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宗教を信仰してて何が楽しいですか?

indiansの回答

  • indians
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回答No.9

仏教徒(25歳)です。 1、きっかけは美術品としての仏像の美しさに魅かれたからです。 2、身になっています。私の持論からいうと、仏教は宗教ではなく自分が如何に生きるかを問う哲学だと思います。 私の信仰しているのは浄土真宗(西本願寺)という宗派ですが、よく教義を勉強すると仏教は驚くほど当たり前なことを説いています。科学的な目で見てもなんらおかしなことは言っていません(浄土真宗では占いやまじないを信じませんし、何かご利益を求めてお祈りすることもありません。生きていることを感謝するのみです)。元々インドにはヒンドゥー教というまじないや占いを中心とした宗教があって、釈迦はその非合理性を嫌って仏教を開いたので、本当は仏教はそういうものと縁がないはずなんです。浄土真宗以外の仏教宗派では占いやまじないや祈祷をやりますが、これは釈迦亡き後にヒンドゥー教勢力から仏教徒が迫害されたために仕方なく生き残るためにヒンドゥーのやり方を取り入れることで勘弁してもらわざるを得なかった名残りです。 例えば受験の合格を願う時、他の宗教なら神に祈れというに違いありませんが、仏教では「結果には必ず合理的な原因があるもの」というのが基本の教義ですので(これを因果といいます)、受験合格のためには合格の原因となる行い、つまり一生懸命勉強せよというのが仏教的思考です。お祈りしてる時間があったら参考書とにらめっこしてる方が合格の近道だぞというのが仏教です。この辺のことがわからない人が宗教というものを怪しいものと決め付けているのだと思います。 ですから、仏教、特に我が宗派では休日返上してお寺に来いというようなことは言いません。そうしないと救われないだの地獄に落ちるだのいう宗教は全部インチキだと思えばいいんです。休みはダラダラしたり遊べばいいのです。 「何が楽しいですか?」という質問に答えるとしたら、仏像の鑑賞やお寺へ観光旅行に行ってついでに美味しい物を食べること、たまに数珠なんかを特注で作って材料や色をあれこれ考えることなどはとても楽しいです。仏教はカジュアルに楽しいです。

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  • 信仰って造られている通りを行くのでしょうかね。

    【信仰の性格】 古今東西、たくさんの宗教と信仰があります。 キリスト教の聖典(バイブル)にしても多様ですね。 一つの宗派においてもたくさんの聖典があります。 それらの聖典同志においても、一つの聖典の中でも表現や内容は多様です。 哲学者や政治論研究者の論述のように、一人の人が論述しているのとは違う有様です。 伝える文書や伝え方の問題もあるのでしょうが。 そういう聖典やその開設者・論述者の論述、或は一定の宗教団体の提示することが固定的で客観的なる信仰の道なのでしょうか? どの人も信仰においては先人の論述や宗教団体の提示することに対して、時には宗教改革となることもやむを得ないのではないかと思うのですが。皆さまは如何ですか? 言い換えれば、自分の人生と生活において、人はみな自分の道を持つことは已(や)むを得ないのではないでしょうか? 人はみなそれぞれ自己の宗教を求め、編集し続けるのではないでしょうか? だからと云って、教祖・大師・Guruの教えが不必要だというのでもないし、改竄していいのだとは言えませんが。 むしろそういう教えを自己に生かしていくには、どうしても自己の中で理解と解釈をするという自己への編成(変成)が必要ではないでしょうか?

  • 宗教と信仰心と人間の関係

    宗教って、人間のためにあるもので、 人間が宗教のためにあるわけじゃないですよね? 歴史的に海外でも日本でも殉教者っていますし、 宗教がらみの戦争は、今も(? )昔も数限りなく。 信心や宗教的理想のために、覚悟の上での殉教はともかく、、 わたしの思いですが、 本来、自然な信仰のあり方は、信じる人が幸せに 心穏やかに過ごせるよう、 ストイックに走らず、 他者(異教徒含め)も自分も平和に共存していける、 そんなものではないかと思うのです。 人間が、神様のために死んだり迫害されたりする、 それじゃあ、人間のために宗教があるのではなく、 宗教に、人間がお仕えしてるみたいです。 政治も国家も法律も、人間や他の生きものや、 環境等のためにあるのであって、 宗教も同じだと思います。 自然災害を神の怒りと思わざるを得なかった昔ならともかく、 今は、何かを生けにえにしたり、 人間が宗教の犠牲になる必要なんて、ないと思うのです。

