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温故知新

こんにちは。いつもお世話になっております。 さて、 「温故知新[論語・為政] ふるい物事を究めて、新しい知識や見解を得ること。」(広辞苑) この四字熟語は大変ポピュラーながら、いざ例を列挙しようとすると、愚鈍で無教養なわたくしにはなかなか思いつき難いものがあります。 例えば…わたくしならば、座視観賞式庭園の一つである京都龍安寺の石庭を思い浮かべます。 白砂に大小15もの石が点在しておりますが、方丈から、すべての石が一度に見られる視点はありません。 正面庭園に対する方丈が若干東にずれていることもあって、何度訪れても新鮮な感覚を抱きます。 大変にシンプルでありながら、見る視点(角度)によって趣が異なり嬉しい感動を覚えるのです。 ですが、はたしてこれが妥当な具体例であるかどうか、定かではありません。 ですので、哲学・宗教思想の旧いテクストや経典に日々慣れ親しむことにより、独自の新たな発見やよろこびを見出される 【皆様方ならではの「温故知新」】の例をこの場をお借りしてお聞かせいただけたら幸いです。 抽象的・具体的にこだわらず、ジャンルは全く問いませんが、かならずご自身がお感じになった例をお願い致します。  何卒よろしくお願い致します。

noname#96756
noname#96756

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  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.2

横井小楠の伝記「大義を世界に」。大義とは、今なら「核兵器の廃絶」「地上から戦争をなくして、世界中がともに貧困からぬけだし繁栄すること」。 富山和子「日本の米」「お米は生きている」稲作が日本の地形、川、平野、ため池、古墳、森、水、水運をつくってきた。日本人の農業にたずさわった人々の労働の結晶が、わが大地なのだ、ということ。 福岡正信「自然に還る」春秋社。 1960年代の岩波講座哲学の「現代の哲学」「自然の哲学」50年くらい昔の本なのに、なぜか今日を予測したような論文。名古屋大学理学部坂田昌一博士の論文、討論など。 車庫のすみに文庫本がくくられている、そのなかに「原子論の誕生、追放、復活」というタイトルがみえた。「原子論」を「唯物論」に置き換えても似ている。ギリシャ時代の原子論から、インド・イスラムを経てルネサンスで近代物理学、近代化学のなかで復活する「原子論」。 人類の長い歴史の中で、女性が太陽であった、平和な時代。記録に残された階級社会。新しい秩序をもとめて動き始めた地球上の生き物たち。 アメリカ先住民(イヌイット、インディアン、インディオ)、アマゾン川に暮らす先住民、アイヌの人々は、女性、老人を大切にする。そして、人間的にすぐれていることを、白人が告白している。もしかしたら、人類は、そこを目指して、競争、闘争、抗争を繰り返してきたのか? 敗者の歴史に真実が隠されているのか?

noname#96756
質問者

お礼

HANANOKEIJ様、ご回答をありがとうございます。 たくさんの具体例をお持ちでいらっしゃるのですね。 本当に参考になります。 伝記の類を読んだ経験が少ないので、横井小楠の伝記に是非ふれたいと思いました。ありがとうございます。 これは大義を現代風に解釈なさるということでしょうか。 >富山和子「日本の米」「お米は生きている」稲作が日本の地形、川、平野、ため池、古墳、森、水、水運をつくってきた。 >日本人の農業にたずさわった人々の労働の結晶が、わが大地なのだ >福岡正信「自然に還る」 岩波ジュニアなどで富山氏の著書は親子で良く読みます。 福岡氏の名前も存じ上げております。 単なる食糧需給率や国の減反政策との絡みだけでなく、遥か古代から日本の生態系や文化の根幹である「稲作とその現状」に関し、わたくしたちはもっと重きをおいてもよろしいのかもしれませんね。 >1960年代の岩波講座哲学の「現代の哲学」「自然の哲学」 >名古屋大学理学部坂田昌一博士の論文、討論など。 「なぜか今日を予測したような論文」とはいかなる内容なのでしょう。 なるほど、昔の論文が現代諸事情に通じるものがあると、自ずと「温故知新」的性格を帯びるのかもしれません。 逆に、発表当時は斬新でユニークであっても、時を経てオールド・ファッションになり果てる論文も存在するのでしょうか。 >「原子論」を「唯物論」に置き換えても似ている。 >ギリシャ時代の原子論から、インド・イスラムを経てルネサンスで近代物理学、近代化学のなかで復活する「原子論」。 はい、この「原子論」は古代ギリシャより脈々と語られ「素粒子論」「量子力学」へ連なる壮大な「温故知新の命題」ですね。 >アメリカ先住民(イヌイット、インディアン、インディオ)、アマゾン川に暮らす先住民 >アイヌの人々 「歴史に埋もれた敗者」から「温故知新」の精神で現代社会に対する何らかのアンチ・テーゼをなさろうというHANANOKEIJ様のご考察ですね。 敗者の歴史にはどんな真実が隠されているのでしょう。 そして「敗者の想像力」はどのような形で息づいているのでしょうか。 わたくしもHANANOKEIJ様を是非とも見習って、広範な事象に注視しつつ自分なりの「温故知新」の精神で新たな発見をしていきたいと思いました。 また是非ともご教授下さいませ。よろしくお願い申し上げます。

