母音記号で表す。母音を 消す記号もあります。私の知る子孫のネパール語の単語例を bhetnu (会う,訪れる) は「バ(→e)タ(-a)ナ(→u)」で表す。 (表示できない文字・記号なのでイメージです) 音節文字でも母音を消す記号があれば音素表現ができます。それが 効率的な音素文字に進化するのには時間がかかるでしょう。 アルファベットが生まれた地域がなければ、音素文字は、数百年 千年単位遅れたかもしれません。 日本語にも音素文字はあります。「ん」「ン」です。これらは、 他のカナに比べて数百年遅く生まれました。それまで音としては あったのに表記されてなかったのです。頭に「ん」のつく漢字が なかったからです。日本語では、外来語レベルで母音を伴わない 子音のみを表す表記を必要としない音声構造なので、他に v「ヴ」 くらいでしょうね。外国語との接触によって進化していくものも 多いのです。

sono-higurashi
質問者

お礼

この質問と対である、もう一つの質問へのご回答と相俟って、とてもよく分かりました。 アルファベットの発明は偶然か必然かを言えば、必然であること。その困難さの程度を言えば、多言語が交流し合う条件の下で長い年月を掛けて完成すること。いずれにしても第一級の発明らしいと思うことにします。 後半の >>別の地域の観点から。<<以降は、今日只今の私には少し難しかったですが、参考にして下さる方々も多いことと存じます。「ん」と「ヴ」の件はよく分かりました。 お蔭様で何時かはっきりさせたいと思っていた疑問が解決しました。 有り難うございました。7/4(日)中に、これと大きく矛盾する回答のない限り締め切ろうと思います(もう一方も気分としては解決していますが、行き掛かり上、7/7(水)までは残しておきます)。

その他の回答 (3)

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.3

詳しくもなんともありませんがちょっと気になったことがあります. セム語のなかまでは ・子音の並びにがおおまかな意味を与え, その間にはさむ母音によって詳細が決まる という特徴があったかと思います. で, 実際セム語系の多くでは ・「文字」は子音字だけ (母音は子音字に添える記号で表す) だったような. そう考えると, 音素文字が「何らかの分析の結果作られた」とする代わりに「本質的に子音だけ書けば意味が通るのでそれぞれの子音を表す文字を作った」と考えることはできないでしょうか.

sono-higurashi
質問者

お礼

お尋ねの件に答える前に質問文の出所を整理しておきます。 1. 資料は、ジャレド・ダイアモンド著 倉骨 彰=訳『銃・病原菌・鉄』下巻です。P.70、P.29、P.30から要所を抜粋します。 ・~。アルファベット文字に関しては、まったく独自に発明されたのは、人類史上、一度だけである(P.70)。 ・世界に何種類もあるアルファベット文字も、おおもとの発明は一度だけで、残りはすべて模倣であると思われる(P.29)。 ・アルファベット文字は…中間省略…セム語を話す人びとのあいだで誕生している(P.30)。 ・アルファベットの歴史は、エジプトの象形文字にまでさかのぼることができる(P.30)。 ・ しかし、エジプト人は、単子音を表すアルファベットだけを使うという方向には進まず、~(P.30) ・ ~、これを実際に行ったのは、エジプトの象形文字に通じていたセム語族の人びとである(P.30)。 上記を参考にして質問文を作るとすればシュメールは出て来ない筈です。しからば質問文に何故、シュメールが登場してしまったのかを記します。 2. 3年ほど前にも言葉の歴史に触れた書物に出合っています。その際、「ヒエログリフには音素文字が混じっていて、それはシュメール語に萌芽が見られる」との曖昧情報が刷り込まれたものと考えます。主題が文字ではなく道具の発明が話題であるP.70の一言と3年前の刷り込み情報を組み合わせて質問文を作成した結果、シュメールが登場してしまった次第です。 音節を音素にまで分解出来ると気付くのは並外れた異常な能力で、人類史上、唯一度(唯一人?)しか出現しなかったのはもっともだと、私は妄想しています。明覚の五十音表、ハングル、注音字母等々、みなアルファベットの認識がないと発明できなかったと思いますが、多分考え方がインド経由で伝わっていたのではないかと推測します。 さて、お尋ねの件です。 3. >>「本質的に子音だけ書けば意味が通るのでそれぞれの子音を表す文字を作った」と考えることはできないでしょうか<< この考え方は念頭になかったので意表を衝かれました。この考え方は、例えば母音が10、子音が30あると気が着いた後でも、人類はそれらの40の韻を表す文字を発明し難くて、唯一セム語使用圏だけで子音を表す文字のみが創案されたという推測ですよね。言われてみれば、そうかも知れません。 質問文投稿時には、そういう考え方は全く欠落していました。私の考えは次のようなものでした。 アルファベットが発明され難かったのは、そもそも一つの音節を子音と母音に分解できるという認識をもてなかった結果として自動的に、それらを表す文字も発明できなかったのではないかというものでした。もしも、子音と母音という認識があれば、比較的容易にアルファベット文字を発明できたのではないかという推理です。即ち、子音と母音をはっきりと認識したのはセム語使用圏の誰かであったのではあるまいかという推理でもあります。P.30の記事に拠れば幾つかの音についてはエジプト人も子音と母音の認識があったものと推測します。 言語学の上からはどちらの可能性が大なのかNo.4以下に期待します。 このところ幾つか言語学入門みたいな質問をしていますが、言語学という認識があるのやらないのやら判断し難い回答が続いていました。はっきりと言語学を意識した回答に出合えて嬉しいです。 有り難うございました。

