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無我説と輪廻及び仏の存在

仏教では万物は縁によって諸要素が仮に結びついて成り立っているに過ぎず、 永久不変の実体は存在しないと説きます。 しかし一方で輪廻も説かれますが、では不変の実体が 無いなら何が輪廻しているのでしょうか? また悟りを開いてブッダになれば輪廻から解脱すると説かれますが、 仏の存在は諸行無常の外にあるのでしょうか? 歴史的人物のゴータマ・シッダールタは何千年も前に亡くなったのに、 釈迦如来と呼ばれて信仰されているというのは、仏は永劫の実体を持っているということでしょうか? まして密教では大日如来がこの宇宙の根本の実体であるとされますが、 大日如来と無我説の関係はどうなるのでしょうか? はたまた浄土宗等では阿弥陀如来や極楽浄土が信仰されていますが、 阿弥陀如来は縁によって生じた仮の存在ではないのでしょうか? この質問に特定の宗派を非難したり、仏教を否定する意図はありません。 純粋なる疑問です。

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noname#19356
noname#19356
回答No.2

下でホトケサマがムツカシク説明されてますが、ちょっと・・・ >不変の実体が無いなら何が輪廻しているのでしょうか? あくまでも“空”ですから、輪廻しているのは“仮”ですね。 >仏の存在は諸行無常の外にあるのでしょうか? >仏は永劫の実体を持っているということでしょうか? 釈迦の存在も無常です。 >密教では大日如来がこの宇宙の根本の実体であるとされますが、大日如来と無我説の関係はどうなるのでしょうか? 宇宙の根本原理を人格化したものが大日如来です。無我はその中にあります。 >阿弥陀如来は縁によって生じた仮の存在ではないのでしょうか? そのとおりです。しかし、すべては実相ですのでこれを“中”といいます。 答えになってますでしょうか・・・

tukihana
質問者

お礼

>あくまでも“空”ですから、輪廻しているのは“仮”ですね。 仮なるものが輪廻しているのなら、そこにいかなる連続性・同一保持性が あるのでしょうか? >宇宙の根本原理を人格化したものが大日如来です。無我はその中にあります。 宇宙において万物が流転していても、その流転するという姿は永劫不変 と言うことでしょうか? >そのとおりです。しかし、すべては実相ですのでこれを“中”といいます。 阿弥陀如来もいつかは入滅するのでしょうか? その時浄土はどうなるのでしょうか?

その他の回答 (3)

  • mmky
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回答No.4

参考程度に 1. 釈尊の時代のインドでは、転生輪廻は誰しもの常識だったのですね。常識まで教える必要はなかったということですね。 2.肉体に依存した自我(仮の我)の否定ですね。 常識という間違いを捨てて、論理だって考えてみることが仏教の根本ですね。それを釈尊は教えていたのです。

  • mmky
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回答No.3

エネルギーと存在物の関係なんですね。エネルギーは目に見えないけど「ある」よね。存在物というのは物だけど必ず経年変化で朽ち果てていくものですね。この関係は人間でも同じですね。肉体というものに宿った霊エネルギー(魂)の関係を考えると、霊エネルギーは永遠に存在し変化し転生しているが、肉体は80年ほどでだめになるということですね。 このだめになる肉体に執着していろんな問題を起こすので、諸行無常、諸法無我と釈尊は説かれたんですね。移ろい行く物にこだわって本来の魂である自分、を忘れてないか、ということですね。だから霊エネルギーとしての釈迦大如来は存在し、その一部を阿弥陀如来といいますね。われらも何度も転生してるんですね。そのたびごとに違った名前で違った環境で、違った人種で生まれているんですね。悟りの一部は、転生の自分を見出すことでもあるのですね。その悟りに入るためにこの世の肉体的自身の存在を切り離す一転語が「諸行無常、諸法無我」ということですね。そんなに難しく考えることではありません。

tukihana
質問者

お礼

霊エネルギーというのは、仏教が否定したアートマン説とどう違うのでしょうか? 仏教では霊の存在は説かないのではないでしょうか? 存在を肉体と精神(霊)に分けて、肉体は無常で精神は不変と 考えるのも仏教的では無いように思われます。 仏教は唯物論にも唯心論にも偏らないのではないでしょうか?

回答No.1

妄執が人(=衆生)を生まれさせるものである。 未だ解脱していない衆生が、輪廻に堕している。 それゆえに、妄執を超え、解脱して、覚りの境地に至った人(=仏)は、今生が最後の生であり輪廻しない。 かれには、輪廻のよすがが存在しない。 人が善を為す根本のものには二つある。 一つは変じるものであり、もう一つは変じないものである。 しかしながら、人を目覚めさせる仏としての本性は変じるものも変じないものも超越している。 それは、ただ因縁によって世に出現し、因縁によって人を解脱させる。 それがそのように起きたとき、かれには仏縁があったのだと知られ、確かな覚りの因縁が認められる。 人は、ただ自らに依拠して道をもとめ、人と世の真実を知り明らめて、一切の苦悩から解脱すべきである。 そこには、いかなる超越者も、超越的存在も仮定する必要は無く、仮定してはならない。 人が、我執を捨て去ったとき、かれは無我の真実を身を以て理解する。 それ以前においては、無我の真実を知ることはできない。 もし人が、無我を知ろうと欲するならば、観を為すべきである。 「どうしてもいけなければどうするか」の立場に立ったとき、人は観を完成させて無我(=人無我)を理解するからである。 こころある人は、真実はこのとおりであると領解して、自ら見いだし、自ら歩むその道を、他ならぬ自らによって浄めかし。 それによって、疑問は解決されるからである。 ***

参考URL:
http://www.geocities.jp/srkw_buddha

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