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那須大八(郎)は頼朝の命令で、落人を討ちに椎葉の里に赴きました。
那須大八(郎)は頼朝の命令で、落人を討ちに椎葉の里に赴きました。 1. 彼に帰還の命令命令をした人(命令名義人)はやはり頼朝でしょうか? 2. 彼はどのくらい椎葉にいたのでしょうか? 3. 彼はどこに帰還し、その後はどのような人生でありましたでしょうか? どうかお教えください。
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1.頼朝ではないと思います。 おそらく三代将軍の源実朝か、幕府で実権を握っていたと言われる北条氏だと思います。 椎葉村に伝わるという古文書「椎葉山由来」には、出陣を命じたのは「頼朝公」とありますが、引き上げを命じたのは「鎌倉殿」とあります。 また、出陣した那須大八郎は九州の向山で元久2年(1205年)に戦をしたとあります。その戦の後、椎葉村に赴いています。 源頼朝は1199年に亡くなっていますし、二代将軍の源頼家も1204年に亡くなっています。 つまり頼朝も頼家も那須大八郎が椎葉村につくまでに亡くなっています。 ですから、その後に1219年まで将軍職にあり、鎌倉殿と呼ばれた実朝か、北条氏が帰還命令を出したと思います。 2. 3年。 3.鎌倉に戻った後、熊野に左遷されたようです。 下のホームページは椎葉村の公式のホームページですが、那須大八郎と鶴富姫のその後について、問い合わせわせをした方がいて、それに村役場が回答しています。 http://www.vill.shiiba.miyazaki.jp/shiibabbs/index.php?mode=article&id=2832 ホームページには一部抜粋とあるので、その販売されている「平家伝承地総覧」という本を読めば、もっと詳しくわかるかもしれません。
お礼
椎葉村はとても親切に私の以前の照会にもきちんと的確な(私は納得はしていませんが)ご回答を下さるのです。鶴富姫の里ですね。嬉しいです。ご好意に甘えてばかりりは、申し訳なくて。 あぁ鶴富姫様は那須大八郎をお尋ねくださったのですか。これもその場面を思うと胸がつまります。 鎌倉殿、実朝ですか。 ありがとう御座いました。