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無我について

noname#100496の回答

noname#100496
noname#100496
回答No.11

疑問にお答えします。この世界が諸方無常で、不変で無いのは、この地球が仮の世界だからです。だから科学者アインシュタインは、仮の世界を前提にした相対性理論を発表し、その後の実験で、この世界が仮の世界である事が証明されました。人の誕生と我について説明します。宇宙の大元は、完全調和の世界です。調和の世界が成長、拡大するためには、まわりの周辺部の不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。その地球へ、調和の世界から、宗教で言う神の子仏の子の無我意識が来て、不調和の脳の自我意識と合体して、人の心が誕生しました。だから人の心の中は、脳の自我と自然の無我が対立しています。脳が思考してる時は、人と自然の心との交流を、脳が遮断するので、心がストレスになります。脳が休むと、人と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。現代人は心が、自我に偏っています。無我を理解するためには、脳を休ませる必要があります。幸い日本には、脳を休ませる方法が多いです。仏教では禅があります。また日本の伝統文化も、脳を休めて自然の情緒、心の癒しを追求しています。茶道、能、演歌、日舞、歌舞伎、民謡、詩吟、書道、日本画、浮世絵、短歌、俳句など、西洋文化のような自己表現ではありません。また手作業は、意識が頭から離れて手先に集中するので、脳が休みます。だから日本は職人文化が盛んです。だから無我を理解するためには、本では、脳の思考だからダメです。自分で脳を休める工夫をする事です。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございました! 又新たな視点での「無我」の解釈とても斬新で仏教の事だけじゃなく勉強になります。 アインシュタインの相対性理論については少ししか知識がありませんが、この世界が仮の世界であるという主張をなされていた事は全く知りませんでした! 自分で脳を休める、つまり意識を遮断するというか周りと一体になるということでしょうか。 確かに、真理は言葉では表せないと禅でもありますね。 本当に理解するには自らが無我にならないといけないのかもしれません。。

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