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現在時における《復活》について

arayata333の回答

回答No.11

ANO6です。 続けます。 言葉の考古学的な学術的豊かさも加えて、盛り上がっていますね(^^)。 言葉の資料(史料)も、真実や事実の検討の考察の中に取り入れる広さは哲学には必要な世界なのでしょう。 でも、言葉の海におぼれるために言葉の価値があるのではないと私は思っています。 これはkigurumiさんの言われる新約聖書創作論の価値の正否をうんぬんしたいからということではなく、 そのまえに、そちらのコメントの次の言葉の楽観論に私の方からも口を挟みたくなったということなのです。 >・・・したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。<  という部分で、brageloneご自身が楽観論だと言われてるあたりのことです。 もともと森の中で暮らしていたと例えられる有史以前(歴史の史料以前)の人間のほうが、 自然本性なる《わたし》や《わたしたち感》を 其の言葉なしにも豊かに持っていたという私の人類進化観は、ある程度はもう解っていただけたとしてお話しますが、 それを破壊したのは、言葉が記録されるようになった事自体が原因ではなくて、言葉によって権力欲というものが出てきたためだと思っています。 そしてそれは、村の長老という哲学者がさらなる社会の安定のために残した法律とかによって、つぎにはそれを権力に利用しようとして制度化、形式化してしまうことが起り、これが権力欲につながっていったと考えるのです。 宗教がそれです。   仏教やキリスト教の旧約も、其の起こりはだいたい一緒だと思います。   めちゃくちゃ荒削りな論じかただと思われるかもしれませんが、 まず踊りは、それ以前は初めから現代一番高度だとされる表現表出即興舞踊を自然にみんなが踊れたのです。   そのはずなんです。  ジャズがアフロアメリカ人によって発展して やっとアフリカの音楽がけしてでたらめで野蛮なものではなく それどころか多くの感情が其の分豊かにちゃんとスイングしあってしかも軽やかにリズミカルに調和されて存在してることがわかってきましたが、 踊りはさらにまさに 自然本姓なるふるさとの香りを豊かに豊かに持っていたということです。 しかし、宗教舞踊により 形式化が始まり、自由な即興は消えていきました。 でも だからといって 宗教にはもともとの大自然の中に生きていた素朴な人たちの深く新鮮な感性を反映していないかというと、 もちろんそんなことは無いし、 仏教などでは、むしろそれをこそなんとかとりもどそうという努力の跡がそこここにあるわけですし、 新約聖書はそれが誰かの創作だとしても、また其の出所がどういう経路をたどったのだとしても まさに そちらの言われる 自然本姓への帰還を深く力強く語っている内容となっています。  イエスが創作だったとしてペトロまでは力強いその示唆に富んだ言葉の跡があり、それがちゃんと、 この歴史をつらぬいている事実は ただただ私の場合敬服してしまうだけなのです。 「たとえ話しの天才」を創作したことで、現代でもそのわかりやすさが誤解の元になり続けてたりもするでしょうけどね。 話を元に戻します。   しかしながら、素朴な人は、キリストのように強いでしょうか? 純粋なまだ何も知らない赤ちゃんや そぼくなはなっったれ小僧とかは、キリストのように強いでしょうか? 弱いですめちゃくちゃ弱いです。  鬼が島の話があればすぐそれを信じてしまいます。 他の村の人たちは鬼だという言葉が、実際それを哲学しなおしてみること無しにまず受け入れられてしまいます。 ウソが何であるかを知らないうちから ウソを使えるようにもなるでしょう。  つぶさにウソの可能性の世界とその裏の心理の世界を知り尽くしてしまえば、そんなものに影響されずに、もういちど素直な無邪気な心に戻れるのですが、しかももう誰にもだまされませんが、   素朴な人たちには、その最初の免疫すらありません。 こうして 宗教が権威と奴隷の歴史、残酷さや偽善とかの片棒をかつぐ歴史が生まれてきてしまった史実は生まれてきてしまったのだと思います。 ここには簡単に書くしかなかったですけど、言わんとしてることは解っていただけたのではないでしょうか? アフリカでは アミン大統領の残虐性とかが問題となったところですし 素朴な人どうしの争いのニュースもたくさんあったりします。   それらを越えてゆくのは、 もういちど、たしかに人間本姓の心を取り戻すことがものすごく大事な地点ではあっても、  これはもう「言葉」の世界からあともどりすることに、その道があるのではないわけです。 