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輪廻する主体は何?

仏教では無我が説かれるそうですが、これは諸々の構成要素が、私が「私」と思い込んでいるものを形成しているに過ぎず、「私」は永続的ではないということを説明しているのだと解釈しました。一方、輪廻が説かれるということは、「私」には何らかの永続的な主体があると見なされているということだと思います。この輪廻する主体は、私の構成要素の中の本体のようなものでしょうか?いずれは意識がなくなり、私であったものは解体されるということは常識的に理解できるのですが、意識や五感といったものを取り去っても、なお、私の根源あるいは本質があって、それが輪廻するということでしょうか?「方便」とか、「仮」といった答えでは私には理解できません。仏教をそれほど知らない人(高校倫理の教科書レベルの知識をもつ人)でも納得のゆく説明をお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

  • Fumius
  • お礼率96% (348/361)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.6

こんにちは。。  少々書籍を読みかじっただけの者ですので、頼りない説明になると思いますが。(しかも、王道の「方便」「仮」が使えないとなると、飛車角抜き以上に厳しいかなと。「仮」がダメなら二真理説も使えないし・・・)  インド仏教の歴史の一つの側面は、ご質問者さんが感じられた「何が輪廻するのか?」という点を、探求したり、他の学派と論争したりして成り立っているとも言えます。  仏教内のさまざまな思想や学派よって、見解が異なる部分も多く、「仏教の統一見解」というのはないと言って良いと思います。(仏教内でも「輪廻する主体」を想定した学派がいくつかありました。)  仏教全般に、概ね基底にある考え方として、(そして方便や仮を使わない説明として)「識相続」というものがあります。  ものすごく端折ると、「識」(意識とは少々違う、意識の内奥にあるもの)が、数珠繋ぎのように瞬間瞬間に次の意識を生んでいく、という考え方になります。  生き物が生きている間も、一瞬一瞬に識が次の識を生み出していくという感じになります。また識は同一品が単にコピーされるだけでなく、行い(業)も相続することによって少しずつ変化していきます。  生き物が亡くなった後も、その識は残り、「中有」とか「中陰」などと言われる移行期間を経て、次の生に移るという感じになります。  識は単体では一瞬一瞬で消えてしまうので、恒常的な「我」はない、ということになります。識が次の識を玉突きのように生み出し続けるものの、前後の識はまったく同一というわけではないため、「諸行無常・諸法無我」となり、識が次の生まで相続される形で、思うにまかせない永劫の輪廻を繰り返していくため、「苦」であるということになります。  自分もまだまだ勉強中ですので、これぐらいで・・・  仏教の輪廻の説明は、どちらかというと仏教以外の学派との対論用という感じがします。位置づけとしては「前座」的なもので、お話しはこれから、という感じでしょうか。  老婆心ながら・・・ご質問文を拝見していると「問題の所在」を的確に押さえておられるように見えました。「方便」や「仮」も仏教のキモになる部分ですので、機会があれば調べていただければと思います。  長々と失礼しました。では。

Fumius
質問者

お礼

失礼しました。補足欄とお礼欄を間違えました。

Fumius
質問者

補足

回答ありがとうございます。識相続という言葉ははじめて知りました。とても合理的な説明で、無我と輪廻について理解が深まりました。

その他の回答 (35)

回答No.36

NO.35です >実態を変化するものであると定義するならば、変化しないものである座標は実態ではないということでしょうか。 なかなか鋭いところをついていらっしゃる 変化しないものは実態ではないか非かということですが そうですね今のところ変化しないものは実態化されたものを見たことが ないので変化しないものは実態ではないと捉えても良いかもしれませんが根源的な意味は違います、実態の無いものは変化しないのではなく実態そのものが無いのであって色も形も存在しない存在であり実態のあるものを実態のあるものとして示すことの出来る存在であるということなのです。 もし変化しないものであれは実態の無いものの中の時間を外しただけで 空間も主体性も無くなってしまうのでそれだけではないということがいえると思います。 >座標というと、なにやら客観的なもののような印象ですが、個別特殊的にそれぞれの「私」の本質と見なされるようなものでしょうか。 まあそういうことです ですが不思議に思われる人が多いですねここは 私の本質が沢山あるというところに納得いかない点らしいです。 Aさんの本質はAさんの基準ですがBさんの本質はBさんの基準・・・・・ とここが不思議ですね自分でもどう説明して良いのか・・・ 超能力研究でテレパシーというのが有りますがあれは他人の感じている意識を主体性で捉えるという荒業です。

