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考古学の存在意義

arayata333の回答

回答No.10

booterさんの、》哲学的命題《についてのお考えがよく解からないところがあるので、 まずそのへんを質問させていただきます。 人類が、今までの歴史の中で、国家や宗教という社会や知恵を権力意識に振り回されるカタチで続けてきたことは悲しくても認めなければならない事実でしょう。 しかし、哲学的本質的にも、人間は文明が発達することで、科学技術を一部の国家や集団のために使うような進歩のあり方しか出来ないというふうに思われているのですか? booterさんの言われる「国体の護持」ということは、 “それは人間のどうしようもない性(さが)なのだから、 せめて我が国(自分の国)だけでも人権を確保すべく、勝者となるべきであり、そのためには国家が国家として団結を勝ち取らなければならない”といった思想が 考古学の価値への道をさぐる前提としてある、というお考えなのですか? 「国体の護持」という言葉は 戦前に日本人の戦意をあおるために使われてきてしまった言葉との印象が一般にあると思われますので そのへん、今までの質疑の中での その言葉等から たぶん誤解だとは思うのですが上記の疑問がでてきました。 猿から人間に進化した時に、(ミッシングリング等の議論はここでは略します) 脳の中で何が一番変化したかというと、それを一言で言えば 一番大事な点は「みつめる」能力です。 本能にしばられた五感がそこで「見つめられる」ことで、解放されたのです。 見つめることで そこに比較の能力も、反省の能力も生まれ、道具を道具として認識し、やがて言葉も生まれてきて(視覚が比較の対象となったためです)文明が発達してきました。 しかし、言葉は言葉で 一言で言えば嘘もつける表現手段でもあったわけです。 それを通して 村や村々を平和にまとめる力も出てきた代わりに、 村々を支配する道具にもその知恵や能力は確かに生かされてもきました。 がもとはと言えば、 すべて「見つめる」脳が生物の命に宿ったところから人間のすべてが始まったわけです。 私たちの脳は すべて、過去に縛られる必要はないのです。 過去は すべて未来のために「みつめなおされる」ことでよりよく生かしてゆくことが出来ます。 その時に重要なのが じつは五感という原点を言葉を越えて見つめ直してみることだと私は思っています。 すると 猿から人間に進化した時点で そのユトリの中で人間は 森をただの生き抜く対象(本能の奴隷状態)からの目ではなく、 始めて緑を そしてそこに太陽の日がゆれこぼれるのを、 海を、海の潮の香りを、雲を 大地を 感動してながめ、そしてそれを言葉以前に目と目で語り合ったのです。 あるいは、 今では ジャズ・ミュージシャン達の手によって アフリカの音楽が 単調な面は気持の統一をデタラメに聞こえる部分は じつはスイングしあった私たちの想像を絶するような感性の豊かさや新鮮さを表現していた事が知られるようになっていますが、 詳しくはともかく、 言葉以前にも 人間の脳がそこに作ってきた森の中での生活の豊かさが知られてきています。 歴史という言葉を 歴代の資料(言葉に残された)世界から史実を明らかにする学問というふうに定義すれば、 その言葉以前、 あるいは言外の五感の存在を 他の音楽や絵(この解釈の世界はじつは難しいですが) あるいは彫刻などに求める時、 考古学は 神話などの事実ではない描写の意味合いをよりいっそう深く哲学する材料を私たちに与えてくれると私は そのへんを期待しないではいられない人間なのです。 じつは私も 考古学自体はほとんど知りません。 アカデミックな哲学の世界もよく知らない肉体労働者として生きてきた者です。 が、考古学というと、私の中には 大きなロマンが起こります。 人類が言葉を いよいよしっかりと獲得した時代に、キリストや孔子のような人が 人類を貫くような思想を 自らは書物を書かなかったのに、残すとう偉業を成し遂げています。 が そこから同時に 文明の争いの世界も起こって来たわけです。 ここに、 私は その言葉の資料と 言外の精神の深みの世界を、今こそ考古学と哲学との融合の力で、明らかにしたいというそれこそ人類史的な神話解釈革命論を構築していきたい気持にもなるところ、 もっと日本に限定したことでは、 たとえば、 日本の琵琶という楽器は、シルクロードから中国の大地を源泉に伝わってきたわけですが、 同じ種の楽器はブルガリアの一弦琴や セルビアのサズという楽器としてシルクロードを通って伝わっていると聞きます。 モンゴルには、馬頭琴が昔から伝わっていますし、ニ胡の歴史も深いでしょう。 では、その源泉の源泉はどこだったのでしょう。  そして、それぞれのその音色の神秘の意味するものは?  セルビア民族が 武士道のような勇壮な魂を持っているのは? セルビア民族が、茶道にもまさる「もてなし」の魂をもっているのは?   なぜ、シルクロードの西の果ての弦を日本の弦とが、こうも深く響きあうものなのか? あるいは、 アンデスの音楽を聴いてなつかしい気持になるのは私ひとりでは無いでしょう。  あの山と太陽信仰の文化が やがて海をわたり、ポリネシアの無類の明るい音楽の地を通り、踊りと合唱と素朴な恋で有名な(一昔はです)台湾のもともとの原住民の地を通り 沖縄に そして日本に というルートの そのへんの楽器等の存在の発見も まさにロマンに満ちていると思うのです。   楽器だけでなく もちろんそのへんのフィールドワークとの比較は必要でしょうが、 生活やその道具の 移り行きをさぐってみたいと思いませんか。  出来うる限り もっともっと。 私が思う日本民族は、おそらく知れば知るほど、世界を調和させる能力がある民族だと思います。 そのルーツをこそ、 考古学が、もっともっと見つけて欲しいと思います。 天皇制ということは、半貴族主義とも言えるかと思います。 が君子の精神は 昔にはたぶん絶対的に必要だったと思います。 その時に聖徳太子も含め 日本は天皇制によっておそらく唯一 大きな争いをしないで君子の治める国として生き抜いてもきたわけです。 今では それを誇りある象徴としていますが、 平和的にそういうカタチにできるのも日本人だからこそとも思います。 この情報化時代(世界がつながっている時代)にて、日本人は おそらく世界を調和させる民族としてもっとも適していると私は考えていますが いかがでしょうか?  

