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自己の同一性は仮象でしょうか?

ghostbusterの回答

回答No.13

>現象と仮象ってどう違うの? やっぱりここから回答した方がいいんでしょうか。 > 現象は私たちの感官との関係においては、述語として客観自身に付与されうるもの、しかし仮象(Schein)は述語として対象に決して付与されえないものと考えています。 質問者さんは、わかっていてあえて聞いていらっしゃる(笑)。 とはいえ確かにこれは『純粋理性批判』の肝みたいなところですね。 カント以前には現象と仮象はほぼ同じものでした。 その背景にあるのが、わたしたちが感覚器官を通して知覚するもの、経験するものは、すべてそう見えるだけで、そのものの本当の姿は感官・経験によらず、理性によって得られる、という考え方です。 それをひっくり返したのがカントです。純粋悟性や純粋理性からする物の認識は、すべて単なる仮象にすぎない、真理は経験のうちにのみ存在する、と言った。このとき、「仮象」と「現象」は、はっきりと袂を分かったのです。 非常によく見受けられるまちがいのひとつに、カントはわたしたちが現実の断片を綜合し、頭のなかでこしらえている、と言っている、とする見方です。これだと、頭のなかでこしらえた像と、現実のものをつきあわせて、真偽の判定をすることができる。こういう考え方をしていると、「現象」も「仮象」もおなじということになってしまうのですが、カントが言っているのは、まったくそんなことではありません。 経験はかならず経験の対象ではない器官によって媒介され、器官の性質によって決定された形式をとるために、結果として、経験がもたらす表象は、その対象とは異なるカテゴリーに属するものとなります。 ちょうどある人を写した写真がその人ではないように、〈経験の対象〉は経験に似てはいても、それはわたしたちの経験から独立である「生」の現実であるような対象ではありません。 わたしたちは経験の外にある世界を知ることはできない。カントは経験世界を「現象界」と呼びますが、なぜ「現象界」という言葉が必要なのか。なぜ「経験の外にある世界を知ることはできない」という言明を行うのか。それは、わたしたち自身が、経験の外側にひろがる世界があって、対象はわたしたちから独立して存在することは知っているからではないか。理解の可能性の埒外にありながら、「前提」としてそこにあるものとして。 「現象」は「仮象」ではない。「現象」とは、わたしたちが知り、経験しうるものである。 では「仮象」とは何か。水に入れた棒が曲がって見えることを、カントは「経験的仮象」と呼んでいますが、この経験的仮象や、単に推論形式に関わる「論理的仮象」とも次元の異なる仮象、「超越論的仮象」があるという。 質問者さんはここらへんを理解しておられるので、話をぐっと端折ります。わたしも疲れてきた。 この超越論的仮象という誤謬がなぜ起こるのか。それは感官に足場を置かない、理性が誤ってしまうからだ。人間の認識の形式であるカテゴリーを、物自体の世界にまで拡張して、あてはめようとしてしまうからだ。 仮象がなんで起こるかというと、判断の主観的根拠を客観的なものとみなすことにおいて成り立つからです。ですから、純粋理性は自身の出過ぎた使用をみずから認識することが、迷妄に対する唯一の予防手段である、と言っているわけです。 さて、やっと元のご質問にたどりつきました。 質問者さんがおっしゃっておられる >自己の同一性 というかたちで言われる「自己」というのは、経験的自我の諸相と言いかえることができるかと思います。 わたしたちは折にふれてさまざまな感じ方をし、さまざまな記憶を持ちます。わたしたちは「自我」を経験することはできないけれど、経験のなかにあらわれる対象を通して「それを経験するわたし」というかたちで自我を経験するのです。 こうしたもろもろの自我は、経験のなかに存在しますが、同時にそれを超えたものとも関連を持っています。 ちょうど、わたしたちは「原因と結果」を経験することはできませんが、原因にあたることがらと結果にあたることがらは経験することができる(より正確には、できごとを「原因」と「結果」という形式のなかでまとめることができます)。つまり、個々のできごとは、現実的な経験の背後に何かがある、という含意されているのです。 同じように、経験的自我は、個々の自我を超えて、それを統合していくような超越論的自我を「前提」として要請している。 この超越論的自我というのは、カントにとっては経験のひとつの機能であって、わたしたちがそれを引き出すことはできません。けれども、統一的な自我が「ある」と想定してきたのです。 さて、この要請は、仮象ということになるのでしょうか。そういうことになると思います。 「要請」というのは、仮説として存在するということです。わたしたちは行為の基礎となる仮説をたて、この仮説が有効であるかぎり、わたしたちはそれにもとづいて行為を続けます。そういう意味で「仮象」と言えると思います。

noname#92784
質問者

お礼

仮説と仮設 >「要請」というのは、仮説として存在するということです。 この場合、仮設ではなく仮説でしょうか?

noname#92784
質問者

補足

>というかたちで言われる「自己」というのは、経験的自我の諸相と言いかえることができるかと思います。 ちょっとお聞きしてもいいですか? ロックは人間(man)と人格(person)の同一性を区別しているのですが、 例えば自己の同一性をロックの言う人間の同一性とした場合どうでしょう。 つまり身体の同一性も一種の前提に過ぎないのでしょうか?

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