回答No.35

NO.33.34です。 すみませんNO.34間違えました。 >実態のないものを実態のあるものとして区分する働きを有する不滅のものが輪廻するものであるということでしょうか。 これなのですが実態のないもの(主体性)実態のあるもの(非主体性)区分する働きを有する不滅のものではないです。 実態の無いものを座標が(つまり我々の主体性が座標です)不滅であって 実態のあるものつまり関数が変化すると言う意味です。 -------------------------------------------------------------- ごちゃごちゃになるといけないので実態の無いものと実態のあるものをご紹介します。 実態の無いもの=座標 主体性,時間,空間 実態のあるもの=関数 {物質,肉体,脳,意識,現世,来世,あの世,超能力etc}=非主体性 例えばですね死というものはですね肉体が滅びる訳ですから実態のあるものが変わるだけであり実態の無いものが変わるわけではないのです。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。実態を変化するものであると定義するならば、変化しないものである座標は実態ではないということでしょうか。座標というと、なにやら客観的なもののような印象ですが、個別特殊的にそれぞれの「私」の本質と見なされるようなものでしょうか。

回答No.34

>実態のないものを実態のあるものとして区分する働きを有する不滅のものが輪廻するものであるということでしょうか。 そうだと思われます。 よく意識とか性格とか違うじゃないかと聞かれるのですがそれは NO.33でいうと非主体性にあたる部分だと思います。

Fumius
質問者

お礼

回答がりがとうございます。理解しました。

回答No.33

とりあえず哲学なので哲学的に証明しましょう。 1つの主体性を考えてみてくださいその主体性以外はみんな非主体性です。 座標を思い描いてください主体性は捉える側なので座標の方です非主体性は捉えられるほうなので関数です。 非主体性の関数がどんなに変化しようと主体性の座標はが壊れることはありません。 証明終わり。 なぜ座標にしたかというと主体性が次元的なものだからです。 時間を思い描いてください実態を示すことが出来ませんね。 空間を思い描いてください実態がありませんね 主体性を思い描いてください実態がありませんねようするに実態のないものを実態のあるものと対象にしているのが座標ですので座標という考え方でよいかと思われます。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。実態のないものを実態のあるものとして区分する働きを有する不滅のものが輪廻するものであるということでしょうか。