sono-higurashi
質問者

補足

これはお礼欄を埋めた数日後に記しています。 NO.4を拝読した後で読み直すとNO.3は当初の読後感よりも一層、大事なご指摘のように思えてきました。 お礼欄の3の記述は、もしかするとお気持ちと完全には噛み合っていなくて、掠った程度なのかもしれないと危惧しています。 >>本質的に子音だけ書けば意味が通るので<< この部分を軽く読み流しすぎていたかな、と反省しています。張り合いのないことで失礼しました。7/4(日)記。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.2

 #1です。 >>ジャレド・ダイアモンド著者の論に従うと(多分ですが)シュメールでの考え方がペルシャ、インド、中国、韓国へと伝播したのであって音素の概念がインド、朝鮮で独自に発案されたことはない。また、セム語、ヒエログリフにも音素文字が混じっているが、これもシュメールの影響であって独自の発想ではない。こういうことなのだと思います。  ご教授ありがとうございました。そのうち拝読しようと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

啓蒙書なので専門書志向の方に合うかどうかは分かりません。 質問文の冒頭部分は当該書籍のP.70、5行目の他、P.29の後から4行目にも同趣旨の文言があります。 質問文に「シュメール」が2箇所に登場しています。 前者の「シュメール文字」は「セム語」で、後者の「シュメール」を「セム語圏」で置き換えて読んで頂く方がよいのかな、と思い直しています。これに伴い、NO.1のお礼文中の「シュメール」も「セム語」で置き換える前提で読んで下さると有り難いです。 いずれにしても、質問の焦点が変わるわけではありません。 少々横着な考えですが、回答下さるかたは言語学に通じておられるので、質問文に不可解な点があれば修正して読んで下さるものと思います。 有り難うございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

いつも優れた質問をしていただいてありがとうございます。  アルファベットのような「音」単位の書き方は、「ただ一度だけ」発明されたのかどうか知りませんが、梵語の文字は「音」単位ですし、朝鮮語(ハングルは大韓民国ができた1940年代よりだいぶ前からありますから)のハングルは「音]単位の要素を「音節」単位に纏めたもので、辞書にハイフンを入れて音節の切れ目を示している英語などに比べると、だいぶ進んでいるように見えます。  世界中の文字の歴史を調べた事はありませんが、「ただ一度だけ」とはまだ言い切れないように思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

