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自己の同一性は仮象でしょうか?

ghostbusterの回答

回答No.19

補足要求をくださったのに遅くなってすいません。ちょっとまとまった時間が取れなかったので。 > >「要請」というのは、仮説として存在するということです。 つまり、「要請」すなわち公準というのは、ある大前提を設定するということです。 公理・公準となる大前提は証明不能ですが、正しいと仮定される。ここで要請が仮説である、と言っているのは、そういう意味です。 > ロックは人間(man)と人格(person)の同一性を区別しているのですが、 すいません、知りませんでした。ロックは哲学史の脈絡で、ざっとさらっただけだったので。 > つまり身体の同一性も一種の前提に過ぎないのでしょうか? 要請されている超越論的自我というものは、物自体に属するものですから、時間空間因果関係といった人間の側に属する形式を超越しています。そこには身体に起因する、たとえば疲労だとか、感情だとか、欲望だとかといった要素が入り込む余地はありません。ここにある自我は、世界の内に場所を持たず、脱身体化されています。こうした超越論的自我が世界を構成していくわけです。ここでは身体は「対象」のひとつでしかありません。 この身体を客体として見る見方というのは、いまなおわたしたちのなかにも色濃く残っていて、たとえば「わたしの体」という言い方を平気でしてしまう。「わたしの」という所有格のもとになっている「わたし」というものが「身体」を所有しているかのように。 ここには、身体は精神と異なって物質的なものだという思いこみがあります。そのときの「身体」というのは観察の対象です。観察対象が同一であることは、観察の前提です。そもそも、観察対象が同一であることを確認するために、デカルトは心身二元論を唱えたのですから。 超越論的で空間を持たない「わたし」が「身体」を所有しているのではない、「わたし」は身体として「ある」と考えたとき、初めて「身体の同一性」ということが問題として措定されるようになった。措定される、ということは、もはや自明でも、前提でもない、ということです。ロックの「人間」がどのような身体を備えているのかわたしは知りませんが、「身体」ということが問題になってくるのは、やはりフロイト以降、現代哲学の領域に入ってからであるように思います。 たとえばメルロ=ポンティは『知覚の現象学』のなかで、このように言っています。 「われわれはいままで、対象から自分をもぎ離そうとするデカルト的伝統に慣らされてきた。すなわち、反省的態度では、一方では身体を内面性なき諸部分の総和として、他方では精神を隔てなく自己自身に全的に現前する存在として定義づけることによって、身体と精神の常識的概念を同時に純化したわけである。…… 対象は徹頭徹尾対象でしかなく、意識も徹頭徹尾意識でしかない。存在するという言葉には、二つの意味があり、また二つの意味しかない。すなわち、物として存在するか、それとも意識として存在するか、その何れかだというわけである。」(p.324) けれども、わたしたちと対象の関係というのは、そんなふうにすっぱり分かれたものなのでしょうか。 机の上にあるグラスは、手を伸ばしてつかむことができ、そこに水を注ぐことができ、手を離せば落ちて割れるかもしれない、というように、「わたしの身体」を通じて認識されています。グラスを手に取る。重さを感じ、硬さを感じ、冷たさを感じる、それは同時にわたしが自分の手の重さを知り、手の表面の柔らかさを知り、自分の体温を感じ取る経験でもあります。つまり、わたしの身体と、世界のなかにある対象とは、存在するものとして同じ素材から成り立っているからこそ、その対象を知ることができる。つまり、「触れる者」である「わたし」と「触れられる物」は、同じものに属するからこそ、触れることができる。 メルロ=ポンティはここに「間身体性」という領域を考えます。この領域にある「わたし」と「触れられる物」が、「触れる」という行為を通して、「触れるわたし」と「触れられる物」として同時に生起するのです。 この間身体性としての場が、認識を可能にする条件となっていきます。 