わたしは、 これを持って 私らしい闘いを求めて日本感性学会の方への質問へと切り替えてゆき、 しばし再びOkウェブから一応離れようと思っています。  そこで最後に、私からのメッセージをここに書いておこうと思います。 教会もアミンもヒトラーも南京の兵隊も全部、もし許せなかったら、そういう人が一人でもいたら 復活ってなんなのでしょう? という現在の人間の叫びを、提出しておきます。   心の乱れた時の状態の私が復活したって私自身だいたい私を自覚してないで笑。意味無いです。   感性の無い灰色の世界しか見えなかった時の私が復活したって、はやく死にたいだけです(笑)。   まさに 永遠に生きとし生ける私たちのすべてが永遠に幸せであってほしい心を獲得するまでは、 復活に意味は無いし、 逆にたった今 キリストのいう「御国が天に行われていますように、地にも行われますように」という主の祈りの御国に たった今入ることも確かに不可能ではないとは思いますけどね。 現在時にて復活の過程にありということでしょうかね。 太陽を送って服をみずから脱がない人はいないというイソップのいう真実の実際の社会における詳しい実現性を哲学する人が増えてほしいです。 哲学での其の闘い抜きに、今後物理学ってどのように発展してゆくのです?(へんな言い方ですけど^^)。 現時点での巨大は応用物理の世界は、日本人の器用な職人の手のうちに握られてたりします。(これも突飛な言い方ですが^^)。 日本がものづくりの時代ではないならば、其の職人技を世界に広げていけばいい時代ではないですか。 資本主義は まだまだ総合哲学がリードするならば良くなると思います。 アメリカだって苦しんでいるのならば、アメリカにもその太陽を送ればいいだけじゃないですか? 太陽だけが、アメリカのうみだす憎しみの連鎖を終わらせるのではないですか?    より幅のひろい井戸端会議を期待しています。  幅の広さが重みとなり 感性教育という先端部を、大地の問題群を掘り起こす巨大な掘削機のパワーアップ源とされんことをお祈りしています。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  どちらか一方に専念しなければならないのですか? それほど時間が忙しくなるのですか? いづれにしましても 自由なかたちが いちばん 望ましいと思いますので それは お任せになるとは思いますが。  今回は これまで対話を重ねて来ましたので 反応する箇所は 二点です。  一点は 《手放しの楽観論》について触れておられるところです。けっきょく 言語以前の生活の情況と言いますか そういう原始心性のゆたかさの問題も いま ことばを失くして 自然に還れと言って 探求するのではないとおっしゃっているわけですから 特に問題はないと思います。《わたしの霊の息吹きを受けなさい》という素朴なことば これにも ひとは 反応するのではないでしょうか。  その限りで 自然本性を 打ち出して行っても いいように考えます。  もう一点は そのように 自然本性を打ち出していくとき 手法や方法に 思案すべきものがありはしないか? こういうご提案だと思います。  要するに 互いの交通に際しては 《赦し合いなさい / あたたかく 接しなさい》というご主張です。  おおきな議論になると思いますが ここでは わたしが要点だと思うところを述べてみます。二つあって ひとつは 《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も あるいは そうとすれば 資格も 持ち合わせていないのではないか これです。もう一つは 社会的な交通に際しては 相手のあることであるからには その相手の状態や 大きな情況のあり方に応じて 対処するのも 一法ではないか これです。  前者は 誤解を招くといけませんが 《赦さないという能力も権限も ない》という意味です。この考え方に立てば 一人ひとりが 更生する・再生するということ。そのためには 或る種の仕方で 一定程度は つぐないの期間を設けることも考えられるということ。その点について 自由に 提案をし合っても よいのではないか。です。  二つ目の点については 太陽政策もあれば北風手法もあるのではないか これです。相手に応じて 情況を見て こちらの主観の考えるところによって 採ると思っています。  これからも 井戸端会議に顔を出してください。  (ただし わたしも 一たん しりぞくという考えを持ったことがありますので どうなるか 分からないのですが)。 

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