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国家ってどうしてあるのでしょうか?

cyototuの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.11

#7です。 >国家が、これほど事細かに人のやることに介入しなくてもいいのではないか? (もっと、それぞれの人間の自発的判断を信用して、それに任せてもいいのではないか。) これは、まさにアメリカの大企業たちが大喜びする資本自由主義の典型的な主張ですね。いわゆる、神の見えざる手にまかせようと言う主張です。アメリカの企業は政治家達を買収して、企業の営みを国家が規制するのではなく、それぞれの人間の自発的判断に任せるべきであるとの主張のもとに、銀行取引に対する規制を緩め、今回の世界的経済危機を招きましたね。また、国民健康保険に対しても国家の介入を許さずに人々の自由な企業努力にまかせるべきであるということで、公的健康保険制度を認めない保険改革を、オバマ大統領がつい最近通しましたね。その結果、アメリカの健康保険会社の株が上がり、保険会社は胸を撫で下ろしましたね。貴方の頭の中にある理想的な人間はどう振る舞うか知りませんが、生身の人間に対しては、それぞれの人間の自発的判断を信用して、それに任せてたらとんでもないことになることを、近年の人類の歴史は教えているようです。 >どうせ国家を作るなら、将来的には地球連邦国家にして地球の人々全体の利益を図る組織にした方がいいのではないか。 人類の歴史を振り返っても、生物の歴史を振り返っても、そこから教わることは、進化とは各々の文化がそれぞれの個性を造り上げ、分化し特殊化して来た方向に向いているのであり、その反対に統一化は退化です。質問者さんは、考古学者達が、旧石器時代と新石器時代とを区別しているのはご存知でしょう。数百万年続いた旧石器時代では、地球のどの地域から出て来る石器も大体同じ形をしていて、統一化均質化しており、地方性がない。ところが、十万年から数万年前に人類に何かが起こったらしく、各地域から出て来る石器に個性が出て来て、例えば中国から出て来る石器は、アフリカの物と全然違っている。人類はこの時代に、統一性から地方性へという巨大な一歩を踏み出し、各文化は個性という多様性を手に入れ始めたのです。生物の進化も同じで、進化の方向は各種の個性への分化による多様化を生み出す方向に進んで来たのです。それに対して、ある突出した種による統ー化は、生物の進化に逆行した退化なのです。現在の人類は、便利さや刹那の享楽という動物的な満足度が露骨に喧伝されている余り、価値観の多様性が失われ、皆横並びのグローバリゼイションと言う退化の方向に向いていることを私は危惧しております。その行き着く先が、価値観の統一化のもとでの世界連邦国家と言う形態でしょう。 しかし、心配は要りません。人間の歴史を虚心坦懐に調べ、その教訓を学べる人間の中には、そのような絵空事を実行して人々を後悔と不幸のどん底に陥れるような連中は居りませんから。マキュアベリを思い出して下さい。我々が理想像を画きたいなら、人間はどうあるべきかを論じる前に、先ず、生身の人間は実際にどのように行動して来たのかを歴史の中から学ぶ必要があります。そして、人間とは何かを理解した上で、では我々には何が出来るかを論じるべきです。いきなりの絵空事は未熟だと言うばかりでなく、人々を不幸のどん底に陥れてしまうので、危険なのです。 >人間は様々な歴史を通して人権というものを所得出来るようになりました。これは封建時代には考えられなかったことではないでしょうか。 この認識を見ても質問者さんは歴史から重要なことを学んでいないように見えます。ここ2千年の人類の歴史で、2つの例外を除いて封建制度を採用していた地域はありません。その例外とは、中世の西ヨーロッパと日本の幕府制度だけです。後の地域はすべて中央集権制度でした。封建制度とは各地方に豪族や王がいて、その王の王を豪族達の同意で選び出す制度です。その制度では、少なくとも各豪族には「土地」という、自分の物であると主張できる物がありました。すなわち、私有財産があるのです。中央集権制度下では全ての物がたった一人の王に属しているので、私有財産なる概念が生まれて来るはずがありません。 人類の歴史を振り返ると、この概念の重要さに気付いた国は、必ずそれを憲法の中に成文化して来ました。人類史の中でそれを最初に成文化したのは日本の貞永式目で、その概念を「本領安堵」と言う言葉で表現しました。ヨーロッパでそれを成文化したのは、それより数百年後です。そして私有財産の保証が、全ての人権の根底をなして来たのです。この概念があったから、例えばヨーロッパでも「人権」なる概念が明確になって来たのです。人類の歴史は、封建制度が人権の概念の生みの親であることを示しているのです。絵空事を語る前に、人類の歴史を振り返って、質問者さんも自分達人間が何であるかを知る必要があるようです。