話の出所は ジャレド・ダイアモンド著 倉骨 彰=訳『銃・病原菌・鉄』下巻です。此処で、誰かに最近教わった書籍です。正しく読めているかどうか判りませんが、私の理解するところを記します。 著者の論に従うと(多分ですが)シュメールでの考え方がペルシャ、インド、中国、韓国へと伝播したのであって音素の概念がインド、朝鮮で独自に発案されたことはない。また、セム語、ヒエログリフにも音素文字が混じっているが、これもシュメールの影響であって独自の発想ではない。こういうことなのだと思います。 人の会話を聞いて、音は音素にまで分解できるという発想がどうして生まれるのか、並の天才の成し得る業なのか、大いに疑問で質問文の妄想になる訳です。 有り難うございました。

関連するQ&A

  • アッカド語とウガリット語の対比に関して

    以下はウガリット文字についての解説記事の一部です。 柴山 栄著、「ウガリット文学について」 粘土板の体裁はそれまで知られていたアッカド語のものとは似てはいるけれども、書かれている文字はアッカド語がシラブルで表される(音節文字)のと違って、アルファベット綴りのもの(音標文字)で、しかもそのアルファベット数が三十であることも判明、この種の文字組織としては最古のものであった。 この記述に、これはこれで異存ありません。しかし、次の疑問があります。専門用語を真に理解していると断言できないため自分では正誤を判断できません。 1「アルファベット綴りのもの(音標文字)」の部分を「アルファベット綴りのもの(音素文字)」とした方が分かり易いのですが、こうしてはいけない理由がありますか。音標文字という点ではアッカド語もウガリット語も違いがないように思えます。音素文字とした方が、違いがはっきりする気がします。なお、音標文字と表音文字を同義と考えています。 2「アルファベット綴りのもの(音標文字)」の部分を「アルファベット綴りのもの」としてはいけませんか。アルファベットといえば自動的に音標文字で、しかも、音素文字になりませんか。 3この記述から、「アッカド語が日本語と同様に表語文字と音節文字の混合文だったのに対して、ウガリット語はラテン文字と同様に音素文字であった」と言ったら誤りですか。 4 2と連動した質問です。日本語や中国語にアルファベットという概念はありますか。アルファベットは音素文字だと考えているので、日本語にアルファベットが幾つあるかを考えるのはナンセンスのように思いますが。 5 「この種の文字組織としては最古のものであった。」とありますが、最初のアルファベット文字という意味ですか。 1、2、3、4、5の疑問が解ければよいので、ご回答の形式は項目別であろうと無かろうと一任します。また、正しい場合の解説の有無は一任します。 よろしくお願いします。

  • シュメール語とアッカド語の関係について

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%89%E8%AA%9E の読後感が不鮮明なのでお訊ねします(考古学の領域なのか?と心配ですが)。 1 もともとのアッカド語は口語のみで文字はなかったと読んでよいですか。 2 アッカド語を文字で表現するためには音素文字が必要だったと理解してよいですか。 3 シュメール文字を用いてアッカド語を表記する困難は仮名(音節文字?)を用いて英語(音素文字?)を表記する困難と同一と考えてよいですか。 よろしくお願いいたします。1、2、3に誤りのないときの解説の有無は、お任せします。

  • 音素文字と音節文字に関して

    音素文字と音節文字に関して 日本語であれば全ての音節の読み書きが完成した瞬間に他者の朗読する文章を仮名で書き取れる理屈であり、実際にも書き取れるのだと思います。 アルファベット文字の場合も、全てのアルファベットの読み書きが完成した瞬間に他者の朗読する文章を書き取れる理屈だと思いますが、実際にも書き取れていますか。日本人が漢字を学ぶほどの練習量ではないにしてもfather、mother、family…といった具合に単語や文章に纏まると書き取る練習をしないといけない、などという事情はないのですか。 よろしくお願いします。

  • 日本語の音節が少ないことと仮名文字の関係は?

