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現在時における《復活》について

arayata333の回答

回答No.30

罪の赦しの問題にすこし立ち返ります。 神は、わたしたちを裁きません。 悪人にも善人にも同じ雨をふらすように。 あるいは、哲学的に言えば(厳密に理論的に言えば)神とはいないに等しい(すでにこの存在が贈り物であるということを前提とした上でのことであって無神論とは関係ない点は誤解しないでください。)わけです。 では、私たちは罪を認識したら、さばくべきなのでしょうか? わたしは、刑罰というのは法律として、今はまだ“しかたなくて必要なもの”と考えます。  私たちが弱いからです。(抽象的の言い方ですけどね。) 心の中では、完全に「罪を憎んで人を憎まず」の理解が必要なところと思っています。 因果のすべてをどうせ知ることは 人間には他人の内面をすべて知ることはできないので無理でも、 無知の知の理解の知恵で、あるいは限界への謙虚さで、他の存在へのリスペクトの力で、  まず理性は知性にては、完全に人をどんな時にても「それはその原因があってその罪に結びついてしまった」のだと理解してあげることは出来ます。 理解してあげるというこの「あげる」という言い方は上から目線でしょう。 自分もまったく同じ状況を同じ能力にて生きたなら同じような罪をおかしてしまうだろう事の理解の知恵からは 上から目線ではないわけなので、真の理解からは上から目線は無いわけですが、 あえてわかりやすくかけば「あげる」という記号も使えるかとおもっただけと理解してください。(ややこしいですが^^)。 わたしの考えでは この完全な許しと、自己反省を促せる教育体制が人間社会の中に ほんとうに確立できたなら、弱いままの人がまだたくさんいても、  実際の「復活」がきても準備はできた状態というふうにかなり前から思っていました。  あまり考えた上での結論ではないので、 いえそれ自体を考えても 現実がそれに向かって進んでいくわけでもないので考えなかった感じなのですが、    考えてみれば不老不死と言う点からもそれは庶民の夢でもあったんですよね。   その点からは もっと考えておいてもよかったかもしれません。 でもともかく未来時間のことは、 今変革の努力しないと何も変わらないということしか私たちには解らないこととも思います。 過去と今の情報をもっともっと勉強し考え抜き、そこにこれからと今からをかんがえて行動もし言葉も組みたてていく ということ。 これぬきには、 私たち人間のこの意思決定ぬきには、何も前には進まないという考えです。 現在時となると、教育改革ということを抜きのコミュニティは考えがたいところです。   急進派ですが、ここは押さえておくべきところのひとつと思ってます。 罪の問題は、その過程での理解の問題と考えます。 * 一般の哲学人が primeape様との間の会議?に出席するのはよけい話がこんがらがるところなのかもしれませんが、   私の経験とかからのたぶんじっくり解説すれば多くの人にわかりやすい解釈からも いちいち「面白い」内容の思えてしまうので、    間違っているかもしれなくても つい、いちいち解説したくなってしまうのですが、   あくまでもより多くの人にそれなりの意味が通じたほうがより価値的だとはおもいますのでこの井戸端会議にも首をつっこみたいのですがよろしいでしょうか。 たどえば、牛ですが、 これはアフリカでは一番恐れられてる動物です。 ライオンが6頭ぐらいで なんとか「鬼^^」退治をする映像を見たことがありますが、 これは一頭では歯が立たないということです。  野生の牛こそ 百獣の暴れん坊王者です。     一番人や他の弱者をなんの理由も無く利己的に^^、襲う危険な動物王です。 が、今ではこんなに人間に役に立ってるおとなしい動物はいません^^。 すみません。 あまりにも卑近な解釈だったでしょうか? でも、これもまた、たとえば 精力善用とかの現実教育問題、日本柔道の精神やその競技の健全な発展の問題とかとか  重要な問題のひとつとして私の中にもリアルに浮かび上がってくる問題なのです。 これが 抽象的なままに進んでいっていい論議なのか? 私のほうからは疑問なのですが? 霊媒師?の立場とかがあって 言葉が雲の上の霧がかかったままの対話として進んでいるのか?    primeape様の直感力から生まれる言葉をpremeape様の哲学的理解力自体が追いつけないでいて それで同じ神話理解力のような能力の哲学者に対話を求めているのか?   そのへんがすごく「謎」の人なんですが、   そのキャラクター限界の世界なのでしょうか?  私もすこしは、 参加していいで笑か? あ、 きょうはここまでです。

noname#80116
質問者

お礼

 みなさんへ。  新しい質問 《QNo.4462818 :吉本隆明の思想について =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4462818.html》へ移行しました。  どうぞよろしくお願いいたします。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  回答者どうしの探究の協力――議論と言うことばを避けて こう言うのですが――について いつも 考えていました。要するに 話が進むと思えるからです。  けっきょく 主題を提示して それについて回答を寄せるというかたち これを採っていただけば よいのではないでしょうか。それに哲学であれば 議論をしつつ(と言いますか 疑問点について 補足要求として 尋ね返しつつ)答えに近づくのが ふつうでしょうから。  牛については  ★ 野生の牛  ☆ のことを別として たとえに用いる。これなら いいのですね。  さらにそのあとの議論につきましては 《これこれの主題についてですが》と言って ご見解を述べてくだされば よいと思うのですが。  ★☆ あやまちを赦すということ  ☆ これは 何を隠そう primeape さんの持ち場でもあるのですが 前提を確認しておきます。  1.★○(この ○ は一般にも言われるという意味です):罪を憎んで人を憎まず。  2.〔ちなみにアウグスティヌスの言葉で:〕われわれは欠陥を憎み人を愛すのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならない。  3.そのあと 見解は二つに分かれる:  ( a ) あやまちを犯した人を こころから完全に 《赦す》。この上なき和解の成就。  ( b ) 犯されたあやまちを憎み その人を 社会的に共生すべき存在として 愛する。しかるべきつぐないを果たさせ その後 更生することを 制度・措置として さらに整え 充実させる。更生を邪魔する行為に対しては いかなるものであっても社会を挙げて たたかう。  ★ わたしは、刑罰というのは法律として、今はまだ“しかたなくて必要なもの”と考えます。  私たちが弱いからです。(抽象的の言い方ですけどね。)  ☆ これについては そのような考え方があるということとは別に わたしの方針としては こうも考えております。  いま現在 目標とするところは 《世の中の三分の一が 民主・自由の井戸端会議をとおして 共生の社会生活を つねに 権威・面子をかなぐり捨て裸になって 模索してゆき 次の三分の一が それに共感し 残りの三分の一が 何かと抵抗したり邪魔したりする》という状態の実現です。  これによると 一般に 何かのことで《過渡的》な処置を採っているのだという考え方は あまり しないと思います。《過渡期》という考えはなく つねに 目標実現の真っ最中の現在なのであると思っていますが いかがでしょう?    今回は これにてです。

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