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質問者

補足

>国家が、これほど事細かに人のやることに介入しなくてもいいのではないか? という質問にあなたは外国であるアメリカを引き合いに出して、その失敗について説きましたが、 私は、身近な日本を例に挙げて、政府が上記の事をやって失敗した例について述べたいと思います。 例えば、一昔前の銀行などの不良債権問題などは政府が生み出した規制による負の遺産だと言えるでしょう。 政府は銀行などの金融機関のサービスに口を出し、リスクがあるサービスが出来ないようにしました。 結果、銀行は自分たち独自のサービスを打ち出す事が出来なくなり、日本の銀行は護送船団方式を取らざるを得ませんでした。しかし、その結果はどうだったでしょうか?バブルがはじけたとき銀行はその余波を吸収しきれずに大量の不良債権を出しました。この例は政府が銀行を信用せずにサービスを抑制して失敗した例です。投資というもにはリスクが付き物なのです。何もリスクを取らずに額に汗をかかずして儲けようなんて旨い話があるわけがありません。金融機関は正直に、その事を出資者に説明し自己責任のもと投資を促す必要があるのです。このような場合に行き過ぎた規制は逆に足かせになるのです。先にも述べたように、投資に伴うすべての情報を明らかにしそれぞれの人達が自己責任のもとに大人の判断をすることによって経済活動というものは行われるべきなのです。 >どうせ国家を作るなら、将来的には地球連邦国家にして地球の人々全体の利益を図る組織にした方がいいのではないか。 この質問に対してあなたは歴史を振り返っても、そこから教わることは、進化とは各々の文化がそれぞれの個性を造り上げ、分化し特殊化して来た方向に向いているのであり、その反対に統一化は退化です。と述べていますが、私はまったく逆の意見です。大昔人々が狩猟採集をしていた時代、人々は各々が個別に暮らしていて独自の生活を送っていました。しかし農耕文化の発明により富の蓄積が出来るようになり貧富の差が生まれ、集団の方が生産活動に有利だということもあり、人々はコミュニティーを作るようになったのです。つまり統治機関というものは人間の歴史を通し、文明が発展すれば発展するほど大きなものを持つようになってきました。このことから地球連邦国家とは人間の持つコミュニティーのなかで究極の進化した社会でしょう。そこでは個別の国に偏った政策を行う必要無く人類全体の利益の為の公正な政治がおこなわれることに弊害はありません。 >人間は様々な歴史を通して人権というものを所得出来るようになりました。これは封建時代には考えられなかったことではないでしょうか。 この事に関してもあなたは独自の論を唱えていますが、話がまったくかみ合っていません。大体、封建制度とはどんなものかということもご存じでは無いのではないでしょうか?封建制度とは君主が領主などに土地を分け与えてそこを統治させることです。そこでは個人の自由を考えられずに上から権力で下のものを押さえつけていました。このような社会は古代インドのカースト制や、一時期の中国など世界のいたるところで用いられていました。あなたこそ、歴史のなんたるかを基本から学びなおす必要があると思います。 また、あなたの人を見下しているかのような上から目線の物言いには辟易をさせられます。 あなたのような、薄識なくせに高慢ちきな人もこの世の中には存在するのですね。 まったくもって腹立たしいことです。

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