  • taishi1
  • ベストアンサー率34% (9/26)
回答No.32

 深いテーマだけに様々なご意見が出てとても興味ぶかいスレになりましたね。 >もしも、死後に、今の意識も継続されず、しかも別の意識が生じることがないとすれば、すばやく死ぬことが苦から逃れるためには最善だと思えるのですが  おっしゃるように、仏教の目的は苦からの解放でしょうが、唯物論的世界観に立てば厳しい出家生活を送るより自殺が一番てっとりばやいでしょ?というツッコミにまっこうから返す言葉がないんですよね。自殺の倫理的是非論はさておき、少なくとも己一人は確実に苦からは逃れられる、ということは言えてしまう。 >釈迦ほどの知恵者が修行に励んだことをおもうと、やはり、本来の仏教は、なんらかの形で、死後の継続を前提としていたのだろうなと思えてきます。  確かにブッダは死後生を教えの前提としていたと捉える方が自然で無理がないかもしれません。  思うに「アートマンならざるものをアートマンとみなすなかれ」「名称と形態を有するものはアートマンではない」といったブッダの非我説が無我説となり、一方輪廻的世界観との整合性をもたせるために、(他の回答で専門家の方も述べておられるように)後の大乗仏教は中観→唯識→金剛大乗(密教)と発展する過程で如来蔵や大我思想といった煩瑣な哲学を構築せざるを得なかったのでしょう。  昨今有名なスリランカの高僧・スマナサーラ長老が大乗仏教は観念の遊戯に堕しているのではないか、といった手厳しい批評とともに日本仏教界にとって数々の核爆弾的発言(笑)をされているのは、このあたりのいきさつも含んでいるようです。  輪廻の主体は何か、という問題は私もかつて関心を持ち自分なりにいろいろと調べてはみました。確信的答えを見出せぬままそのうち関心もなくなってしまいましたが、私の場合仏教外のヒンドゥー思想との比較がいろいろと興味深い刺激を与えてくれました。  ヒンドゥー教の主流思想はヴェーダーンタ哲学ですが、この哲学の中でも最も正統な学派を不二一元論(アドワイタ)といい、インド思想史における仏教の好敵手でした。  この学派は唯一の実在はブラフマン(=アートマン=真我)のみで、それ以外の一切…宇宙も霊的世界も輪廻も…無明の作り出した幻影(マーヤー)に過ぎぬ、と説きます。彼らは輪廻の主体をジーヴァ・アートマン(個我)と呼び、これも無明から生じた幻にすぎぬと説きます。  我々は輪廻する宇宙という壮大な夢の中で業に従い流転しているが、実は個別的自我などというものはなく、我々の本性は実在・意識・至福たるブラフマン(純粋精神・目撃者)である。「汝はそれなり」という有名な言葉ですね。  このブラフマン(真我)には原因も属性もないとされ、目が目自身を見れぬように、認識することの背後にある認識主体であり、「肉体は真我ではない」「精神作用は真我ではない」というように、~ではない、~ではない、という否定形でしか表現できぬとも言われます。  私はいつの日救われる?  それその「私」が消えたとき  有名なヒンドゥーの聖者の言葉ですが、この言葉がヒンドゥーの真髄を端的に表しています。輪廻の主体は「私」という自我意識であり、無明による幻影である。「私」や「私のもの」といった誤った感覚がある限り我々は幻の中で輪廻を繰り返すだろうという思想です。  これを仏教的表現で言えば輪廻の主体は自我意識という煩悩である、となるのではないでしょうか。  で、仏教と不二一元論は延々と論争をします。無我を掲げる仏教徒は口が裂けてもアートマンやブラフマンなどと言いませんし、「お前ら喋りすぎだ、真我などとまるで永遠不滅の実体があると勘違いするじゃないか、第一真我のみ実在といいながら、それを覆う無明が存在するなら二元論ではないか」と噛み付き、不二一元論者は解脱の境地をも空とする仏教徒を虚無論者と罵りつつあれこれ反論し、煩瑣きわまる論争が展開します。  ブッダが聞けば不毛の論議をするなと大喝したかもしれませんが(笑)、しかしこの両者、大意においては表現が違うだけで言っていることは酷似しているようにも見えます。実際不二一元論の学祖にしてインド史上最大の哲人とされるシャンカラ大師は「仮面の仏教徒」と陰口を叩かれたほどでした。  無明が断滅された悟りの境地を、止滅というネガティブ表現(仏教)で語るか、純粋叡智というポジティブ表現(ヴェーダーンタ)をするかの違いなのではないかと、素人の私などには思えてならないのですが…  ちなみに「無明はなぜ、何から生じたのか」「業や輪廻に始まりはあるのか」といった答えなき疑問ですが、宇宙論においてビッグバン以前の時空を考えるのはナンセンスっていわれるようなジレンマですよね。  余談ですが、20世紀初頭における物理学上の数々の発見でニュートンの機械的宇宙観が葬られ、古典的唯物論を「19世紀の骨董品」にしてしまった。新しい世界モデルの基礎構築に貢献したハイゼンベルグやボーアなどが、量子論・原子物理学に基いた新しい世界観と大乗仏教やヒンドゥー哲学との類似を知って愕然とした話は有名です。  百年後の現在、宇宙が生命のように子宇宙・孫宇宙を際限なく生む多重発生理論だの、宇宙は真空エネルギー(無)から生まれ相移転して発生した(ピレンケン・モデル)だの、「無」からできた宇宙は本来11次元の時空(超ひも理論)だの…最新宇宙論はインド神話に親しんだ私にさえオカルトなヨタ話にしか聞こえません(笑)。きわめつきは、『客観的宇宙というものは存在せず、時空を超えた次元から投影された虚像にすぎない。時空を勝手に構築しているのは我々の脳にすぎぬ』とするホログラフィック・モデルですが、唯識思想や宇宙を神の夢とするヒンドゥー思想と何が違うのか?いずれの理論も実証には数十年かかるそうですが、宗教より物理の方がぶっ飛んでると思うのは私だけでしょうか。  長々と失礼しましたが、ご考察の一助にでもなればと思い、ヒンドゥー思想からの観点についても触れてみました。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。真我が唯一の実在と考えるあり方は、徹底的な懐疑主義であるという印象を受けました。「私」以外のあらゆるものを虚妄と見なす態度は、なんとなく、教科書に出ていたデカルトを思い出させます。こまごましたところで仏教と異なりながらも、我を否定しつくすことで輪廻が終わるという考えの方向性は仏教によく似ていますね。興味深く読みませていただきました。

