• ベストアンサー

 親は、子供のために命を掛けているのか?

noname#153814の回答

noname#153814
noname#153814
回答No.2

お葬式に行くと、お年寄りから「若いのにかわいそう、変われるものならいくらでも変わってやれるのに」という声が聞こえます。 若かった私は【年寄りの口癖】ぐらいにしか思っていませんでした。 18年前の話です。 20歳の娘が「拡張型心筋症」という病気になりました。こじれると心臓移植しかないというものです。 経過を話すと、 娘が風邪を引いたが、ふらつくので自分で車の運転が出来ないと言うので、私が連れて行った。 町立病院で土曜日だったので、県立病院からのインターンが診察していた。 風邪だが、検査が必要だから、結果が出るまで入院となった。風邪ぐらいと不満に思ったが、娘は立っていられないくらい青白い顔をしていた。 ベッドメーキングをしている間、医師が心電図をとっていた。それを診て突然「私では手に負えない、至急専門病院へ行く」と救急車で連れて行った。 私が着いたとき、そこの医師から「貴方の娘さんの心臓は止まっていて、四肢からの4つのペースメーカーで維持しています。至急身内、親戚を呼ぶように。それと一部屋用意しますからご家族は帰らず、部屋の電話が鳴ったらすぐここに駆けつけるように」 「風邪のウイルスが心臓に入ったのだろう。脳に入れば脳膜炎になる。根本的な治療はない。様子を見ているしかない」 ガラス越しの娘を見ていると、心臓以外どこも悪くないので見た目は元気なもの」 結局5日間部屋に缶詰だった。 お年寄りが「変われるものなら変わってやりたい」と言っていた言葉が真実だと思った。 今は嫁いで一人息子の母になっており、私たち夫婦も悠々自適の生活を送っている。昨日娘から「今度のゴールデンウィーク、9連休だから、車で新婚旅行に行ったイタリアに行く」とメールが来た。4月1日ならこその話。私も「月旅行に行く」と返信しておいた。

関連するQ&A

  • 自分の子供の命と他人の子供10人の命

    どっちかしか助けられない場面があったとして、自分の子供の命を取ったとします (ここではその親のさじ加減。選べる立場にいたとします) 選ばれなかったほうは命を落とします そしてその成り行きを全て世の中の人が知ってたとしたら、世間はどう反応すると思いますか? しょうがない、ですか? それともいい加減にしろですか? 中庸でもいいですよ

  • 親が子供の世話になりたくないと言うことに疑問ですが

    昨今、よく老後は子供の世話にはなりたくないと言う人がいます。何故でしょうか。介護をしている親を見て育った人はそれが大変なので子供には苦労掛けさせたくないと言うのは判ります。でも子供が親の老後を世話するのは当たり前ではないのでしょうか。親孝行をするなという事なのでしょうか。変ですね。それとも生活費に十分な余裕のある老人だから言えるのでしょうか。貧乏人は親の面倒を見たくとも出来ないです。おかしな風潮と私は思うのですが、如何でしょうか。

  • 小さな命を助けるには・・・救いたい命

    期限付きの小さな罪のない命を救いたいと一生懸命に呼びかけている 人とがいます。 その人は、視覚障害というハンディを持ちながら、一人で懸命に SOSを出し続けています。 とにかくいろんな人にこの緊急SOSを知って頂くには どうすればいいのでしょうか? 私が観た記事です。 http://blogs.yahoo.co.jp/happywankowanwan/45701213.html 何とかして、純粋な気持ちと小さい罪のない命を助けてあげたい。 命のバトンをつないでほしいと切に訴えています。

    • 締切済み
  • 命の尊さを学ばせるために、粗末に扱われる命について

    私の世間話で、「昔 自分の子どもが飼っている亀がいたのだけど、子どもがほったらかしにして亀を死なせてしまった。今思えば私が代わりに育ててやればよかった。」 というたわいも無い会話が出ました。普通なら、「亀かわいそうね」で終わる会話でしょう。 しかし、私は深く考えてしまい、「亀の尊い命が犠牲になった事は心を痛めるが、子どもの命の教育としては必ずしも悪では無い気がする。逆に子どもがほったらかしにしているから、それを見かねて親が勝手に亀を育てたら、子どもの教育には良いのだろうか?」と思いました。 そこで二点お聞きしたい事があります。 質問一 飼っていた亀を死なせる事で、子どもは悲しみます。そして、飼育を放棄した罪を自覚します。 その自覚は命の教育になると思いますが、もし死なせてしまうのを親が回避し、「死の遭遇」を回避する行為は良いか悪いか? 質問ニ 命の尊さを学ばせるには、適度な命の犠牲を必要とする気がしますが、どう思いますか。 *あくまでも適度です。 ト殺現場を見慣れてしまえば豚の命など誰も尊いとは思いません。食べられるために死ぬのは当然、生産動物なのだからと思うでしょう。二度言いますがあくまでも、適度な命の犠牲の事です。 興味のある質問だけでよいので、よろしくお願い致します。

  • 命は命で償える?