    日本語の音節が少ないことと仮名文字の関係は? 「『嫌韓流』のここがデタラメ」 P.138 (呉文淑記) ~、日本語は文字の制約により音節数が限られ、同音異義語が多くなってしまったが、韓国語は日本語に比べ、音素の数が多いうえ、それを正確に表す文字があるため、漢字本来の音がいまも温存されているのである。 「日本語は文字の制約により音節数が限られ」の真意についての質問です。 この表現は適切ですか。素人考えでは因果関係が逆転しているように読めてしまいます。 この文章からは仮名が音節文字であるが故に日本語の音節が少ない、と述べているように受け取れます。実際は文字に先行して日本語があり、(多少の切り捨てはあったにもせよ?)日本語の音節全体を包含する形で仮名文字を発明したのではないでしょうか。従って音節数が少ない理由を仮名文字に求めるのは主客転倒している気がします。 さらに言うと日本語の音節がもっと多ければ日本人はハングル同様に子音と母音の組み合わせ文字を開発していたのではないかと考えます。「天地の歌」や「いろは歌」で行き止まらず、50音図表に到達していた時点で、子音と母音の認識があった筈だと考えます。よって、この時点で先達には子音と母音の組み合わせ文字を開発する能力があったとも推理します。つまり子音と母音の組み合わせ文字を開発しなかったのは、その必要がないほどに日本語の音節が少なかったのだと考えます。 こう推測している者に対して「日本語は文字の制約により音節数が限られ」の真意を解説して欲しいく思います。 よろしくお願いします。

  • 人類の進歩を可能にするのは、どんな種類の人間か ?

    “ 人類の進歩を可能にするのは、どんな種類の人間でしょうか。それは天才たちです。ですから、あなたがたは天才たちを再評価して、彼らが地球を指導するのを可能にする必要があります。  これまで権力を握ってきたのは、他の者より肉体的に力が強い野蛮人、こうした野蛮人をたくさん雇える資産家、希望を振りまいて、民主主義国家の国民の心を巧みに捉える政治家、といった人たちです。そして言うまでもなく、野蛮性を合理化する組織を踏み台にして、自分たちの勝利を勝ち取る軍人たちに、次々と権力を与えてきたのです。  あなたがたが決して権力を与えてこなかった唯一のタイプの人間こそ、人類を進歩させてきた人たちです。車輪や火薬、内燃機関、原子力などを発明した人たちです。こうした天才による平和のための発明は、彼らより知性の劣る権力者が、しばしば殺人のために利用して恩恵を被ってきました。こういうことを変えなければなりません。” “  統治形態の変遷小史  人類が誕生して以来、一体どのように人間は統治されてきたのであろうか。 今でははっきり言えるが、まず最初は、最も強い者たちが、自分たちの掟を他の者たちに物理的に押しつけたのである。  強者はその力によって、富や財産を蓄積していった。強者の子供たちは、その富を相続し、こうして強者の統治は有産者の統治へと移っていった。  有産者は統治し、彼らの従者の中で最も知恵のある者たちによる緒発見によって、次第に知識を獲得していった。  次に有産者たちは、専門知識人による統治を実現するため、かれらの知識を民衆のすべてには与えないように気を配った。  こうした専門知識人たちは、世襲の優越性を一般民衆に信じさせて、民衆を搾取し抑圧し虐待したのである。  やがて民衆は、こうした専門知識人たちを打倒し、自分らを統治する他の専門知識人たちを民主的に選び出すにいたった。 「権力の座についた知識人」であった。  しかし、知識は知性ではない。だから、事はうまく運ばない。なぜなら、知識というものは、どんなコンピューターでも行うことのできる記憶作用にすぎず、それによって問題の解決策を発見することはできないからである。  そこで「統治する知識人」は、その権力を保持するために、天才たちの発明を利用し、善意の発明家たちが考え出したものを殺人目的に利用した。  ついで「統治する知識人」は、管理の技術を教える高等専門学校を創設した。つまり、「高級官僚」の養成である。これらの高級官僚は、他者の発明を、自分たちの利益のために利用して統治することを学んだ。  権力を持つ天才が、権力を持つ知識人にとって代わらなければならない。 高等専門学校が提供するのは天才では全くなく、いっぱいに詰めこまれた記憶でしかない。良識と知性を獲得するのに、この学校を卒業する必要はない。  どの世代も、発明家たちを生み出すが、人類という種の生存を危険にさらすために、権力がそれを利用する。そして、こうして利用され裏切られた発明家たちは、自分の発明品が、罪もない人びとを殺りくするために用いられるのを見て、嘆く。  こうしたことは、もう続いてはならない!  人類を今も進歩させ、また常に進歩させてきた唯一の人びとに、権力を与える時である。それは、統治している時に、自分たちに何ができるかを示す機会をすべて持っていた、筋骨たくましい乱暴者や有産者、専門知識人、政治家、軍人のいずれでもない。そうではなくて、それは、自分たちに何ができるかを示す機会を全く持つことができずにきた唯一の人びと、すなわち天才たちである!   思考し、反省し,想像することに他の者より適した者が、社会の管理のために利用されるべきである。それは、人体が脳細胞を、その管理のために利用するのと同じである。  天才をして人類に奉仕させること、ここにこそ「天才政治」の意義がある。    ( ラエル ) ” _ しかし、知識は知性ではない。だから、事はうまく運ばない。なぜなら、知識というものは、どんなコンピューターでも行うことのできる記憶作用にすぎず、それによって問題の解決策を発見することはできないからである。 そこで「統治する知識人」は、その権力を保持するために、天才たちの発明を利用し、善意の発明家たちが考え出したものを殺人目的に利用した。_ _ ついで「統治する知識人」は、管理の技術を教える高等専門学校を創設した。つまり、「高級官僚」の養成である。これらの高級官僚は、他者の発明を、自分たちの利益のために利用して統治することを学んだ。_ _ 権力を持つ天才が、権力を持つ知識人にとって代わらなければならない。_ _ 人類を今も進歩させ、また常に進歩させてきた唯一の人びとに、権力を与える時である。_  上記はまさに政変、 歴史上では太字で改革とか革命に相応しい内容であるとかんがえられますが、 今後における賛否、所信などありましたらお教えください ? ” 私たちは毎日、天才たちの想像力、熟慮反省、および苦労の産物からの恩恵に浴している。一日中、私たちは、平均より優れた頭脳を持つ人間の力によってのみ誕生した物を使っている。電球からテレビへ、自転車から自動車へ、冷たい水道の蛇口から洗濯機へ、タイプライターからテープレコーダーへ、ピアノからステレオチャンネルへと、私たちの生活をより容易に、より快適にしているこれらの物はすべて、その想像力によって、与えられた諸問題に対して、新しい解決策を発見することのできた人びとのおかげなのだ。”