回答No.31

主体性は永久に不滅です滅亡という概念が無いからです。 滅亡とは滅亡されていない存在がなければいけませんが魂は滅亡とか 関係ないですなので不滅です証明してもいいですよ例えば石があったとしましょうそれは石が壊れていな状態ですねそれが壊れるわけですあたりまえです。ですが主体性は壊れていない座標が無いので壊れないのですわかりますか?

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。正直なところ、よくわかりませんが、魂という主体性を有するものがあって、それが生成・解体というサイクルとは無縁であるということですね。

回答No.30

まず人間には主体性というのがありますね自分が「魂を信じない人の心理を教えてください」と質問したときある人が補足要求で「主体性とは何ぞや」ときかれて答えたらキレられて終わってしまいましたがその答えで言いますと我々が魂の世界でしか物事を見れていないということです。今自分の意識は自分でしか感じ取れませんこの感じ取れる存在そのものが主体性です。自我とはまた違い主体性は身体とリンクしっぱなしです。それは肉体と離れたときに輪廻が始まります肉体と離れると主体性は浮遊します。

Fumius
質問者

お礼

回答ありがとうございます。意識を感じ取る存在のあり方が主体性で、その主体性を有する部分が輪廻の主ということでしょうか。意識を了解しているものもまた意識であると思っていました。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.29

誰の定めた運命なのだろう。 戦争による種滅亡の危機に備えて 時代が要請した しかし同じものを観しかもはるか深く高い教養を有するを目の当たりににすればちいさき心洗われるのみ。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.28

繋ぎとめたる魂の緒。 まだ沈まずやていえんは。。。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.27

始まりはどこかなどあまり意味は無い。 元々あった。 欲が支配すれば大衆は苦しむ。 いつも 大衆の苦しみるつぼの中から欲を離れた哲学者が輩出される。 仏教では解脱。 中国では孔子や孟子。 平和なときはただ継承するだけ。 それも大事。 世の中の幸不幸は上に立つ人によってほぼ決定する。 上になったり下になったり そういうものがめぐるめぐる 輪廻 人の世。 無明というものはないが無明が尽きるということもない 世は無常 過去の偉い人の残した言葉。 時は来る 皆の総力をあげて創る日本。 その基本構想を創る時。 悲願 艱難辛苦の果てに 咲く花 世界の国家像の雛型とならん。

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    ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅 を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、

  • 輪廻転生や霊を論理的に実証することは可能でしょうか?

