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輪廻の主体は何なのでしょうか

また質問させてもらいます。 ふと気になったことですが、仏教では輪廻という考えがありますね。三世にわたって転生するという考え方です。普通これは魂が輪廻するように思いますが、仏教は魂を肯定しないそうで、では何が輪廻するということになるのでしょうか。 それと、無我という仏教の思想は永遠不滅の存在を否定するそうですから、それならやっぱり輪廻する主体も否定されることになると思うのですが。 一体仏教ではそのあたりがどのように説明されているのでしょうか?

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  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.3

確かにこれは難問で、残念ながらはっきりとした答えは出せないと思います。 「無我」と「輪廻」という矛盾する考え方は、仏教において同等の重要性があるわけではなくて、圧倒的に「無我」が優位を占めています。「無我」は仏教の基本的スタンスのひとつですから、あくまでもこれが優先されるべき思想なのです。 「無我」は梵語でanatman(アナートマン)といいますが、これはアートマン(我)という考え方を超えようとしたものです。ウパニシャッド哲学などでいう「われという意識」「わがものという観念」のもとになる「我」の実体視を拒否したのが仏教の基本姿勢です。 けれども「輪廻」のほうも先行思想であり、いわばインド人の思想的な伏流として体に染みついていたわけで、これを払拭することは仏教もついに叶わなかったのでしょう。 「輪廻」は梵語でsamsara(サンサーラ)といいますが、この言葉には「(生まれ変わりを繰り返すような)命のあり方」という意味もあり、流転する人生を指すニュアンスもあります。それほど輪廻を人生の根底に置くものの見方が強いわけです。 輪廻が仏教の名において説かれたのは事実ですが、悪く言えばこのような皮膚感覚の「輪廻」思想に自然と侵食されたと言えるかも知れません。 その侵食の背景ですが、初期の仏教の立場にも原因があると言えるかも知れません。このあたりは微妙なのですが、初期の仏教では「我」を否定したのではなくて、客体的な、機能的な「我」をたてる考え方に反対したのであって、「我」の存在そのものについてはお釈迦さんは有名な“無記”の立場、つまり判断を保留して返答をしなかったことが知られています。 要は生活上の実践として「わがもの」という観念を捨てることがお釈迦さんの眼目だったわけで、「無我」の観念を体系づけることはせず、結局「我」の否定も行わなかったのです。これが残念ながら混乱を招くひとつの要因だったと言えるのではないでしょうか。 ともかくも、三法印のひとつである大看板の「無我」を損なうことなくこの矛盾(だけではありませんが)を解決するためのひとつの理屈として、例えば「刹那生滅」といった考えも用いられました。 文字どおり、人間の体は瞬間ごとに生滅を繰り返しているので恒常普遍のものではないという考え方で、それは生を変えても同じことだ、というわけです。ちょうどろうそくの火が形を変えながら、つまり変化しながらも連続したひとつのものであるように、変化しながら続くのが人の生である、というものです。 この説に説得力がなかったせいではありませんが、一部の解釈では「補特伽羅(ふどがら)」という存在が仮定されたことがあります。まさしく輪廻の主体として考え出されたもので、物でも心でもないものとされましたが、やはり人間存在の実体化にほかならないわけで、この考えは異端視され、主流となることはありませんでした。 また、先のお答えにもあるように唯識学派では心を分析してアーラヤ識など、輪廻を繰り返しても業を保持する機能の存在を仮定しました。これは名目上は「心」ですが、限りなく実体的な「我」に近いわけで、本来の「無我」説との整合性はとりにくくなっています。 結局、いろいろと考えあぐねて今にいたっている、というのが本当のところでしょう。 ただ大局的に「無我」と「輪廻」の思想的な影響力を見ると、「無我」が優勢になってきているのは明らかです。 無我はもともとの「人無我」という人間存在についての限定的な無我から拡大して、存在全てを無我とみる「法無我」の見方へと拡大されてきました。物質存在を分析する科学的な知見も「無我」の追い風となっているように思えます。 これに比べると「輪廻」のほうはやや影響力を失いつつあるように感じられます。これに伴って将来的には、両者の間の矛盾もさほど問題にならなくなっていくのかも知れません。 ※長い割に結局結論があいまいな回答になってしまいました。必要な部分だけ取捨して頂くようお願いします。