  • 俺が成功したら世の中の女どもに分からせたい事がある

    俺が社会的成功したら世の中の女どもに「私はクソみたいな男達に股を開いてきた愚か者だ」という事を分からせてやりたい 俺は「低コストで製造できる上に高性能な装置」の発明を考案してるんだが、その装置を実用化して社会的成功をして金持ちになってみせる 俺が発明したその装置は高度で複雑な技術によるものではなく 発想の転換的なもので、もし仕組みを知れば「何で人類はこんな簡単な発明が今まで出来なかったんだろう」と不思議に思うこと間違いなしだ ようは「俺が天才じゃなくてちょっと頭がいい程度で、むしろその程度の発明すら思いつかなかった世の中の奴らが馬鹿なだけだ」という評価になると思う だからその装置が社会に広まれば、世の中の女どもは 「その仕組みの装置だったら私の元彼達だって努力すれば発明できたのに 、誰1人として出来なかったって事はもしかして私の元彼達って恋愛以外は大して努力できないクズだったのでは?」と思うだろう ただ、それだけだと「俺らは別にその装置を発明しようとしてたわけじゃないしそもそも知らなかったから」って言い逃れされる可能性があるので その装置の発明を特許出願した後に 「俺は低コストで製造できる上に高性能な装置を発明して特許出願した! 簡単に説明するとその装置に必須であると考えられる○○という高価で高精度な部品を不要にする事で 低コスト化してメンテナンスフリーにしたものだ! 出願して1年半以内は俺の発明は公開されないからその間に俺と同じ発明をしてみろ! もし発明できた日本国籍の人間はその内容を書き記した書類を公証人役場に持って行き確定日付を貰って来い!そうすればその発明の特許の利益の1割を"俺と同じ発明をした人数"で割った金額を与えてやる!」 と世界中に宣言してやる その装置自体の仕組みは中学卒業レベルなら理解できるし 俺と同じ発明を思いつけば金が貰えるわけだから金持ちや中学卒業レベルに満たない馬鹿じゃない限りやらない理由が無い つまり「俺らは別にその装置を発明しようとしてたわけじゃないしそもそも知らなかったから」って言い逃れする事が出来なくなるわけだ 絶対に世の中の女どもに「私が股を開いてきた男達は恋愛以外にろくな努力もできないクソ野郎だった」という事を分からせてやるからな