    少し、生命について考えていたのですが、そこから派生して輪廻転生や霊を論証可能にできるかもしれないと思ったのですが、皆さんの意見も聞きたいと思って質問させて頂きます。 私の個人的解釈は以下に記述します。 まず、命について考える内に、そもそも有機体って何?という疑問にぶつかり、有機体の特徴について考えていたのですが、我々は、空間の中で時間を運ぶ情報思念体に近い存在なのではないか?と感じるからです。 空間の中で流れる時間を認識できるからこそ、その摩擦に生じる諸々の現象を紡ぐことで、我々は過去・現在・未来のような「時間」という概念を知ります。 現象を紡ぐ際に生じる時間は、空間と共に記憶として固定化され、記録されます。 記録とは情報であり、情報で構成された世界を仮想世界と呼びますが、我々の住む感覚世界とは、現実世界ではなく、実は仮想世界なのではないでしょうか? 生命が遺伝情報に基いて生きているのならば、生命とは、情報を紡ぐ為の媒介として存在する感覚を持ったホログラム{情報思念体}に過ぎず、いま、共有しているこの世界も、時を同じくして空間で時間を刻むホログラム達がネットワークを張り巡らせる仮想世界を共有しているに過ぎないということです。 そうなると「死」とはどういった現象なのか? 死とは、感覚の消滅によって情報{思念・体}から解放され、情報そのものになること。 即ち時間(情報)を運ぶ世界が仮想世界{生}であるとするなら、時間を運べなくなった世界{死}は時間の一部になることによって現実世界に還るということです。 比喩すると、我々が文章を書く時と同じです。 考えるとは「未来{誕生」であり、また、それを実体化させようとする動作が「現在{人生}」であり、そして、文字として知覚できる形象を持った時「過去{終焉}」が繋がり文章の一部となり、その繰り返しで文章(真実を映し出す鏡)としての輪郭を形成してゆく。 最期の文字{死}を持ってして、初めて真実の鏡を覗けるのではないでしょうか。 また、有機体にとっての情報とは残留思念という言葉に比喩できますが、もし、思念の目的が、思念の存続(情報の存続)そのものであれば、有機体にとっての目的・存在意義は"生きて死ぬ"(情報を運び、次世代に繋げる思念を残す)という現象そのものかもしれない。 ※そう考えると、仏陀やユングなどが試みたトランス(無我)状態になることによって、空間と時間を認識している自我の放棄によって生じる制限された時間からの解放によってアクセスできた神と比喩されるものは、奥底に眠る記憶(情報)、つまり、過去の人間が、神や恐怖の象徴として形象を持ったイメージが遺伝子に記録され、その情報が想起されたと集合的無意識の存在も論証できます。 例えば、霊といえば死者(生霊除き)となりますが、死者とは肉体を失っている状態であり、即ち体・思念を失った情報ですが、あまりに悲劇的な死を送った者が最期に残した強い情報(思念)が、時空間に記憶のように固定されると、その残留思念が視える人間がいても不思議ではないということ。 輪廻転生については、来世は必ず存在すると強く願って死んだ人間の残留思念が、まだ意識が曖昧な胎児に癒着して、前世の記憶が蘇るということです。 輪廻転生についても、いくつか事例があり、子供が○○[全く知らない離れた土地]に住んでいたことがあると言い、あまりにその内容が具体的過ぎるので、親がその場所を探しにいくと、子供が言った風景や造形も全く同じだった。という例などです。 どのケースを見ても、こういった前世の意識は年齢と共に全て失われていくそうですが、自我が形成され、自分自身の思念が、残留思念を除いていったとも解釈できます。 皆さんは、どのような思想・意見をお持ちでしょうか?