booter
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 少し長くなってしまったので御礼と補足に分けて記載します。 また、文字数制限で書けない部分がありましたのでご容赦下さい。 > その言葉以前、あるいは言外の五感の存在を(略)そのへんを期待しないではいられない人間なのです。 私も同意見ですが、下記点を補足する必要があります。 こうした文化的な生活を営む事が人間の受ける幸福の一つだと考えていますが、これには社会の安定が必要であり、人間の優先課題としては社会を安定させる事から取り組まねばならないのです。但し、優先させるからという理由で完全に中断してしまうのはあまりよくは無いとも考えています。 (そう言えば質問時には意識していませんでしたが、考古学の必要性というお題目は事業仕分けが最近検討された事を考えると、かなりタイムリーなものでしたね。というより考古学は仕分け対象になっていたのでしょうか。) > じつは私も考古学自体はほとんど知りません。 > アカデミックな哲学の世界もよく知らない肉体労働者として生きてきた者です。 そうでしたか。私も同様でして、独学(というより遅々と本を読む程度)で疑問になった事をここで質問させて頂いています。ですがご意見頂けて嬉しいです。 音楽的、精神的普遍性については同意見です。 「音楽だけは世界語であって翻訳される必要がない。そこでは魂が魂に話しかける。」-アウエルバッハ 但し、そこから地域、風土により民族性が分岐するようで、その違いがどうしてそうなったのか、と考えると学問的には大変楽しいですね。 > この情報化時代(世界がつながっている時代)にて、日本人はおそらく世界を調和させる民族としてもっとも適していると私は考えていますがいかがでしょうか? これに関しては私は現在否定的な立場を取らざるを得ない状況です。 確かに現在はどちらかというと利害の中間的立ち位置にいますが、藤井厳喜という方によれば、日本人ははっきりとモノを言う大陸系の民族とは気質が合わない、どちらかというと南洋系の台湾などの民族と気があう、としていますが、全くその通りでしょう。 人間たるものは同じ根源を有しているが、その地域、風土、歴史、民族的特性、国民性からその気質を分離し、それぞれ違ったスタイルを取る。これを纏め上げるのは、調整型の日本より主導型のアメリカ乃至は主導を試みる中国でしょう。