valhalla
質問者

お礼

長文のご回答、どうもありがとうございました。 やはり結論は「はっきりしない」ということになるわけですね。ちょっと無我の話は私には難解なところもありますけれど、輪廻より無我が重要だということはよくわかりました。 >「わがもの」という観念を捨てることがお釈迦さんの眼目だった この言葉は重く響きますね。毎日を反省せねば・・・ しかし仏教は日本でもそうですが、その土地のいろいろな風土の影響を吸収したうえで成り立っているわけですね。 大変勉強になりました。

その他の回答 (2)

  • Daxing
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.2

調べてみたところ、どうやら仏教では永遠の謎とされているらしく、分派した宗派ごとにさまざまな解釈が為されているようです。 その一例に、インド仏教の唯識瑜伽行派が輪廻の主体がアーラヤ識だとしたというのがあるそうですが、これも後に批判されたそうです。 大元に当たる釈尊(仏陀)自身が輪廻を肯定したか否定したかが定かではなく(輪廻は否定しながらも資料によっては輪廻を用いて説法を行ったとか)、資料によっても食い違いがあるみたいです。

valhalla
質問者

お礼

どうもありがとうございました。 仏教にも「永遠の謎」があるんですね。軽い気持ちで質問させてもらったのですが、意外と難しい問題に関係しているわけですね。 お釈迦様はとても人間的な方だったそうですが、そういうところが説法のブレにでたということなんでしょうか。おかげで興味が湧いてきました。

  • cotiku
  • ベストアンサー率17% (38/216)
回答No.1

二宮尊徳の解釈を紹介します。 ★仏は三世を説くなり。三世は必ずあり。されば地獄極楽なしというべからず。見ることならざればとて無しと極むべからず。さて地獄極楽はありといえども、念仏宗にては念仏を唱ふる者は極楽へゆき、唱えざるものは地獄へ落つと、法華宗にては妙法を唱ふるものは浮かび、唱えざる者は沈むと、また甚だしきは寺へ金穀を納める者は極楽へゆき、納めざる者は地獄へ落つと、かくの如き道理は決してあるべからず。それもと地獄は悪事をなしたる者の死してやらるる所、極楽は善事をなしたる者の死してゆく所なること疑いなし。それ地獄極楽は勧善懲悪のためにあるものにして、宗旨の信不信のためにあるものにあらざる事明らかなり。迷うべからず、疑うべからず。 ★儒道に積善の家余慶あり積不善の家余殃あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。それ仏に三世の説あり。この理は三世を貫通せざれば、決して疑いなきことあたはず。疑いの甚だしき、天を怨み人を恨むに至る。三世を貫通すればこの疑いなし。雲霧晴れて晴天を見るが如く、みな自業自得なる事を知る。故に仏教三世因縁を説く。これ儒の及ばざる所なり。今ここに1本の草あり。現在若草なり。その過去を悟れば種なり。その未来を悟れば花咲き実法りなり。茎高くのびたるは肥料多き因縁なり。茎の短きは肥料のなき応報なり。其の理三世をみる時は明白なり。しかして世人この因果応報の理を仏説といへり。これは書物上の論なり。これをわが流儀の不書の経に見る時は、釈氏いまだこの世に生まれざる昔より行われし天地間の真理なり。 ---親講二宮尊徳夜話--黒岩一郎著---- と、いうことで、話の分析より、何を目的にした方便であるかを読み取ることが大事かと思います。 余談ですが、私の考えでは主体は遺伝子です。夫婦半分ずつ。良い種をまくと良い花・種が収穫でき、次世代も期待できます。

valhalla
質問者

お礼

長文のご回答、ありがとうございました。 二宮尊徳がこんなことを書いていたのですね、勉強になりました。 >地獄極楽は勧善懲悪のためにあるものにして >しかして世人この因果応報の理を仏説といへり。これは書物上の論なり 尊徳は現実的な立場をとっているわけですね。あんまり深く考えても意味のないことにとらわれるのは、現代人の悪いところなんでしょうね。 勉強させてもらいました。

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