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現在時における《復活》について

arayata333の回答

回答No.21

アラヤタです。 いまのところは、すぐには日本感性学会には入っていけません。 日本感性教育学会には、会費がいくらか会則とかに明記されていないで入会の手続きだけが出てるため、 今の私には今のところ手が出せないところです。 会費の問題と、それと自分のPCを持てないでいることも問題で、今現在メール機能が失われているPCを使わせていただいてる形ですので、  日本感性学会とはすぐさまメールでのやりとりが出来ないと解ったからです。 こちらにもどって覗いてみまいしたら、いきなりお話は進んでいました(^^)。 まだしばらくこちらに うちこめそうです(^^)。 キグルミさんの指摘する「剣」の問題ですが、 私の場合はその箇所のうち家族への剣の話は覚えています。  もちろん、というかちょうど私自身がとある家族病理という文明病のうちでもかなり深い病理の世界と関わっていたので、 まだ未熟な青二才であったにもかかわらず、最初からこれも「なるほど、たとえ話だ」というふうに受け取っています。 コーランでの聖戦というのはまた別の意味合いがあるかと思いますが、それはよく知らないので今のところ意見とか言えません。  が、キリストの言葉についてならば、あくまでこの「剣」もたとえ話です。 人は兄弟であれ親子であれ、其の前に一人ひとり絶対個の魂(あるいは魂というのはその絶対個を意味している)であり、自律してこそ人に対応するべきそういう存在だということの例えだと解釈していました。 あるいは、感性については特に、お互いがお互いの経験や体験をもっともっと尊重しあうべき、 其の面別な人格としての尊重を物語ってもいるという解釈です。 《絶対個 であって関係がある。》 このへんをアカデミックな西洋哲学ではへんに考えすぎた形で伝えて来てるようですが、 その自律へのきびしさ自体はすでにキリストの簡単なたとえにこそ いつものように力強く集約されていると今でもやはり、 同じように感心してしまう言葉です。 それが創作ならば創作者ってすごいですね(^^)。 が、歴史の長い過程に重い重い人間の過ちが絡んでいてそれが権力欲というやつとなっています。 家族病理もそれがなければ起らなかった世界でもあるところです。 優しさが重要だとか、 愛こそ最高道徳だとか、言葉ではいくらでも言えます。 つまりウソがつけることです。 したがってそれもまたうまくたちまわるために権力が利用できた言葉という記号の世界だったわけです。 このウソを もっともずる賢く扱ってきたのが宗教を影で操ってきたような人達です。 またそのへんをうまくまるめこんだ戦争屋たちです。 ぜんぶ、実際に権力欲よりつよい愛とか 感性の実態の世界が無ければ、実は自らさへ信用できなくなってしまう世界です。 私の思索が 結局「五感の再考察」とか「感性教育とかの実践」の世界に走るのはそのためなのです。 そちらのコメントでの >ひとつは 《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も あるいは そうとすれば 資格も 持ち合わせていないのではないか< という部分に関しては 解りにくいので  こちらの解釈が間違ってしまうかもしれませんが、  このように答えることができる問いではないかと思います。 理性の問題としては、私たちはたとえば、ヒトラーの罪にしてももし「私がその状況や過程をまったく同じように生きたら私もヒトラーとまったく同じことをしていた」という理解、 この理解のことを許す能力として私は考えているのです。 そのかぎり、たとえ身内が殺されても理性はその人を憎まないでいられるのが真実の世界、真理を知ったものの真理だということになります。 感情は別です。 生物であるかぎり、何かつよく願っていること、今にも実現しそうな長い間努力してきたことなどが、逆撫でされるように打ち破られると 人はそれにたいして、つよい怒りという感情を抱いてしまいます。   それを客観視するのは可能です。 仏教の空観でも可能でしょう。  しかし、強い怒りの時には、客観視しておとなしくしていてさへ苦しみは体を火のようにかけまわります。  まったくそれにはおぼれることがないようコントロールはできる苦しみなのですけどね。(体験者より) これ、肝心なのは では「それをコントロールできる基盤たる理性だ」ということになるのではないですか? 理性さへ深ければ、其の知恵差へ深ければ、生物であると同時に、人の上にたつのではなく結果的に許しあえます。 というより許しあっているはずです。  正確には 許してるのではなく理解してるという言葉のほうが正しいのですけどね。   つまり「許す」なんていうのは、同じ人間なのですからおこがましいというか  当たり前のことであり自然なできごとでなければならないことであり、其の言葉自体がほんとうは上から目線の権力欲からの心理の一種だというのが正確なところとは思うのです。 >《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も<の内の、「能力も」というのは 原因結果をそこまで知ることが出来ない人間の知性の限界のことを意味してるかと思いますが、  逆にその限界を知る能力は私たちにはあるという点が大事だということなんです。    つまり、解らないけど因果は確実にあるということがくっきり類推できるのが知恵の世界であり その知恵は人間の能力にもそなわってるということです。 ヒットラー(代表にあげてしまって すみませんです^^)をも理解する知恵が 復活の前提として必要だというのは たとえばですがあるはずです。  だから 私のこのへんの考えはみんな単純となってしまうのです。  そして、それより、「はやく感性教育についてみんなで考えてほしい 」というふうになってしまうんです。 * あと 罪の問題として、 ここでキリスト教会の歴史が陥ったへんな記述?がキリストの言葉の中にひとつあります。 キリスト自体が何かおかしいと言うのではないんです。  でも山上の垂訓の中に、キリストが始めてセックスについても触れているところがありますでしょ。(正確にはまた、そちらで引用してください。) 「姦淫は罪だと 昔から言われてきた。 だがわたしは言う心の中で姦淫した者も姦淫したことになるのだ。」 これをキリスト教徒たちは、例の宗教による権威によって其の意味合いを考えることなく いきなり不浄はセックスを心の中でしても不浄なのかというぐあいに、 成熟過程の途中段階の不浄という感覚(森の中で暮らしていた時には無かった)を固定してしまったのです。 これは聖書の作者というよりも、やはり記述者が 理解不能となってこの続きの部分を書かなかったのではないかというのが、私のリアルな演劇感(^^)からは思い浮かぶことなのです。(キグルミさんの考えについてなのですが、 新約聖書がほかにはその短い無名の人について記述された文献が無いからといってそれが創作だとは推理可能だとは思えないのですが、 現代考古学ではそのような推理が可能だという考えとなっているのでしょうか?  私にはそのへんは理解不能です。 でも、4つの福音書以外の記録がそんなに多いのなら全部見てみたいです。) それを監修しなかったキリストにも問題があったりする問題なのかもしれなくても、  これはキリスト教会が犯した最大級の歴史的な罪と言えそうです。 感性に関してはです。  (簡単な問題ではないので、別な回答の範囲に入ってしまいそうですが、 アダムとイブの神話から まさにその間違った理性の世界に陥ったところ。 むしろ、くわしく書くべきところかもしれません。)