booter
質問者

補足

>人間は文明が発達することで、科学技術を一部の国家や集団のために使うような進歩のあり方しか出来ないというふうに思われているのですか? 私個人の意見ではありますが、全てが必ずしもそうだと考えてはおりません。但し優先順位はあります。優先的に人間が営む社会集団の生存競争に使用される事は否めないと考えております。 社会集団の生存あっての文化ですから、技術の適用は「人の心を満たす文化」よりも「戦争乃至はそれに順ずる様式」に優先的に適用されるのと思っているのです。 >booterさんの言われる「国体の護持」ということは、“(中略)そのためには国家が国家として団結を勝ち取らなければならない”といった思想が考古学の価値への道をさぐる前提としてある、というお考えなのですか? 戦時に適用された全体主義への帰結を恐れているご意見と思いました。 結論を急ぐと語弊が出る可能性がありますので、上手く表現できるかどうか分かりませんが、これに関しては順次回答していきたいと思います。 まず現代の人間個人には生存の権利、文化的に生きる権利、自分の理想を追求する権利などが存在すると私は考えています。そしてこれとは別に、他人を救済する人としての気持ち、人間としての優しさがあるとも思っています。自分自身の価値を高める権利があり、然るべき個人の利得を得る。そして優しさがある。ここまではOKだと思います。 上記は個人の枠でしたが、枠を広げて社会集団に適用すると、「自分自身の価値を高める」というプロセスにおいて、個人レベルでは勉強が必要な要素だと思いますが、社会レベルであると必要な材料が少し異なってきます。あの社会集団が上手く社会システムを機能させているのは「過去の経験からあるいは過去事例を勉強し社会システムを上手く整備してきたから」となります。 更に枠を広げて長期的な国家運営に適用した場合、材料は更に異なり、教育、イデオロギー的なものを優先事項として挙げざるを得ないのではないかと思っているのです。長期的な国家運営で優先すべき要素として考える際に、イデオロギーを挙げる事自体が誤りであるというご指摘や他の可能性(経済、情勢、国民性、風土)などございましたらご教授下さい。 そして私自身としての解釈として、日本におけるその民俗・風土から形成される国民のアミニズム的性格からそのイデオロギーを構成する要素の一つとして歴史を捉えており、それを探求する一つの学問の可能性として考古学を捉えているのです(こちらも解釈に誤りがあった場合などはご指摘頂ければ幸いです)。これは前時代のような他地域への収奪、搾取は目標にありません。経済的システマティックな他地域からの収奪、搾取により文明の発展が達成されるという見方もあるでしょうが、知識・ノウハウの蓄積など努力の結果としての高度技量との引き換え、という見方も出来るかと思います)。努力に対する報酬は国家として認められるべき権利であります。 日本という国がそれ自身の価値を高める為の、引いては世界への貢献の為に為す事は当然認められている権利であり、それを達成する為の精神的支柱が失われている。このままでは欧米、中国からの搾取対象となってしまう。これを回避する為に、日本という車に何かしらのガソリンを入れなければならないと考えているのです。そこで天皇制など既存社会の基盤は残しつつも並存できるようなイデオロギー、体制とはなんだろう、と思考実験をしており、歴史とイデオロギーが離せない関係にある為、考古学もその範疇に入れていると言った感じでしょうか。 >「国体の護持」という言葉は(中略)上記の疑問がでてきました。 当時の不況と戦時の不安感にイデオロギーが結びついてしまった為に起きてしまった結果とも言えます。現在は100年に一度の大不況であり、現在のイデオロギーが全体主義に結びつきかねないという観測もあります。人が幸せを求める結果、不況の折には全体主義に傾きやすい。こうした中arayata333さんの不安もご尤もなのですが過去から勉強して同じ過ちは繰り返さないという姿勢が大事なのだと思います。 日本人としての誇りを取り戻しつつ、かつ、過去の過ちを繰り返さない。そうした新しい指針が必要になってきます。 その為に考古学が世界を形作る一つの要素として可能性を帯びてくるように思うのです。

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