  • 100%の信仰ではありません。(キリスト教徒)

    3年前に洗礼を受けたプロテスタントのキリスト教徒です。 教義に疑問を抱き、1年半ほど教会を離れたあと、3ヶ月ほど前からまた教会に通うようになりました。 ですが、教会や牧師の教えに、100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。 たとえば、自分は輪廻転生はあると思いますし、他の宗教の教えにも興味はあります。他の宗教を否定する気持ちは全くなく、共通するところや、互いに学べるところがあると思います。 聖書に関して曲解もあるような気がしてなりません。 つまり、イエス・キリストのことは大好きなのですが、 人間のつくった教義に対しては、不信をいだいてます。 聖書を読みつつも、精神世界の本や、ヒンズー教、仏教のことも少し勉強しています。 聖書以外にメインで読んでいるのは、パラマハンサ・ヨガナンダ氏の著作です。彼の設立したSRFなる団体にも顔を出しましたが、すでにヨガナンダ氏の理想とは離れた集団になっていると思われたため、行くのはやめました。 自分がこのように考えるのは、 信仰への興味が薄いのではなく、信仰を真剣に考えた結果です。 しかし、このような考えを持っていることは、教会の人には言えないまま、申し訳ない気持ちを抱えつつ、少し距離をおいたつきあいをしています。 本当はもっと仲良く付き合いたいのですが、このように隠し事をしている状況では、居心地も悪く感じています。 また、隠したままでいるのが心苦しいだけでなく、自分の考え・状況を理解してくれる人がほしい、と思います。 自分の状況を、クリスチャンの人に話してみるか、 キリスト教会とは別に、またスピリチュアルな集まりなどに、どんどん顔を出してみるか・・さらに秘密が増えてしまうわけですが・・ 一人で信仰を求めようとして教会を離れたこともありますが、 うまくいかず、自分は一人でやっていける段階にはない、ということもよく分かりました。 信仰の仲間といえる人が欲しいのです。 うまくまとまっていない質問文ですみませんが、 アドバイスをください。お願いします。

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    詳しく書くと荒れるかもしれないので、敢えて単語は出しません。ご了承ください。 先日、親友と呼んでも差し支えのない相手から、熱心な宗教信仰者であることを告白されました。 よくよく考えると、言動が若干おかしいし、浮世離れした雰囲気を持った子だとは思っていたので……宗教と聞いて、カチッと嵌りました。なんとなく、宗教してるから、こうなったんだろうなってのが納得行ってしまったんです。 優しいし、頼れるし、純粋で本当の本当に良い子なんです。 でも、その思考の由来が宗教だと思うと……正直に言うと、悪寒が走るんです。 もちろん、その子の性格を構成している全ての要素が宗教とは思っていません。 元々、あまり宗教と言うものを真剣に捉えておらず……仏教系の学校に行ったこともあったのですが、そこまでのめり込むという感覚が理解出来ないんです。 しかも、その宗教は、わたしが今まで毛嫌いしていた系列のものでした。キリスト教とか、イスラム教とか、そういうものであれば、本当に構わなかったのに、「よりによって、それ?」と感じてしまいました。 宗教が悪いと言うか、盲信する姿そのものがダメなんだと思います。 根本に、宗教を熱心に信じたところで、世の中どうにもならないって気持ちがあって……「別に結婚相手とかじゃないんだから、良いや」と思いながらも、深層心理は――楽しく話しているのに、心の底では「宗教……」と考えてしまうのが、とても嫌なんです。 これからも仲良くしたいのに、何処かで相手の子を生理的に受け付けない自分がいる。ここまで明確に、はっきりと、生理的に人を「軽蔑」していると意識したことは、これが初めてかもしれません。 宗教の勧誘とか、そういうのは一切受けないです。わたしに迷惑がかかることはないです。 どうすれば、上手く割り切って付き合っていけるでしょうか。 わたしが差別していて、相手を軽蔑してしまう気持ちを改めたいんです。 たぶん、告白には凄く勇気が要ったと思うし、わたしを信用しているから話してくれたんだと思うと、とても辛いです。 相手のことが大好きなのに、嫌悪してしまう自分が凄く嫌です。