かなり荒っぽい説明をしているのですが、さらにここから後期の『見えるものと見えないもの』になると、「反転可能性」ということが言われるようになります。つまり、身体を介して対象をとらえる「わたし」は、身体をもつがゆえに、他の者からとらえられる、ということです。 ここで重要なのは、「見る者」≠「見られる物」ということです。 右手で左手に触れる。右手はあくまでも「触れる者」であり、左手は「触れられる物」です。けれど、今度は触れられた左手で、右手に触れようとする。そのとき、左手は、「触れられる物」でありつつ「触れる者」となれるのだろうか。 実際には、今度は右手が「触れられる物」となって「触れる者」であることは中断されてしまいます。それぞれが容易に立場を変えることは可能であるけれども、この「者」と「物」は決して合致することはない。 右手と左手は、ともに同じ世界に属する。「わたし」と「見られる物」も同じ次元に属し、共存し、融合している。けれども、「触れる」という経験において「触れる」右手と「触れられる」左手が立ち上ってくる。「見る」という経験を通じて、「わたし」と「見られる物」が立ち上ってくる。 このように考えていくと「……についての意識」と対象の二元論は果たして有効なのだろうか。放棄するしかない、とメルロ=ポンティは言います。 ----- 力を合わせるわたしの身体は、対象ではなく、わたしの両手、わたしの両眼に粘着した「意識」を、こうした意識に対して横から横断的に働く作用によって束ねるものであることを認める必要がある。「わたしの意識」とは、わたしと同じように遠心的に働く多数の「……についての意識」を統一する総合的で、既存の遠心的な統合ではない。わたしの意識は、わたしの身体の反省以前の統一、対象以前の統一によって支えられ、裏打ちされているのである。 要するに、単眼のそれぞれの視覚、片方の手だけによる触覚は、それぞれの独自の視覚と触覚をもちながらも、他の視覚や触覚とともに、一つの世界を前にした一つの身体の経験を創りだすことによって、他の視覚や触覚に結びつけられているということである。 そしてこれが可能であるのは、それぞれの経験を相手の言葉に変換し、逆転し、転写し、反転させることができるからであり、これによってそれぞれの小さな私秘的な世界が、他のすべての小さな私秘的な世界と隣接するのではなく、他の世界によって取り囲まれ、他の世界のうちに先取りされ、そしてすべての世界が一般的な「感じられるもの」一般の前に立つ一般的な「感じる者」になるからである。(p.137-138「絡み合い――キアスム」『メルロ=ポンティコレクション』) ----- ここに言語が出てくる。これは非常に重要な箇所だと思います。 すでに『知覚の現象学』において、メルロ=ポンティは、わたしたちがものを「見る」ことができるのは言葉があるからだ、という指摘をしていました。わたしたちは言葉として、ものを見ている。言葉として、認識している。 再度、ご質問に戻りましょう。 自己の同一性は仮象でしょうか? 「わたし」というものが対象となり得ないために、このことを証明することはできません。その意味で仮象であると思います。 けれども「わたし」は、日々「××さん」と呼びかけられる、言語によって変換される身体であり、「××」として行動したという言語によって変換される記憶を持っている。その身体と記憶によって、この仮象は保証されているのだと思います。 長くなりましたが、以上、何らかの参考になれば。 やっと回答できて、夏休みの宿題をすませた気分です(笑)。

noname#92784
質問者

お礼

せっかくの夏休みなのにお手を煩わせてしまいました。 あまり余計なことは言わないように注意していたんですが(笑)。 何か私の関心ごとを汲み取っていただいたようで恐れ入ります。 以下、余計なことです。 >物と者 例えば「人間というもの」と言ったときの「もの」というのは、「者」か「物」、いずれなのか。 >言語によって変換される身体であり 名づけということでしょうか。 >記憶によって 例えば横井庄一さんが記憶喪失者だとしたら戸籍上横井庄一と名付けられた人間の同一性を保証するものは身体的特徴の同一性のみということになるのか。

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