    一応、死刑賛成という前提で考えます。 死刑賛成者の多くは 被害者遺族の身になって 奪った命は 自分の命を差し出して償うのが当然という考えがあると思います。 しかし、宅間守や加藤智大なんかは 死刑は当然なのに 喩えようのない やるせなさを感じるのではないでしょうか? 宅間は裁判で 「お前らの子供8人は わしが殺して わしが死刑になるために生まれてきたんや。」とか言ったそうです。 遺族としても 宅間を生かしておくのは 言語道断だけど、死刑にしたら 宅間の思い通りになったようで、特に 宅間が言ったように 自分の大事な子供の命が あんな外道の命の 1/8しかないことを認めるようで 非常に悔しい思いをしたと思います。 それに、遺族たちも いざ 宅間の死刑が執行されてみて、区切りはついただろうけど、虚しさを感じ、宅間の最後のセリフが頭に蘇り、自己嫌悪に苛まれたんではないかと察します。 命は命で償うというは、逆から 考えれば 最初から自分の命を差し出すつもりなら 何人殺して構わないということにも なりかねません。 死刑賛成派の論理だと 命はどれも同じ長さで 数本束ねても長さは変わらないということになるかと思いますが、死刑反対派の人からみて、命は命で償うことの最大の不条理は何だと思いますか?

  • 親の老後

    60歳後半の両親がいます。そろそろ親の老後のことが気になってきました。 1.老後のことは 子供から聞き出していいものでしょうか?どういったきっかけで 切り出すものでしょうか? 2.既婚の兄がひとりいて(親とは別居です)私(長女)は海外永住ですが もしあなたが兄もしくは兄のお嫁さんの立場なら 私にどういうことを期待しますか? 3.みなさんの親御さんに対する老後計画もしくは 現在の状態。 以上よろしくお願いいたします。

  • 人や動物が持つ命の数は、限りなく2つに近いのでしょうか?

    人や動物が持つ命の数は、限りなく2つに近いのでしょうか? 男女ともに次世代をつなげる精子と卵子を持っているので、自分自身の命が1個と次世代分の命0.5個を持ち合わせていると考えると、男女それぞれ1.5個の命を持っていることになります。そこで、男女のあいだに生まれた子供が持っている命の数は0.5+0.5=1となるはずですが、子供も親と同様1.5個の命を持っていることになり矛盾します。 そこで、男女自身と次世代分の命を含めてそれぞれ1.75個持っていることになるので、生まれてくる子供の命の数は0.75+0.75=1.5となりますが、またしても親と同様に1.75個の命を持っていることになります。 この説明をくりかえすと、人の持つ命は1.99999…個となります。 相当乱暴な考え方ですが、人や動物って元々、限りなく2つの命を持ち合わせていることになるんでしょうか?

  • 子供を持つ親の方へ

    自身の命より子供を優先できますか? 親として一言添えて回答をおねがいします。 誤解や建前での回答を防ぐためいくつか付け足します。 仮に自分第一、または子供第一どちらの回答であれ、回答者に不快感を与えるようなコメントはしません。補足もしません。 私は命を賭けられます 私はもうこの世に未練がないので、子供には夢を持って欲しい 親としてそれを押してあげることはできない、けど支えてあげたい 夢を持たないことが夢だというならそれでもいい それだけ。

  • 子どもの好きな事を貶す親

    私の両親(特に母親) 私が興味のある事・好きな事・物・人 何でもバカにしてきました。 趣味・友達・将来の夢(あくまでも夢)・音楽・・・本当に何でもです。親の認める物じゃないと否定されました。 そんな関係が20代前半まで続きました。 20代後半に何故収まったかというと、親が年老いてきたのと金銭的に困窮してどうにもならなくなったので、私が助けてあげたからです。 それを期に私も強く出たので、干渉してくる事は無くなりました。 現在親とは距離を取り接触はほぼありません。そして、別に怒ったり恨んだりはしていません。 育ててくれた恩はあるし、大変だっただろうなと想像も出来るので。 ただ、自分も親になる歳になり、なぜあんなに子供の事を否定できたのか・小さな才能を潰すような事をしてきたのか不思議でなりません。 子供が書く子供らしい絵を「下手くそ。お前には才能が無い」ってどうして言えたのか。「上手に書けたね」となぜ言えなかったのか。 精神的に親の呪縛から逃れられず苦しんでいます。 自己否定感が強いし、好きな事をしていると罪悪感があったりします。

  • いのちってなんですか

    ぼくは健太といいます まだ小学生ですがさいきん気になることがあります それはいのちのことです 学校ではいのちは大切だとねんぶつのように教わっています。でもテレビをみるとビンラディンという人やカダフィという人をころしてよかったとかすばらしいとかみんな喜んでいます。そのつぎのニュースでは、いのちの大切さをこどもに教えるというイベントで、牛のせわをみんなでやっていました。でも、すこしまえに5万頭くらいの牛が日本でころされたのを思い出すと、やっぱりいのちの大切さがますますわからなくなります。 おとなはよくうそをつくと思います。いのちはちきゅうより重いと教わったけど、はねより軽いのもあるみたいです、大切ないのちとそうじゃないいのちがあるんだとぼくは考えました。自分たちにとってつごうのわるい人やどうぶつはみんながいいと思えばころしていいんじゃないですか。たとえば、だつぜいやふしょうじばかりでしごとをしないのにぎむばかり国民におしつけるせいふがいて、国民のほとんどがさんせいしたら、やっぱりせいふをころしてもいい気がします。どうですか。それがだめなら、カダフィをころして喜んでいるニュースもおかしいと思います。 それと、お金をいっぱいあげていっぱいなかまをつくって誰かが悪いといいはって、みんなできょうりょくしてさんせいしたら、これもやっぱりころせるパターンだと思います。ますます頭が痛くなってきました。 ぼくのぎもんはこれでおしまいです。