  • 十個の数、或いは十進法の発明は必然なのでしょうか

    こんにちは。 なぜ十進法が一般的なのか、と言えばアラビア数字が0を含めて十個あるからという理由が上がりそうですが、すると今度はなぜそれが10個なのだろうという疑問が浮かび上がります。 その答えとしては、ひとつに偶然。たまたま十個あるだけで、本当は六個でも九個でも十四個でも良かった。 しかしながら、ローマ数字にも十個目のカウントにはそれ専用の割り当てがなされており、五個と十個は特別視されていると言わざるを得ません。 何かしらの理由で、数学的には十という区切りは必然的なものだったのか、あるいは古来からの伝統を踏襲しているだけで、それが生活に馴染んでいるために便利であるだけ、と考えるべきなのか。 実際のところどうなんでしょうか?

  • 偶然って必然だと思いますか?

    38歳のバツイチ子ども3人女です。 私は幼い頃母親の『人生は運命によって決められている』って言葉があまり好きではありませんでした。『どう転んでももう既に結果は決まってる』ってニュアンスの母の物言いが好きではなかったのかも知れません。 (例えば私が将来の夢を語るときなどに、母がこの言葉を発することがあったので) でも最近、いろんな物事の重なりによって、『自分の身の回りに起こる偶然には、必ず理由や意味があるのではないか』と確信するようになりました。 例えば、先日仕事で、普段なら有りえない初歩的なミスをしたんです。そして偶然その日に限って会社にちょっとばかり今顔を合わせるとまずいなって人が来てたんですが、ミスの処理で会社に戻る時間が遅くなったために、その人と間一髪、会わずに済んだということがありました。(それが幸いかどうかは別として) その人は男性で、一度はとても好きだった相手だったのですが、お互いことごとくタイミングがずれていました。ニアミスのことも含め、どうにも結ばれない運命なのかなぁと思いました。(下手をすれば、いつも着飾っていたのに、♪どうしてなの今日に限って安いサンダルを履いてた~♪ってなりそうな。。) これはちょっと皮肉な『偶然は必然?』の例ですが、この頃は特に出会いでそう感じることがあります。そして年齢を重ねるごとに、出会いには意味があるんじゃないか、だからそういうものを大切にしたいと思うようになりました。悲劇に関して私は人生においてまだ大きな事件を知らずに生きて来ています。それが単にラッキーかどうかはわかりませんが。 ただ、『人間万事塞翁が馬』という言葉もあるように、意味の取り方によって、幸不幸どちらにも取れるということもありますね。 みなさんは偶然起こる出来事などについて、どんな考えをお持ちでしょうか? 教えてください。

  • 必然性と不可避性

    の意味の違いを例文を出して説明していただければありがたいのですが。

  • 必然なんてものは何一つない

    必然なんてものは何一つない どんな出会いもどんな出来事もただの偶然にすぎないと その結論に帰結しました。 必然論は 出来事に何かしらの意味を見い出さないと あまりに辛い出来事や理不尽な出来事にひたすら不幸をかみしめるしかないからだと思う。起こることは必然などと考えているのは自己欺瞞であり、惨めな慰めでしかないように思える。 皆様はどう考えるか?