その他の回答 (2)

回答No.3

 mashumaro2 さん こんにちは。投稿いたしますのは 初めてになりましょうか。    何ごとにも憑依する《ヨリ》なる原始心性について 悪口ばかりではいけないと思って 次のような挿話を 聞いたことがありますので ちょうど このご質問に 投じます。  アイヌの巫女の話です。  広く《共通感覚 sensus communis 》を持っていると捉えればよいかと思うのですが どうでしょうか。つまり   一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。   巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。    ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし     の体を重ねてみる。      そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

noname#96756
質問者

お礼

bragelonne様、こんばんは。 初投稿、光栄に存じます。本当にありがとうございます。 >何ごとにも憑依する《ヨリ》なる原始心性について 悪口ばかりではいけないと思って  ん? どこぞで≪原始心性ヨリ≫まで、しっかり悪口をおっしゃっていたというのですか! なんと”ぶっきらぼうな”! (”≪ヨセ知性=アマテラス≫の悪口に対する弁明”はしっかり覚えておりますけどね。) >アイヌの巫女の話です。 >広く《共通感覚 sensus communis 》を持っていると捉えればよいかと思うのですが なるほど、アイヌの巫女のような「体の一部が痛くなる」というシャーマニズムというのも≪sensus communis≫の一種と言えますね。 では、かのカントはいったい何からインスピレーションを得てあらたに≪sensus communis≫を定義づけたというのでしょうか。 慰みなんて、まさか、とんでもございません! わたくしの方こそ、エビで鯛を釣った幸運のようなものです。 なんて悩ましい詩をかつてお書きになられたのでしょうか。 あの”Je EST un autre”はランボ様のソレ(長期間の、破壊的で計算された錯乱によって見者(ヴォワイヤン)としての詩人)とはとても似つかないほど微笑ましくて♪ でも不実なのですよね、わかるわかる~(笑) あとですね。 三葉虫から屈辱を~のくだりが超シュール!と感激しまくりです。 JeとElleの≪sensus communis≫とJeとIlの≪sensus communis≫も、ちょっとビミョーに”違う”のかもしれません。 ナノ・サイズほどに、ですが。 ほとんど、後半は一人感想となってしまいました。 そうそう、フーコ・デカルト・アウグステフィヌスの「主体」のご回答につき、わたくしはどこかでdeja-vuな≪sensus communis≫を感じるのですが… きっと気のせいですよね??

  • Ae610
  • ベストアンサー率25% (385/1500)
回答No.1

逆説めいて恐縮なのですが・・・、 私は、古い書物から新鮮味を味わうと言うか、成る程と感動する事が、稀にあります。 理系分野からで恐縮ですが・・・、 例えば・・・、三角関数の加法定理の説明について(数式は省略させて頂きますが・・・) 私の習ったのは、単位円を利用した方法で、単位円上の異なる2点の内積と回転による不変性を用いた導出の仕方だったが、手持ちの古書(・・・と言ってもそれほど古い部類には属さないかも知れないが70年ほど前の書籍)で、同じ三角関数の加法定理の説明に、微分方程式を利用した方法が取られていた。 これは、当方にとって非常に新鮮味のある説明だなぁと思い、感心すると同時に「目から鱗」的に感じた事があった。 「温故知新」の、「故」の側に新鮮味を感じたと言う事で、一例を挙げさせて頂きました。

noname#96756
質問者

お礼

Ae610様、ご回答をありがとうございます。 大変参考になりました。 >私は、古い書物から新鮮味を味わうと言うか、成る程と感動する事が、稀にあります。 はい、「温故知新」の意義として一番想起し易い具体例のように思われます。 >私の習ったのは、単位円を利用した方法で、単位円上の異なる2点の内積と回転による不変性を用いた導出の仕方だったが、 >手持ちの古書(70年ほど前の書籍)で、・・・微分方程式を利用した方法が取られていた。 なるほど、かつて学ばれた手法と異なる新たな解法を、お手持ちの古書からたまたま発見なさったということなのですね。 Ae610様が「非常に新鮮味のある説明、目から鱗」と感激なさったくらいですから、さぞシンプルでエレガントな解法だったのでしょう。 よほど嬉しかったのではないでしょうか。 わたくしも数学は好きでしたし(国語は大キライ)、自分なりの変なこだわりといいますか、人と違う解き方を好んで模索したことを覚えております。 とても楽しかったです。 でも、解が正しくても、そこに至るまで筋道立てて説明するのを端折るから、よく指摘されました。 せっかくの「勘」の良さもきちんと他人に伝えないことにはどうしようもないのですよね。 我が子を顧みて今頃過去の顛末を後悔しても時すでに遅し、ですが←これが本当の温故知新です? これからもAe610様ならではの「故」の側に「目から鱗!」な発見をたくさんなさって下さいね。 そしてまたいつかご教授のほどよろしくお願い申し上げます。

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