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あなたが専門とする学問分野の視座から、神の存在について、私に教えてくだ

あなたが専門とする学問分野の視座から、神の存在について、私に教えてください。 神の観念、神の存在証明、神格化された定理や人物等、どのような切り口でも構いません。 例えば… 哲学 宗教学 文学 歴史学 芸術学 地理学 人類学・考古学 言語学・言語 心理学 社会学 法学 政治学 行政学 経済学 ビジネス・商学・経営学 数学 計算機科学 システム科学 地球科学 宇宙科学・天文学 物理学 化学 生命科学・生物学 応用芸術・デザイン 建築学 工学 軍事学 軍学 農学 医学・看護学 薬学 社会福祉学 家政学 教育学 メディア研究・ジャーナリズム

みんなの回答

回答No.5

言語学をやったものです。そうですね。英語でいうuniversal quantifierというのがあって、all, each, everyなどの論理学でもやる全称語っていうのがあるんですね。あと、existential quantifierっていう存在証明の語がるんですね。some, several, two, three...ていうふうに。で、この全称語っていうのがすごい。これはすべてを網羅してしまうんです。もちろん限定することもできますが、これは深いです。すべてなんです。記号でいえば、∞なんです。初めがなく、終わりがない。つまり完全なんです。それで存在証明の語もあって、これと組み合わせて、存在証明になるでしょ。まあ否定語もあるから、否定しても存在するもの、それが真理でしょ。

  • indians
  • ベストアンサー率48% (12/25)
回答No.4

仏教オタクです。 神についてはおいておくとして、仏について解説するならば、それは「自然の法則」のことです。誰もがその中で生きている自然の法則に感謝せよというのが仏教。一般に仏様といわれてイメージするのは、その自然の法則に仮に目鼻をつけて擬人化してみたものにすぎません。ですから、宗教というと非科学的なものという誤解がまかり通っていますが、本当の仏教はごく当たり前の合理的なことしか言っていません。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.3

私は医療関係ですが、自分の専門分野というと難しいですね。そのような部門がありません。 でも、神は清濁合わせ全ての恵みを与えます。 それを善しととるか悪しととるかは、自分次第です。つまり神の恵みの善し悪しを判断するのは自らの心の映しなのです。 神は有を無にも無を有にもしません。加護とは借金をどう返済するかに似ています。つまり大きな額を一度に払うか、無理なく小さく分けるかです。 大きなままでは乗り越えられない障害も小さくする事でストレスを溜めずに乗り越えられるし、小さなストレスは自己治癒力や免疫機能を活性化し、耐力を付けてくれます。 コレが祝詞で言われる「大難を小難に、小難を無難に」と言う言葉の解釈になります。 つまり、神に何かを求めても与えてはくれない。神の恵みを取捨選択するのはヒトのなすべきことだ。 神の恵みに吉凶善悪はない。それを吉凶善悪にするのは自分自身の心だ。 神は災難を無にしない。無にする事は人の成長を妨げ、抵抗力や耐力を失わせる。ひいては人類を滅亡に至らしめるからだ。 という所でしょうか。 では何の為に神が居るのか・・・存在するから存在するだけのことです。

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.2

観念 経済学では“(神の)見えざる手”として登場したり、小川洋子さんの著書「博士の愛した数式」では“神の手帳をのぞく”などと表現されたりしています。 学問で観念としては、不明なものや未だ解明されていないもの、(現在では)説明できないような力などに“神”が登場しますが、あくまで“解明されていない何か”の代名詞で使われるだけで、一般における“神”のことではありません。 存在証明 現状において、定義すらハッキリしないものですから、証明に取り掛かるのは不可能でしょう。 神格化 アインシュタインが素晴らしい名言を残しています。 それは「私たちは知性を神格化しないよう十分注意しなくてはなりません。」 神格化した時点で、“納得する”学問ではなく、“信じる”宗教になってしまいます。 僕は学生のときに化学を勉強してきましたが、確かに誰かが創ったとしか思えないような、美しすぎる法則もありました。 (というより、今の地球があること自体が奇跡だと思います。) 創造主はいてもいいかな、とも思っています。 しかしそれはあくまで個人の感想であって、学問の場で主張したりするものではないと思っています。

noname#160321
noname#160321
回答No.1

化学屋です。 神は全てです、宇宙であり、時間、あなたであり私であり、また等しくどこにも存在します。

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    学問・教育>←の次になぜ「公民」とか「現代社会」カテがないのでしょうか。 ↓ 外国語 英語 韓国語 中国語 国語 考古学 文学 歴史 経済学 心理学 地理 美術 音楽 環境学・エコロジー 化学 科学 数学 物理学 生物学 地学 天文学 農学 哲学 電気・電子工学 情報工学 建築土木学 医学 薬学 学校 大学院 大学・短大 高校 中学校 小学校 幼稚園・保育所 専門学校 施設 イベント その他(学校) 受験・進学 大学受験 高校受験 中学受験 幼稚園・小学受験 予備校・塾・家庭教師 その他(受験・進学) 留学 ホームステイ ワーキングホリデー インターン留学 語学留学 その他(留学) その他(学問・教育) http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/028/siryo/06081106/002.htm ↑文科省参考 例えば、小学生や中高生から子ども相談で「内閣不信任案はあるけど野党不信任案はないの?」と訊かれたら…「学問・教育」→「公民」または「現代社会」カテに質問投稿したいのですけど。 なぜないのですか?

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。