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  この質問を進めたいという思いです。よかったです。  ★ 《剣》が 比喩であるということ  ☆ 確認しました。  ★ 《絶対個 であって関係がある。》  ☆ わたしの言い方で 《ひとは 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》です。孤独と孤独関係とが あたかも一体であると。  そこからの逸脱としては 権力の問題を出しておられます。  アウグスティヌスに言わせると すべての悪は 《高慢・高ぶり》から来るそうです。みづからの存在の善さを損ねるのは 謙虚に欠けるところからだそうです。知恵の木の実(善悪を知る木の実)を食べたと言いますから 科学する心は 中立的には 大切なのでしょうが。  謙虚と感性との関係は 如何? とも問えるかも知れません。  《赦す》問題は 目指すところが同じでも その過程における手法や手段は 違っているかも知れません。  わたしの場合 こころからは《赦せない》のです。《〈ヒトラーを赦す〉と言えない》のです。そこで思いついたのが 《人には 人のあやまちを 赦す能力も権限もない》のではないか。ただ 自分から 更生し再生するのみである。多少は 協力しあってもよい。そして 更生には しかるべき償いの行ないと期間が 必要であろう。というものです。  加害者に対して 《赦さん。赦せん》とは 言わないけれど 《更生せい。せんと 承知せんぞ》と言う。という考えです。更生するために こちらが出来ることがあれば 多少は 手伝ってやってもよい。更生するのを邪魔する人間がいれば それに対しては わたしも たたかう。という姿勢です。  原因究明は もとより 必要であり 重要だと思います。それによって 《理解》が行き届いたとき こころが すっかり晴れるか。どうでしょう。自信がありません。自信のあるほうで 罪の共同自治を行ないたい。こういう考えです。    ▲ (マタイ5:27~28)~~~~~~~~~~~  あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。  しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょうか? どう捉えればよいでしょうか? 保留とさせていただきたいのですが だめですか?  論理を究極にまで進めた。しかも その文字通りの内容に従いなさいと言っているというよりは 単なる究極の論理であることの中から 何がしか 分かるものがある。と思います。実質的には 自己なり 伴侶なり あるいは 未来の伴侶なりに対して 裏切るなかれ・欺くなかれと言っているように感じます。セックスの問題であるというよりは です。  さらに 主題が 蒔かれているようにも感じますが とりあえず ここまでを お返しすることになります。発展性が あるように思っております。

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